2018-09-30

産業革命と児童労働

産業革命と児童労働
産業革命時代、英国の工場で働く児童は二つに分かれた。自由な児童は親または保護者と住み、親らが同意する条件で日中働く。親は過酷で危険すぎる仕事の場合は子供を行かせるのを拒んだ。一方、行政の施設に住む児童は、工場との間で事実上売買され、最悪の労働を強いられた。
Redeeming the Industrial Revolution | Mises Institute

児童労働規制の真実
若年層が働くと労働組合員の仕事を奪うため、労組は政府に「児童労働」を禁じる法律をつくらせ、若者から働く権利を奪ってきた。その結果、現在の途上国の若者は「児童労働」として非難される普通の仕事を禁じられ、その代わりに物乞い、売春、犯罪、果ては餓死を強いられる。
Markets, Not Unions, Gave us Leisure | Mises Institute

資本主義がかなえた望み
マルクスが生まれた1818年から死去する1883年までの間に、英国民は平均で3倍豊かになった。マルクスは誤った考えにとらわれ、自分の周りで実際に起きていることが目に入らなかった。労働時間の短縮と同時に所得を増やすというマルクスの望みをかなえたのは、資本主義である。
Market capitalism has achieved what Karl Marx always wanted - CapX

中産階級の時代
2020年までに世界人口の半分以上は中産階級になる見通しだ。中産階級はインド、中国、東南アジアを中心に急増中。歴史上、最も驚くべき人口動態の変動だろう。1830年代に始まった産業革命以前、中産階級はほとんど存在せず、王族と小作農だけだった。それが今や多数派になる。
The Growth of the World’s Middle Class May Be the Greatest Story of Our Age - Foundation for Economic Education

教育は国家の仕事か

安倍晋三首相が打ち出した教育無償化に対し、野党やメディアの批判は及び腰です。野党・民進党はもともと消費税率引き上げによる増収分を教育無償化などに使うと主張していましたし、メディアの多くは財源不足を指摘したり改憲の突破口に利用されることを心配したりはしても、教育無償化そのものにはむしろ肯定的です。

けれども9月28日の投稿「タダより高いものはない」で書いたように、教育無償化とは教育の費用を税金で賄うことです。それは教育に対する国家の支配を強めます。国歌・国旗問題などでは教育に対する国家の干渉に強く反発する野党やメディアが、教育無償化にほとんど何の警戒も示さない姿には、危ういものを感じます。

かつて国家の教育関与に強く警鐘を鳴らした思想家がいました。18〜19世紀ドイツの人文学者、ウィルヘルム・フォン・フンボルトです。フンボルトペンギンで有名な博物学者、アレクサンダーの兄で、文学者のゲーテやシラーとも交流がありました。

フンボルトが教育の目的と考えたのは、ドイツ語でいうBildung(ビルドゥング)です。日本語で「教養」とも「陶冶」とも訳されます。つまりフンボルトにとって教育とは、教養の習得であり、人格の陶冶でした。

公教育は国家の安定を目的とし、市民・臣民の育成をめざします。しかしこれは個人の人格育成には役に立たないどころか、有害ですらあるとフンボルトは考えました。

なぜなら人間は自身の決断にもとづく行動のみを通じて、自分を鍛えることができるからです。もしどのように行動すべきかを国家が決定することになれば、人間はつねに他人の知識や意思に依存してしまいます。

フンボルトはこう強調します。「概して、教育はただ、特定の、人間に与えられる市民的形式を考慮することなしに、人間を形成しなければならない。だから国家は不要なのだ」(吉永圭『リバタリアニズムの人間観』より)

最近日本でも教養の復権が叫ばれます。もし俗物根性からでなく、本気で教養が大切だと考えるなら、フンボルトがいうように、教育から国家を排除しなければなりません。自立した教養ある人間を育てることと、国家が統治しやすい人間をつくることとは相容れないからです。(2017/09/30

走れフードトラック

東京・大手町のオフィス周辺で、フードトラック(移動式屋台)をよく見かけるようになりました。東京の他の街でも同じことが起こっているようです。

ビジネスインサイダー・ジャパンの記事によれば、都内でフードトラックの数は右肩上がりで増えています。2009年、都の規制緩和でオフィスビルが貸し出せる公開スペースが広がり、敷地内でイベントの開催やオープンカフェ、フードトラックの出店が増えたのです。

都心のオフィスビルは賃料が高く、店舗を構えられるのはチェーンの飲食店かコンビニがほとんどです。フードトラックなら、100万〜200万円の初期費用で比較的簡単に開業できるといいます。ビルを運営する不動産会社は使われないスペースを数時間単位で賃貸でき、お客は毎日違う味を安価で楽しめます。

米国でも同様のようです。ウォールストリート・ジャーナルによると、首都ワシントンは2013年にフードトラックの駐車規制を緩和。交通量の多い地区の一部でも販売できるようになり、ランチの選択肢が大幅に広がっています。

いい話ばかりではありません。米教育団体、自由の未来財団の記事によれば、今月フロリダ州を大型ハリケーン「イルマ」が襲った際、同州グリーンコーブスプリングスをフードトラックが訪れ、飢えた市民にランチを販売し、清掃作業員には無料で振る舞おうとしたところ、警察から立ち退きを命じられたそうです。無許可だという理由からです。

今の世界では、自由主義経済を標榜する国でさえ、規制が原則、自由は例外でしかありません。起業家はせっかく良い製品・サービスを届けようとしても、規制の壁にしばしば阻まれます。しかしそれに負けず、がんばってほしいものです。消費者という強い味方がついています。(2017/09/30

2018-09-29

社会主義の憎悪

社会主義の憎悪
社会主義の本質的特徴は、他者を人間扱いしないことである。ポル・ポトのカンボジアや毛沢東の中国と同じように、北朝鮮の人々は他者を憎めと教わった。「敵性階級」とされた人々は飢え、虐げられ、殺された。社会主義は同じ結果を生む。次の社会主義は違うとなぜ言えるのか。
Socialism is Not Built on Compassion. It's Built on Dehumanizing Others - Foundation for Economic Education

災いの前兆
ショスタコービッチ(Dimitri Shostakovich)が曲をつけたシェイクスピアの詩の一節「学芸が時の権力に口をふさがれ」。歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」はスターリンの不興を買い、上演禁止に。ソ連の作曲家たちは政治的に正しくない難解な作品を避けるように。それは大粛清の前触れだった。
Shostakovich Quotes Shakespeare - LewRockwell

生き延びる資本主義
商売を厳しく取り締まるベネズエラと対照的に、社会主義を標榜するボリビアでは起業の自由が認められている。かつて植民地支配者に土地を奪われた先住民の子孫は紡績工場を建て、富を手にできる。ボリビアの繁栄は社会主義のおかげではなく、資本主義が生き延びているからだ。
Why Bolivia Is Not a Socialist Success Story

凋落の理由
ベネズエラの経済は1960年頃まで自由だった。規制は少なく、税は軽く、財産権は守られ、金融政策は安定していた。1950年代に1人当たりで最も豊かな国の一つとなる。しかし1958年に軍事独裁から民主体制になると石油産業の国有化をテコに福祉政策に乗り出し、没落が始まった。
The Pundits Still Don’t Understand Venezuela | Mises Wire

債務超過の日本政府

債務の総額が資産の総額を超えている状態を債務超過といいます。言い換えれば、財産をすべて売り払っても借金を返しきれない状態です。企業の場合、債務超過がきわめて深刻な状態であることは想像がつくでしょう。

東芝は米原発事業の巨額損失で2017年3月期末に5816億円の債務超過に陥り、2018年3月期でそれを解消できなければ上場廃止にすると、日本取引所グループ(JPX)から言い渡されています。破綻リスクの大きい会社の株式を、投資家に買わせるわけにはいかないからです。

非上場会社でも同じです。銀行は通常、債務超過に陥った企業には新規の融資をしません。経営が破綻すれば、融資を回収できない恐れが大きいからです。

ところが世の中には、債務超過を何年も続けていながら、堂々と借金を増やしている組織があります。日本政府です。

財務省が公表している政府の貸借対照表(バランスシート)をみると、2015年度末で債務1423兆円に対し、資産は958兆円しかありません。差し引き465兆円の債務超過です。

実際には、明治大学の田中秀明教授が指摘するように、政府の資産には米国債、地方公共団体や政府出資会社への貸付金、空港、防衛施設、国会、刑務所、裁判所、庁舎・宿舎といった公用の土地など外交上・行政上の理由から売却が困難なものもあります。それらがすべて額面どおりに売れたとしても、465兆円の借金が残るのです。

論者によっては、上記のバランスシートには日銀が含まれないので、日銀を含む「統合政府」ベースでみるべきだという意見もあります。そうすれば政府の負債である国債と、日銀が資産として保有する国債を相殺でき、その分負債が減るというのです。

これは乱暴な議論です。単純化していうと、日銀が保有する国債(349兆円)は民間銀行からの借金(民間銀行が日銀に預けた預金)で買ったものです。政府との間で国債を相殺すれば、日銀は民間銀行に借金を返せなくなります。民間銀行のお金は私たち国民の貯蓄ですから、それが返らないということは、政府に貯蓄を没収されるのと同じです。

かりに国民をそんなひどい目にあわせたとしても、統合政府ベースの負債は349兆円減るだけで、依然として116兆円の債務超過であることに変わりはありません。

収入を得るには消費者に製品を買ってもらうしかない東芝と違い、政府は課税で国民のお金を無理やり召し上げることができます。せっぱ詰まれば貯蓄の没収だってやらないとはいえません。だから債務超過でも危機感がないのです。

すごいぞ、日本政府。でも、それは日本国民にとって喜ばしいことでしょうか。(2017/09/29

決闘のすすめ

米国と北朝鮮の緊張が高まっています。最近はトランプ米大統領が北朝鮮の金正恩委員長を「ちびのロケットマン」と罵ったのに対し、金委員長が「米国の老いぼれの狂人」と応じるなど、両国首脳の悪口合戦がエスカレートしています。

このように侮辱されたとき、昔の政治家がとった方法があります。決闘です。

昔といっても、騎士が馬を乗り回していた中世の話ではありません。近代以降に有名な例があります。

米国の建国の父の一人で、初代財務長官となったアレクサンダー・ハミルトンは1804年、政敵アーロン・バーと拳銃で決闘し、命を落とします。ハミルトンがバーを好ましからざる人物として非難したことに対し、バーが決闘を申し込んだのでした。

鉄血宰相として知られるドイツの政治家、ビスマルクは連邦議会のプロイセン代表だった1852年、自由主義者のフィンケ議員にからかわれたのに腹を立て、拳銃で決闘します。さいわいどちらもけがはありませんでした。ビスマルクは若い頃、非常に決闘好きで、ゲッティンゲン大学に在籍した1年半の間に25回も行ったと伝えられます。

イラク戦争突入前夜の2002年10月にはこんなことがありました。イラクのラマダン副大統領が米国に対し、戦争の代わりにブッシュ大統領がイラクのフセイン大統領と、チェイニー副大統領が自分とそれぞれ決闘して片を付けようと提案したのです。「そうすれば米国とイラクの人々を救える」と。

もちろん米国は、まじめに答えるに値しないと無視しました。ラマダン副大統領がどこまで本気だったのかはわかりません。けれども米コラムニスト、ジェフリー・タッカー氏が言うとおり、イラク戦争がもたらした多数の犠牲や今も続くイラクの混乱、難民危機、テロ組織イスラム国(IS)の台頭といった甚大なコストからすれば、まじめに考える価値は大いにあったといえます。

決闘や果し合いを私たちは野蛮だと笑います。しかし無関係な多数の人々を巻き添えにする戦争のほうが、よほど野蛮です。

トランプ大統領と金委員長は、決闘で片を付けてはどうでしょう。血を流す必要はありません。タッカー氏は、ゲームによる仮想決闘を提案しています。(2017/09/29

2018-09-28

タダより高いものはない

「タダより高いものはない」。庶民の堅実に生きる知恵を示す言葉です。なぜ政府は、庶民にその知恵を忘れさせるような罪深い政策を売り込むのでしょうか。

教育無償化に政府は熱心です。しかしこの世に無償のものなどありません。必ず誰かがコストを払う必要があります。日経電子版の記事によれば、3~5歳児を完全に無償化するには年7300億円、0~2歳児だと4400億円かかるそうです。

コストがかかるのに「無償」とは、言葉の矛盾です。表面上は費用を払わずに済んでも、その費用は税金から払われるのですから、国民の大部分はなにがしかの費用を負担することになります。そこには子供のない人も含まれます。

表面上にすぎなくても、政府が押しつける「無償」は厄介な問題を引き起こします。これも日経電子版の記事が指摘するように、幼稚園や保育施設が無料で入れるとなれば、想定より入所希望者が増える可能性があります。そうなると、さらに費用が膨らんだり、保育施設に入れない待機児童が増えたりする恐れも出てきます。

タダだと思って喜んだら、膨らんだ費用を賄うために増税されたり、保育施設に子供が入れなくなったりというコストが降りかかってくるわけです。これこそ「タダより高いものはない」です。

国民を「タダ」で釣る政策は今に始まった話ではありません。米山隆一新潟県知事がブログで指摘するとおり、1973〜83年には70歳以上の医療費が無料にされました。その結果、高齢者医療費の急増が財政を圧迫し、10年で幕を閉じたのです。

経済的弱者を助ける正しい道は、政府への依存心を強めることではありません。経済の自由度を広げ、生産活動を活発にして物価を引き下げる。最低賃金などの制限を取り払い、働くチャンスを増やす。税制を見直し、寄付や贈与をしやすくする——。これです。

残念ながら、衆院選でこんな政策を掲げる政党はないようです。(2017/09/28

金持ち優遇は悪くない

トランプ米大統領は個人所得税の最高税率や連邦法人税率の引き下げを盛り込んだ税制改革案を正式に発表しました。これに対し野党・民主党は「富裕層優遇だ」と批判しています。金持ち優遇であることは事実です。けれども、それは悪いことではありません。

お金持ちの多くは大小の企業のオーナーです。事業で得た利益が減税によって多く手元に残るようになれば、事業意欲が高まり、製品・サービスの供給増につながります。これは社会全体を豊かにします。

繁栄を誇った1920年代米国で実行された大型減税が参考になります。推進したのは当時のアンドリュー・メロン財務長官です。財閥出身で米国有数の大富豪。その点、不動産王のトランプ大統領と似ています。

1921年に所得税の税率区分上限は73%という高率でしたが、メロン長官は25年までに25%にまで引き下げました。24年に次のように語っています。

「課税の歴史をみると、仮に税率が高すぎると税収は減少していることが分かる。納税者は、税率が高いと、必ず資金を生産的な事業から引き上げようとする」(マーフィー著、シェフナー他訳『学校で教えない大恐慌・ニューディール』)

メロン長官の考えは正しいものでした。富裕層に対する大幅な減税で税収が減るどころか、逆に所得税収入は10年間にわたり増加しました。いわゆる自然増収です。

大富豪のメロン長官自身、減税の恩恵にあずかったことでしょう。しかしそれ以上に、減税は経済に活力をもたらし、中間・貧困層を含む国民全体を潤したのです。

今回のトランプ減税が米国ひいては世界の経済に活力をもたらし、人々の暮らしを楽にする見込みは十分あります。

カギは政府支出の削減です。支出を減らさないまま減税を実施すれば、国債頼みとなり、結局将来の増税につながりかねません。

メロン長官は税収が増えても財布のひもを安易にゆるめず、第一次世界大戦中に膨らんだ軍事費をはじめ、削減に努めました。

トランプ大統領も海外で不必要な軍事介入をやめ、軍事費を削ることが、減税策を成功させるうえで課題です。(2017/09/28

2018-09-27

良い財政再建、悪い財政再建

衆院解散を前に、財政問題の議論が活発になってきました。巨額の借金を抱えた日本の財政は深刻な状況で、再建が重要な課題とされるのは理解できます。しかしその場合重要なのは、やり方です。

借金を返す方法は①収入を増やす②支出を減らす——の2つしかありません。国の場合、①の収入は税しかありません。

普通の税のほか、国債も将来税によって返済しなければなりませんし、通貨の増発で得られる通貨発行益は別名「インフレ税」と呼ばれるとおり、財布の中のお金の価値を知らないうちに引き下げる「見えない税」です。

問題は、どのような形であれ、税は経済の活力を奪うことです。とくに重要なのは企業活動への影響です。

普通の税で現在、本命とされるのは消費税の増税です。消費者の財布の紐が固くなれば、企業の売り上げは減り、研究開発や設備投資に回せるお金が減り、将来の成長への土台が崩れます。

いわゆるリフレ派の人々は、消費増税に反対し、代わりに通貨の増発、つまり一段の金融緩和で景気を刺激して税収アップを図ればいいと主張します。増税に反対して「見えない税」を推奨するのもおかしな話ですが、経済的にも問題です。

金融緩和をすれば、1980年代のバブル経済がそうであったように、景気は一時良くなります。しかし人材や資源が建設・不動産や金融業など一部の業種に偏り、経営資源が無駄遣いされます。一見華やかでも、健全な経済を蝕みます。しかも結局は反動が避けられず、深刻な不況に見舞われます。

要するに、政府が財政再建のために税収(「見えない税」を含む)を増やそうとすれば、どうやっても経済に良い影響はありません。収入増による財政再建は「悪い財政再建」です。それならやらないほうがましです。

「良い財政再建」は②の支出削減によるものです。弱者を幸せにしない不効率な官営福祉をやめるのは、その第一歩でしょう。(2017/09/27

2018-09-26

非戦の将軍

1867年(慶応3)10月、第15代将軍の徳川慶喜が朝廷に政権返上を申し出て受理され、260年以上続いた江戸時代が終わりを迎えました。大政奉還です。今年は150周年にあたります。

大政奉還翌年の1868年1月に起こった鳥羽・伏見の戦いから1869年5月に箱館戦争が終わるまで、新政府軍と旧幕府軍は1年5カ月にわたる内戦(戊辰戦争)を繰り広げます。

死者は両軍合わせて推定約1万3000人。少ない数ではありませんが、同時代に米国が南北戦争(1861~65年)で計61万8000人と同国史上最大の死者を出したのに比べると、犠牲は小さかったといえます。

幕臣の勝海舟、山岡鉄舟らとともに功労者の1人とされるのが将軍慶喜です。慶喜は鳥羽・伏見の戦いで応戦したのを最後に、一切の武力行使を行わなかったうえ、朝廷への恭順の意を示して謹慎までしました。

慶喜が非戦を貫いたのは、天皇の神聖性を強調する水戸学を幼い頃から叩き込まれ、朝廷と敵対することを何より恐れたからだと、思想史学者の森田健司氏は言います(『明治維新という幻想』)。

幕府に肩入れしていたフランスの公使ロッシュは、謹慎した慶喜に再挙を強く勧めます。しかし慶喜は「たとえ首を斬らるるとも、天子に向かって弓を引くこと能(あた)わず」とこれを拒否します。尊皇攘夷の論拠にもなった水戸学ですが、ここでは非戦の原理として働いたわけです。

もし慶喜がロッシュの意見に動かされ、抗戦を開始していたら、フランス軍は旧幕府軍に加わり、表面上は中立を旨としていた英国は新政府軍に加わっただろう。両軍が死力を尽くして戦う恐るべき規模の内戦が繰り広げられ、その結果、日本の分裂と植民地化が起こったに違いない--。森田氏はこう見ます。

たしかに外国勢力の介入で内戦が大規模化、泥沼化することは、朝鮮戦争やベトナム戦争、現在のシリア内戦をみれば明らかです。

徳川幕府の統治が理想的だったというつもりはありませんが、260年間続いた平和は高く評価すべき実績です。最後を締めくくった慶喜は内戦の拡大を防ぎました。ところが明治以降の日本は対外戦争にひた走っていきます。大政奉還150周年は、その意味をあらためて考える好機でしょう。(2017/09/26

2018-09-25

戦争民営化のウソ

それは正しい戦争か
化学兵器を使用した証拠がないのに行う攻撃。自国の安全が脅かされていないのに行う攻撃。人道的な行為のふりをした、政治的影響力を高めるための攻撃。和平の努力を省いた攻撃。事態を改善させると言いながら、むしろ悪化させる攻撃。これらは正しい戦争(just war)の条件を満たさない。
Just War Theory and the US Attack on Syria | Mises Wire

イラクからロシアへ
かつて国民に嘘をつきイラク戦争に導いた同じメディアが今、合衆国大統領はロシアの工作員だという。信じられるだろうか。ジャーナリストは権力を監視する代わりに権力に協力し、政治階級の特権と「専門知識」を擁護しながら、自分自身が支配構造の一部になってしまっている。
The Enemy of the People - Antiwar.com Original

徴兵という奴隷制
ベトナム戦争当時、作家アイン・ランドが述べたように、徴兵は明白な人権侵害である。政府であれ誰であれ、個人に奉仕を強制すれば奴隷である。徴兵を命じる政府の長は選挙で選ばれたかもしれない。だがそれは民主主義であっても政府が自由を脅かすことを意味するにすぎない。
Libertarian Lessons: Conscription - The Future of Freedom Foundation

戦争民営化のウソ
本当の市場経済では、商品・サービスの購入代金は市場価格に基づき顧客が自発的に支払う。米政府によって「民営化」された戦争の代金は依然として納税者が支払いを強制される。これは市場経済ではない。企業の手際は消費者の満足ではなく、政治家を喜ばせることに発揮される。
Mercenaries: A "Privatized" Army Is Still an Army | Mises Wire

2018-09-24

文明は衝突しない

イスラム過激派によるテロや難民問題をきっかけに、かつて米政治学者ハンチントンが唱えた「文明の衝突」は避けられないとの説が勢いを増しています。しかし、それは本当でしょうか。

現在最も深刻な国際問題の一つであるアラブとイスラエルの対立は「イスラム教とユダヤ教の宗教的対立」「聖書時代に遡る宿命」などといわれます。けれどもそれは間違っていると、中東政治を専門とする臼杵陽氏は『世界史の中のパレスチナ問題』で指摘します。

1948年のイスラエル建国以前、アラブ世界の圧倒的多数派はアラビア語を話すスンナ派イスラム教徒でしたが、少数派の中に同じくアラビア語を話すユダヤ教徒が存在しました。つまり同じアラブ人(アラビア語を話す者)でも異なる宗教を信仰する者がおり、しかも暴力的な紛争につながることはなかったのです。

臼杵氏によれば、現在の対立をもたらしたのは、近代ナショナリズムのイデオロギーによって形成された民族意識です。

パレスチナの中心都市、エルサレムにはイスラム教、ユダヤ教、キリスト教の共通の聖域がありますが、7世紀にイスラム教徒がエルサレムを訪れたとき、この聖域は荒れ放題でした。ユダヤ教の信仰によれば、聖域に入ることは神によって禁じられていたからです。

敬虔なユダヤ教徒からすれば、聖域を排他的に占有することは意味のないことでした。このため聖地を巡る争いが現在のような領土問題的な紛争をもたらすことはありませんでした。

ところが民族と領土を結びつける19世紀的な新しい考え方であるナショナリズムが登場すると、特定の土地は特定の民族や国家に属さなければならないと考えられるようになります。これが現代のアラブとイスラエルの対立をもたらしたと臼杵氏は指摘します。

文化の違いが暴力的な衝突を引き起こすわけではありません。真の原因は、土地を領土として排他的に囲い込むナショナリズムです。文明の衝突と呼ばれる現象は、じつは政治の衝突にすぎません。

日経電子版のインタビュー記事で、トルコのノーベル文学賞作家、オルハン・パムク氏が「『文明の衝突』を信じる人たちは、何かが起きるたびに(ハンチントンの)仮説に沿うような材料を集め、やはり起きてしまったとあおり立てる」と批判し、代わりに「文明の平和共存」を説いています。それは決して夢物語ではなく、歴史的裏付けのある現実論です。(2017/09/24

政治の虚構

第5回日経「星新一賞」の作品が9月30日まで募集されています。同賞は日本で初めて創設された「理系文学」の賞で、SF作家、星新一氏にちなみます。

1997年に死去した星氏は、生涯に1000篇を超えるショートショート(超短編)を生み出しました。子供にもわかるやさしい言葉で書かれていますが、ユーモアに包み、理系らしい明晰な論理で政治の虚構を暴く作品が少なくありません。

「マイ国家」はその一つです。預金勧誘の銀行員がある家を飛び込みで訪ねると、家の主人からしびれ薬を飲まされ、お前は捕虜だと言い渡されます。とまどう銀行員に主人は宣言します。「ここは独立国なのだ」

主人は大まじめに語ります。「領土とはこの家、国民とはわたし、政府もわたし。小さいといえども、立派な国家だ」

主人は銀行員に日本の最近の国情を尋ねます。政府は生活保護や健康保険、年金などに金を出していると答えると、主人は「まったく、ばからしくてならない」と言い、社会保障の不効率と偽善をこう暴きます。

「政府とは、ていさいのいい一種の義賊なんだな。しかも、おっそろしく能率の悪い義賊さ。大がかりに国民から金を巻きあげる。その親分がまずごっそりと取り〔略〕末端まで来る時には、すずめの涙ほどになる。それを恩に着せながら、貧民や病人や気の毒な人にめぐんでやるというしかけだ」

そのうち主人は刃物を持ち出します。銀行員がぶっそうな凶器などしまってくださいと懇願すると、こう答えます。「凶器とはなんだ。軍備と言え。自衛権は国家固有のもので、そのためには必要な軍備の所持と行使とがみとめられている」

国民の代理にすぎない政府が武力を独占し、国民自身が丸腰を強いられる矛盾を衝いています。

この「マイ国家」、あながち現実離れした話でもありません。国際的に国家と承認されてはいないものの、欧州の北海に浮かぶ「シーランド公国」は人口4人。1967年、英国の退役軍人が公海上にある英国の海上要塞を占拠し、独立を宣言した「国家」です。

文系の代表格である法学部出身の官僚たちが作り上げた政治の虚構を暴く。そんなスケールの大きい「理系文学」の出現を心待ちにしています。(2017/09/24

2018-09-23

何のための戦争か

トランプ米大統領は、国連総会にあわせてアフガニスタンのガニ大統領と会談し、米軍兵士の増派などで「テロとの戦い」に全力を挙げる考えを強調しました。しかしテロの撲滅にはつながりそうにありません。政治にとってテロとの戦いは権力闘争や利権確保の名目にすぎず、むしろ新たなテロリストを育てる温床になるからです。

シリアの例をみましょう。米国が主導する有志連合は2014年8月から9月にかけて、テロ組織イスラム国(IS)を殲滅するとして、イラク、シリア領内で空爆を開始しました。しかし青山弘之『シリア情勢』(岩波新書)によれば、欧米諸国は最初からイスラム国に対し厳しい姿勢で臨んだわけではありません。イスラム国は前年からアサド政権に対抗し活発に活動していましたが、同政権を退陣に追い込みたい欧米諸国はこれを黙認しました。

欧米諸国がイスラム国への対処に本腰を入れたのは、イスラム国がシリアから石油供給地のイラクへと勢力を拡大し、2014年6月に北部の都市モスルを制圧して以降でした。米国はイスラム過激派以外の武装集団を「穏健な反体制派」と呼び、イスラム国と戦うよう積極支援します。

ところがこの「穏健な反体制派」は、戦う相手であるはずのイスラム過激派と共闘関係にありました。米国の政策はテロとの戦いのためにテロ組織を支援するという「マッチポンプ」だったと青山氏は批判します。

もしイスラム国が滅びても、テロの脅威は消えません。欧米が支援した「穏健な反体制派」から新たな脅威が生まれる恐れがあるからです。かつて米中央情報局(CIA)がソ連に対抗するためアフガニスタンで育てたムジャヒディン(イスラム聖戦士)が、テロ組織アルカイダになったようにです。

16年間続き、米史上最長の戦争といわれるアフガニスタン紛争。テロとの戦いがテロをなくさないのなら、一体何のための戦争かと問わずにいられません。NHKでは、米軍の増派によって治安が改善に向かうかは不透明な情勢と伝えています。(2017/09/23

他山の石

「他山の石」という言葉があります。他人の間違った言動でも自分の反省の材料とすることができるというたとえです。しかし実際には、ただあざ笑い、ゆがんだ優越感に浸る人が少なくありません。

中国の地方政府が域内総生産を水増ししているとの疑念が深まっています。日経電子版では8月21日付の記事で、東北部、遼寧省の1~6月期の名目域内総生産が前年同期比マイナス20%に急減したと報じ、9月22日付の記事では域内総生産の水増しや改竄はかなり広がっているようだと分析します。

8月21日付の記事を共有したNewsPicks(ニューズピックス)のコメント欄を見ると、「所詮インチキな国」「社会主義、一党独裁の弊害」「中央集権的国家あるある」などと冷笑するコメントが並んでいます。

けれども、日本人に中国を笑う資格があるのでしょうか。

国内総生産(GDP)はもともと水増しされやすい統計です。8月16日付の投稿で書いたように、大規模な公共事業を行えば、たとえ生産の向上に役立たなくてもGDPにカウントされ、定義上、経済成長を押し上げるからです。

たしかに公共事業は数字の上でGDPを増やす効果があります。しかしそれは計算式がそうなっているからにすぎません。どのような公共事業を行うかは、国民の自由な選択でなく、政治判断で決まります。日本は「社会主義、一党独裁」でこそありませんが、「中央集権的」であることは中国と変わりません。

NewsPicksのコメントで鋭かったのは、経営コンサルタント、波頭亮氏のものです。中国の経済統計を「残念」と評したうえで、日本の不透明な特別会計も「決して自慢できたものではない」と指摘し、「他国の批判よりもわが国の改善の方がより重要」と強調しています。

特別会計は、財源も支出も正確には誰もわからない制度といわれます。なんという無責任でしょう。これでは中国を「インチキな国」とばかにする資格はありません。(2017/09/23

2018-09-18

選挙で不満はなくせない

今月28日に召集される予定の臨時国会の冒頭にも衆議院が解散される方向となり、世の中はにわかに選挙一色となりました。選挙はお祭りですから、楽しみましょう。ただし、選挙によって経済や社会に対する不満がなくなるという幻想さえ抱かなければ、ですが。

なぜ選挙によっては不満をなくすことができないのか、理由は簡単です。今、選挙の争点がたとえば現政権への評価、経済政策、福祉政策、少子化対策、安全保障、憲法改正の6点だとしましょう。かりに各争点に対する選択肢が「無条件賛成」「無条件反対」の2つしかないとしても、全部で64通り(2の6乗)の選び方があります。

有権者に全選択パターンの受け皿を用意するには、最低でも投票対象として64の政党が必要です。争点や「条件付き賛成」「条件付き反対」など選択肢が多くなれば、必要な政党数は文字どおり乗数的に急増します。

ところが現実に国政選挙に出馬する候補者の政党は、20にも達しません。国民の多様なニーズを満たすにはとても足りません。

メディアはことあるごとに有権者の選択を尊重せよと訴えますが、本気でそう考えるなら、政党は星の数ほど必要だと言わなければ筋が通りません。しかしそんなメディアはありません。それどころか「泡沫政党」の増加にはどちらかといえば否定的です。

たとえば前々回の衆院総選挙が決まった2012年11月、毎日新聞のコラム「憂楽帳」は政党数について「今度は14。7年前に比べるとほとんど3倍に増殖している」と、たかだか10やそこらで早くも音を上げていました。

もちろん現実には、有権者のあらゆる選択パターンに対応する無数の政党が出現することなどありえません。言い換えれば、全争点に関する選択が既存政党の方針と完全に一致する希有な有権者を除き、国民の大半は、満足する政党を選ぶことができません。

満足度を多少落としても、選択の単位を政党でなく個々の候補者にしても、選びたい政党や候補者がない状況はほとんど変わらないでしょう。

選挙における投票を市場経済における買い物にたとえる人がいます。しかし市場経済が提供する無数の商品・サービスに比べ、選挙で「購入」できる政党は質量ともにあまりに貧弱です。それでもお祭りの景品だと割り切れば腹も立ちません。さあ、楽しみましょう。もし他に何もすることがなければ。(2017/09/18

2018-09-17

文化に国籍はない

近代以前、国と国の境は今ほどきっちりしていませんでした。国が国境の内と外をはっきり分けて管理する発想がなかったからです。ところが今では世界が国境線によって明確に区切られ、人々はおおむね特定の国に籍を置き、「日本人」「中国人」などと国の名前で呼ばれます。

国民に国籍があるのは事実ですから、国籍に基づいて呼ぶのは間違いではありません。しかし、文化はどうでしょう。

もちろん文化には、国民のような法で定められた国籍はありません。だから、さまざまな有形・無形の文化財を機械的に「日本文化」「中国文化」などと切り分けることはできません。

「そうはいっても、その国に典型的な文化というものはあるだろう」と思うかもしれません。本当にそうでしょうか。

シャトル大聖堂といえば、最もフランス的とされる歴史的建造物の一つです。ところが作家のジャン・ジュネは、むしろきわめて非フランス的な産物だと指摘しました。聖堂の建設者たちは今のドイツやベルギーからやって来た外国人で、当時スペインを統治していたイスラム教徒の貢献もおそらくあったからです(早尾貴紀『国ってなんだろう?』、平凡社)。

日本の法隆寺も、南北朝時代の中国や朝鮮半島の高句麗、百済の文化の影響を多く受けたものです。遣隋使が持ち帰った技術や、渡来人によって作られました。政府が国際文化交流の必要性を叫ぶまでもなく、文化とは大昔からグローバルなものだったのです。

文化のこうした歴史を知ると、文化を特定の国家と結びつけ、「これは○○文化」「あれは△△文化」などとレッテルを貼るのが、いかに文化の本質に反するかわかります。

経済産業省が提供するウェブサイト「FIND/47」では、日本各地の自然や歴史的建造物、祭りなどの地方文化を写真で紹介し、「まだ見ぬ日本の美しさを、あなたに、世界に届ける」とうたっています。しかし自然はともかく、文化はもともと世界からやって来たものです。

そのことを知れば、国と国との文化の優劣などという意味のないこだわりから解放され、世界の中の「日本文化」にさらに深い興味がわくことでしょう。(2017/09/17

規制の説明責任

規制側も理解できない規制
EUの個人情報保護新ルール、GDPRを遵守しようにも、新興企業はそれを理解できる法務チームさえないし、多大な時間を費やして複雑きわまる情報を丹念に調べなければならない。あまりに複雑で、規制当局自身ですら規制を守らせる自信がない。新ルールの理解は不可能なようだ。
Data Privacy at a Price – Plain Text

規制の説明責任
もし政府が何もしなかったら教育、健康、福祉、安全、環境はどうなるかと詰め寄る人々がいる。それに答える責任は、政策を強制する政府の側にある。政治家や官僚は誰も、自分たちの命令で市場による解決を妨げた結果についてまともに語らない。よくて夢物語、ときには悪夢だ。
What Would Happen If Government Didn’t Handle That?

家賃規制の害悪
経済学者は家賃規制が有害との見方で一致する。ノーベル経済学賞を受賞した左派のミュルダールによれば「勇気と先見性のない政府による、おそらく最もお粗末な政策例の一つ」であり、社会主義者のリンドベックによれば「空爆を除き、都市を破壊する最も効果的な技術」である。
Rent Control and Inclusionary Housing Policies are Self-Interested and Harmful: News: The Independent Institute

ナッジの落とし穴
行動経済学に基づくナッジ(小さな誘導)政策によって、政府の思うように消費者行動を「是正」できるとは限らない。ニューヨーク市は住民の喫煙を減らそうとひどく重いタバコ税をかけたが、値上げしてもタバコをやめない喫煙者が多く、タバコ代の負担を増やすだけに終わった。
Nudging: Should We Be Wary of the Latest Fad in Behavioral Economics? - Foundation for Economic Education

2018-09-16

都市は環境にやさしい

海ガメを救うには
海のプラスチック廃棄物の大半は日米など先進国ではなく、中国やインドネシアといった中進国から出る。プラ製品を大量に消費し、ゴミ収集のインフラがなく川に流してしまう。先進国で海ガメが本当に心配なら、プラ製ストロー禁止ではなく、動物保護団体に寄付したほうがいい。
Debunking the (Plastic) Straw Man Arguments | Competitive Enterprise Institute

都市は環境にやさしい
人口が集中する都市は環境にやさしい。1人当たり電力使用量は田舎より少なく、居住空間がコンパクトなおかげで自然を保全しやすい。不動産の価値が高いため、空間が無駄なく利用される。道路が混雑するので自家用車より公共交通機関が愛用され、二酸化炭素の放出量が少ない。
Cities are central to human flourishing - CapX

人が住めない環境都市
米国サンフランシスコの異常な住宅価格高騰の原因は政治である。湾岸地域には十分な土地があるのに、市当局は反成長政策を採り、建築を厳しく規制している。1970年代に成立したカリフォルニア環境政策法など厳格な州の環境規制とあいまって、新規の建築はほぼ不可能である。
How Liberal Housing Policies Made San Francisco Unaffordable for All but the Rich

環境を守る財産権
ノーベル賞経済学者オストロムらの研究によれば、1920年まで米メーン州沿岸のロブスター漁場は非公式に分割され、漁師の財産権が認められていた。漁場に立ち入る権限や漁のやり方は、財産権を持つ漁師たちによって決定された。おかげで他地域のような乱獲を防ぐことができた。
Preserve Our Fisheries by Expanding Private Property Rights | Mises Wire

苛政は虎よりも猛し

中国の古典『礼記』にこんなエピソードがあります。孔子が泰山の近くを通りかかると、墓の前で泣く女性がいました。わけを聞くと「夫と子供としゅうとが虎に食い殺された」といいます。孔子が「なぜここを去らないのか」と尋ねると、女性はこう答えます。「重税を課すむごい政治がないから」

「苛政(かせい)は虎よりも猛(たけ)し」(悪政は人を食い殺す虎よりも恐ろしい)という故事成語の由来です。このエピソードが示すとおり、昔から悪政の中でもとくに恐ろしいものの一つは重税でした。

今でもそれは変わっていません。所得税や相続税、キャピタルゲイン課税などの負担が軽いシンガポールには、日本の富裕層が節税目的で多く移住します。1年の半分以上を現地で暮らし、それを5年間続ければ、海外資産の相続税は払わなくて済むようになるといわれます。

日本を脱出する富裕層に対し、多くの日本人は白い目を向けます。しかし人は親しんだ故国を理由もなく去り、言語も環境も違う異国で暮らそうとは思わないものです。

清武英利『プライベートバンカー』(講談社)は、シンガポールに移住した資産家たちの苦悩を描きます。多くは一代で財を成した事業家。税逃れのためただ時間をつぶすのでは精神が満たされません。けれども英語ができないと現地で仕事は難しい。関西出身の資産家は酔って「南国の監獄の中にいるようや」と嘆きます。

ある元病院長は、何をするにもがんじがらめで自由のない日本を見限り、終身旅行者(納税義務が生じないよう複数の国を渡り歩く人)の人生を選びます。しかし問題は、犯罪の多い国では自分の身は自分で守らなければならないこと。元病院長は信頼していた銀行家の陰謀にかかり、あやうく殺されそうになります。

異国の生活がどんなに虚しく、ときに危険さえ伴っても、資産家が「南国の監獄」を選ぶのは、日本の税がそれだけ苛酷だからです。精力的な事業家を重税で虐げ、国外に追いやる日本。孔子が聞けば「苛政は虎よりも猛し」と憤るに違いありません。(2017/09/16

2018-09-14

公共サービスと押し売り

経済が停滞するのは、国民がお金を使わないせいである。だから景気を良くするには、政府が国民になり代わって使ってやればよい--。ケインズ経済学を信奉する政治家やエコノミストはこう主張します。本当でしょうか。

「日本のケインズ」として人気の高い元首相・蔵相の高橋是清は、政府の国防費についてこう述べています。

「国防のためには、材料も要る、人の労力も使われる。それらの人の生活がこれによって保たれる。だからこしらえた軍艦そのものは物を作らぬけれども、軍艦を作る費用は皆生産的に使われる」(『随想録』、中公クラシックス。表記を一部変更)

軍事支出は非生産的かもしれないけれど、それで需要が刺激され、雇用も生まれるからいいではないか、というわけです。でも高橋是清は経済にとって肝心のことを忘れています。

商品・サービスの目的は、人を満足させることです。そのためには人が商品・サービスの値段を知ったうえで、買うか買わないかを自由に選べなければなりません。ところが政府が提供する公共サービスは、これらの条件を満たしません。

第1に、値段が不明朗です。安全保障、教育、インフラ整備といったサービスの代償として課される税金は、サービスの質に応じて決まるのでなく、支払う側の所得や資産の額に応じて一方的に決められます。

第2に、購入を拒否することができません。将来もらえるかどうかわからない年金の保険料など払いたくないと言っても、許してもらえません。

このような商売のやり方を、もし民間でやったら何と呼ばれるでしょうか。そう、押し売りです。

もし押し売り屋が人から金を巻き上げるのに成功したら、 高橋是清が言うとおり、押し売り屋の生活は「保たれる」でしょう。けれどもその陰で、買わされた人は不幸になります。

欲しくないものを無理に買わせても、人は幸せになりません。その前提を忘れ、非生産的な政府支出で水増しされた国民総生産(GDP)を喜ぶのは無邪気すぎます。(2017/09/14

2018-09-13

ルールは必要、規制は不要

多くの人は、ルールは政府が作るものだと信じています。しかしそれは正しくありません。スポーツのルールがそうであるように、ルールとは本来、関係者の間で自然に生み出され、柔軟に修正されていくものです。官僚が設計し、法律で押しつける規制は、むしろ社会や経済の秩序を乱します。

政府による立法が広まったのは近代以降で、人類史では比較的最近にすぎません。それ以前の法は、部族の慣習、先例に基づくコモン・ローの裁判、商事裁判所の商慣習法、船荷主が設置した法廷で形成された海事法など、政府以外の制度から生み出されるルールでした。

歴史家フリッツ・ケルンによれば、近代以前、法を「創造」するという考えはありませんでした。法とは、慣習や判決の積み重ねから理性によって発見される法則でした。だから法とは古いものであり、新しい法とは言葉の矛盾です。ケルンは「中世の観念にしたがえば、新しい法の制定はそもそも不可能」と述べています(『中世の法と国制』、創文社 )。

このように、政府の力がなければルールは作れないという考えは誤りです。それどころか、経済合理性より政治的事情を優先する政府の規制は、社会・経済をしばしば混乱させます。ルールと規制は違います。ルールは必要でも、だから規制が必要だとはいえません。

ところがこの事実は、ほとんど認識されていません。ルールは政府が作るものだとたいてい頭から信じています。朝日新聞は自動車産業をテーマにした最近の社説で「企業など民間が競争を通じて創意工夫を重ね、行政はインフラやルールの整備で後押しする」うんぬんと書いていました。

もし民間が創意工夫にたけているなら、ルールの整備も得意なはずです。社会が複雑で多様になればなるほど、中央集権的な規制は時代遅れになっていきます。(2017/09/13

2018-09-12

経済に奇跡はない

科学の役割の一つは、不可能を教えることにあります。たとえば近代以前、金以外の金属から金をつくる錬金術が盛んに試みられましたが、現代の自然科学により、それは不可能であることが明らかになっています。

経済学も社会科学という科学の一翼を担います。ところが自然科学と違い、経済学を生業とする経済学者やエコノミストはあまり不可能について語りません。それどころか、まるで錬金術師のように、奇跡は可能だと語る人が少なくありません。

「穴を掘って埋め戻すだけで経済は良くなる」「お札を刷ってばらまけば経済は回復する」「増税してベーシックインカムに充てれば貧困はなくなる」--。経済学者やエコノミストの中にもこう主張する人がいます。しかしこれらの政策はせいぜい一時の効果しかありません。無から有は生まれないからです。

けれども腐っても鯛です。できないことはできないとはっきり言う、本物の経済学者はいます。ZUU onlineによると、「最低賃金の引き上げが産業をロボット化に追いやり、結果的に失業者を生みだしている」との報告書を、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)などの経済学者が発表したそうです。

政府関係者を含め、最低賃金の引き上げは貧しい人を救うと信じる人が少なくありません。しかしそれは誤りです。最低賃金を義務づければ、熟練労働者は高い賃金を得られますが、未熟練労働者は労働市場から排除されます。またLSEの経済学者がいうように、機械化が進み失業が増えます。

米ジョージ・メイソン大学人文研究所が運営するウェブサイト、ラーン・リバティの記事が述べるように、経済学者の仕事は、市民を啓蒙し、無知から守ることです。「タダ飯なんて虫のいいものはない」と言われて、喜ぶ人はいません。だからこそ嫌われ役を引き受け、経済に奇跡はないと説き続けることが、経済学者やエコノミスト、経済ジャーナリストの使命でしょう。(2017/09/12

2018-09-11

世界が変わった日

2001年9月11日の米同時テロから16年。同じ年月、「テロとの戦い」も続いたことになります。しかし世界でテロはなくならないどころか、むしろ広がっています。何がいけなかったのでしょうか。

同時テロ直後に発行された、英経済誌エコノミストのカバーが鮮烈でした。ニューヨークの空にもうもうと立ち上る巨大な白煙を背景に掲げた文字は、「世界が変わった日(The day the world changed)」。ジャーナリズムの歴史に残るレイアウトでしょう。

ところが肝心の記事のほうは、今読み返してみると、的外れなものだったといわざるをえません。

「米国が盾の背後に逃げ込むことを選ぶ恐れはないか。ミサイルを防ぐ盾ではなく、世界を締め出す盾の後ろに。(略)答えはノーだと信じるし、そう熱望する。米国のおかげで世界は過去数十年、それまで想像だにしなかった自由とチャンスを享受したのだから」

エコノミスト誌が恐れたのは米国の孤立主義です。孤立主義とは、他国と同盟を結ばず、孤立を保つ外交方針を指します。世界が「自由とチャンス」を失わないために、米国は孤立主義に陥ることなく、果敢にテロとの戦いに打って出よというわけです。

どうなったかは知ってのとおりです。米国は孤立主義でおとなしくするどころか、対外介入の姿勢を強め、同盟国や友好国とともに世界各地で対テロ戦争に繰り出します。その結果、現地の反感や憎しみを買い、欧米人はテロの標的になりました。国内では監視社会化が進み、自由が失われました。世界はたしかに変わりましたが、エコノミスト誌の見通しとは正反対です。

後知恵でこれ以上批判するのはやめます。問題はこれからです。介入主義が間違っていたとすれば、捨て去られた孤立主義を見直すのが最初の一歩でしょう。

エコノミスト誌は孤立主義の典型として「世界のいかなる国とも恒久的な同盟を結ばない」とする米初代大統領ジョージ・ワシントンの言葉を挙げました。同盟は戦争を防ぐのでなく、むしろ多数の国を無用の戦争に巻き込むことが明らかになった今、ワシントンの先見の明は輝きを増して見えます。(2017/09/11

2018-09-10

商業はなぜ嫌われる

グローバル経済がこれだけ発展した現代でも、人々が経済の道理を正しく理解しているとは限りません。それはやむをえない面もあります。私益の追求が社会を良くするという経済の道理は、人間の直感に反するからです。

フリマアプリのメルカリで読書感想文や夏休みの自由研究などの宿題が販売され、問題になりました。宿題を家族が時間を割いて助けてあげるのはほほえましく語られるのに、お金を払って他人に助けてもらうと批判されるのは、理屈で考えるとおかしなことです。

仲立ちをしたメルカリも、金儲けのために宿題をさぼる手助けをしたと非難されました。けれども助けてもらった側と助けてあげた側の双方が満足し、進んで対価を払ったのですから、周囲がとやかく言う必要はないはずです。

理屈はそうでも、納得できないかもしれません。それはオランダのマンデビルや英国のアダム・スミスといった18世紀の経済学者が明らかにした「私的な悪徳こそが実は公益につながっている」という逆説が、人間の直感に反するからです。

キリスト教社会ではかつて利子が禁じられ、イスラム教社会では今も禁止されています。江戸時代には士農工商の序列がありました。経済学者の蔵研也氏によれば、これらの背景には、商業は卑しく劣った活動だという人間に普遍的な感覚があります(『18歳から考える経済と社会の見方』、春秋社)。

普通の人には、私益の追求が良い社会を作るという論理は不道徳だと感じられます。だからこうした論理は近代になるまで一般化しなかっただけでなく、学校で経済学を教わったはずの現代人も内心では納得していません。その感情が宿題販売やチケット転売などの問題をきっかけに噴き出すのです。

感情的な商業批判は、しばしば政府による規制の口実とされます。それは規制で利益を得る一部の関係者を除き、個人の幸福を妨げます。商業が非難されたときには、頭を冷まして理性的に考えたいものです。(2017/09/10

2018-09-09

自由主義の倫理

自由主義の倫理
自由主義の倫理は、同意なしに人の身体や財産を侵さないこと。これはきわめて実践しやすい。たった今、誰もが家でくつろいだまま実行可能だ。不可能なのはむしろ、最低賃金を強いつつ完全雇用を達成するとか、紙幣を印刷することで貧困をなくすとかいった政府の政策のほうだ。
Is Libertarianism Utopian? | Mises Wire

消費社会は悪くない
市場経済はあらゆる人に選択を任せる。上下水道の整った家に住むより丸木小屋で暮らし、スーパーで売る野菜より自分で育てた実を食べたければ、そうする権利がある。でもそれを消費社会の否定などと言わないでほしい。生きるには売買が必要だ。消費社会の否定は人生の否定だ。
In Defense of Consumerism | Mises Institute

民主主義と自由
社会正義や再分配を支持する人々はこんなごまかしを言う。自分たちが主張し、政府に求める政策は、国民の多数派による民主的な意思である。反対し抵抗する人物は民主主義の敵であり、自由の敵である、と。この考えは、自由な個人同士による平和な選択と交流を否定し、脅かす。
How Democracies Turn Tyrannical - Foundation for Economic Education

賢い差別対策
メキシコ系、アジア系米国人の起業家は差別的な企業に対抗し、自分で店を開き、同胞を受け入れた。事業は成功した。同じく、特定の集団がソーシャルメディアプラットフォームによる差別に直面しているのであれば、正しい対策は政府による規制強化ではなく、競争の強化にある。
Ann Coulter Comes Out in Favor of Anti-Discrimination Laws | Mises Wire

仮想通貨のディストピア

民間で運営されるオープンな分権システムか、政府・中央銀行が独占管理する究極の中央集権か——。8月8日付の投稿で、仮想通貨は夢と悪夢の分かれ目にさしかかっているようだと書きました。気がかりなことに、現実は悪夢に向かって少しずつ近づいています。

日経電子版の記事によると、世界の中央銀行が、法的な裏付けを持つデジタル通貨の発行を相次ぎ検討し始めています。日銀のリポートによれば、狙いは「金融政策の有効性を守る」ことです。立派な大義名分です。けれどもそれが国民にとって良いこととは限りません。

金融政策の大前提は、国民が中央銀行の発行するお金(法定通貨)を使うことです。民間の仮想通貨のほうが多く利用されるようになれば、法定通貨の金利の上げ下げや発行量の増減で物価や消費をコントロールできなくなります。中央銀行が面白くないのは当然です。

しかし忘れてならないのは、もし円などの法定通貨から民間仮想通貨に利用がシフトしたら、それは国民の選択の結果だということです。

銀行に預けても利息がほとんどつかない。ATMからは1日50万円しか引き出せない。外国に送金するとべらぼうな手数料を取られる。そのうえ税務署に情報が筒抜けかもしれない。まだ一部の人々にせよ、国民はそんな法定通貨や、政府・中央銀行の支配下にある銀行システムに愛想を尽かし、民間仮想通貨を選ぼうとしているのです。

もし中央銀行の発行するデジタル法定通貨が、上記のような現行の法定通貨の欠点をなくしたものなら結構なことです。ATMの引き出し制限はなくなり、外国送金手数料も安くなるかもしれません。

しかし超低金利とプライバシーの不安は変わらないか、むしろ悪化するでしょう。デジタル法定通貨はそもそも金融政策という名のゼロ金利やマイナス金利から逃がさないために導入するのだし、あらゆる取引履歴を捕捉されてしまうからです。仮想通貨の未来が暗鬱なディストピアに転じてよいはずはありません。(2017/09/09

2018-09-08

古代ローマの財政破綻

インフレは国を滅ぼす
ローマ帝国の衰退が訪れたのは3〜4世紀、皇帝が通貨の品質を引き下げてから。物価統制と相まって食品の生産・販売を麻痺させた。政府が物価に上限を課そうとしたため食品の取引は消滅。人々は飢えを逃れようと都会を脱して田舎に移り、穀物や油、ワインを自作しようとした。
How Mises Explained the Fall of Rome - Foundation for Economic Education

物価統制の結末
古代ローマ時代、ディオクレティアヌス帝は物価統制令を発し、主要な商品・サービスに上限価格を定める。独占業者が市場に商品を出さず、値段を釣り上げると批判した。統制はたちまち失敗。商人は商品を隠し、品不足はかえって深刻になった。暴動が起こり統制は緩和された。
How Imperial Socialism Shattered the Roman Empire and Led to Feudalism - Foundation for Economic Education

古代ローマの財政破綻
古代ローマでデクリオネスと呼ばれた地方都市の参事会員は、中央政府から徴税を任される。仕事は困難で、税収はしばしば不足。政府は法律で、不足分は自腹を切れと命じる。たまりかねたデクリオネスは身分を捨て、よその土地に。すると政府はまた法律を作り故郷に連れ戻した。
Inflation and the Fall of the Roman Empire | Mises Institute

暴君の積極財政
ローマ帝国第3代皇帝のカリグラは、財政危機に際し大量の無利子公債を発行し、経済をゆがめた。公共事業に巨費を投じたが、多くは自分を偉く見せるためで、税負担と借金を増やした。税収不足を補うため、人に言いがかりをつけて罰金を科したり殺害したりして財産を没収した。
Which Roman Emperor Was the Worst? Thumbs Down to... - Foundation for Economic Education

健全な懐疑心

民主主義の立派なところは、理性的な討議を通じて政治決定を行うことだとよくいわれます。最近流行の言葉でいえば「熟議」です。しかし現実には、政治にとって冷静な討議は邪魔でしかないのかもしれません。政治は理性よりも感情を養分として栄えるからです。なかでも好物は、恐怖という感情です。

米著述家コナー・ボヤック氏によれば、米国でテロリストに殺害される確率は年間2000万人に1人といいます。これに対し、交通事故による死亡は1万9000人に1人、浴槽での溺死は80万人に1人、ビル火災は9万9000人に1人、落雷は550万人に1人。つまり、雷に打たれる確率はテロで死ぬより4倍以上も大きいわけです。

ところが政府は落雷防止に何十億ドルもの予算を費やしたりはしません。一方で、落雷よりリスクの小さいテロ対策には莫大な税金を投じます。政府がしきりに強調するテロの恐怖によって、国民がテロ対策を支持するからです。合理性に乏しい政策でも、恐怖という感情に訴えることによって可能になるのです。

恐怖にはこのような効能があるので、政治はそれを最大限に活用したがります。恐怖による支配です。しばしば偽りの情報や誇張した情報を流し、世論を操作しようとします。イラク侵攻の口実とされ、実際には存在しなかった大量破壊兵器はその典型でしょう。政府を発信源とするフェイク(偽)ニュースに人はたやすく騙されがちです。

恐怖による支配に世間が飲み込まれそうになる昨今、政治の嘘に騙されないためには、ボヤック氏がいうように、まず権力者に対する健全な懐疑心(healthy skepticism)を養ったうえで、情報源を多様化し、信頼できる情報を選ぶことが必要です。インターネットの発達とメディアの多様化は市民にとって心強い味方となるでしょう。(2017/09/08

2018-09-07

財政破綻しないのは良いことか

個人や団体が借金で破綻しないことは一般には望ましいものの、いつもそうとは限りません。とくに国の財政の場合、破綻しないのはかえって良くないとさえいえます。破綻を避けるために増税すれば、借金に責任のない国民まで苦しめるからです。

財務省ホームページの「日本の財政を考える」は日本の財政を家計にたとえて解説しています。このたとえ話には批判があります。9月2日付日本経済新聞の「大機小機」は「国と家計は異なる。家計は徴税できないが国はできる。通貨発行権という形の徴税権もある」と批判しています。これは正しい事実の指摘です。

けれども問題は、その事実が国民にとって喜ばしいかどうかです。

あえて家計にたとえてみましょう。ある町内に鈴木さんという借金漬けの夫婦がいます。夫の鈴木さんは町内の各家庭から強制的に町内会費を取り立てることができます。妻の鈴木さんは地域通貨を無制限に刷ることができます。だから鈴木家は借金を返せなくなることはありません(上念司『財務省と大新聞が隠す本当は世界一の日本経済』<講談社+α新書>を参考にしました)。

さて、鈴木家と同じ町内に住む人々は幸せでしょうか。借金返済のために町内会費を取られ、通貨の価値がどんどん下がってしまう。こんな形で鈴木家の破綻が避けられても、迷惑でしかありません。むしろさっさと破綻し、夜逃げでもしてくれたほうがましでしょう。

財政破綻で公営医療が崩壊した北海道夕張市では、意外にも高齢者が元気になり、寿命も延びたといいます。政府は潔く財政破綻し、責任者を処分し、夕張市を見習って規模を大幅に縮小し、税収の範囲内で仕事をしてもらう(残念ながら夜逃げはしてくれないので)。痛みは大きくても、国民の幸せにはそれが一番ではないでしょうか。(2017/09/07

2018-09-06

ブラック企業のなくし方

今、世間で一番嫌われ、叩かれているものの一つといえば、ブラック企業です。ふだんは政府の経済介入や権力による自由の抑圧に批判的な人たちも、ブラック企業の話になると態度が一変し、政府に規制や摘発の強化を求め、政府がそれに応えると拍手喝采します。

しかし、そのようなやり方で、肝心の労働者は幸せになるでしょうか。ブラック企業についてメディアなどでしばしば問題視されるのは、長時間労働です。今の労働基準法がそうであるように、法定労働時間を一律に定め、それを超える労働を規制すれば、話は簡単です。

けれども労働とは、そのように単純なものではありません。人がどの程度の長時間労働を受け入れるかは、健康状態やライフスタイル、家計の状況、報酬の水準、仕事のやりがいなどにより千差万別です。それにもかかわらず、労働時間を一律に制限すれば、それ以上働きたい人たちの意志を無視し、幸福追求の権利を侵すことになります。

幸福とは主観的なものです。他人には「休みもろくに取らず、あんなに長く働いて、何が幸せなのだろう」と思えても、本人にとっては夢の実現に必要な努力かもしれないし、苦しい家計を支える貴重な仕事かもしれません。

労働のように個人によってさまざまに事情が異なる事柄に、法律による画一的な対処はなじみません。そんなときこそ、市場の出番です。

雇用に伴う数多くの規制や公的負担をなくし、企業がもっと自由に人を雇えるようにしましょう。そうすれば、やりたくない長時間労働を無理強いするブラック企業をさっさと去り、もっとまともな企業に移ることができます(ただし、その企業が従業員として望んでくれればですが)。起業の規制をなくすことも同様の効果があります。

SNSがこれだけ発達した時代に、わざわざ税金を使って厚生労働省にブラック企業の実名を公表してもらう必要はありません。日々社内で働く労働者の情報のほうがずっとスピーディーで有益です。

その結果、誰もが逃げ出すブラック企業はつぶれるでしょう。これが自由主義経済にふさわしい、ブラック企業の正しいなくし方です。(2017/09/06

2018-09-05

ねたみの時代

「出る杭は打たれる」ということわざは、才能・手腕に抜きん出た人がとかく憎まれる日本独特の社会のありようを示すといわれますが、外国でもさほど変わりはありません。

米国のマイケル・ミルケン氏は1980年代に高利回り社債市場の先駆けとなり、「ジャンク債の帝王」として名を馳せました。ジャンクは「くず」という意味。利回りは高いけれども発行企業が無名などで信用度の低い社債をさげすんで呼んだ言葉です。

それまで社債の発行は超優良の大企業に限られ、それ以外の企業は事実上資本市場から締め出されていました。ミルケン氏は、高利回り債はリスクを差し引いても高い収益を稼ぐことに目をつけます。

1977年、ミルケン氏が働く投資銀行ドレクセル・バーナム・ランバートは7社の新発高利回り社債を引き受け、「ジャンク債革命」が始まります。

新たな資金調達手段でとくに恩恵を受けたのは、新興企業です。携帯電話のマッコーセルラー、ケーブルテレビ向け放送局のターナー・ブロードキャスティング、ケーブルテレビネットワークのバイアコム・インターナショナルなどが相次いでジャンク債で多額の資金を集め、成長の糧にしました(アレン他『金融は人類に何をもたらしたか』、東洋経済新報社)。

ジャンク債は、敵対的な企業買収の資金調達にも使われました。敵対的買収と聞くとまゆをしかめる人が少なくありませんが、社内政治だけがとりえで能力のない経営者をやめさせ、株主の利益を高めるうえで、有効な手段です。

こうして金融市場に劇的な変化を起こしたミルケン氏は、財界エリートの反発を買います。企業が融資に頼らなくなると銀行は商売あがったりですし、敵対的買収は経営者の地位を脅かすからです。マスコミは巨額の報酬を稼ぐミルケン氏を強欲だと叩きました。

出る杭が打たれるときがやってきました。1989年、ミルケン氏は詐欺など98の罪で起訴されます。結局、有罪となったのはわずか6つで、それまで投獄の対象になったことのない、ささいな罪ばかりでした。それにもかかわらず、ミルケン氏は禁錮10年の判決(2年に減刑)を受け、1年10月の刑に服します。

ミルケン氏は証券界を永久追放され、近年は慈善活動のほか、自身の名を冠した「ミルケン研究所」の運営に注力しています。同研究所が主催する国際経済会議「ミルケン・グローバル・コンファレンス」は盛況で、今年5月には麻生太郎副総理・財務相も参加しました。それでも汚名が完全に晴れたとはいえません。

ところが先日、米モルガン・スタンレーのマネージングディレクターだったデ-ビッド・バーンセン氏が、ミルケン氏の恩赦をトランプ米大統領に求めました。

ブルームバーグの報道によれば、バーンセン氏は大統領宛ての書簡で、ミルケン氏に対する起訴は「集団的なねたみが手に負えなくなった時代」の結果だと主張。恩赦すれば「ニュースの見出しを飾ることを意識し、企業社会で働く人間にダメージを与える起訴」に歯止めをかけることを示唆すると訴えたそうです。

恩赦が実現するかは疑問です。しかしこの話題が名誉回復のきっかけになれば、現在71歳のミルケン氏に多少の慰めになるかもしれません。

既得権益に挑戦する風雲児に対する政府や大企業、マスコミの敵視は、とくにこの十数年、日本でも強まったと感じます。ねたみが支配する時代に、経済・社会の発展は望めません。(2017/09/05

2018-09-04

核は手放せない

北朝鮮による核実験を受け、日米首脳は3日深夜、北朝鮮に対し「これまでになく強い圧力」をかけていくことで一致したと報じられています。これまで何度となく「圧力」という言葉を目にしましたが、事態はまったく好転しませんでした。どんなに圧力をかけようと、北朝鮮が命綱である核を手放すとは思えません。

北朝鮮が核に固執するのは、それが超大国である米国に屈しない唯一の手段だと考えているからです。背景の一つは、8月29日の投稿で述べた1962年のキューバ危機ですが、それだけではありません。もっと最近、核を持たず敗れた権力者たちが悲惨な最期を遂げたことがあります。

イラクのフセイン元大統領は2006年12月、死刑確定からわずか4日後に絞首刑に処され、死刑制度に反対する欧州連合(EU)各国や人権団体などから非難の声が上がりました。逮捕や裁判が米中間選挙の直前に行われたことから、劣勢だった共和党政権の選挙対策に利用されたとの見方もあります。

リビアの最高指導者だったカダフィ大佐は2011年10月、欧米の支援を受けた反政府勢力に身柄を拘束された直後、死亡します。死亡の経緯はよくわかっておらず、惨殺されたとの情報もあります。意図的に殺害したとすれば捕虜に対し拷問や処刑を禁じたジュネーブ条約違反だとして、批判されました。

金正恩委員長をはじめとする北朝鮮の支配層にしてみれば、悲惨な末路をたどった独裁者らの轍は決して踏みたくないはずです。「窮鼠猫を噛む」という言葉もあります。圧力一辺倒がじつはポーズで、水面下で冷静な対話の道が探られていることを祈るばかりです。(2017/09/04

市場の声を聞こう

利潤は経済に不可欠
利潤が存在するのは資本主義だけではない。社会主義でも利潤はなくならない。どんな仕組みの経済でも、少しでも豊かになりたければ、消費を上回る生産が必要だ。それには余剰資金(利潤)を投資し資本財を製造し、生産を拡大しなければならない。利潤は経済に欠かせぬ血液だ。
Economic Myths #4 – Profits are Evil! – The Ludwig von Mises Centre

贈与経済の限界
完全な贈与経済では交換が行われないから市場価格が存在しない。市場価格はどの商品をつくればいいか判断する目安になるが、贈与経済では誰かの優れた判断に頼るしかない。そんな才能の持ち主は滅多にいないし、贈与経済では才能が報われないから、才能が磨かれることもない。
Charity Needs Markets | Mises Institute

市場の声を聞こう
あなたが画家の卵で、絵の具とキャンバスを1万円で買い、それで描いた絵が5000円でしか売れなかったら、市場経済に腹を立てるかもしれない。しかし市場は現実を伝えるにすぎない。早く現実を知れば、その分早く軌道修正でき、他人のために価値を創造し富を築く方法を学べる。
Don't Hate Market Signals. Use Them.

価格のない社会
私有財産が廃止された社会主義の下では、何も売買できない。何も売買できない社会では、商品やサービスの価値を伝える価格がなくなる。価格がなければ、すべてを知っているはずの政府は、生産の効率を最大にするために資本や労働をどう配置すればよいか、知るすべがなくなる。
Want a Socialist Society? First, Abandon Your Hopes and Dreams | Mises Wire

2018-09-03

自然の驚異、市場の驚異

先月21日、米国の広い範囲で太陽が月と重なって見えなくなる皆既日食が起き、話題となりました。真昼の闇に浮かび上がる日輪は神秘的で、まさに自然の驚異です。

米国で皆既日食が観測されるのは38年ぶり、日本で観測できる次の皆既日食は2035年9月2日で、前回から26年ぶりになるそうです。いずれにせよ、そうそう起こるものではありません。

けれども、がっかりすることはありません。自然の驚異に劣らないすばらしい驚異を、私たちは日々目にしているからです。それは市場経済の驚異です。

非日常的な大自然や大宇宙と違い、市場経済はせわしない日常そのものです。しかし、そんな平凡な営みに、目を見張るような驚きが隠されています。

米実業家で教育団体の創設者、著作家でもあったレオナード・リード氏は「私は鉛筆」という物語風のエッセイを1958年に発表しました。1本のありふれた鉛筆がこう語り始めます。「私は神秘です。木や夕焼け、稲妻よりも」

鉛筆はさらに意外なことを言います。「私をどうやってこしらえるのか、知っている人は1人もいません」。なぜなら、なんの変哲もない鉛筆でも、できあがるまでには想像以上に多くの人々がさまざまな形でかかわっているからです。

まず最初に、カリフォルニア州の北部やオレゴン州に生えている1本の真っすぐなヒマラヤ杉が材料の材木となります。この木を伐採して、鉄道の引き込み線があるところまで材木を運んでいくためには、のこぎりやトラックやロープや、その他にも数えきれないほど多様な道具や用具が必要になります。

のこぎりや斧やエンジンをこしらえるためには、鉱石を採掘し、鉄鋼をこしらえ、これらをさらに精錬し精製しなければなりません。リード氏はさらに鉛筆の口を借りて、木部のほか、黒鉛の芯、真鍮の環、消しゴムなどの製造に、いかに世界中の多くの人々がかかわっているかを描いていきます。

驚くべきなのは、想像以上に多くの人々が製造過程にかかわっている事実だけではありません。誰かが中央集権的な本部から命令を下しているわけでもないのに、鉛筆がちゃんと生産されることです。市場経済の「見えざる手」と言ってもいいでしょう。

米経済学者のミルトン・フリードマン氏は著書でこのエッセイを紹介し、感嘆を込めてこう記します。「何千人もの人びとは、あちらこちらの諸国に住んでいて、異なった言語をしゃべり、いろいろな違った宗教を信仰しているだけでなく、ひょっとするとお互いに憎悪し合っている可能性さえある。そうだというのに、このような相互間の相違は、鉛筆を生産するためお互いが協同するのに、なんの障害にもなっていない」(『選択の自由』、日本経済新聞出版社)

もちろん鉛筆だけではありません。1冊の本、1台のスマホ、1本のペットボトル……。私たちが日々目にし、利用するあらゆる製品に、市場の神秘が潜んでいます。

お互いに顔も知らない、もしかすると憎み合ってさえいるかもしれない人々が、平和のうちに協力し合う市場経済。この不思議な仕組みにもっと驚き、畏敬の念を持ってもよいのではないでしょうか。(2017/09/03

2018-09-02

経済制裁のリスク

日経電子版の記事によれば、日米両政府は北朝鮮が北海道上空を通過する弾道ミサイルを発射したことを受け、国連安全保障理事会で石油禁輸措置を提起する方針だといいます。しかしこれは記事自体が指摘するとおり、リスクを伴う一手であり、そのリスクは小さくありません。

日本の近現代史を学んだ人であれば、石油禁輸と聞いて連想するのは、1941年8月の対日石油禁輸でしょう。日本の南部仏印(フランス領インドシナ南部)への侵攻に対して、米国が7月の対日資産凍結に続き発動した経済制裁措置です。

石油禁輸は日本経済の首を絞め、対米戦争に追い込んでいきます。同年11月、東条英機首相は指導者を集めた会議で「軍事に使える石油は2年間で一滴もなくなる」と述べ、「このまま座していれば日本は2、3年の後には三等国に成り下がることを恐れる」と憂慮を表明します。真珠湾攻撃に踏み切ったのはその翌月、つまり石油禁輸から4カ月後でした。

日本との戦争で米国も多大な犠牲を払うことになります。米国の軍事専門家には、石油禁輸をはじめとする対日経済制裁は誤った措置だったという批判があります。

米空軍大学教官のジェフリー・レコード氏はこう述べます。「経済封鎖は戦争を抑止するためにとるべき方法ではない。なぜなら日本はわが国の経済封鎖を戦争行為そのものと理解し、それに反撃せざるを得ないと思い込んだ。日本がそう思わざるを得ない理由も十分に存在した」(『アメリカはいかにして日本を追い詰めたか』、草思社)

上記の「日本」を「北朝鮮」に置き換えれば、今回の石油禁輸方針の危うさがわかります。経済封鎖は武力行使に比べ穏やかな印象がありますが、レコード氏がいうように、決して「戦争を抑止するためにとるべき方法ではない」のです。日経電子版の記事も、石油の全面禁輸は北朝鮮の暴発につながる恐れがあると指摘しています。(2017/09/02

2018-09-01

関東大震災と企業救済

94年前の1923年(大正12)9月1日、相模湾北西部を震源地とするマグニチュード7.9の大地震が関東地方南部を襲いました。関東大震災です。

政治の世界では、震災時のデマが原因で虐殺された朝鮮人犠牲者に対する追悼文を小池百合子東京都知事が断ったことが問題となっていますが、関東大震災は経済的にも大きな教訓を残しました。震災手形です。

関東大震災の震災手形は、震災によって悪影響を受けた企業が手形を銀行に割り引いてもらえ、また銀行がその手形を日銀に持って行くと、さらにそれを割り引いてくれるというものでした。

ところが震災手形の中には、震災以前に、振出人が第一次世界大戦終結後の「反動恐慌」などのために打撃を受け、焦げ付いていた手形も便乗していました。このため回収が進まず、不良債権が日本経済の重しとなっていきます。最後は1927年(昭和2)の金融恐慌を引き起こしました。

本当に実力のある企業であれば、災害で一時苦境に陥っても、やがて自力で立ち直るはずです。しかし政治が介入すると、往々にして実力のない企業まで救済することになり、経済を不効率にします。そのツケはいつか誰かが払うことになります。多くの場合、それは納税者です。これが震災手形の教訓です。

関東大震災から一世紀近くがたとうとする今、日本は震災手形の教訓を忘れつつあるようです。

2011年の東日本大震災を受け、政府は、被災した企業の復旧費用を公費で助成するグループ補助金制度を特例として新設しました。今年4月時点で、東日本大震災では5000億円近くの交付が決定。2例目となる熊本地震では熊本・大分両県で500億円近い交付が決まりました。

けれども補助金が本当の意味で復興に役立っているかは疑問です。今年4月の日経電子版の記事は、東北では補助金を受けながら、過大投資などが響いて経営破綻した企業も出始めていると伝えています。

「震災前から経営が苦しかった企業も、大多数は補助金を得て設備を復旧した。本来なら赤字企業は事業を縮小し、収益力の高い企業に集約すべきだった」。宮城県内の経営コンサルタントが指摘する実態は、震災手形で企業を救済して問題を先送りし、破綻に向かった、かつての日本の姿そのものです。(2017/09/01