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2026-01-26

マキャベリ、政治に倫理は不要か

昔、歯に衣着せぬ物言いで知られた政治家の故・秦野章氏が「政治家に古典道徳の正直や清潔などという徳目を求めるのは、八百屋で魚をくれと言うのに等しい」と発言し、物議を醸したことがあった。この発言は、一面の真理を含んではいる。けれども、政治家に道徳や倫理は、本当に必要ないのだろうか。


このことを考えるために、ニコロ・マキャベリの思想をたどってみよう。『君主論』で有名なイタリア・ルネサンス時代の政治思想家マキャベリは、政治は道徳から切り離して考えるべきだとする現実主義的な政治理論を打ち立てたことで知られる。

都市国家フィレンツェは15世紀末、それまで実質的支配者だったメディチ家を追放し、名実ともに共和政に復帰したが、マキャベリはこの共和政の第2書記局の長となった。軍事・外交の担当者として活躍するが、メディチ家の復権により、その職を失った。

マキャベリは反メディチ派の烙印を押され、一時は陰謀の疑いで投獄され、やがて郊外に隠棲せざるをえなくなった。彼は再度活躍の場を求めてメディチ家への接近を図る。『君主論』はこの隠遁生活中、一気に書き上げられ、フィレンツェを統治するロレンツォ・デ・メディチに献呈されている。つまりメディチ家に自らを売り込むための、「就職論文」だった。もっとも、この作品のためにメディチ家から恩恵を与えられることはなかった(鹿子生浩輝『マキァヴェッリ』)。

『君主論』はマキャベリの死後、1532年に刊行された。その後、16〜18世紀を通じ、欧州中で悪評にさらされた。キリスト教道徳が支配的だった西洋史上例を見ない、意識的に悪を説き、政治の世界に悪を解き放った悪魔的な人物だと考えられたからだ。英語で悪魔を「オールド・ニック」と呼ぶが、これはマキャベリの名「ニコロ」から来たと言われる。

ところが近代になると、マキャベリは悪の伝道師として毛嫌いされるのではなく、政治学の元祖として称えられるようになった。その見方によれば、マキャベリは時代遅れの道徳主義を捨て、権力を冷静に見ていた。タフな現実主義者であり、実証的で価値中立を旨とする現代政治学の先駆者だとされる。

君主や支配者はいかに振る舞うべきか。この問題は、欧州で古代から論じられてきたテーマだ。それは「君主の鑑」論と呼ばれる。多くの伝統的な論者の主張によれば、君主は、けちであるよりも気前良くなければならない、恐れられるよりも愛されねばならない、残酷であるよりも慈悲深くなければならない、信義に反してはならない。要するに、君主は徳を具えていなければならない。伝統的な議論は、原則として君主に善行を勧めるものだと言える。

これに対しマキャベリは、伝統的な「君主の鑑」論の形式を強く意識して『君主論』を執筆したが、内容は伝統的な主張を覆した。たとえば、君主は、信義、つまり約束を破っても構わない。君主は、ライオンと狐という野獣の性質を具えねばならず、ライオンのように力を持つとともに、狐のように策略を用いなければならない。また、君主は、良い性質を持っている必要はないが、それらを持っているように見せかけることが肝要だという。いわば「偽善の勧め」である。

さらにマキャベリは「現代の経験の教えるところでは、信義などほとんど気にかけず、奸策をめぐらして、人々の頭を混乱させた君主のほうが、むしろ大きな事業(戦争)をやりとげている。しかも、けっきょくは彼らのほうが、信義に基づく君主を圧倒していることが分かる」と強調する。そして「約束の不履行について、もっともらしく言いつくろう口実など、その気になれば君主はいつでも探せる」(池田廉訳)とまで言い切る。

伝統的な倫理にとらわれないマキャベリの冷徹な主張に、ある種の爽快さを感じるのは事実だ。『君主論』が今なお多くの読者を惹きつける理由の一つもそこにある。しかし、あくまでも権力者・支配層のために書かれた著作であることを忘れてはならない。

マキャベリの目には、一般市民は権力者に支配される対象でしかない。だから市民が権力の掌握を妨げる場合には、驚くほど残酷な提言を平然と行う。『君主論』に次ぐ有名な著作『ディスコルシ』では、「人びとが個人として、あるいは都市全体が一丸となって国家に対して反逆的な挙に出る場合、君主は他の者への見せしめのために、あるいは自分自身の安全のためには、これらの連中を抹殺するより他に方法がない」(永井三明訳)と述べている。

権力者の都合で市民を抹殺するのは、どう考えても間違っている。その歯止めには、やはり最低限の倫理が必要だろう。たとえば、「汝殺すなかれ」というキリスト教倫理である。その戒めを捨て去ったマキャベリが悪魔と呼ばれたのは、あながち的外れではない。

米思想史家マレー・ロスバード氏はマキャベリについて「絶対国家の無制限な権力を擁護する哲学者として、まさに卓越した存在だった」と評する。ユニークな思想家であることは確かだが、その魅力は同時に毒でもある。著作は距離を置いて楽しむのが賢明と言えそうだ。

2026-01-19

グロティウス、国際法の父

長年にわたり、君主や国家は宗教拡張、領土獲得、資産略奪などを目的として戦争を行ってきた。たとえば16世紀イタリアの政治思想家マキャベリは、戦争を「完全に正当な国家政策」とみなした。しかし、フーゴー・グロティウスはこれに異を唱え、戦争を避けられない場合でもその破壊と殺傷を制限すべきだと強く主張した。「他人を無意味に傷つけることは愚かであり、愚かさを超えた行為である」とし、「戦争は最も重大な事柄である。無辜の人々にも多くの災厄をもたらすからだ」と述べている。


グロティウスは17世紀オランダの法学者・哲学者で、近代国際法の父とされる。また、平和と理性を法の中心に据え、戦争に対して強く反対した思想家でもあった。戦争が避けられない状況においても、自然法と理性に基づき、戦争の破壊性を抑える必要性を唱えた。

自然法とは、人間が制定する実定法に対して、自然のうちに存在する法である。実定法が特定の時代や社会でしか通用しない相対的なものであるのに対して、自然法はあらゆる時代や地域で通用する絶対的なものである。自然法思想は、古代のストア派や中世のスコラ哲学のうちにみられるが、近代では、自然法は、神の永遠の法に基づくものではなく、人間の自然な本性である理性が見出すものとされた。そのように説いた代表的な論者がグロティウスであり、そのため近代自然法の父とも呼ばれる。

グロティウスの主著『戦争と平和の法』(1625年刊)は、戦争の正当性と進行に対する自然法に基づく法的枠組みを構築し、近代国際法の礎となった。この著作は、格調高いルイ13世への献辞に始まり、プロレゴメナ(序論)の後、全3巻からなる本文という構成になっている。

その第1巻は、法の起源についての序論を述べた後、正当戦争なるものが存在するかという一般的問題を論述する。第2巻では、戦争の生じうるあらゆる事由(自衛、被害回復、処罰)を説明し、第3巻では、戦争中の行動規範(非戦闘員保護、比例原則など)を定め、正義の有無にかかわらず戦争に法的制約を課すべきだと説いた。

さらに、グロティウスの自然法の枠組みは、理性や慣習だけでなく、神学的・実用的要素も含んでおり、宗教や文化の違いを超えて国際社会に受け入れられる普遍性を持たせていた。

この著作の中の有名な言葉に、「我々が今述べていることは、神は存在しないとか、神は人事を顧慮しないといった、最大の冒瀆を犯さずには認め得ないことをあえて容認したとしても、ある程度まで妥当するであろう」(柳原正治『グロティウス』より引用)という序論の一節がある。これは、自然法の原則が神への依存を超えて、理性のみから導かれ得るという考えを示した点で、画期的だった。グロティウスは自然法を神の創造した秩序の一部と考え、十戒など聖書の道徳はこの自然法の理解に役立つとみなした。自然法と啓示は矛盾せず、宗教的伝統と理性に基づく法は両立できるという立場を取った。

グロティウスの自然法思想は、ドイツのプーフェンドルフ、イギリスのジョン・ロックら17~18世紀の哲学的・政治的議論に大きな影響を与え、イギリスの名誉革命やアメリカ独立戦争の思想的背景にもなった。のちには、ジュネーブ協定、国連憲章など現代国際法の精神的土壌となった。

グロティウスの62年間の生涯は、オランダでいう八十年戦争(1568〜1648年)の期間にすっぽり包まれている。この戦争はネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)がスペインに対して起こした独立戦争で、スペインの支配からの解放と、北部7州によるオランダの建国、ウェストファリア条約での国際的な独立承認につながった。

オランダは独立戦争の休戦が成立した17世紀前半、経済が繁栄する黄金時代を迎えた。独立戦争中、スペイン軍に封鎖された南部のアントウェルペンの市場は壊滅し、代わって、独立した北部のアムステルダムに南部から多数の商工業者が亡命した結果、経済活動が劇的に活発化した。造船の技術に長けたオランダ人は、バルト海貿易でも優位だったほか、アジアにも早くから進出した。1602年にはそれまでの多くの会社を統合してオランダ東インド会社をつくり、ジャワのバタビアに拠点を置いた。当時有力な金・銀の産地だった日本で、イギリスが撤退し、スペイン、ポルトガルがキリスト教布教の問題で排除されると、日本との貿易を独占したのは周知の通りだ。

米シンクタンク、ミーゼス研究所で公開する論文によれば、グロティウスの思想は商業活動の自由化、金融制度の安定化、国際平和の確立に寄与し、結果として資本蓄積と産業高度化を促した。グロティウスは単なる法理論家にとどまらず、その自然法思想や自由貿易の擁護、平和構想によって、オランダ黄金時代の経済的繁栄を直接・間接に支えた。米思想家マレー・ロスバードは「グロティウスの影響で、財産権の考えが経済領域にまで拡大されるようになった」と指摘する。

グロティウスは波乱の人生を送った。1583年、オランダ・デルフトの名門に生まれた。若い頃から神童として知られ、11歳でライデン大学に入り14歳で卒業。1598年15歳でオランダ使節団の随員としてフランスのアンリ4世の宮廷を訪問し、王から「オランダの奇跡」とその才を嘆賞された。同年12月、16歳で弁護士を開業。オランダ東インド会社がポルトガル船を捕獲するという事件が起こり、会社の委嘱によりオランダ側の立場を擁護する著作を執筆した。これが国際法に興味をもった機縁といわれる。

1607年以後、政治・外交の実際に参画するが、やがて神学論争をめぐる政治闘争に巻き込まれる。宗教的寛容を説き、両派の和解に努めたが、その努力は成功しなかった。18年に逮捕され、翌年国家転覆の陰謀を理由に終身禁固・財産没収の刑を宣告され、古城に幽閉された。3年後、妻や使用人の助けにより、書物を運ぶ箱に身をひそめて劇的な脱走に成功する。フランスに亡命してフランス王の保護を受け約10年間フランスに滞在し、その間に『戦争と平和の法』を完成させた。

1631年から数年間オランダ、ドイツを流浪したが、スウェーデン女王により駐仏大使に任用され、再びパリに帰った。44年大使解任、翌年スウェーデンにいったん帰国したが、その年の8月、ドイツのリューベックに向かって旅立ち、途中暴風のため遭難。かろうじて避難上陸し、馬車でリューベックに向かう途中、ロストックで8月28日夜半、疲労のために息を引き取った。

現代の国際紛争では、無辜の人々を傷つけてはいけないというグロティウスの訴えに反する行為が目立つ。その思想をあらためて噛み締めるべきだろう。

<参考資料>
  • 『グロティウス』柳原正治(清水書院) [LINK]
  • Natural Law and Peace: A Biography of Hugo Grotius | Libertarianism.org [LINK]
  • An Austrian Perspective on the History of Economic Thought | Mises Institute [LINK]
  • Hugo Grotius and the Dutch Golden Age | Published in Journal of Libertarian Studies [LINK]

2026-01-12

ラブレーと自由の精神

ルネサンス時代の欧州では、人間を尊重し、人間の尊厳や価値を重視する人文主義(ヒューマニズム)の思想が盛んになった。この思想に基づき、フランス・ルネサンス文学最大の傑作といわれる物語『ガルガンチュワとパンタグリュエル』を著したのが、作家で人文主義者(ヒューマニスト)のフランソワ・ラブレーだ。


ルネサンス時代に生まれたラブレーは、宗教改革の混乱の中で成長し、キリスト教のカトリック(旧教)、プロテスタント(新教)それぞれの不寛容に抵抗した。最も尊敬する人物は、人文主義者の王者と呼ばれる、オランダのエラスムスだった。

ラブレーは1495年ごろ、中部フランス、ロワール川流域の町シノン近郊の村で、地主の三男として生まれたとされる。青年時代を、旧教のいろいろな宗派の修道院で過ごしたが、いわゆる在家僧になる許可を得て、フランス各地の大学で古典学、法律、医学を勉強したと伝えられる。とくに医学では優秀な才能を示した。

当時、ドイツのグーテンベルクが15世紀半ばに改良・実用化した活版印刷術が、製紙法の普及とあいまって情報伝達に一大変化をもたらしていた。手で写してきた中世の写本や木版に代わって、新しい思想や聖書の普及に大きな役割を果たした。ラブレーはこれらの出版物からむさぼり食うように知識を吸収したと思われる。生活のために、当時盛んになり始めていた古典文芸の翻刻に携わったが、そのかたわら、フランス王側近らの庇護を受け、侍医として仕えた。

ラブレーは1532〜52年にかけて『ガルガンチュワとパンタグリュエル』を執筆する。巨人の父子ガルガンチュワとパンタグリュエルを中心とした奇想天外な物語のなかに、社会や教会批判を盛り込んだ。このうち筋の上で2巻目にあたる『第二之書パンタグリュエル』が1532年にまず出版された。筋の上で1巻目にあたる『第一之書ガルガンチュワ』は1534年、『第二之書』の後で公にされ、順番が入れ替わっている。全5巻のうち5巻目は死後出版されたが、偽作ともいわれる。

当時、規制の制度、とりわけ宗教に挑戦することは、勇気を必要とした。たとえば、ラブレーの友人だったフランスの出版業者でヒューマニスト、エティエンヌ・ドレは絞首ののち火あぶりにされたし、同じくフランスのヒューマニストで、エラスムスや宗教改革者ルターの著書を翻訳したルイ・ド・ベルカンもパリの広場で火刑に処せられた。16世紀前半、これらの有名な人物たちとともに、多くの人々が旧教会側からの迫害によって命を落としていた。

それもあって、ラブレーの作品は、真正面からの教会批判でなく、遠まわしに批評する風刺の手法で貫かれることになった。博識に基づく主張をそのまま伝えるのではなく、地口・しゃれ・語呂合わせなどを駆使し、ときには性器や糞尿に関する露骨な描写や語彙を交えて、多くの人が楽しめるよう工夫している。

それでも、少なくとも生前に出版された4巻目まで、各巻が発表されるたびに、フランスの思想検察機関ともいえるパリ大学神学部(ソルボンヌ神学部)から告発され、何巻かは禁書にされている。ラブレーが滑稽な物語に託した鋭い批判を、見抜いたいたからにほかならないだろう。

ラブレーは修道院生活の経験に基づき、その欠点や短所を詳しく見聞していた。たとえば『第二之書』では、修道士のことを「これなる族(やから)は、ただひたすら瞑想に耽り礼拝にいそしみ断食を行なって五欲煩悩の身を責めさいなむこと以外にはなすべきことはないとか、哀れにも脆き人間の心を真に孚(はぐく)み養うこと以外になすべき勤めはないのだとか、巧言たらたら世の善男善女に言い聞かせ、しかも事実はその逆で、飲んだり食ったりして言語道断の大騒ぎ」(渡辺一夫訳、以下同)とこきおろしている。

また『第一之書』では、怠惰な修道士は「百姓のように汗水流すこともせず、武士のように国土を衛らず、医師のように病人を医(いや)しもせず、優れた福音伝道師や教育者のように世人に説教したりこれを教化したりすることもいたさず、商売(あきうど)のように国家社会に必要なる利便物資を運ぶこともいたさぬ。さればこそ万人より罵られ忌み嫌われるのだ」と罵倒している。

ラブレーは尊敬したエラスムスと同じく、戦争を嫌った。『第一之書』では、羊飼いと煎餅売りのささいな喧嘩をきっかけに、ガルガンチュワと暴君ピクロコルとの間に戦争が起こるというエピソードが描かれる。ガルガンチュワは武勇に優れた修道士ジャンの活躍で勝利を収め、ほうびとしてジャンの望む修道院の建立を許可する。

この「テレームの僧院」は、自由主義者ラブレーの夢を形にしたユートピアといわれる。それまでの修道院の常識を破り、美男美女が豪華な衣服を着て、自由で楽しく、しかも責任ある生活を送るのだった。そこでの規則は、ただ、「欲するところをなせ」という1項目だけだった。

なぜそれだけの規則で、楽しく、しかも責任ある生活を送れるのだろうか。これについてラブレーは「正しい血統に生れ、十分な教養を身につけ、心様(こころざま)優れた人々とともに睦み合う自由な人間は、生れながらにして或る本能と衝動とを具えて居り、これに駆られればこそ、常に徳行を樹(た)て、悪より身を退(ひ)く」からだと述べている。

フランス文学者の渡辺一夫氏は、『第一之書』の訳注で、ここで述べられた楽天主義や自由主義は「ラブレーの理想的人間像の一面に触れているに違いない」と述べている。また訳者解説で、「欲することをなせ」という原理を実行する人々は「教養も人格も十分に備わった男女であるべきだという条件がつく」と指摘し、ラブレーの考えは「極めて理想主義的な性善説に立脚した貴族的な自然主義的主張」だとも説明する。

ラブレーの晩年の消息は詳しくわかっていないが、ちょうどエラスムスがそうであったように、旧教側からも新教側からも白い目で見られるような憂き目に遭っていたようだ。それでもその作品は今も熱い自由の精神で読者の心を打ち、権力の横暴を糾弾する。歴史家のジム・パウエル氏は「ラブレーがすたれないのは、人生への大いなる喜びゆえだ」と述べている。

2025-12-29

エラスムス、平和の訴え

14世紀から16世紀にかけての西ヨーロッパでは新しい文化創造の動き、ルネサンスが展開した。その基調は、人間の理性や感情を重視するヒューマニズム(人文主義)つまり人間中心主義といわれ、この立場に立つ知識人をヒューマニスト(人文主義者)と呼んだ。なかでも「人文主義者の王者」と称えられるのが、デジデリウス・エラスムスである。



エラスムスは1469年頃、オランダのロッテルダムに生まれた。若くして修道院に入ったが、のちパリ大学に学び、多くの古典時代の著作を校訂刊行したほか、史上初めてギリシア語原典による新約聖書を刊行して、宗教改革の道を開いた。教会と聖職者の腐敗・堕落に鋭い批判を浴びせたが、その一方で注目すべきは、一貫して戦争を批判し、平和を説いたことだ。

当時はペストの流行に加え、戦乱が多くの死者をもたらし、社会は危機的な様相を呈していた。こうした時代を背景に、エラスムスの平和思想はその著作全体に貫かれている。

その名を広めた『格言集』の増補新版では、「戦争は体験しない者にこそ快し」という格言を題材として、「戦争以上に残忍で、人に惨禍をもたらし、世にいぎたなくもはびこり、剣呑至極、極悪非道の営みは、つまりキリスト教徒はもとより、誰であれ人間には似つかわしくない行いは、ほかに何ひとつとして存在しない」(二宮敬訳)と激しく戦争を非難する。

この文章からうかがえるように、エラスムスは人間中心主義のヒューマニストだからといって、キリスト教を否定しているわけではない。むしろキリスト教の道徳を踏まえ、それに反する行為として戦争を批判するとともに、戦争を肯定する聖職者を糾弾しているのである。口に神の愛を唱えるキリスト教徒が、神の御名のもとに血を流すのを容認していることが、よほど腹に据えかねたようだ。

代表作とされる『痴愚神礼讃』でも、歯に衣着せぬ戦争批判が展開される。この時代の歴代カトリック教皇たち(アレクサンデル6世、ユリウス2世、レオ10世、クレメンス7世、パウルス3世)は、俗人君主と変わらず、聖務を放棄して教皇軍を動かし、教皇領の拡大を狙ったり、イタリアの覇権をめぐる諸国の戦争に加担したりして、戦争に明け暮れていた。

それを念頭にエラスムスは、「痴愚女神」に語らせるという形式で、新約聖書の「マタイによる福音書」には「わたしたちは何もかも捨ててあなた(イエス)に従って参りました」とあるにもかかわらず、教皇たちは土地、町、租税、賦課金、王国などを護るために「剣と火をもって戦い、多くのキリスト教徒の血を流させて」(沓掛良彦訳)いると批判する。さらに戦争とは「キリストの教えとはなんのかかわりもないことでありますのに、教皇方は、なにもかも放擲してひたすら戦争に邁進している始末です」とあらためて教皇たちを非難する。当時最強の有力者といえるカトリック教皇に対し、厳しい批判を展開したエラスムスの大胆さは目を見張らせる。

しかし何といっても、戦争と平和に関するエラスムスの考えを余す所なく展開した著作は、『平和の訴え』である。エラスムスはここでも「平和の神」の口を借りて、キリストの生涯や言葉が教えているのは「人間相互の平和と愛」以外にないと主張する。それにもかかわらず、最近だけでも「いったい、どの川が、どの海原が、人間の血で染められなかったといえるでしょう?」と問いかける。そのうえで、「キリスト教を奉じる君主たちが、どんな恥ずべき理由、どんな馬鹿げた理由によって、この世界を合戦に駆り立てているかを思うと、恥ずかしくて顔を赤らめずにはいられません」(箕輪三郎訳)と糾弾する。

エラスムスは戦争が起こる原因を分析し、①王位継承の争い②君主同士の私的な闘争③盲目的な愛国感情④暴君が自己の権力を保ち続けるため——と列挙する。さらに、戦争によってのみ繁栄する人々があることを指摘し、また神の名において戦争を企てる者があるとも指摘する。西洋美術史が専門で西洋の文学・精神史についての造詣も深い高階秀爾氏は「このエラスムスの分析は、多くの点で、今日にも十分通用するものがあると言えるだろう」とコメントしている。

著作の締めくくりで、「平和の神」は「私は訴えます」という言葉を繰り返して、君主、司祭、神学者、その他あらゆる人々に対し、戦争に反対し、平和をもたらすよう訴える。これはエラスムス自身の、切なる「平和の訴え」だといえる。

エラスムスは聖書研究やカトリック批判によって、マルティン・ルターによる宗教改革の開始に影響を与えた。「エラスムスの生んだ卵をルターがかえした」といわれる。しかし教皇による免罪符の販売を念頭に、善行による救いを完全に否定するルターに対し、エラスムスはその可能性はあると主張し、たもとを分つことになる。

1524年、西南ドイツの農民が、ルターの教えに触発されて大規模な反乱を起こした。ドイツ農民戦争と呼ばれる。最初ルターは農民に同情を示したが、反乱が激化すると態度を硬化させ、諸侯に鎮圧を求めた。およそ10万人の農民が処刑された。エラスムスは、「諸侯は残酷以外に救済策を知らない 」と抗議した。

戦争に対して寛容を説いたエラスムスの主張は、空しいものだったかもしれない。しかし、暴力に暴力で応じても解決策にはならないのは、今も昔も変わらない真実である。平和を取り戻すには結局のところ、エラスムスが信じたように、寛容によるしかない。

オランダの歴史家ホイジンガは、エラスムスを近代精神の先駆者と評し、「道徳的教育と一般的寛容が人間を更に幸福になしうるという理想を信ずる限り、人間がエラスムスに負うところは多いのである」(宮﨑信彦訳)と述べている。

エラスムスは党派の争いから距離を置いたために、カトリックからもルター派(プロテスタント)からも非難され、孤独を味わった。病にも苦しんだ。しかし一方で、自分が著作を通じて世界に及ぼした影響に満足を感じてもいた。晩年、「世界のあらゆるところから、毎日多くの人がわたくしに感謝を送ってくる」と書き残している。1536年、スイスのバーゼルで世を去ったエラスムスの最後の言葉は、「愛する神よ」というオランダ語の一句だったという。

<参考資料>

2025-12-22

キケロ、西洋文明の礎築く

古代ローマでは元老院や民会・法廷での弁論の必要から、ギリシャと同様、弁論術が発達した。独裁政権を樹立したカエサルの政敵で、共和政を擁護した文人政治家キケロ(紀元前106〜前43年)はローマ最大の雄弁家として知られる。カエサル死後はオクタウィアヌス(帝政ローマ初代皇帝アウグストゥス)を支持したが、失脚し、暗殺に斃れた。


地方の騎士の家柄に生まれ、ローマで学び、弁護士として頭角を現す。さらにアテネ、小アジア、ロードス島に遊学してストア派の哲学者ポセイドニオスらに師事し、弁論術、哲学を修め、ギリシャ語文献をラテン語に訳すなど修養を積んだ。ポセイドニオスの師パナイティオスからも影響を受けている。

経済学者で歴史家のマレー・ロスバードによれば、キケロはストア派の思想をギリシャからローマに伝えた偉大な伝達者である。キケロの明晰なラテン語を通じ、ストア派の自然法思想は2〜3世紀のローマの法学者たちに大きな影響を与え、その結果、ローマ法の大枠が形成され、西洋文明に広く浸透した。

キケロが伝えた思想のうち、とくに重要なのは、この自然法思想である。自然法とは、社会の秩序を維持し、人間の行動を規制する普遍的な法則を指す。時代や場所に関わらず、人間の理性に基づいて存在する不変の法とされる。その思想は対話篇「国家について」(岡道雄訳)の中で、ある執政官の言葉を借りて述べられている。

執政官は「真の法律とは正しい理性であり、自然と一致し、すべての人にあまねく及び、永久不変である」と宣言する。この法律を廃止することは正当ではなく、その一部を撤廃することは許されず、またそのすべてを撤回することはできない。また、この法は時代や場所に関わらず不変であり、「法律はローマとアテーナイにおいて互いに異なることも、現在と未来において互いに異なることもなく、唯一の永久不変の法律がすべての民族をすべての時代において拘束するだろう」と執政官は述べる。

さらに執政官は、この不変の法を定めた神に言及し、「万人がともに戴くただ一人の、いわば支配者であり指揮官である神が存在するであろう。すなわち彼が、この法の創始者、審理者、提案者である」と語る。そして「この神に従わない者はみずから自己から逃れ、人間の本性を拒否することにより、まさにそれゆえに、たとえ一般に刑罰とみなされているほかのものから逃れたとしても、最大の罰を受けることになろう」と厳しく警告する。

キケロは対話篇「法律について」(同)では、自身の発言として「最高の法(自然法)」と成文法を区別しなければならないと説き、自然法は「いかなる成文法よりも——およそ国家というものが成立するよりもはるか前の時代に生まれたものだ」と強調する。そのうえで、国を治めるには、すべてを成文法によって規定すべきではなく、法の根源を自然に求めなければならないと説く。もしもキケロが今の日本によみがえり、毎年多数の成文法を定めては人々の行動をこと細かく規制する様子を目にしたなら、呆然とするのではないだろうか。

キケロはギリシャ人から多くの思想を借用したが、独自の重要な思想もいくつか提唱した。ギリシャの哲学者たちは、社会と政府はほぼ同一のもので、ポリス(都市国家)において統合されると考えていた。これに対しキケロは、政府は管財人のようなものであり、社会に仕える道徳的義務を負うと宣言した。つまり社会は政府よりも大きく、独立した存在なのだ。

それを踏まえて、キケロは、政府が正当化されるのは私有財産を保護する役割のためだと主張した。著作「義務について」(泉井久之助)では、「国政にあたるひとが何よりも心しなくてはならないのは、市民がおのおの自分のものの所有権を確保し、私人の財産が公的な手段によって侵害されないようにすることだ」と述べている。

他方、政府が「一方から財産を取り上げて他方に与えるような非道」を厳しく批判する。たとえば、農地に関係する法案を用意して現在の所有者をその座から駆逐しようとしたり、貸金を借りた人間への贈与にさせようとしたりする者たちは「国家の基礎をあやうくする」という。これもキケロがよみがえり、政府が膨大な規制で財産権の行使を妨げている有り様を知ったなら、愕然とすることだろう。

政府が人々の財産を守るどころか理不尽に奪う行為は、政府の定めた法律では合法でも、最高の法である自然法には反する。そのことを言い表す有名なたとえに、キケロは「国家について」で触れている。アレクサンドロス大王が海賊をとらえ、いかなる邪悪さに駆られて海を脅かしているのかと尋ねたところ、海賊は少しもひるまず、「あなたが全世界を脅かしているのと同じ邪悪さによって」と答えたという。乱暴な権力者に対する鋭い批判だ。

キケロはローマの終わりのない戦争政策を、次のように非難した。「言いにくいことだが、我々ローマ人は、将軍や官吏が放縦な行いをしたために、外国で嫌われている。敵国に対して軍隊を派遣するのは、同盟国を守るためなのか、それともむしろ略奪の口実にするためなのか。我々が征服した国でいまだに豊かな国や、我々の将軍が征服しなかった豊かな国をひとつでも知っているか」。ローマと同じように国外で戦争を繰り広げ、横暴に振る舞う、現代の「帝国」の指導者は耳が痛いことだろう。

キケロの思想は、エラスムス、グロティウス、ジョン・ロック、モンテスキュー、ジェファーソンといった個人主義・自由主義の思想家たちに受け継がれていった。だが19世紀後半に帝政ドイツが大国として台頭すると、時代遅れとみなされるようになる。例えば、ノーベル賞を受賞したドイツの歴史家モムゼンはカエサルの熱烈な崇拝者であり、キケロの共和主義を嘲笑した。今なお、権力者の横暴を糾弾したキケロよりも、征服者カエサルにあこがれる人が多いようだ。

それでも、キケロは西洋文明の礎を築いた重要な人物である。歴史家ジム・パウエル氏は「キケロは人々にともに理性を働かせるよう促した。良識と平和を唱えた。近代世界に自由の最も基本的な考え方をもたらした。自由に発言することが死を意味した時代、専制政治を糾弾した。2000年以上もの間、自由の松明を輝かせ続けた」と称えている。

<参考資料>

2025-12-15

ソフィストの復権

ギリシャでは紀元前5世紀、ペルシャ戦争に勝利を収めると、アテネがほかのポリス(都市国家)を率いる強国へと発展した。このアテネの発展を支えた政治体制が、民主制である。民主制のもとでポリスの市民は、家柄や財産にかかわらず、能力さえあれば誰でも国政に参加して有力者となることができた。その能力とは、多くの人を説得できる弁論術であった。


このようななかで、ソフィストと呼ばれる職業的な教師たちが出現してきた。ソフィストは、報酬を得る見返りに「徳」を教えることを約束した。「徳」とは、ソフィストの場合、国家の中心人物となるための弁論と説得の能力のことだった。

現代では、ソフィストは「詭弁家」という、良くない意味の言葉として使われている。これは古代ギリシャのソフィストが、雄弁術にたけ、詭弁を弄することが多かったからだといわれる。しかし近年、ソフィストをそのように一方的におとしめる見方に対しては、異論が唱えられている。

哲学者ソクラテスやその弟子プラトンがアテネにとどまり、祖国に貢献することを信条としたのに対し、ソフィストは活躍の場を求め、また戦火を逃れて、ギリシャ中を旅して回る諸国遍歴の思想家だった。ポリスからポリスへと教えて回るうちに、相対主義(後述)の鋭敏な感覚を養い、歴史上初めて、批判的思考を我が物とすることができたとされる。その国際的な立場のおかげで、「ポリスの狭苦しい枠を脱することができた」と、フランスの古代哲学研究者ジルベール・ロメイエ=デルベ氏は指摘する(『ソフィスト列伝』)。

自由でコスモポリタン的なソフィストの生き方は、国家への奉仕を唱える哲学者からは、根無草として批判された。プラトンの対話篇『プロタゴラス』に登場するソクラテスは、ソフィストを「諸国を行き来しながらいろいろな知識を売り歩く商人たち」にたとえる。そして商人は自分の売り歩く食品のうち、どれが体によくてどれが悪いか知りもせずに、すべての商品をほめるとおとしめ、ソフィストもそれと同じだと非難する。

哲学者プラトンやその弟子アリストテレスが残した立派な著作集や哲学体系に比べると、ソフィストの残された著作はきわめて少ししかない。これはソフィストが「語ること」を売り物にする専門家だったこともあるだろう。しかしそれ以上に、「批判による抑圧」が加えられたことも想像できると西洋古典学者の納富信留氏は述べる(『ソフィストとは誰か?』)。

ソフィストの教えは、国家を尊重する哲学者からみれば、危険で受け入れがたい部分があった。それは裏を返せば、人々の間に、国家という枠組みにとらわれない自由で合理的な考え方を育てるうえで、大きな役割を果たしたといえる。代表的なソフィスト数人について、その具体的な主張をみてみよう。

プロタゴラスは「神々について」という書物を著し、その冒頭で次のように述べた。「神々について私は、あるとも、ないとも、姿形がどのようであるかも、知ることができない。これらの各々を私が知るには障害が多いから。その不明瞭さや、人間の生が短いこと」

この記述のためにプロタゴラスは、「不敬神」の罪で訴えられ、アテネから追放され、その本は回収され、広場で焼却されたという。

神々の存在が肯定されない以上、精神の拠り所として残るのは人間だけだろう。プロタゴラスの思想は必然的に、徹底的な人間中心主義へと進む。「人間は万物の尺度である」と主張し、ものごとの善悪や真偽を決めるのは個々の人間の考え方や感じ方であるという相対主義の立場を鮮明にした。

トラシュマコスは、プラトンの著作『国家』第1巻で法をめぐり、ソクラテスと対決する場面で有名である。トラシュマコスはここで、法は権力の道具だと主張する。

トラシュマコスは続ける。どの国でも、支配階級は自分の利益に合わせて法律を制定する。そのうえで、自分たちの利益になることが正しいのだと被支配者に対して宣言する。そして、もし誰かがこの法律に違反した場合には、法律違反者、不正な犯罪人として処罰するのだ、と。

プラトンが法と道徳を同一視したのに対し、トラシュマコスは法と道徳を相反するものとみた。この鋭い洞察は、以下にみるように、他のソフィストにも共有されている。

ヒッピアスはプラトンの『プロタゴラス』に登場し、人間同士のように「何かと何かが互いに類似しているとき、両者は自然本来の姿においては同族であるといえる」と語った。その一方、「これに対して、法律は人々を支配する暴君であり、自然本来の姿に反するたくさんのことを強要するのだ」と強調した。

アンティフォンは、断片しか残存していない論文で「法によって正しいとされる命令内容の大部分は、自然に対して戦いを挑むために設けられたものである」と主張する。

けれども、法が抑圧を目指して行う戦いは、初めから負けと決まっている戦いである。現代でいえば、政府がさまざまな経済・社会上の規制を強化しても、問題は解決しないどころか、かえって悪化することを思い出せばいいだろう。

そういうわけでアンティフォンは、法が強いる苦痛は自然に反するものとして、道徳の新たな基準を提唱する。すなわち、有用性、生、自由、喜びである。今の言葉でいえば、功利主義ということになるだろう。

アンティフォンはまた、人々の欲求が共通であるがゆえに人間は普遍的なものなのだ、という基礎づけを行うことができた。この観点からみれば、人々は生まれながらにして平等である。貴族と庶民を区別する必要はないし、ギリシャ人から異邦人を差別する必要もない。アンティフォンは自由人と奴隷の区分に抗議した可能性もあるとみられている。

ギリシャに始まった西洋の「哲学」には近年、さまざまな形で根本的な反省が加えられている。普遍的で絶対的真理の追求と信じられていた「哲学」の営みとは、実は人間理性への誤った信仰であり、科学技術の悪用や全体主義の暴力など、人類を不幸へと導く元凶となってしまったのではないか――。

前出の納富氏はそう指摘したうえで、「「哲学とは何か」を問い直すべき現在、その始まりに批判的に関わったソフィストの意義を見きわめることが、私たちに課されている」と述べる。ソフィストの復権が待たれる。

2025-12-08

デモクリトスの合理思想

ギリシャでは紀元前8世紀に各地にポリス(都市国家)が成立した。ポリスは小規模な共同体であり、市民たちは自らポリスの独立・自治に関与するとともに、自由を重んじた。また、ギリシャ人は地中海沿岸の各地にポリスを建設し、交易を活発に行い、東方のオリエント文化とも接した。

自由な精神や異文化との接触は、やがてそれまでの神話に基づく素朴な世界観や人生観と異なる考え方を芽生えさせることになった。哲学の誕生である。


紀元前6世紀の初頭に、当時の先進的な地域であった小アジア・イオニア地方に新たな考え方をする人々が現れた。初期の哲学者たちである。彼らはとくに自然(ピュシス)を考察した。そのためその哲学は自然哲学と呼ばれる。彼らは神話的世界観を排して、自然の世界は神々の気ままな働きに左右されるものではなく、それ自体で確固とした秩序を備えた存在であると考えた。

そして、その秩序は人間の観察と思考によってとらえられ、さらに、秩序の根拠も人間のロゴス(理性)の働きによって自然そのもののうちに把握されると考えた。世界は人間の理性によって認識されうるとする合理的世界観は、人間を理性的存在とみて、理性を中心にして生きていこうとする理性的人間観と深く関係する。

自然哲学の祖で、哲学の創始者とされるのがタレスである。天文学や数学など多方面で才能を発揮したタレスは、その自然観察をもとに、「万物の根源は水である」と主張した。これを始まりとして、世界の全体について統一的な説明を求める人々が多く現れるようになった。

たとえば、ヘラクレイトスは、万物の原理を火とし、世界の秩序を動的にとらえた。パルメニデスは、「あるもの」はつねに「ある」のだと主張し、「あるもの」がなくなったり、なかったものが「ある」ことになったりする変化や生成消滅を否定するに至った。これに対して、エンペドクレスは、世界全体が4つの元素(火・土、水、空気)から構成され、この4つの元素の混合と分離によって生成や変化が起こると主張した。

これら初期ギリシャ哲学者のうち、経済思想の面から、良い意味と悪い意味で、それぞれとくに興味深い2人にスポットを当てよう。最初はピタゴラスである。

ピタゴラスは前570年頃、小アジア沿岸の島サモスに生まれた。前530年頃、ポリュクラテスの僭主政を避けて、イタリア南部のクロトンに落ち着き、学問性と宗教性をあわせもった一種の結社を設立し、政治的にも大きな影響力をもった。その地に20年ほどとどまったが、政治的動乱のため同じ南イタリアのメタポンティオンに逃れ、その地で没した。


ピタゴラスは、宇宙の調和と秩序の根源を数であると考えた。たとえば、テトラクテュスはピタゴラスの考えを象徴する図で、ピタゴラス派のシンボルマークだった。1つ、2つ、3つ、4つの点を三角形に並べた図で、4つの数の和は10となり、大宇宙と小宇宙に共通する世界秩序(コスモス)を表す。ピタゴラス教団では、この図形の前で誓いを立てたと伝えられている。ピタゴラスによれば、世界が数であるだけでなく、それぞれの数が道徳的な特質やその他の観念を体現している。たとえば、正義は4であるという。

ピタゴラスがギリシャにおける数学の発展に貢献したことは確かだが、数字そのものに神秘的な意味を持たせるその数秘学には、ついていけないのが正直なところだろう。自由意志をもった人間の行動が織りなす経済現象を、まるで自然現象のように数字だけで分析しようとする、現代の数理経済学や計量経済学の過ちは、ピタゴラスに発するとの見方もある。経済学者マレー・ロスバードがいうように、ピタゴラスは、哲学と経済思想の発展に不毛な行き詰まりをもたらした。

一方、初期ギリシャ哲学者のもう1人の興味深い人物は、哲学と経済思想に前進をもたらした。デモクリトスである。

デモクリトスはギリシャ北方、トラキア地方アブデラの出身。生年は前470年頃で、有名な哲学者ソクラテスとは同時代だが、交流はなかった。レウキッポスという人から原子論を学んだというが、はっきりしたことはわからない。古代における優れた文章家の一人とされ、残された断片から「簡潔で引き締まった、しかも気品のある文体をかいま見ることができる」(廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』)といわれる。

デモクリトスは、それ以上分割することができない原子と空虚から宇宙全体が構成されていると考え、あらゆる現象は、原子(アトム)の配列と運動によって説明できると説いた。この考えを原子論と呼ぶ。

前出のロスバードによれば、デモクリトスは、経済思想の発展に2つの重要な貢献をした。第1に、近代経済学でいう主観価値説を初めて唱えた。財(商品)の価値は人々が主観的に判断する効用によって決まるという洞察だ。デモクリトスによれば、「善と真は、万人にとって同じだが、快は人それぞれに異なっている」という。この「快」は現代経済学でいう効用にあたる。それぞれの人にどれだけの快、つまり効用を与えるかによって、財の価値は決まる。このことをデモクリトスは「快と不快こそ、有益なものと無益なものを分ける境界線である」と明言している。

2番目の貢献は、私有財産の尊重である。すべての財産を皇帝やその配下の官僚が所有・管理した東洋の専制政治と異なり、ギリシャの社会と経済は私有財産に基礎を置いていた。デモクリトスは、私有財産経済のアテネと集団主義経済のスパルタを比較し、前者のほうが優れていると結論づけた。財産が集団によって所有される場合と異なり、私有財産は勤勉に働くインセンティブ(誘因)を与えると正しく指摘した。

興味深いことに、デモクリトスの原子論は、個人の幸福は快楽を得ることによって実現するという快楽主義を説いたヘレニズム期の哲学者、エピクロスの思想に影響を及ぼした。エピクロスは、人間の生命も原子からなる以上、死を恐れたり不安に思ったりすることは無意味だと考えたのである。

誤解してはならないのは、デモクリトスの快もエピクロスの快楽も、一時的で感覚的な快さではなく、内面的なものであるということだ。デモクリトスが先達となった本来の経済学が前提とする人間は、金銭的利益だけを求める存在ではない。内面的な満足こそ真の快楽であることを知っている。その価値観は初期ギリシャ哲学の合理主義に支えられているのである。

<参考資料>
・廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫)
・It all began, as usual, with the Greeks | Mises Institute [LINK]

2025-12-01

仏教と政治権力

今回は仏教について、政治権力に対する考えを中心にみていこう。

紀元前5世紀ごろのインドでは、商工業の発達を背景に、都市を中心とした小国家が形成された。富を蓄積した王侯・商工業者の力が強まり、バラモン教にもとづく身分制度で最上級とされるバラモン(祭官)の権勢は衰えていった。こうした社会変動のなか、新たな教えを説く自由思想家たちが登場する。その1人が仏教の開祖ガウタマ・シッダールタであった。

ガウタマは、現在のネパール領でヒマラヤ山麓に近い釈迦族の部族国家に王子として生まれた。恵まれた生い立ちながら、生まれつき内省的で、早くから人生の問題に悩んだといわれる。結婚し一男を得るが、悩みの解決を求める気持ちは抑えがたく、出家する。

はじめ師について瞑想を学び、のち断食など様々な苦行に励んだが、悩みの解決には至らなかった。35歳のとき、苦行の虚しさを知って断食をやめ、とある大樹の下で端座し、瞑想に入った。ある朝、心に大きなひらめきが起こり、目の前に真理(ダルマ、法)があらわになったと感じて、悩みはついに消滅した。以後、「(真理に)目覚めた者」としてブッダ(仏陀)と呼ばれた。

このあと最初の説法(初転法輪)を行なってから80歳で亡くなるまで、ブッダは生涯をかけて自らが体得した真理を説き続け、やがて教団が形成された。生前のブッダの言葉をまとめたものが経典である。

ガウタマによれば、老い、病み、死を迎えることは端的な苦しみであり、それらが避けられない以上、生まれてきたこと自体が苦しみなのである。これが生・病・老・死の四苦である。さらに、愛別離苦(愛する者との別れ)、怨憎会苦(憎い者との出会い)、求不得苦(欲しいものが手に入らない)、五蘊盛苦(心身の活動それ自体)の四つの苦しみを加えて、八苦ともいう(四苦八苦)。

ガウタマは、ブッダとなった後、苦をめぐる思想と涅槃(安らぎの境地)に至る方法を簡潔にまとめた。それが四諦・八正道である。

四諦(四つの真理)とは、①苦諦(人生は苦)、②集諦(苦の原因は煩悩)、③滅諦(涅槃が理想の境地)、④道諦(涅槃に至る正しい修行法は八正道)の四つである。

八正道とは八つの修行法のことであり、正見(正しい見解)、正思(正しい心のもち方)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行為)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい気づき)、正定(正しい精神統一)から成る。

八正道のうち、世俗の政治権力との関わりでとくに注目されるのは、正業である。この言葉が指す正しい行為とは、具体的には、殺生や盗みをしないことである。これは、出家をしない在家の信者が守るべき戒律である五戒にも含まれている。すなわち、不殺生(殺生をしない)、不偸盗(盗みをしない)である。ちなみに、他の三つは不邪淫(婚姻外性交をしない)、不妄語(虚言をいわない)、不飲酒(酒を飲まない)である。

仏教の教えで特筆すべきは、身分社会だった当時、人間の貴賤は生まれによっては決まらないと説いたことだ。仏典には「四姓(祭官・武人・庶民・隷民)の中で祭官が最高であり、それ以外は卑しい」と主張する祭官をブッダが論破する物語が多数収録されている(馬場紀寿『初期仏教』)。

たとえば、祭官が最上だと説く祭官に対してブッダは、殺生や窃盗などの悪行を行う者はどの生まれにもおり、それら悪行を離れた者もまたどの生まれにもいることを説いた。また、王族であっても、祭官であっても、庶民であっても、隷民であっても、一部は殺生や盗みなどの悪行を行うし、一部は善行を行う。この世において最上の者は、祭官ではなく解脱した者だと説いた。仏教で解脱とは、欲望を抑制して煩悩の束縛から自己を解放し、心の平静な境地である涅槃を実現することである。


このような仏教の考えは、国王を泥棒と同一視するいう大胆な態度につながる。仏教学者の植木雅俊氏によれば、インド哲学の泰斗・中村元氏は常々、インド仏教では国王を泥棒と同列に見ていたという話をしていた。なぜ同列かというと、泥棒が非合法的に人の物を持って行ってしまう一方、国王は税金という形で合法的に人の物を持って行ってしまう。人の物を取り上げるという意味では共通している、とみるのである(『仏教、本当の教え』)。

このような仏教の考えは近年、西洋のリバタリアン(自由至上主義者)と呼ばれる論客から注目されている。リバタリアンは個人の生命・身体・財産の権利を重視し、正当防衛以外の理由でこれらの権利を侵害してはならないと説く。これだけなら、たいていの人はとくに異論を唱えないだろう。だがリバタリアンの特徴は、その原理原則を一般市民だけではなく、政府にも厳格に当てはめようとするところにある。

たとえば、課税は盗みだとみなす。リバタリアンの理論家マレー・ロスバード氏によれば、政府以外の個人・集団(犯罪者を除く)が相手との自発的な取引や贈与で所得を得るのに対し、政府は、もし収入を与えなければ恐ろしい罰を与えると脅すことによって、強制的に収入を得る。これはピストルを突きつけて金銭を要求する強盗に等しいという(『自由の倫理学』)。

現代リバタリアンのこのような見解は、政治権力者である国王を泥棒と同一視する、仏教の発想と実質同じといっていいだろう。

このような主張に対して反論はある。たとえば、ブッダは生前、様々な統治者と対話したが、その際、課税をやめろと言ったり、税は盗みだから仏教の倫理に抵触すると言ったりしたことはない。だから仏教を自由至上主義と同一視するのは誤りだという。

これに対し、米国のリバタリアン系シンクタンク、ケイトー研究所が運営するウェブサイト「リバタリアニズム」は、記事でこう指摘する。王に向かって「臣民に税を課すのをやめなさい」などと言ったら、王は不快になり、そこで会話が終わってしまいかねない。そうなれば、王を解脱に導くチャンスは失われてしまう。ブッダは人を見て法を説いたのである。

のちに仏教がインドから伝わった中国では、天命を受けた帝王に民衆は服従するものとされた。前出の植木氏によれば、これは仏教本来の倫理とは対立する。それでも仏教者は、国家のために積極的に働こうとまではしなかったという。

ところが日本の仏教は伝来した当初から、鎮護国家の思想が支配的だった。ここがインドや中国との大きな違いだという。また、インド仏教では「人」より「法」を重視するが、日本では聖徳太子信仰や弘法大師信仰など個人崇拝が顕著だとも指摘する。

宗教の倫理がつねに正しいとは限らない。それでも、政治とは異なる価値観に立ち、政治を監視する存在は重要である。社会に及ぼす政治の力が拡大する現在、ブッダが説いた教えの意味を、あらためて噛みしめたい。

2025-11-24

古代中国の経済論争

中国古代の漢帝国は前2世紀後半の武帝のころ、北はオルドス地方、西は西域、南は華南からベトナム方面にいたる対外戦争によって、領土を拡大した。中国の版図は最大領域に達したが、問題も生じた。拡大した領土を維持するため、莫大な軍事費が必要となり、財政が悪化したのである。

塩鉄論
塩鉄論(平凡社東洋文庫)

武帝は財政再建のため、商人の子で財政を司る官僚であった桑弘羊(そうくよう、そうこうよう)の意見を入れ、大量の銅銭(五銖銭)を発行した。一方で銅銭の発行が引き起こすインフレを防ぐため、均輸法や平準法といった流通や価格を国が統制する制度を設けた。こうした政策は、銅銭を容易に手に入れることのできる官僚や商人には有利である一方、農産物を銅銭に換えて税を支払わなければならない農民にとっては不利だった。官僚や商人はあまりある銅銭で土地を購入し、貧しい農民は銅銭を手に入れるために土地を手放し、小作人となっていったのである。

武帝が始めた財政再建策はもう一つあった。国家による塩・鉄・酒の専売である。のちに酒の専売制だけは廃止されたが、塩鉄専売のほうはとうとうそのままであった。やがて専売政策により人民の生活が苦しくなったとして、廃止論が台頭した。これをきっかけに、古代中国の経済論争が巻き起こった。

武帝の次に即位した昭帝の時代、賢良・文学の士と呼ばれる民間の有識者六十数人が全国から都の長安に集められ、財政再建の功により御史大夫に昇進していた桑弘羊ら行政当局を相手に専売政策について討議する会が開かれた。開催の背景には、桑弘羊の権威失墜を狙ったライバルで武人出身の霍光(かくこう)の思惑があったとされる。その経緯はともかく、次の宣帝の時代、官吏の桓寛がまとめた著作『塩鉄論』に記録された討議の内容は、きわめて興味深い。

会議では桑弘羊らが法家思想に基づいて専売制の維持を主張し、有識者が儒家思想に基づいて廃止を主張した(以下、山田勝美訳、佐藤武敏訳から適宜引用・要約。カッコ内は篇名)。

有識者側はいきなり大上段に振りかぶって、すべての政治経済活動の根底には仁義道徳の考えが必要であると説き、農業を大事にし、商工業を抑えるよう強調する。当面の決め手としては、専売と均輸法の廃止を要請し、これこそ人民本位の農業の振興策だとしている(本議)。農業重視の政策が結果として商業を自由放任とする点は、18世紀フランスのケネーらの重農主義と共通しており、関心を引く。

これに対し、当時72歳だった御史大夫で、専売政策の立案者であり推進の最高責任者でもある桑弘羊は受けて立ち、こう答えた。

匈奴は信用のできない奴で、再三にわたってわが辺境を侵略し、乱暴を働いている。だがこれを討伐するとなると、中国の青年を犠牲にしなければならないし、といって放っておけば、どこまで侵盗されるかわからない。とりでを修理し、のろしを準備しての屯田による辺境警備策は、実に先帝・武帝陛下の仁慈によるものである。その結果、国費が賄いきれなくなったので、一連の新経済政策を編み出し、国家の財源を確保し、辺境の軍事費を調達しようとするものである。これを撤廃せよなどという議論は、一つには国庫を空っぽにし、二つには軍事費を切り詰め、辺境防備の中国青年を見殺しにすることになる。一体、どうして国費を賄うつもりなのか。撤廃するわけにはいかない(同)。

桑弘羊は一歩進んで、商業活動の一つである貿易のメリットを説く。たとえば中国の一端の絹布で、匈奴側の万金の品物が手に入るし、敵国の使用物資の量を減少させる狙いもある。異国の様々な珍奇な品物が国内に流通しても、我が国のお金はさして流出しない。かえって外国品が国内に流通すれば、国民生活は豊かになり、お金が流出しないから、国民生活も充足する(力耕)。

この桑弘羊の主張は17世紀英国で流行した重商主義に似ている。お金は交換手段にすぎず、食べたり着たりすることはできないから、お金が増えれば生活が充足するという部分は誤っているが、貿易奨励の考えは正しい。だが問題は、貿易にしろ国内の商業活動にしろ、それを民間ではなく、政府が主導・実行するところにある。

有識者側は統制経済に反対する根本的な主張を次のように展開する。今日、国家が鉄器を作っているが、粗悪品が多く、費用は節約されず、卒や徒刑囚はたくさん動員され、労働は限りがない。民間でやると民衆は一体となり、父子は力を合わせ、みんな良い器物を作るのに精を出し、悪い器物は集まらない。ところが今日は、国家が塩・鉄を管理し、値段を統一し、鉄器は堅すぎて切れ味の悪いのが多いが、人民は善悪を選択することができない。役人は留守がちで、器物の入手は困難だ——(水旱)。

漢文学者の山田勝美氏は、統制経済の不便を詳しく述べたこの部分から現代日本の経験を想起し、「これらの痛切なる苦い経験が、かつての太平洋戦争中における統制政策に、少しでも採り入れていたら、もってスムーズに政策が進められたであろうに」と慨嘆する。古典を軽視するとがめは、統制政策の失敗となって跳ね返った。

消費者の満足が常に求められる民間企業と違い、国家のお役所仕事はむしろ消費者に負担を押しつける。いつの時代も変わらないこの真理を、古代中国の経済論争は教えている。

そもそも漢の政府が財政難に陥ったのは、匈奴をはじめとする異民族の侵略から辺境を防衛するためだ。軍備を撤廃すべきでないと繰り返す桑弘羊に対し、有識者はこう反論する。かつて匈奴との交易が盛んだったころ、匈奴は漢に親しみ、帰順し、往来していた。その後、漢が匈奴の君長を騙し討ちにしようとする間違った計略を行ってから、匈奴は和親を絶ち、戦争が続くようになった。辺境の人たちは数十年も軍役に従うようになった(和親)。

そして有識者は匈奴との和親を求め、こういう。「君子は慎んで落ち度なく、人と交わるのに丁寧にして礼を守ってゆけば、世界中の人はみな兄弟になる。自分を反省してやましいところがなければ、一体、どうして心配し、どうして恐れる必要がありましょうか」。これは儒教の祖・孔子の言行録『論語』(顔淵)からの引用である。

有識者の非戦の主張は理想主義が過ぎると見えるかもしれないが、実は財政危機という現実を見据えた、現実主義の立場でもある。巨額の政府債務を抱えながら戦争の火遊びにたわむれる、現代の帝国への警鐘といえるだろう。

2025-11-17

司馬遷の経済統制批判

司馬遷は中国・前漢の歴史家。中国最初の通史である『史記』の著者として知られる。紀元前1世紀の初めごろに書かれた同書のうち、多くの人々の伝記を書き並べた「列伝」はとくに面白く、なかでも巨万の富を手に入れた古代の富豪たちの活躍を描いた「貨殖列伝」からは、上からの規制を極度に嫌う司馬遷の自由な経済思想が浮かび上がってくる。
 
史記列伝(五)岩波文庫
史記列伝(第5巻、岩波文庫)

司馬遷は数奇な運命をたどった歴史家だった。漢の将軍李陵が匈奴と戦って敗れ、捕虜となる事件が起きた際、李陵の処分を決める席上では一家皆殺しの意見が大多数を占めたが、司馬遷は一人李陵の忠節と勇敢さをたたえて弁護したために、武帝の激怒を買い、宮刑に処せられた。しかし、これによる精神的打撃にも屈せず、かえって勇猛心を鼓して通史の著作に全力を傾注し、ついに『史記』130巻を完成した。 

『史記』は「本紀」「表」「書」「世家」「列伝」の5部から成り、列伝篇の最後に登場するのが、貨殖列伝である。この列伝で取り上げられた富豪たちは、天子諸侯から授けられた官位も、与えられた領有地もなく、ただおのれの才覚を存分に働かせ、富を築き上げた人々である。素封家と呼ばれる(素は「ない」、封は「領土」の意味)。

司馬遷は貨殖列伝の冒頭で、思想家の老子が描いた自給自足の理想郷の様子を引いて、そのような閉鎖的な小国家は、古代ならともかく、諸王・諸侯国の枠を超えて経済の流通が盛んになった当今では通用しないと批判する。司馬遷によれば、人類はすべて際限なき欲望を満たそうとして、あくせくしている。この欲望はつまるところ、人々の利己心が原因である。それゆえ「天下煕煕として、皆利の為に来たり、天下穣穣として、皆利の為に往く」と言われるのである(以下、訳は岩波文庫版、ちくま学芸文庫版などを参照)。

司馬遷はそのうえで、経済政策の優劣を次のように説く。「すぐれた政治家は、(人民の生活の)ありかたのままにしておく。それに次ぐ人は人民を教えさとす。そのまた次は何とか調整していこうとする。いちばん劣った政治家が民と利益を争うものなのだ」。つまり自由放任こそが最善の策だという。

なぜ自由放任が最善なのか。司馬遷によれば、飲食衣服その他の生活物資は、どのようにして社会の需要を満たすかというと、政府の命令によっていついつまでに集めろと指図するわけではない。一人一人がおのれの才能に応じ力の限り働いて、自分のほしい物を得ようと思うからである。したがって物の値が低いときにはやがて高くなり、高いときにはやがて低くなる。「これはなんと、ものの道理に合った自然のあらわれではなかろうか」と司馬遷はいう。

まるで主著『国富論』で市場経済の「見えざる手」を説いた、18世紀英国の経済学者アダム・スミスを思わせる記述だ。東洋思想史研究家の小島祐馬氏は、司馬遷のこうした考えを「司馬遷の自由放任説」と呼ぶ(『古代中国研究』)。司馬遷は近代西洋で花開く自由放任主義の先駆者だった。

続いて司馬遷は、素封家たちの具体的な活躍を描いていく。最も古い時代に属する人物は、春秋末期に越王勾践を支えた智謀の宰相・范蠡である。初めから商売の道を歩んだ貨殖列伝の他の富豪たちとは異なる、異色の経歴だ。

呉王夫差に敗れた勾践を助けて長年の艱難辛苦の末、ついに呉を倒すと、「狡兎死して走狗煮らる」(用済みになれば捨てられる)との言葉を残し、宰相の地位を捨てて故国を去る。その後、斉の国を経て、物資流通の要路にあたる陶の地に移住し、陶朱公と名を改めると、家族とともに農耕と牧畜に励む一方で、物価の変動をにらんで物資を動かし、巨万の富を築き上げた。中国文学者の林田愼之助氏は「先を見通しておいて、見通したことを実践に移すことは、容易にできることではない。范蠡はそれができた」(『史記・貨殖列伝を読み解く』)と称賛する。

孔子の高弟として儒教を学ぶ一方で、商才を発揮した変わり種は子貢である。子貢は孔子について学んだ後、衛の君に仕え、物資の買い占めと放出を適時に行って、財産を増やした。孔子の弟子70人のうちで、子貢が一番裕福であった。子貢は、徳行においては同門の顔回に劣ると自覚していたが、孔子は子貢の政治・外交手腕を高く評価していた。孔子の祖国魯が斉に侵略されそうになった際、孔子が諸王のもとに使者として派遣したのは子貢だった。

子貢は諸王の利害をうまく説得し、魯は戦わずして斉の脅威から逃れることができた。ビジネスで鍛えた交渉力が発揮されたといえる。前出の林田氏は「貨殖の道で成功し素封家となった子貢が、師の孔子を日月のごとく敬慕していたからこそ、いちどは喪家の犬(落胆して志を得ない人)とまでみなされた孔子は、聖人として天下にその存在を知られるようになった」と指摘する。

相場師の白圭は、商売の時機の変化を観察することが好きで、世人の棄てて顧みないときは自分が買いとり、世人の買いあさるときは自分が売り払って、富を増やした。一方では倹約家で、衣食を節約し、奴僕とともに汗水垂らして仕事に励んだ。自分の商売を名宰相や兵法の達人の功業にたとえ、誇りを込めて「臨機応変に対処する知恵がなく、決断をくだす勇気がなく、ギブ・アンド・テイクを解する仁徳がなく、苦境を耐え抜くしぶとさがない者には、いかにわしの方法を学ぼうとしたって、決して教えない」と語った。その生き方には「富を手にするためには、当然味わわねばならぬ苦労、富を産み出すために必要な節度といえるものがあった」と林田氏は述べる。

司馬遷が生きたのは、漢の武帝の時代だった。この時期、中国の版図は漢帝国の名にふさわしく拡大した。数回にわたる匈奴遠征を行い、朝鮮を侵略し、ベトナムまで支配の手を伸ばした。版図の拡大は、それだけ莫大な国力の消耗につながった。武帝統治の後半期になると、底をついた財政を立て直すために、国家本位の経済政策を次々に打ち出した。製塩・製鉄などの基幹産業を国家の統制のもとに置き、しかもその粗悪品を強制的に販売した。財産税を課し、財産を隠して申告しない者は全財産を没収したほか、隠蔽を摘発した者には没収財産の半分を与えてこれを奨励した。課税による収入よりも、没収財産のほうがはるかに多かったといわれる。

一連の経済統制は、市場原理の競争を妨げ、経済の活力を奪った。こうした武帝時代の経済政策を、司馬遷は『史記』の「平準書」の中で克明に記録した。そうすることで武帝の経済統制を批判したとみられる。

司馬遷の自由放任説は金儲けを卑しむ儒家から嫌われ、その後は広まらなかった。前出の小島氏は「もし当時の社会に司馬遷の説が容認せられていたならば、世界は遅くとも西暦4、5世紀頃までに、中国資本主義の支配に帰していたかも知れない」と指摘している。

2025-11-10

韓非子、国家の本性を暴く

韓非子は法家の代表的な思想家である。戦国時代末期の韓に公子(君主の子)として生まれ、性悪説で知られる儒家の荀子に師事した。しかし儒教の徳治主義については無力有害として退け、本来利己的である人間を治めるには、単なる心構えにすぎないような道徳ではなく、一律に法によるべきだとする法治主義を説いた。 

キングダム 70(Amazon

吃音で、弁論は得意でなかったが、文章を書かせれば秀でたものがあった。韓の王に政策を説いたが受け入れられず、使者として秦に赴き、秦王(後の始皇帝)に注目される。しかしやがて投獄され、自殺した。かつてともに荀子のもとで学んだ秦の高官、李斯の策略といわれる。 

韓非子の思想は、その著作とされる『韓非子』にまとまっている。権力を絶対視する態度に危うさも感じるが、その一方で、国家に甘い幻想を抱かず、冷徹で現実主義的な論理展開によって、その本性を暴いている。

韓非子の思想の根底にあるのは、人間を徹頭徹尾、利己的で打算的な存在であるとする冷めた人間観である(以下、引用は冨谷至訳から。表記を一部変更。カッコ内は篇名)。

「医者が患者の傷を吸ったり、血を口に含んだりするのは、肉親の情からではない。そこに儲けがあるからだ」(備内)

「医は仁術なり」という言葉がある。けれども韓非子にかかれば、医者の献身的な行為も利益の獲得という利己的な動機に基づいているにすぎない。続きも面白い。

「車作りが車を作ると、誰もが金持ちになってほしいと願う。葬儀屋が棺桶を作ると、ひとりでも多くの人が若死にしてくれたらと願う。なにも車作りが仁愛に富んでおり、葬儀屋が悪人なのではない。人が裕福にならねば、車が売れず、人が死ななければ棺桶を買う者がいなくなるからであって、人を憎む心があるのではなく、人の死によって得られる利益がそこにあるからにほかならない」(同)

儒家の孟子は、人間の性は善であるといい、韓非子の師である荀子は悪だといった。けれども韓非子にとって、そんなことは空理空論であり、論じる意味がない。重要なのは、人間の行動であり、それが利己心に基づくという現実である。これは、人間は自分の満足を求めて行動するという事実を経済理論の根本に据え、その行動を起こさせる心理要因を考慮の対象外とした、20世紀の経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスを思わせる。

これだけならば、個人の利己心が経済活動を通じて社会全体に利益をもたらすと説いた、アダム・スミス以降の近代経済学を知っている私たちからみて、それほど新鮮味を覚えないかもしれない。韓非子で注目すべきなのは、その利己的な人間観を庶民だけでなく、王侯ら支配階級にも遠慮なく当てはめる点だ。

その前提となるのは、親子をはじめとする家族関係ですら打算に基づいているという、鋭い観察である。たとえば、次のように述べる。

「人というものは幼時に父母におろそかにされると成長して親を恨むこととなる。成人となった子供が老いた両親をぞんざいに養うと親は怒って子供を責める。本来、子と父の仲は、利益を度外視したきわめて親密な関係であるはずなのに、非難したり恨んだりするのは、己の行為に相手が報いてくれるという打算があるからにほかならない」(外儲説左上)

これは儒教に対する痛烈な批判だ。儒教の出発点は家族である。そして情愛に基づく家族関係を君臣関係に当てはめ、国家権力を正当化する。韓非子は、中国法制史研究者の冨谷至氏が著書『韓非子』で指摘するように、親と子の間にも利と計算が働いているとして、この儒家の根本に楔を打ち込む。

家族同士、血縁という最も強い紐帯で結ばれた関係においてすら、打算と利己に基づくことを否定できない。ならば、それを君臣関係に拡大し、君臣の関係を父子の擬制とみなすことなど笑止千万だと韓非子は論じるのである。『韓非子』には、随所にこのことが繰り返されている。たとえば、こうだ。

「そもそも、君臣関係も父子関係と同じくすれば必ず治まるというが、その主張は、父子関係は乱れることはないというのが前提となっている。人間の情は、父母に対する情に及ぶものはない。誰もが父母から愛されているのだが、それでも良い子ばかりとはいえない。愛情が厚かったとしても、放蕩息子が出ないというわけではなかろう。先王の人民を愛すること、父母のそれには及ばない。子でさえもうまく教育できずに、どうして民衆を治めることができようか」(五蠹)

韓非子にいわせれば、君臣関係が功利的関係であることは火を見るよりも明らかである。それにもかかわらず、儒者は血縁の愛を君臣関係に置き換えようとする。韓非子は次のように激しく批判する。

「学者(儒者)が君主に言うに、利を求める心を去り、相愛の道に従えと。これは主君が施す愛が父母のそれよりも強いことを要求することを意味し、恩愛が何たるかを分かってはおらず、ペテンでしかない」(六反)

君と臣下の結びつきが利によるものだとすれば、「詰まるところ君臣関係とはギブ・アンド・テイクの商取引にも似たものだという見方に落ち着く」と前出の冨谷氏は総括する。ぴったり当てはまるのは、韓非子の次の言葉だろう。

「臣下は死力を尽くすことで、君主と取引をし、君主は爵禄を目の前にぶら下げることで臣下と取引する。君と臣との絆は、父と子のような紐帯で結ばれるものではなく、打算・計算によって成立しているのだ」(難一)

国家の権力者とそれに支配される庶民を親子にたとえる儒教の思想は、権力者の慈悲によって悪政に歯止めをかけようとする。だが、それが現実に効果を発揮することはめったにない。むしろ「子が親に従うのは当然」という理論で、権力者の横暴を正当化しかねない。

韓非子は冷めた目で国家の本性を見抜いていた。諸子百家と呼ばれる古代中国の思想家たちの中で、ひときわ異彩を放つ存在といえる。

秦王の活躍を描く人気漫画『キングダム』(原泰久作)には、韓非子が登場する(単行本では第70巻)。秦から招かれた韓非子は「秦はどこか歪(いびつ)だ。冷徹なようで、情に厚い面も見える。ひょっとして秦王は性善説ではないのか」との観察を披露したうえで、こう語る。「法は、そもそも人は放っておくとクソだという性悪説から生まれたものだ。……法と性善説を混ぜると、クソ以下のものが生まれるぞ」

これはフィクションだが、その後の法家思想と儒教の関係をある意味でみごとに言い当てている。法家思想が、戦国時代を統一した秦の始皇帝によって採用されたことは有名だが、漢代以降も、実際の政治を指導したのは法家の法治主義だった。ただし、東洋思想史研究家の小島祐馬氏がいうように、政治の表面を儒家思想で粉飾したため、露骨でなく、容易にその本体を見いだすことができないにすぎない。

表面上は儒教的な道徳心あふれる君主を装いながら、実際には利己心を満たすため権力を利用する統治者がはびこったということだ。現代の世界の権力者の多くもそうだろう。偽善を嫌った韓非子が知ったなら、「クソ以下」だと吐き捨てるに違いない。

2025-11-03

荀子、社会は分業で成り立つ

荀子は、名は況。儒家の一人。紀元前3世紀の戦国時代後半、戦乱の被害が深刻さを増す中で、孟子の性善説を批判し、人間は生まれつき私利をむさぼり他人を憎む性質をもつとして性悪説を唱えたことで知られる。

荀子
内山俊彦『荀子』(Amazon

荀子によれば、戦乱を終わらせ、平和を確立するためには、人間の善意に信頼を置く徳治のみでは不可能である。そこで孔子の説いた「礼」に着目し、礼治を唱えた。礼とは規範のことだが、荀子の思想を伝える書物『荀子』(引用は内山俊彦訳から。表記を一部変更。カッコ内は篇名)によれば、その役割は社会に「分」(区別・区分)を与えることにある。

「礼とは、貴賤に等級があり、長幼に差別があり、貧富や尊卑にそれぞれふさわしさがあることだ」(富国)といい、「貴賤の等級・長幼の差別・知愚や有能無能の区分」(栄辱)という、身分・階層・年齢などによる差等が、この「分」にほかならない。「分」が守られ、「少(年少者)は長(年長者)に事(つか)え、賤は貴に事え、不肖は賢に事える」こと、これが「天下の通義」であるという(仲尼)。

身分や年齢による差別は、現代では受け入れられないだろう。しかし能力による区分という考えは、今でも通用する。なぜなら、人間社会が発展・繁栄してきた原動力は、分業と協力にあるからだ。

荀子によれば、他の動物にない人間の強みは「群」(集団)を作って協力するところにある。人間が水火・草木・鳥獣などの万物に優位することを論じつつ、「人の力は牛にかなわず、走ることも馬にかなわないのに、牛や馬が人に使われるのはなぜであろうか。人は群を作ることができ、牛馬は群を作ることができないからだ。人は何によって群を作りうるか。分による」(王制)という。

さらに、「人は生まれては群なしではいられない。群を作っても分がなければ争いになる。争えば乱れ、乱れればバラバラになり、バラバラになれば力が弱くなり、弱ければ他の万物にうち勝つことができない」(同)という。他の箇所でも、「群」を維持するための「分」の重要性を説いて、「分がないことは、人にとって大きな害悪、分があることは、天下の大きな利益である」(富国)といっている。

荀子はこの分業論を土台に、ユニークな経済思想を展開する。「(人の)能力は多くの技術を兼ねることはできぬし、人は多くの任務を兼ねることはできない。だから、バラバラで依存しあわなければ行き詰まる」(富国)といい、「人のもろもろの仕事は、耳・目・鼻・口が、互いに機能の取り替えがきかぬようなものだ」(君道)という。人間の能力に限界があり、学習によって能力が分化することから、農業・手工業・商業などの職能の間で分業が成立する。

分業は平民間の「横の分業」だけでなく、君子(統治者)と平民との「縦の分業」にも及ぶ。「土地の高低を見、肥瘦を調べ、作物を順序よく植えることでは、君子は農民に及ばない。商品を流通させ、その良し悪しを見、高安をわきまえることでは、君子は商人に及ばない。ぶんまわし・差し金を備え、墨縄を連ね、器具類を便利に作り出すことでは、君子は工人に及ばない」(儒効)

横の分業の上に縦の分業が築かれることにより、「天下は平均ならざることなし」と荀子は説く。この「平均」とは、平等ではない。政治が公平に行き届き、国家が安定することである。縦と横との分業は、荀子のいう「分」の表れである。

古代中国で、分業論を比較的詳しく説いたものとして、荀子のほかに、春秋初期の斉の政治家・管仲の言葉として伝えられているものがある。ただし管仲の分業論は、士農工商を雑居させず、強制的に分離する方針をうたっている。これに対し荀子は、分業を、人の能力の限界と学習による分化によって生ずるとしており、そこに相違がある。荀子のいう分業は、経済学者ハイエクの言葉を借りれば「自生的秩序」だろう。

縦・横の分業の立体的な組み立てが理想的に運営されれば、生産が推進され、物資は豊富になり、国家は安定するというのが荀子の見解である。ここでは、支配階級と人民の経済的利益は一致すると考えられている。このため、荀子は「下(人民)が貧しければ上(支配者)も貧しい。下が富めば上も富む」(富国)と民を富ますことを要請し、「亡国は(君主の)箱つづらを富ませ、倉庫を充たす。箱つづらは富み倉庫は充ちて、民衆は貧しい」(王制)と重税を非難する。また、農民を力役に駆り出して農繁期を奪うことに反対する。

こうした、人民の租税負担を軽減し民生を安定させようとする主張は、儒家の伝統的な徳治思想に立つものだ。それは現実における支配者の収奪と農民の痛苦という状況に対する、荀子のぎりぎりの回答だった。

だが一方で、中国哲学研究者の内山俊彦氏が指摘するように、収奪する側の支配者と収奪される側の人民の利益の一致は、幻想でしかない。そうである以上、荀子の主張は、虚構の上に立っていたといわざるをえない。内山氏によれば「そもそも、農民・商人・工人という職能・技術の区分と、君主・士大夫(官僚)のような権力機構としての階層とを無媒介に連結し、前者(横の分業)からのアナロジーを後者(縦の分業)に適用することに、すでに、飛躍があり、現実の抽象化があった」。

荀子が生きた戦国時代の終わり頃、諸国は富国強兵を目指して法治主義へと突き進んでいた。法治主義とは、人の善性に期待せず、徳治主義を排して、法律の厳格な適用によって人民を統治しようとする主張だ。そのような中で、荀子は孔子に始まる儒家の伝統を引き継ぐと自覚し、道徳に基づく政治の重要性を力説した。ただ、漠然とした道徳だけでは国の統治は困難だった。そこで荀子は、統治論として礼治を提唱した。

礼治はあくまで儒家思想の延長線上にありながらも、法治まであとわずかのところにあった。そこに登場したのが、かつて荀子に学んだ韓非子だった。強国化を遂げていく秦を目の当たりにして、荀子は秦の法治の限界を説いたが、韓非子はむしろそれを称賛した。韓非子の法家思想は、秦の強国化に拍車をかけ、空前の大帝国を出現させることになる。

2025-02-10

墨子の侵略戦争批判

墨子は、姓は墨、名は翟。その生涯については不明なところが多いが、魯に生まれ、手工業者階級の出身と伝えられる。若いころは儒学を学んだが、後に墨家の祖となった。

墨攻(ぼっこう)(1) (ビッグコミックス)

墨子は天の意志に基づく博愛主義である「兼愛」を説いたが、戦争が兼愛主義と相容れないことは言うまでもない。その著書とされる『墨子』には「非攻」の篇があって、戦争、とりわけ侵略戦争が道徳上の罪悪であることを詳述している(以下、原則として和田武司訳を参照)。

墨子はまず、次のように説く。ここに男が1人いる。この男が他人の果樹園に忍び入って、桃や季を盗んだとする。もしこの事実を知れば、誰もがこの男を非難するだろう。役人は男を捕らえて処罰する。自分の利益のために、人に害を与えたからである。

墨子は以下、「もしこの男が、他人の犬や羊、鶏や豚を盗んだとしたら、どうか」「他人の厩舎に押し入って、馬や牛を盗んだらどうか」「罪もない人を殺して、着物や剣を剥ぎとったとしたら、どうか」と問いを重ねていく。後になるほど、男の罪は重くなり、「以上のような場合、天下の君子は、いずれもみなこの男を非難し、不義と認めるだろう」と述べる。誰もが墨子の主張に同意するだろう。

しかし、と墨子はここで指摘する。「そういう君子であっても、他国を侵略するという大きな不義については、非難しようとしない。それどころか、かえって称賛し、他国侵略を「義」とみなしている。いったい、かれらは、本当に義と不義との区別をわきまえているのであろうか」

墨子は他国への侵略を最大の犯罪として、日常的に起こる犯罪の延長線上に位置づけ、その不当性を主張している。これは現代西洋の徹底した自由主義哲学であるリバタリアニズムに通じるものがある。

米経済学者ウォルター・ブロック氏は、リバタリアニズムの原則は「誰の権利も侵害していない者に対する権利の侵害(暴力の行使)は正当化できない」ということだとしたうえで、この原則を世の中のありとあらゆる場面に適用させようとする点にリバタリアニズムの特質があるという(『不道徳な経済学』)。たとえば、徴税は国家による暴力的な権利の侵害として批判される。戦争も同様だ。

墨子は続けて、同様の主張を別の表現でたたみかける。人ひとりを殺せば、不義であるとして、必ず死刑に処せられる。もしこの論理に従うとすれば、人を10人殺したときには、不義を10回犯したのだから、10回死刑に処すべきである。100人を殺せば、100回死刑に処すべきである。こういう犯罪については、天下の君子は、いずれもこれを非難し、不義と認める。

ところが、と墨子は再び指摘する。「他国侵略という大きな不義については非難しようとしない。それどころか、かえってこれを「義」とみなしている」

ここでの墨子の論理は、チャップリンの映画『殺人狂時代』の有名な場面を思わせる。チャップリン扮するベルドーは勤めていた銀行をクビになり、金持ちと結婚しては殺し、保険金を奪うようになる。逮捕され、裁判長に向かって言う。「なるほど、私は7人の女を殺した。生活のために……。だが、戦争で100万人の人間を殺した者は、罰せられない。勲章をもらい、英雄と呼ばれる。なぜです、なぜですか」

『墨子』非攻篇には、2つの「兵」が説かれている(湯浅邦弘『諸子百家』)。1つは肯定される「兵」であり、もう1つは否定される「兵」である。否定される「兵」は、「大いに非(不義)をなして他国を攻める」「季節や民情を無視していたずらに戦争を起こす」「無実の国を攻伐する」などで、要するに侵略戦争である。

これに対して、肯定される「兵」は、「誅」と「救」の語によって端的に示される。「誅」とは古の聖王が天命を受けて不義の暴君を罰するための誅罰であり、「救」とは大国から攻伐から弱小国を救済するための防衛戦である。このうち「救」の防衛戦が、まさしく墨者の活動にあたる。

墨家は、兼愛と非攻の理想を実力行使によって実現しようとした。単に戦争反対を叫ぶのではなく、軍事集団を組織して、弱小国の防衛にあたったのである。その実践体験の中から、城の防衛に関する様々な技術も編み出した。前述したように、墨家の非戦論は侵略に反対するもので、絶対平和主義ではない。正当防衛であれば実力行使を認め、その手段として外部の民間組織を活用する点は、やはりリバタリアニズムと共通する。

フィクションだが、墨家の防衛活動を具体的に描いた作品がある。漫画『墨攻』(作画・森秀樹、原作・酒見賢一)は、大軍にたった1人で立ち向かった墨者の物語だ。中国の戦国時代、趙の1万5000の大軍は燕の小さな梁城を落とそうと迫る。梁は墨家に救援を要請したが、やって来たのは革離というみすぼらしい、たった1人の墨者だった。革離は、様々な守城技術を駆使し、趙の攻撃を見事に跳ね返す。

あるとき、死を覚悟した革離は部下に対し「今度の戦でもし拙者が死んでも、拙者のなきがらは野ざらしにしといてくれ」と頼む。「そんな失礼なことは出来ません」と驚く部下に、革離は「いや、それが一番うれしいのだ」と答える。「何の報酬も望まず、他人に奉仕する墨者にとって、薄葬(手厚い葬式の反対の意)こそ最高の礼であった」と作者は説明する(単行本第3巻)。

中国哲学研究者の湯浅邦弘氏によれば、墨家は、ひたすら「天下の利」のために、侵略戦争を実力で阻止しようとする。一国の王に殉ずるのではなく、あくまで天下のために奔走するのである。彼らを支えるのは、墨者の「義」であり、王から与えられる褒賞ではない。

墨家は、儒家と天下の思想界を二分するほどの勢力を築き上げたが、秦帝国の成立以降、歴史上から忽然と姿を消す。秦帝国が法家思想に基づいて導入した中央集権的な郡県制と、封建体制の下、諸国家が平和に共存する世界を理想とする墨家思想の対立が原因だとみられている。

墨家は思想活動のためには武装を伴い、治外法権的集団を必要とするうえ、常に全世界的視野にのみ立ち、個人的信条としてはほとんど意味をなさないゆえに、漢代以降、諸学派が形を変えて復興する中にあって、ひとり墨家だけは、再生することなく絶学への道をたどることになった(浅野裕一『諸子百家』)。

戦争という国家の暴力が世界で頻発する現在、墨子の思想は再評価の価値がありそうだ。

2025-01-12

孫子、戦わないことが最善

『孫子』は中国・戦国時代の兵法書として名高い。武人で兵法家の孫武(孫子)が著し、後継者たちによって徐々に内容が付加されていったと考えられている。合理的な哲学に貫かれ、時代を超えた普遍性を持つ。その最大の特色は、戦争の方法を説いた書でありながら、戦わないことを最善とすることにある。

孫子 (講談社学術文庫)

孫子の軍事思想の原則の一つは、「戦いに勝利を収めることを論ずる兵法書でありながら、なるべく実際の戦闘をしないよう説くことにある」と中国史学者の渡邉義浩氏は指摘する。それを象徴する言葉が「百戦して百勝するは、善の善なる者にあらざるなり」(謀攻)である(引用は原則、渡邉『孫子』による。表記を一部変更。カッコ内は篇名)。

諸子百家と呼ばれる古代中国の思想家のうち、王道政治を理想とする儒家の孟子は、覇者の行う戦争を否定した。無差別平等の愛である兼愛を説いた墨子は、侵略戦争を絶対的な悪と考え、侵略された者を守ることで「非攻」を貫こうとした。

これらに対し孫子は、戦いを善悪により判断しない。戦いはすでに現実として存在するものとしてとらえる。そのうえで、相手を自分に従わせることを戦いの目的と考え、相手をなるべく傷つけずに自分に従わせようとする。それを「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」(同)と表現している。

戦わずに敵の軍を屈服させるための具体的な弊の用い方を4種に分類して、その優先順位を述べる。①上策は、外交策や離間策などの奇策をめぐらし、戦わずに勝利を収めることだ。②次善の策として、戦いがちょうど始まろうとする出端を討つ。③整った陣の兵を討つことは、もはや勧められることではなく、④城を攻めることは下策である。城攻めのような包囲策は、敵の10倍の兵力が必要だという。

孫子の大きな特徴は、勝敗を事前の計算で予測するような合理性にある。古代の君主は宗廟の前で戦争の吉凶を占った。これに対して、孫子は宗廟で占いをするのではなく、軍議を開いて敵軍と自軍の有利・不利な条件を比較して、数え上げていくべきだとする(始計)。「勝算」という言葉はこれを起源とする。

孫子の合理性は、戦争が多額の資金を費やし、国を経済的に滅亡させることを説くところにも表れる。用間篇によれば、10万の兵を起こして、1000里の彼方に遠征すると、1日ごとに1000金を費やすという。前出の渡邉氏によれば、漢代では「中家」、すなわち中産階級の総資産は10金とされる。現代の総資産の中央値を1000万円とすると、1000金は10億円となる。100日間にわたり戦争をすれば、1000億円が吹き飛ぶ。

戦争の負担は直接的なものに限らない。孫子によれば、10万の兵を起こして1000里の彼方に遠征すると、耕作に携われない者が70万家にも及ぶという。漢代では一家は平均5人より構成され、2人を働き手とするから、140万人分の働きを奪われることになる。出兵の規模が増え、遠征地が遠くなれば、負担はさらに大きくなる。

莫大な費用がかかることは、戦争に勝ったとしても同じである。このため謀攻篇では、すでに触れたように、「百戦して百勝するは、善の善なる者にあらざるなり」と述べ、すべての戦いに勝利したとしても、それが最善ではなく、避けられる戦いは避けるべきだと主張するのである。

それでも、たとえば侵略戦争を仕掛けられた場合、戦わなければ国家は滅亡する。このような場合、孫子は孟子や墨子のように反戦を主張するのではなく、戦争に莫大な費用がかかることを踏まえたうえで、どのように戦うべきかを実践的に示す。それは、とにかく戦いを長引かせないことだ。

作戦篇によれば、「戦争には(巧みでなくとも速さで勝つ)拙速は聞くことがあるが、巧みであっても長期にわたる(巧遅という)ものはない」。「拙速」は、現代の日本語では悪い意味でしか使わないが、兵は「拙速」であることが求められ、巧みでも遅い「巧遅」は求められない。長期間の戦争を行うことが不利であることは、経済的な負担の大きさだけではない。勝利はしたものの、力も財も尽きたことを見た他国が、自国に攻め込んで来ることも、警戒しなければならないのである。

孫子の合理性を示すもう一つの主張は、情報の重視だ。綿密な情報分析を客観的に行うことができれば、実際に戦う前に勝敗は決していよう。

敵の情報を得るために中心となるものは、間(間諜、スパイ)である。『孫子』は、最後にスパイの重要性を説いた「用間篇」が置かれているのが、非常に大きな特徴となっている。今では常識とされているが、当時において、戦争における情報の大切さを説いたのは画期的だった。

中国哲学研究者の湯浅邦弘氏によれば、それまでの戦争とは、事前の情報収集に腐心するというよりは、とにかく現場に行って奮闘してみようというものだった。ところが孫子は、情報こそが勝敗を決める、情報の収集と分析によって勝敗の8割がたは決まってしまうと喝破したのだ(『老子x孫子』)。

「彼を知り己を知らば、百戦してあやうからず」(謀攻)という有名な一節は、現代風にいえば「インテリジェンス」、つまり諜報活動、情報収集などをきちんとすべきだということを、すでに2500年前に言っているのだから、「大変な驚き」だと湯浅氏はいう。

古来最も代表的かつ最もすぐれた兵書と目される『孫子』を読み進めていくと、孫子は「戦争に勝つ」ことを至上の目的とは考えていないこと、少なくとも正面切った戦闘で敵を打ち破ることを至上の目的とは考えていないことがわかってくる。孫子の兵法の真髄は「戦わずして勝つ」ことであって、それはスパイや謀略などによって達成すべきものなのだ。

スパイや謀略というと、卑劣な手段であるかのように軽視・侮蔑されがちだ。だがそれでは勝利はおぼつかないし、無謀な戦闘によって多大な人命・財産を犠牲にすることになる。中国哲学研究者の浅野裕一氏は「陰謀や裏切り、虚偽や冷酷が渦巻く諜報の世界にこそ、戦争の惨禍を最小限に押さえ、国家と民衆を救済せんとする、高貴な精神が脈打っている」(『孫子』)と指摘する。

2024-12-16

荘子の自由放任主義

荘子は、姓は荘、名は周。中国の戦国時代、宋の蒙(河南省)に生まれた。蒙の漆園の番人をしていたという。楚の国王が宰相の地位を与えようとしたが固辞し、悠々自適の自由人としての生活を選んだと伝えられる。老子とともに道家を代表する思想家だ。小国寡民の政治を理想とした老子に対し、荘子は一切の政治的配慮を捨て、超然として実存的な自由を説く違いがある。

荘子 内篇

著書とされる『荘子』(引用は原則、池田知久訳による。表記を一部変更。カッコ内は篇名)は、奇想天外な比喩や寓話に富む。とりわけ巻頭に置かれた「大鵬」の寓話は、はなはだスケールが大きく、大いなる自由を説く荘子にふさわしい。

「北の彼方、暗い海に魚がいる。その名を鯤(こん)と言う。鯤の大きさのほどは、何千里あるのか計り知ることができない。やがて変身して鳥となり、その名を鵬(ほう)と言う。鵬の背平は、何千里とも計り知ることができないほどだ。一度奮い立って飛び上がると、広げた翼は天空深く垂れ込めた雲のよう。この鳥が、海のうねりそめる頃、南の彼方、暗い海に渡っていこうとする。南の暗い海とは、天の果ての池である。……鵬が南の暗い海に渡っていくありさまは、三千里に及ぶ海面を激しく羽撃ち、つむじ風を羽ばたき起こして九万里の高みに舞い上がり、ここを去って6カ月飛び続け、そうして初めて一息つくのである」

蝉と小鳩がこれを笑って言う。「俺たちは勢いこんで飛び立ち、楡(にれ)・枋(まゆみ)に止まろうとするけれど、そこまで届かず地面に引き戻されてしまう時だってある。九万里もの高みに舞い上がり、さらに南を目指すなんてことをして、何になるのだろう」(逍遥遊)

これに対し、荘子は「小さな知恵は大きな知恵に及ばない」とコメントする。愚者は「飛ぶことにどんな利益があるか。疲れるだけ損だ」と言うが、賢者にとっては、力を尽くして飛ぶこと自体が生きることなのだ。

そんな荘子は政治について、政府が人々の生活に介入せず、自由に任せるよう説いた。「もしも君子が、やむをえず天下に君臨するようなことになった場合、無為(何もしない)でいるのが最もよい。為政者が無為であって、初めて人々はそれぞれの性命の自然な形に落ち着くことができるのである」(在宥)。中国思想学者の池田知久氏は「前漢初期のレッセ・フェール政策を述べた文章」だと指摘する。

近代経済学の祖とされる英国のアダム・スミスは『国富論』(1776年)で、個人が自分の利益に従って行動すれば、「見えない手」に導かれて社会の利益が促進されると説いた。荘子は近代西洋のスミスにはるかに先立つ古代東洋で、同様のレッセフェール(自由放任主義)思想を抱いていた。

経済・社会の自由な発展をこざかしい人為によって妨げれば、深刻な弊害を招く。そう解釈できる寓話がある。「南の海を治める帝を儵(しゅく)、すなわちはかない人のしわざと言い、北の海を治める帝を忽(こつ)、すなわち束の間の命と言い、中央を治める帝を渾沌、すなわち入り乱れた無秩序と言う。ある時、儵と忽が、渾沌の治める土地で思いがけず出会ったが、渾沌は彼らを大変手厚くもてなした」

そこで儵と忽は、渾沌の好意にお礼をしようと相談した。「人間は、誰にも七つの竅(あな)が具わっていて、視たり聴いたり食ったり息したりしているのに、独り渾沌だけに竅がない。一つ竅を鑿(ほ)ってやろうではないか」。こうして、一日に一竅ずつ鑿っていったところ、「七日目に渾沌は死んでしまった」(応帝王)。

自由に任せるのとは逆に、人民を重税などで苦しめる権力者に対しては、荘子は厳しい目を向けた。そうした権力者は泥棒と変わらないとして、「帯の止め金を掠め取った程度のかっぱらいは、死刑に処せられるが、国を盗んだ大泥棒となると、諸侯までのし上がる」(胠篋)と断じる。

権力者を盗賊と同一視する考えは、他の思想家にもある。たとえば、古代キリスト教最大の神学者アウグスティヌスが著書『神の国』に記した逸話によれば、アレクサンドロス大王が捕らえた海賊は、大王に対し「私は小さな舟で荒らすので海賊と呼ばれ、陛下は大艦隊で荒らすので皇帝と呼ばれるだけ」と答えたという。アウグスティヌスは「この答えはまったく適切で真実を衝いている」と評した。荘子と同意見だ。経済学者マレー・ロスバードは「荘子はおそらく、国家を巨大な盗賊とみなした最初の理論家だった」と述べる。

冒頭で述べたように、荘子は政治権力に仕えることを嫌った。あるとき川のほとりで独り釣り糸を垂れていると、楚の国王が二人の使者を立て、国の政治を司る宰相になってほしいと頼んだ。すると荘子は釣竿を手にしたまま、振り向きもせず、こう尋ねた。「聞くところによると、その国には死んで三千年にもなるという神聖な亀がいて、王はこれを袱紗(ふくさ)で包み竹箱に収めて、先祖の廟堂(みたまや)の中に大切にしまっておられるとか。ところでお尋ねするが、この亀にしてみれば、殺されて甲羅を残して大切にされたかっただろうか、それとも生き長らえて尻尾を泥の中に引きずっていたかっただろうか」

二人の使者は口をそろえて、「それは、やはり生き長らえて尻尾を泥の中に引きずっていたかったでしょう」と答えた。すると荘子は言った。「帰って下さい。私も尻尾を泥の中に引きずっていたいと思うのです」(秋水)。自由を愛する荘子らしいエピソードだ。

あるとき荘子は夢の中で、ひらひらと舞う胡蝶(蝶)となった。荘周(荘子の本名)であることを忘れ、ふっと目が覚めると、きょろきょろと見回す荘周である。荘子は言う。「荘周が夢見て胡蝶となったのか、それとも胡蝶が夢見て荘周となったのか。真実のほどはわからない」(斉物論)

この寓話が物語るように、人生とは、もしかすると大いなる夢かもしれない。そうだとすれば、死を恐れる必要はない。『荘子』の巻末に近い列御寇篇によれば、荘子は臨終の際、手厚く葬りたいという弟子たちの申し出を退け、葬礼に必要な品々はこの天地や日月に星々、地上の万物などで十分だと答えたそうだ。

2024-12-02

老子の反戦平和思想

老子は中国古代の思想家。生没年不詳。姓は李、名は聃(たん)。その著述と伝えられる書物も『老子』と呼ばれる。『史記』では春秋時代の孔子と同時代の人とされるが、戦国時代中ごろの人というのが通説。実在の人物ではないとする説もある。孔子ら儒家の教えを否定して無為自然の道を説いた、道家の祖とされる。

老子入門 (講談社学術文庫 1574)

現代米国の経済学者で歴史家のマレー・ロスバードは、老子を「最初の自由主義知識人」と呼ぶ。同じ古代中国の思想家でも、官僚の支配を擁護した儒家とは異なり、老子は急進的な自由主義の信条を打ち立てたからだ。「老子にとって、個人とその幸福こそが社会の重要な単位であり目標だった。もし社会制度が個人の開花と幸福を妨げるのであれば、その制度は縮小されるか、完全に廃止すべきである」とロスバードは解説する。

老子の思想をその著述によって具体的にみていこう(引用は原則、金谷治『老子』<講談社学術文庫>による。かな表記を一部漢字に改めた)。

「世界を制覇するには、格別な仕事をしないであるがままに任せていくことが大切である」(第57章)と老子はいう。現代の言葉でいえば、自由放任の勧めといえる。その理由の一つは「世界中に煩わしい禁令が多くなると、人民は自由な仕事を妨げられていよいよ貧しくなる」(同)からだ。今の世の中でも、政府による規制が多くなりすぎると、個人や企業は自由な経済活動が妨げられ、その結果、社会から豊かさが失われるのは、よく知られた事実である。

それゆえ、「道」を体得した聖人はこう言っている、と老子は続ける。「私がことさらな仕業のない無為の立場を守っていて、それで人民はおのずからに感化されてくる。私が平静を好んでじっとしていて、それで人民はおのずからに正しくなる。私が格別なことを何もしないでいて、それで人民はおのずからに富んでくる。私が無欲でさっぱりしていて、それで人民はおのずからに樸(あらき)のような素朴になる」(同)

老子はさらに自由放任の勧めを説く。「政治がおおらかでぼんやりしたものであると、その人民は純朴で重厚であるが、政治がゆきとどいてはっきりしたものであると、その人民はずる賢くなるものだ」(第58章)。今日の政治は対照的に、人々の暮らしや経済活動の細々したところにまで気を配り、口を出そうとする。老子はそのような介入政策に反対する。なぜなら「災禍があればそこに幸福もよりそっており、幸福があればそこに災禍も隠れている。この循環のゆきつく果ては誰にもわからない」(同)からだ。

たとえば、現代の政府は景気が悪くなりかけると、すぐに財政・金融政策などでテコ入れしようとする。けれども、それによって目先は景気の悪化を避けられたとしても、永遠に先延ばしすることはできない。むしろ景気対策の副作用で物価が高騰したり、将来税金で返さなければならない政府の借金が増えたりして、人々を余計に苦しめる。そのために新たな対策が必要になってしまう。それならば、初めから景気対策などせず、経済が自然に回復するのを待つほうがいい。

また老子は「人民が飢えに苦しむことになるのは、お上が税をたくさん取りすぎるからであって、それゆえに飢えるのだ」(第75章)と述べ、重税で人々を苦しめる為政者に厳しい目を向けている。

老子の思想の特徴は、自由放任を説いた内政論とともに、戦争論にも表れている。老子は自衛戦争の必要は否定しないものの、その戦争論は平和主義、反戦主義に貫かれている。それが端的に示されるのは第31章だ。

老子は「武器というものは不吉な道具である。本来君子の使用すべき道具ではないのだ」と断じる。どうしてもやむをえず使わなければならないなら、執着をもたずにあっさり使うのが一番だ。「勝利が得られても、決して立派なことではない。それなのに、それを立派なこととして誉めそやすのは、つまりは人殺しを楽しみとしているということだ」。老子によれば、「敵を多く殺せば悲嘆の気が場に満ち、戦勝はまさに葬礼の場となる」。

戦争に勝ったというニュースが伝われば、銃後の国民は花火を上げ、行列してこれを喜ぶ。凱旋した将軍は、群衆の歓呼と小旗の波に盛大な出迎えを受ける。戦後はなくなったが、かつて戦争を繰り返した日本ではよくある風景だった。ところが老子はそうした熱狂に冷水を浴びせるように、戦いに勝ったら葬式のようにすすり泣けという。戦争の悲惨な本質を知る思想家でなければいえない言葉だ。

この言葉の背景について、歴史学者の保立道久氏はこう推測する。「老子は実際に戦闘を指揮する立場に立ったことがあったのではないか。敵を多く殺せば悲嘆の気が場に満ち、戦勝はまさに葬礼の場となるなどという言葉は、そうでなくてはなかなか吐けるものではないと思う」(『現代語訳 老子』<ちくま新書>)

黒人の救済に生涯を捧げ、のちにノーベル平和賞を受賞した医師シュバイツアーに興味深いエピソードがある。1945年5月7日、ドイツ軍が降伏して欧州での第二次世界大戦が終了したとき、シュバイツアーはアフリカのランバレネ(現ガボン)の病院で黒人患者の医療にあたっていた。たまたまラジオで大戦終了のニュースを傍受した欧州系の患者から聞いて、このことを知ったシュバイツアーはその日の夜、仏訳の『老子』をひもといて、心静かにこの一章を味わったという(楠山春樹『老子入門』<講談社学術文庫>)。

今日シュバイツアーに対しては、アフリカに対する西洋の植民地支配に無自覚だったという批判もなされる。それでもこのエピソードは、東西の平和思想の共鳴をよく伝えていると思う。

老子の戦争批判はこれだけではない。「軍隊が駐屯すると耕地も荒れ、大戦争のあとでは凶作が続く」(第30章)と指摘するとともに、「欲望をたくましくするのが最大の罪悪」(第46章)と述べ、戦争の原因は支配階層の私的な欲望だと喝破する。

中国思想学者の金谷治氏は、老子の思想は「一貫して反戦」だと述べる(『老子』)。世界で戦争が拡大する今日、平和を説いた老子の言葉をあらためて噛みしめたい。

2024-11-10

孟子、民を貴しとなす

孟子は中国、戦国時代の儒家。名は軻、字は子輿・子車。儒教の始祖・孔子より百年ほど後に生きた人で、孔子の継承者をもって任じ、王道による政治を説いた。

孟子 (講談社学術文庫)

王道は覇道に対する言葉だ。東洋史学者の小島祐馬氏によれば、覇道とは、支配者の利益のために、道徳の仮面を借りて実は力の政治を行うことであり、これに対して王道とは、人民の利益のために力の政治を排して、真の道徳の政治を行うことをさす(『中国思想史』)。孟子の言行を記した書『孟子』(引用は原則、宇野精一訳による。表記を一部変更。カッコ内は篇名)に従って、その思想をたどってみよう。

王道とは、孟子の言葉でいえば、「人に忍びざるの心をもって、人に忍びざるの政治を行う」(公孫丑上)こと、すなわち仁心をもって仁政を行うことである。王道の意義がこのようなものだとすれば、その基本が民を貴ぶことにあるのは当然だ。「民を貴しとなし、社稷(神霊)これに次ぎ、君を軽しとなす」(尽心下)という孟子の言葉は、それを端的に言い表している。

君主と対面しても物おじせず、遠慮のない意見を述べた。斉王から大臣の責任について尋ねられ、「君に国家の安否にかかわるような重大な過失があったときにはおいさめ申し、くり返しいさめても聞き入れられないと、その君を廃して別に一族の中の賢者を君に立てます」(万章下)と答えた。王はさすがに顔色を変えたという。

孟子は民を苦しめる政治を厳しく批判した。あるとき梁王に対し「人を殺すのに、つえで打ち殺すのと刃物で切り殺すのと、違いがありましょうか」(梁恵王上)と問いかけた。王が「別に変わりはない」と答えると、「では刃物で殺すのと政治(のしかたが悪くて)で殺すと違いがありましょうか」とたたみかけた。王は「別に変わりはない」と認めざるをえなかった。

内政で重要なのは経済政策だ。儒家の思想によれば、政治は個人の人格の完成を目的とすべきだが、現実問題として、食うや食わずの生活では難しい。このことを孟子は「恒産なければ、よって恒心なし」(梁恵王上)と喝破した。すなわち、経済上の保証があって初めて道徳は行われるものとする。

孟子が経済保証の具体案として主張したのは、給付金のバラマキなどではなく、減税だ。「井田法」という。正方形の耕地を井字形に9つに区画したところからこう呼ぶ。1里(約400メートル)四方の土地を1井とし、9等分する。周囲の8区画は8戸の家がそれぞれ「私田」として耕し、中心の1区画を「公田」として8戸共同で耕して、為政者にその収穫を納入する。収穫の9分の1を納税するから、税率は約11%になる。孟子にとって、重すぎない税の目安が約1割だったようだ。

商人や旅行者などへの課税は撤廃を唱えた。「関所では人や物の取り締まりをするだけで通行税や関税を取らないならば、天下の旅行者はみな喜んでその君の道路を通りたいと願うだろう」(公孫丑上)と語っている。

さらに減税は先延ばしするのではなく、思い立ったらただちに実行するよう求めた。宋の大夫から「租税を10分の1だけにして、そのほかの関所や市場の税を廃止することは、今年急に実行するわけにもいきません。今年は軽減しておいて、来年からさっぱりとやめることにしたいのですが、どうでしょう」と問われ、例え話を始める。

「ここに毎日、隣から入り込んでくる鶏を盗み取りする人があるとします。だれかその人に『それは君子の行為ではありません』と忠告すると、『では少し減らして毎月1羽ずつ盗むことにして、来年になったらよすことにしましょう』といったらどうでしょう」。そして問いにこう答えた。「正しくないと知ったら、すぐさまやめるまでで、来年を待つことはありますまい」(滕文公下)。重すぎる税は盗みも同然という厳しい考えだ。

孟子が心に基づく仁政を主張する以上、力の政治を排斥するのは当然だ。したがって孟子の王道では戦争を排斥する。絶対的非戦論を唱えたわけではないが、君主が富国強兵のために人民を殺してはならないと主張した。

あるとき、魯の君主が戦争の上手な慎子を将軍に任命して、大国の斉と一戦を交えようとした。これを聞いて孟子が「民に仁義の道を教育もせずに、戦いに用いるのは、民をいたずらに苦しめるというものだ」と言うと、それを聞いた慎子はむっとして不愉快げに「そんなことは、この私の関知しないことです」と言った。孟子はこう説明した。

「戦いもせずにただである者から取って、別の者に領地を与えるというのでも、道に外れたことは、仁者はせぬものだ。まして、人間を殺してまで領地を取ろうなどとはせぬ。君子が君に仕えるには、つとめてその君を正しい道に当たるように、仁道に志さしめるように、誘わねばならないのだ」(告子下)

また、君主が仁政を行わないのに、それをいさめもせず、むしろ欲心を助長するような家臣を次のように厳しく批判した。「君主の欲心のために強引な戦争をして、土地の争奪によって野に満ちるほど人を死なせ、城を争って城いっぱいも人を死なせるようなのは、つまり土地のために人肉を食わせるようなもの。その罪は死んでも償い切れぬ」(離婁上) 

孟子は軍事同盟も批判する。「自分は君のために同盟国を獲得し、戦争すれば必ず勝ってみせる」と言い立てる家臣を「民賊」と罵倒した(告子下)。戦争が上手な家臣は極刑に処すべきだとした後で、「諸侯に同盟を結ばせて攻伐せしめる者」は、それに次ぐ重罪にあたると主張した(離婁上)。

権力者におもねらず、民を貴ぶ王道政治の理想を説いた孟子は、中国に古代から伝わる「易姓革命」の思想を重視した。王朝がかわるのは、民に現れた天の意志によるもので、民意に反した政治を行った君主に対する革命は正しいとする。

孟子が革命を大胆に肯定した有名なエピソードがある。夏の桀王、殷の紂王はともに昔の暴君で、それぞれ臣下の湯王、武王によって放逐・誅伐された。この出来事について斉王が「臣でありながらその君を弑してよいものだろうか」と問うと、孟子は答えた。

「仁をそこなう者はこれを賊といい、義をそこなう者はこれを残と申しますが、残賊の人はそれを一夫すなわち一介の平民と申すべきで、君たる資格はありません。残賊の人たる桀・紂は、まさに一夫と申すべきであります。ですから、武王が『一夫なる紂』を誅したということは私も聞いていますが、君たる者を弑したとは、聞いておりません」(梁恵王下)

江戸時代以前、易姓革命の考えは、王朝が移り変わる中国と異なり、皇室をいただく日本にはなじまないとされ、『孟子』を積んだ船はことごとく沈没するといわれたが、もちろん事実ではない。今では文庫本などで気軽に読める。混迷する政治経済に多くの示唆を与える古典といえよう。

2024-10-13

孔子の自由主義思想

中国では、黄河文明が紀元前4000〜前3000年ごろから起こり、その後、殷王朝が前1600年ごろ成立。前1100年ごろには殷に代わって周王朝が成立した。その周も前8世紀ごろから国力が衰え、有力な諸侯が王を名乗って覇を争う乱世となった。これは秦が中国を統一する前3世紀後半まで続く。春秋・戦国時代という。

論語 (岩波文庫)

この実力本位の乱世にあって為政者たちは、いかにして国力を強化し、社会を豊かにするかに策を講じた。ここに自由な思想活動が活発となり、数多くの思想や政策を説く人々が現れた。総称して諸子百家という。そのうち孔子を祖とする儒家は、老子や荘子の道家と並んで、後に中国思想の二大潮流となった。

自由主義的な道家に対し、儒家は保守的なイメージが強い。しかし意外にも、少なくとも初期の儒家の著作からは、豊かな自由主義の思想を読み取ることができる。

孔子の名は丘、字は仲尼といい、紀元前6世紀後半、魯で生まれた。父母とは幼い時死別し、貧困の中で育つ。魯に仕え大司寇(大臣)となったが権力者と衝突し、56歳から十余年間魯を去って諸国を歴遊した。諸侯に道徳的政治の実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の教育と著述に専念した。孔子とその弟子たちの言行録である『論語』(引用は原則、金谷治訳。表記を一部変更。カッコ内は篇名)から、自由主義を示すおもな記述をたどってみよう。

宇宙は誰からも指示を受けていないのに、秩序を保っている。現代の経済学者ハイエクのいう「自生的秩序」である。孔子は、政治支配のあり方も同様であるべきだとして、「政治をするのに道徳によっていけば、ちょうど北極星が自分の場所にいて、多くの星がその方に向かってあいさつしているようになる(人心がすっかり為政者に帰服する)ものだ」(為政)と述べた。

同様の発言はまだある。「わが身が正しければ、命令しなくても行われるが、わが身が正しくなければ、命令したところで従われない」(子路)。「何もしないでいてうまく治められた人はまあ舜だろうね。一体、何をされたろうか。おん身をつつしまれて真南に向いておられただけだ」(衛霊公)。舜は伝説上の君主。中国で君主は南に面して臣下に対面した。

孔子はこのように、政治において道徳に基づく自生的秩序を重んじる一方で、刑罰によって人為的な秩序をもたらそうとすることに批判的だった。「(法制禁令などの小手先の)政治で導き、刑罰で統制していくなら、人民は法網をすりぬけて恥ずかしいとも思わないが、道徳で導き、礼で統制していくなら、道徳的な羞恥心を持ってそのうえに正しくなる」(為政)と述べている。礼とは、法律に対して、それほど厳しくはない慣習法的な社会規範を指す。

魯の家老から「もし道にはずれた者を殺して道を守る者をつくり上げるようにしたら、どうでしょうか」と問われ、孔子はこう答える。「あなた、政治をなさるのに、どうして殺す必要があるのです。あなたが善くなろうとされるなら、人民も善くなります。君子の徳は風ですし、小人の徳は草です。草は風にあたれば必ずなびきます」(顔淵)。また、「(聖人ではなく)善人でも、百年も国を治めていれば、あばれ者をおさえて死刑もなくすことができる」(子路)とも述べる。

孔子は重すぎる課税にも反対だったようだ。門人の有若は、魯の王から「近年、飢饉で税金が足りないが、どうしたものか」と尋ねられ、「どうして税を軽くして1割になさらないのですか」と答えた。孔子の理想とする周の税は1割だったが、魯の税は当時2割になっていた。王が「2割でも足りないのに、どうして1割にできよう」と不満を述べたのに対し、有若は答えていった。「民が十分足りていれば、君主が足りないということはありますまい。もし民が貧しければ、君主が富むということはありえません」(顔淵)。2割の税であっても孔子一門の目には高すぎた。社会保険料を含め5割近い日本の現状を見たら、言葉を失うに違いない。

道徳に基づき、重すぎる税や厳しすぎる罰を避け、暮らしや経済活動に介入しない政治を行えば、その国の人々は喜んでとどまるし、他国の人々も集まってくるだろう。孔子はある国の長官から政治のやり方を問われ、「近くの人々は喜び、遠くの人々は(それを聞いて慕って)やってくるように」(子路)と答えた。現代でも、自由で豊かな国には、国境を越えてでも多くの人が集まってくる。

理想の政治が個人の選択を尊重し、それに介入しないのは、単に経済を活発にし、人々を呼び寄せるためだけではない。それが倫理にかなうからでもある。

弟子の子貢が「一言だけで一生行っていけるということがありましょうか」と尋ねたところ、孔子は「まあ恕(思いやり)だね」と答え、その意味をこう付け加えた。「己の欲せざる所、人に施すことなかれ(自分の望まないことは人にしむけないことだ)」(衛霊公)

儒教のこの教えは、「人からしてほしいと望むことは、人にもそのとおりにせよ」というキリスト教の黄金律に対し、「白銀律」と呼ばれる。「自由主義の観点からは、何らかの行動を求める黄金律よりも、求めない白銀律のほうが優れている」という意見を耳にするが、それは正しくない。黄金律は白銀律と同じく、従うかどうかはあくまでも個人の自発的な判断に任されているからだ。また、何かをしないことは同時に、何かをすることでもある。たとえば、「約束を守らない」ことは「約束を破る」ことでもあるように。だから黄金律と白銀律を区別する意味はない。

個人の選択の尊重と裏表の関係にあるのは、選択は個人の責任だという厳しい考えだ。孔子はこう語っている。「人が成長する道筋は、山を作るようなものだ。あともう一かごの土を運べば完成しそうなのにやめてしまうとすれば、それは自分がやめたのだ。それはまた土地をならすようなものだ。一かごの土を地にまいてならしたとすれば、たった一かごといえど、それは自分が一歩進んだということだ」(子罕、齋藤孝訳)

また、弟子の冉求が「先生の道を(学ぶことを)うれしく思わないわけではありませんが、力が足りないのです」といったのに対し、孔子はこうたしなめた。「力の足りないものは(進めるだけは進んで)中途でやめることになるが、今お前は自分から見切りをつけている」(雍也)

自由主義は西洋特有の価値観であり、アジアの文化にはそぐわないなどと考える人が少なくない。これに対し哲学研究者のロデリック・ロング氏は初期儒教について調べたうえで、「この伝統のいくつかの側面を指摘することで、それ(自由主義)が単に西洋のものではないと示すことができる」と語っている。

<参考文献>
  • 金谷治訳注『論語』岩波文庫
  • 齋藤孝訳『論語』ちくま文庫
  • Long, Roderick T., Rituals of Freedom: Libertarian Themes in Early Confucianism, The Molinari Institute.