2024-10-13

孔子の自由主義思想

中国では、黄河文明が紀元前4000〜前3000年ごろから起こり、その後、殷王朝が前1600年ごろ成立。前1100年ごろには殷に代わって周王朝が成立した。その周も前8世紀ごろから国力が衰え、有力な諸侯が王を名乗って覇を争う乱世となった。これは秦が中国を統一する前3世紀後半まで続く。春秋・戦国時代という。

論語 (岩波文庫)

この実力本位の乱世にあって為政者たちは、いかにして国力を強化し、社会を豊かにするかに策を講じた。ここに自由な思想活動が活発となり、数多くの思想や政策を説く人々が現れた。総称して諸子百家という。そのうち孔子を祖とする儒家は、老子や荘子の道家と並んで、後に中国思想の二大潮流となった。

自由主義的な道家に対し、儒家は保守的なイメージが強い。しかし意外にも、少なくとも初期の儒家の著作からは、豊かな自由主義の思想を読み取ることができる。

孔子の名は丘、字は仲尼といい、紀元前6世紀後半、魯で生まれた。父母とは幼い時死別し、貧困の中で育つ。魯に仕え大司寇(大臣)となったが権力者と衝突し、56歳から十余年間魯を去って諸国を歴遊した。諸侯に道徳的政治の実行を説いたが用いられず、晩年は魯で弟子の教育と著述に専念した。孔子とその弟子たちの言行録である『論語』(引用は原則、金谷治訳。表記を一部変更。カッコ内は篇名)から、自由主義を示すおもな記述をたどってみよう。

宇宙は誰からも指示を受けていないのに、秩序を保っている。現代の経済学者ハイエクのいう「自生的秩序」である。孔子は、政治支配のあり方も同様であるべきだとして、「政治をするのに道徳によっていけば、ちょうど北極星が自分の場所にいて、多くの星がその方に向かってあいさつしているようになる(人心がすっかり為政者に帰服する)ものだ」(為政)と述べた。

同様の発言はまだある。「わが身が正しければ、命令しなくても行われるが、わが身が正しくなければ、命令したところで従われない」(子路)。「何もしないでいてうまく治められた人はまあ舜だろうね。一体、何をされたろうか。おん身をつつしまれて真南に向いておられただけだ」(衛霊公)。舜は伝説上の君主。中国で君主は南に面して臣下に対面した。

孔子はこのように、政治において道徳に基づく自生的秩序を重んじる一方で、刑罰によって人為的な秩序をもたらそうとすることに批判的だった。「(法制禁令などの小手先の)政治で導き、刑罰で統制していくなら、人民は法網をすりぬけて恥ずかしいとも思わないが、道徳で導き、礼で統制していくなら、道徳的な羞恥心を持ってそのうえに正しくなる」(為政)と述べている。礼とは、法律に対して、それほど厳しくはない慣習法的な社会規範を指す。

魯の家老から「もし道にはずれた者を殺して道を守る者をつくり上げるようにしたら、どうでしょうか」と問われ、孔子はこう答える。「あなた、政治をなさるのに、どうして殺す必要があるのです。あなたが善くなろうとされるなら、人民も善くなります。君子の徳は風ですし、小人の徳は草です。草は風にあたれば必ずなびきます」(顔淵)。また、「(聖人ではなく)善人でも、百年も国を治めていれば、あばれ者をおさえて死刑もなくすことができる」(子路)とも述べる。

孔子は重すぎる課税にも反対だったようだ。門人の有若は、魯の王から「近年、飢饉で税金が足りないが、どうしたものか」と尋ねられ、「どうして税を軽くして1割になさらないのですか」と答えた。孔子の理想とする周の税は1割だったが、魯の税は当時2割になっていた。王が「2割でも足りないのに、どうして1割にできよう」と不満を述べたのに対し、有若は答えていった。「民が十分足りていれば、君主が足りないということはありますまい。もし民が貧しければ、君主が富むということはありえません」(顔淵)。2割の税であっても孔子一門の目には高すぎた。社会保険料を含め5割近い日本の現状を見たら、言葉を失うに違いない。

道徳に基づき、重すぎる税や厳しすぎる罰を避け、暮らしや経済活動に介入しない政治を行えば、その国の人々は喜んでとどまるし、他国の人々も集まってくるだろう。孔子はある国の長官から政治のやり方を問われ、「近くの人々は喜び、遠くの人々は(それを聞いて慕って)やってくるように」(子路)と答えた。現代でも、自由で豊かな国には、国境を越えてでも多くの人が集まってくる。

理想の政治が個人の選択を尊重し、それに介入しないのは、単に経済を活発にし、人々を呼び寄せるためだけではない。それが倫理にかなうからでもある。

弟子の子貢が「一言だけで一生行っていけるということがありましょうか」と尋ねたところ、孔子は「まあ恕(思いやり)だね」と答え、その意味をこう付け加えた。「己の欲せざる所、人に施すことなかれ(自分の望まないことは人にしむけないことだ)」(衛霊公)

儒教のこの教えは、「人からしてほしいと望むことは、人にもそのとおりにせよ」というキリスト教の黄金律に対し、「白銀律」と呼ばれる。「自由主義の観点からは、何らかの行動を求める黄金律よりも、求めない白銀律のほうが優れている」という意見を耳にするが、それは正しくない。黄金律は白銀律と同じく、従うかどうかはあくまでも個人の自発的な判断に任されているからだ。また、何かをしないことは同時に、何かをすることでもある。たとえば、「約束を守らない」ことは「約束を破る」ことでもあるように。だから黄金律と白銀律を区別する意味はない。

個人の選択の尊重と裏表の関係にあるのは、選択は個人の責任だという厳しい考えだ。孔子はこう語っている。「人が成長する道筋は、山を作るようなものだ。あともう一かごの土を運べば完成しそうなのにやめてしまうとすれば、それは自分がやめたのだ。それはまた土地をならすようなものだ。一かごの土を地にまいてならしたとすれば、たった一かごといえど、それは自分が一歩進んだということだ」(子罕、齋藤孝訳)

また、弟子の冉求が「先生の道を(学ぶことを)うれしく思わないわけではありませんが、力が足りないのです」といったのに対し、孔子はこうたしなめた。「力の足りないものは(進めるだけは進んで)中途でやめることになるが、今お前は自分から見切りをつけている」(雍也)

自由主義は西洋特有の価値観であり、アジアの文化にはそぐわないなどと考える人が少なくない。これに対し哲学研究者のロデリック・ロング氏は初期儒教について調べたうえで、「この伝統のいくつかの側面を指摘することで、それ(自由主義)が単に西洋のものではないと示すことができる」と語っている。

<参考文献>
  • 金谷治訳注『論語』岩波文庫
  • 齋藤孝訳『論語』ちくま文庫
  • Long, Roderick T., Rituals of Freedom: Libertarian Themes in Early Confucianism, The Molinari Institute.

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