【キーワード】労働(labor)とは、私たちが自分の体という最も大切な道具を使い、何らかの目的を叶えるためにエネルギーを注ぐ活動のことです。毎日会社へ行ったり、家事をしたりすることは、単に生きるための義務なのでしょうか。それとも、自分という存在を証明するための手段なのでしょうか。オーストリア学派経済学の視点から「労働」を掘り下げていくと、そこには私たちが当たり前だと思っている日常とは少し違う、人間の意志と選択に満ちた世界が見えてきます。
経済学において労働は、自分の体の機能や生命力を「手段」として使うことと定義されています。ここでのポイントは、私たちが無意識に行う体の反応、例えば眩しい時に目を細めるような動作は労働とは呼ばないという点です。労働とは、今の状況をより良くしたいという明確な「意志」を持って、自分の体という資源を特定の目的のために投入する行為を指します。しかし、ここで一つの大きな問題に突き当たります。それは、労働には常に「苦痛」や「不快さ」が伴うという事実です。これを専門的には労働の不経済と呼びますが、私たちは本来、何もしなくてよい「余暇」を好ましいものと感じる性質を持っています。それでもあえて労働を選ぶのは、働くことで得られる成果が、失われる余暇の楽しさや働く疲れを上回ると判断しているからです。
この視点に立つと、私たちがいくら働くかという決断は、常に「労働によって得られる満足」と「余暇という贅沢」を天秤にかける作業だと言えます。もし私たちが無限の体力を持っていて、働くことが全く苦痛でなければ、24時間休まず働き続けるでしょう。しかし現実には、働き続けるほど疲れは増し、余暇の価値は高まっていきます。そのため、ある一点で「これ以上働くよりも休む方が価値が高い」と判断し、そこで仕事の手を止めるのです。
また、リバタリアンの思想では、自分の体は自分だけのものであるという自己所有権の原則が強調されます。自分が働いて作り出したものは、自分の体の一部を注ぎ込んだ結果であるため、正当に自分の所有物になると考えます。これは、他人の労働を強制的に奪うことが、その人の生命の一部を奪うことに等しいという強い道徳的メッセージを含んでいます。
最後に、私たちが受け取るお給料、つまり賃金がどのように決まるのかを考えてみましょう。オーストリア学派は、賃金は労働そのものに注ぎ込まれた努力や時間で決まるのではなく、その労働が消費者にどれだけの価値を届けたかによって決まると考えます。たとえ100時間の苦労を重ねても、誰も欲しがらないものを作れば、その労働にお金は払われません。反対に、短時間の労働であっても、多くの人を喜ばせるサービスを提供できれば、高い賃金が得られます。つまり、労働の価値を決める最終的な裁判官は、市場にいる買い手である私たち一人ひとりなのです。このように労働を捉え直すと、働くことは社会の中でお互いの望みを叶え合う、自発的で創造的なプロセスであることに気づかされます。
