2024-05-12

イギリス帝国主義への道

イギリスでは十九世紀前半、自由主義思想が隆盛し、リチャード・コブデン、ジョン・ブライトらマンチェスター派の政治家は自由貿易、平和主義、自由放任を唱えた。1846年の穀物法廃止は、その輝かしい成果と言える。

新・人と歴史 拡大版 29 最高の議会人 グラッドストン

ところが十九世紀半ばから、自由主義に逆行する動きが目立ち始める。武力で植民地を維持・獲得しようとする帝国主義である。

自由主義を唱えるマンチェスター派は植民地について、自治権を与えて本国からの自立を促すよう主張していた。しかし現実の植民地政策はまったく逆の方向に展開した。

十九世紀半ば、イギリスの帝国主義をまず先導したのは外相、首相を歴任したパーマストン子爵である。彼はロシア帝国の南下政策を阻止するとして1854〜56年にクリミア戦争に参戦し、フランス、サルディニア(のちのイタリア王国)と協力して戦争を勝利に導き、国民的英雄になった。1856年には中国でフランスとともに第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こす。

同時にパーマストンは「イギリスの通商業者、製造業者のために新たな市場を確保するのは政府の仕事である」との確信を抱いて、帝国主義政策を世界各地で積極的に推進した。

次いで帝国主義政策の中心人物となったのは、保守党政治家のベンジャミン・ディズレーリである。1804年、ユダヤ系の文筆家の長男として生まれ、親とともにキリスト教(イギリス国教会)に改宗。1868年と1874〜80年の二度にわたり首相を務めた。外交政策では、本国からインドに至る「エンパイア・ルート」を、他の欧州列強の海外進出から防衛することを重視した。

ディズレーリは軍備を拡張し、露土(ロシア・トルコ)戦争に介入、同じくロシアの南下政策に対抗した第二次アフガン戦争を引き起こした。また、キプロスを占領し、南アフリカのトランスバール共和国を侵略した。

1875年にはエジプトのスエズ運河株を買収する。スエズ運河はフランス資本で作られ、株の多くをフランスが握っていた。破産しかけたエジプト副王が保有株(全株式の四四%の十七万六千六百株)をフランス資本家に売却するという情報をつかんだディズレーリは、議会に無断でユダヤ系金融資本ロスチャイルドから四百万ポンドを急ぎ借り受け、先手を打って株を買い取る。これによりイギリス政府がスエズ運河の最大株主となった。

ディズレーリはビクトリア女王に、「陛下、これでスエズ運河は陛下のものです。フランスに作戦勝ちしました」と報告したという。もっとも、本当に勝ちと言えるかは微妙だ。スエズ運河買収後、イギリスは約八十年にわたりエジプトを直接・間接に支配するが、その間、戦争と軍事費膨張、政治的動揺に見舞われることになる。

ディズレーリがスエズ運河を買収した狙いは、英本国とインドの往来をより安全にすることだった。そのインドでは十九世紀半ばまでに、イギリスは東インド会社を通じ、英語を公用語とし、官僚制度による近代的な行政・司法制度を導入した。一方で「野蛮な風習」を排斥するとして啓蒙主義的変革を進め、伝統の破壊として多くのインド人の反発を招いた。

1857年、北インドで東インド会社のインド人傭兵(シパーヒー、英語名セポイ)の反乱が起こった。シパーヒーはデリーを占拠し、ムガル皇帝を盟主として擁立。反乱は北インド全域に広がった。インド大反乱である。しかしイギリスは反乱を鎮圧。ムガル皇帝を廃し、東インド会社を解散させ、旧会社領をイギリス政府の直轄領に移行させた。

1876年、ディズレーリ首相はビクトリア女王にインド皇帝の新たな称号を贈る国王称号法を制定。翌77年1月にビクトリア女王のインド皇帝宣言が行われ、政府直轄領と五百程度の藩王国で構成するインド帝国を成立させた。

現地のデリーでは、インド総督リットンが旧ムガル帝国の儀式にのっとって大謁見式(ダールバール)を開催した。イギリスの君主制とインドが直結され、帝国の一体性と偉大さが強調された。

政府が推し進める帝国主義政策に対し、反対する声はあった。穀物法廃止で活躍したコブデンは議会に対し、クリミア戦争に介入しないよう訴えた。世界中を見回り、目に入るあらゆる悪事を正す「欧州のドン・キホーテ」になるのはイギリスの仕事ではないと主張した。しかし帝国の拡大を支持する声が強く、コブデンは反戦の主張のせいで一時議席を失った。

ディズレーリの政敵である自由党のウィリアム・グラッドストンも1879年の遊説で、武力による拡張主義外交をこう批判した。「我々が未開人と呼ぶ人々の権利を忘れるな。彼らの粗末な家の幸福も、雪に埋もれたアフガニスタンの丘陵の村に住む人々の生命の尊厳も、万能の神の目においては、諸君の生命の尊厳とまったく同じく、侵すべからざるものであることを忘れるな」

帝国主義に対する警告は的中した。政府が進めていた第二次アフガン戦争は頓挫した。南アフリカではズールー王国との戦争で八百人のイギリス兵が戦死した。さらに他の欧州列強との対抗上、地中海で海軍の配備を増強した。

ディズレーリは軍事費を賄うため増税に踏み切ったが、財政は赤字に陥った。これは前任首相のグラッドストンが減税し、しかも財政黒字を保ったのと対照的だ。

ディズレーリは、冒険主義的な外交を批判して平和主義を訴えるグラッドストンに1880年の総選挙で敗れる。グラッドストンは1894年まで首相を務めるが、帝国主義の流れは止められなかった。グラッドストンの退任後、イギリス政府はジョゼフ・チェンバレン植民相の下で海外膨張を推し進めていく。

歴史学者の間では、十九世紀の中葉、1850〜1870年代前半のイギリスの海外膨張を「自由貿易帝国主義」と呼ぶ。必要ならば軍事力による領土併合によって、自由貿易を各地に強制したからだという。

しかしこの主張は論理的に無理がある。そもそも言葉の定義上、「自由」を「強制」することはできない。もし国家が貿易を強制したのなら、それはもはや自由貿易ではなく、国営貿易とでも呼ぶべきだろう。逆に、イギリスと植民地時代のアメリカの貿易のように、貿易が自由な意思で行われているのであれば、それ自体に悪い点はない。悪いのは植民地にした帝国主義政策であって、その結果起こった貿易ではない。したがって、あえて「自由貿易帝国主義」などという言葉を使わず、単に「帝国主義」と呼べばいい。

経済学者シュンペーターは「帝国主義はその性格において原始的である。その特質は大昔からあらゆる社会で重要な役割を演じ、今まで生き延びてきた。つまり帝国主義とは現在ではなく、過去の生活状況の産物だ」と述べている。帝国主義は自由貿易とは相容れない政治行動だった。

近代文明の精華といえる自由貿易で豊かさを享受したイギリスは、前近代的で野蛮な帝国主義によって徐々にその土台を侵され、疲弊していった。戦前の軍国主義への反省を踏まえ、貿易立国として生きる日本にとって重要な教訓である。

<参考文献>

  • 秋田茂『イギリス帝国の歴史 アジアから考える』中公新書
  • 君塚直隆『物語 イギリスの歴史(下) 清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで』中公新書
  • 尾鍋輝彦『最高の議会人・グラッドストン』清水新書
  • Jim Powell, The Triumph of Liberty: A 2,000 Year History Told Through the Lives of Freedom's Greatest Champions, Free Press
  • Jim Powell, Wilson's War: How Woodrow Wilson's Great Blunder Led to Hitler, Lenin, Stalin, and World War II, Crown Forum

2024-05-05

「覇権による平和」の代償

日本国憲法が5月3日に施行77年を迎えた。毎日新聞は同日の社説で、イスラエル軍による抵抗組織ハマスへの攻撃によりパレスチナ自治区ガザ地区で女性や子供を含む3万4000人以上が死亡したことなどに触れ、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する」(憲法前文)という「日本国憲法の平和主義の理念が今、国際社会の現実によって脅かされている」と嘆いた。しかし、「日本国憲法の平和主義の理念」が国際社会の現実によって脅かされるのは、今に始まったことではない。
戦後史をたどれば、日本が深く関わっただけでも重大な国際紛争は少なくとも5回あった。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争だ。

憲法施行の3年後に勃発した朝鮮戦争では、朝鮮半島に近い日本は、兵站を支える補給基地のほか戦闘機、爆撃機、艦艇の出撃基地としてフル稼働し、結果として経済復興のきっかけをつかんだ。ベトナム戦争では、朝鮮戦争で果たした補給・出撃基地としての役割がさらに拡大強化された。米軍による北ベトナム攻撃(北爆)の主力は、沖縄から出撃するB29爆撃機だった。湾岸戦争では、米国が主力となった多国籍軍を戦費負担で支えた。米国の「テロとの戦争」の皮切りであるアフガン戦争では、艦艇への洋上補給作業に海上自衛隊があたり、続くイラク戦争では、陸上・航空自衛隊が復興支援の名の下にイラクへ渡った。

これらの戦争によって現地の市民は多数死傷し、「恐怖と欠乏」にさらされた。つまり、「平和主義の理念」は憲法施行以来、ほぼ一貫して脅かされてきたといっていい。けれども、毎日はそうは書かない。書いてしまったら、憲法施行以来、世界では戦争がやまず、その中には日本が深く関わったものもあるというのに、誇らしげに「平和主義の理念」を掲げることの偽善があらわになってしまうからだろう。

メディア関係者を含む多くの日本人は、戦後日本が平和でよかったとしばしば口にする。左派は憲法9条のおかげだといい、右派は日米同盟のおかげだという違いこそあれ、戦後日本が平和で、それはいいことだったという認識に変わりはない。けれども、視野を日本の外に広げれば、すでに述べたように、多くの人々が戦争で生命や財産を奪われ、恐怖と欠乏に苦しんできた現実がある。そしてそれらの戦争で、日本は直接戦闘にこそ参加しなかったが、さまざまな形で協力した。その協力は、一部違憲だと裁判所から指摘されたものの、おおむね「平和主義」の枠内だとされてきた。これを偽善と呼ばないのは難しい。

それでも「平和主義」がどうにか破綻せずに済んできたのは、なぜだろうか。韓国の日本研究者、権赫泰(クォン・ヒョクテ)氏は「憲法の「平和主義」は冷戦体制下での米国の対アジア戦略の産物」だと指摘し、次のように説明する。「米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の70%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ」(鄭栄桓訳『平和なき「平和主義」』)

韓国は、朝鮮戦争では自国が戦場となり、ベトナム戦争では米国の要請を受けて、約5万人、のべ31万人余りに及ぶ実戦部隊を派兵した。その規模は、オーストラリアやニュージーランドを含む東南アジア条約機構(SEATO)諸国全体の派兵数の約4倍にも及ぶ数だった。今日では、韓国軍のベトナム住民に対する残虐行為が明らかにされ、枯葉剤による後遺症が深刻な問題となっている。韓国軍のこうした行為は批判されなければならないが、韓国が日本の分まで戦闘の役割を押しつけられた結果であることを忘れてはならないだろう。

権氏が指摘するように、日本の「平和」の犠牲になった点では、沖縄も同じだ。沖縄の人々が長年、米軍基地の過剰な存在に苦しんでいるにもかかわらず、日米同盟が必要だという多くの日本人は、基地を自分の町で引き受けるとは決していわないし、メディアもそうした主張はしない。これが日本の平和主義の醜い現実であり、日米同盟の醜い現実でもある。

権氏の「分業ネットワーク」論に通じる鋭い洞察がある。リバタリアン思想家のハンス・ヘルマン・ホッペ氏は、第二次世界大戦後、世界で西欧諸国や日本と韓国などが互いに戦争をしなかったのは、一部の論者がいうようにこの国々が民主主義国だからではなく、米軍の駐留が示すように「実質上、アメリカ帝国の一部になった」からだと述べる。覇権主義的で帝国主義的な大国である米国が、その「植民地部分」を互いに戦争させず、米国自身も衛星諸国に対して戦争を仕掛ける必要がなかったからにすぎないという。それはソ連の覇権支配時代、衛星国である東欧の共産主義諸国が互いに戦争をしなかったのと変わらない。日本の保守派はソ連に支配された旧東欧諸国を憐れむが、覇権国の事実上の植民地として「平和」を許されている点で、今の日本も違いはない。

「覇権による平和」ともいうべきこの体制には問題がある。一国が「平和」を享受する代償として、国内では沖縄のように、国外では韓国や「テロとの戦争」で戦場にされた国々のように、誰かが暴力の犠牲になる点だ。憲法前文に謳われた「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する」という真の平和は、誰かを犠牲にして手に入れるものであってはならないはずだ。

諸国の非難にもかかわらず米国のイスラエル支援によってガザで奪われつつある膨大な人命は、覇権国の支配がもたらす代償の大きさをまざまざと見せつける。もし日本が憲法の理念に忠実に、世界に真の平和を実現する役に立ちたいのであれば、覇権による偽りの平和を否定しなければならない。もちろん憲法に自衛隊や国の自衛権を明記しろといいたいわけではない。それは覇権下における分業体制の微修正であり、延長でしかない。

毎日は「市民の行動する力」に望みをかける。それに異論はない。たやすくはないにせよ、市民の力を背景に、覇権国の暴走に外交の場で何度もノーを突きつけるところから、真の平和追求は始まるだろう。