江戸幕府を開いた徳川家康は、東アジアから東南アジアへと渡航する商船に朱印状と呼ばれる海外渡航許可書を発給し、政府公認の貿易を行わせた。1604年(慶長9)に始まった朱印船貿易である。しかし、その時代は約三十年で終わりを告げた。
家康は幕府を開いた前後、外交・通商上の重要な決定を次々に下している。その背景には、西国大名が貿易で利益をあげるのを抑え、幕府のみが貿易利益を独占するために、貿易を幕府の厳重な統制の下で管理する狙いがあった。
豊後(大分県)の臼杵湾に漂着したリーフデ号に乗り組んでいたオランダ人航海士ヤン・ヨーステンと水先案内人のイギリス人ウィリアム・アダムズを江戸に招いて外交・貿易の顧問とし、それぞれ本国との通商を斡旋させた。当時、欧州では毛織物工業が発達したイギリスと、スペインから独立したオランダの二カ国が台頭し、国家の保護の下に相次いで東インド会社を設立。スペイン、ポルトガルが優勢だったアジアへ進出しようとしていた。
その一方で、スペインとの貿易にも積極的だった。フィリピンのマニラにいたスペインのフィリピン諸島長官と交渉し、スペイン船を日本貿易に誘致している。
朱印船貿易は、こうした家康の外交・通商戦略の一環だった。
朱印船の総船数は約三十年間で三百五十六隻にのぼり、多い年には二十隻以上が渡航した。朱印状の受給者は総数百五人で、上位から商人、華人、ヨーロッパ人、大名、武士の順となる。少数ながら前出のヨーステン、アダムズら在留外国人、宣教師、女性なども含まれ、多彩な顔ぶれだった。
朱印船には中国やポルトガルなど外国人を船主とする船も含まれていたが、その実質的な担い手は京の角倉・茶屋・平野、大坂の末吉、長崎の末次・荒木など、朱印船貿易家として知られる豪商だった。
朱印船が日本の港で貿易に占めるシェアはトップで、ポルトガル船や中国船、オランダ船を上回り、輸出入とも四割を超えた。日本のおもな輸入品は生糸と絹織物、甲冑などの武具に使われる鹿皮や鮫皮、砂糖や薬種など。おもな輸出品は銀で、東南アジア、中国、欧州のどこでも需要が高かった(村井章介『分裂から天下統一へ』)。
朱印船は、中国のジャンク船に欧風・和風の造船技術を取り入れた五百トンから七百五十トンの船で、二百人程度が乗り込んだ。船を操る航海士には、おもに明人、ポルトガル人、オランダ人、イギリス人が雇われた。朱印船は長崎から出港し、長崎に帰港すると定められた。
倭寇や秀吉の朝鮮出兵の影響で明が日本船の来航を禁止していたこともあり、明の目が届かない場所が朱印船のおもな渡航地になった。高砂(台湾)、交趾(ベトナム中・南部)、シャム(タイ)、ルソン(フィリピン)などである。取引の中心は、明からの商船や密貿易船と日本からの朱印船とが港湾で中国産の生糸・絹織物と日本産の銀とを交換する「出会(であい)貿易」だった。
家康は海外に宛てて「朱印状を持参する船は海賊船ではないから、貿易に応じてほしい。朱印状を持たない船は海賊と判断してかまわない」という意味の手紙を出している。このため海外貿易を行なっていた人々は家康に接近し、朱印状を求めるようになった。「朱印船貿易の制度は、貿易統制だけではなく国内支配のうえでも大きな意味をもっていた」と東京大学教授の鶴田啓氏は指摘する(『大学の日本史 近世』)。
やがて幕府の通商政策にキリスト教が大きな影響を及ぼしていく。
家康時代の対外政策は、キリスト教は禁じるが、貿易は奨励するというものだった。しかし、キリスト教の禁教を進めるには、日本人の海外渡航や貿易にも制限を加えざるをえなくなった。
幕府がキリスト教の禁教を進めた背景には、対日貿易で後発のオランダ、イギリス人が、貿易と布教を一体化させたポルトガル、スペインの弱点を突き、キリシタンの恐ろしさを吹聴したこともあった。オランダ、イギリス人はともに政府から貿易独占を認められた特権的な東インド会社に属し、布教と切り離して貿易を行うことができた。その後、イギリスはオランダとの競争に敗れ、平戸商館を閉鎖している。また、ポルトガル系とスペイン系の教会会派が互いに相手を非難したことも、キリスト教や欧州勢力への警戒感につながった。
1616年(元和2)に開明的な家康が死去した後、秀忠、家光の下で幕府の貿易政策は保守化の一途をたどる。1624年(寛永元)、スペイン船の来航を禁じた。1633年(寛永10)には、朱印状のほかに老中奉書を携えた奉書船以外の海外渡航を禁止し、さらに1635年(寛永12)、日本人の海外渡航を全面的に禁止した。この結果、朱印船貿易は約三十年間の短い歴史に終止符を打つ。
その後、1637年(寛永14)から翌年にかけて起こった島原の乱の影響から、幕府のキリスト教に対する警戒心はさらに強まり、1639年(寛永16)、ポルトガル船の来航を禁止した。さらに、平戸にあったオランダ商館を1641年(寛永18)に長崎の出島に移し、唯一残されたヨーロッパ人であるオランダ人と日本人との自由な交流を禁止した。
幕府は中国船との私貿易も長崎に限定して統制下に置き、そのほかの場所での貿易は密貿易として禁止した。こうして、いわゆる鎖国の状態となった。
幕府が天領の長崎に開港場を限定したのは、それまで東シナ海、南シナ海のネットワークによって経済力を強めてきた西国大名の力を抑制し、幕府が貿易の利益を独占する狙いからだった。アジアの海のネットワークが日本列島の西を通り越し、東の江戸幕府に結び付けられるという奇妙な状況が、幕府の権力により生み出されたと歴史学者の宮崎正勝氏は述べる(『「海国」日本の歴史』)。
家康は貿易を奨励したが、それでも幕府の権力を維持する必要から、統制は避けられなかった。家康の死後、統制はさらに強まり、鎖国に至る。自由貿易と政府権力は両立しがたいという事実を、朱印船貿易の短い歴史は物語っている。
<参考文献>
- 村井章介『分裂から天下統一へ』(シリーズ日本中世史)岩波新書
- 杉森哲也編『大学の日本史―教養から考える歴史へ〈3〉近世』
- 宮崎正勝『「海国」日本の歴史: 世界の海から見る日本』原書房
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