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インフレは税の一種です。しかも普通の税よりも悪質な税です。ところが、この事実はよく理解されていません。それどころか、多少のインフレはむしろ良いことだという嘘が、現在主流の国家主義的な、誤った経済学(ケインズ経済学)や、そこから派生した極端な説 (MMT=現代貨幣理論など) によっ...

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2024-08-04

グローバル化の恩恵と希望

世界は良くなっているのか、悪くなっているのか。ニュースを見ていると、つい悲観的になってしまいがちだ。しかし、報道には一定の偏りがあることを忘れてはならない。悪いニュースは高い視聴率や閲覧数につながるから多く報道されるが、良いニュースはめったに報道されないという偏りだ。

OPEN(オープン):「開く」ことができる人・組織・国家だけが生き残る (NewsPicksパブリッシング)

それでは、人類の本当の姿はどうなっているのだろうか。第二次世界大戦後、世界で起きた変化のいくつかを具体的な数字で見てみよう。

▽1950年に出生時の平均寿命はわずか48.5歳だった。2019年には72.8歳になっている。50%も伸びているのだ。
▽1950年の出生児1000人のうち、20.6人が5歳の誕生日を迎える前に亡くなった。その数は、2019年にはわずか2.7人。87%の減少である。
▽1950年から2018年の間に、1人あたりの平均所得は3296ドルから1万5138ドルへと上昇した。インフレ調整後で359%の増加だ。
▽1961年から2013年の間に、1人あたりの1日の平均食料供給量は2191カロリーから2885カロリーに上昇した。31.7%の増加である。
▽1950年、人が通常受けられる学校教育の長さは2.59年だった。2017年には8年となった。これは209%の増加だ。

これらのデータは米シンクタンク、ケイトー研究所が運営するウェブサイト「ヒューマン・プログレス」に掲載されたものだ。メディアに日々あふれる暗いニュースに覆い隠されがちだが、世界はこの約70年間、驚くようなスピードで良くなっている。

さらに長期間でみても、ほぼ同じことが言える。同研究所の主任研究員マリアン・テューピー氏によれば、「近代」と呼ばれるこの2〜3世紀は、人類がおもに農耕民族として生きたそれまでの1万2000年だけでなく、人類出現以来の30万年とは根本から異なる。古代シュメールの農民は古代エジプト、古代ローマ、大革命前のフランスには違和感なく住めるだろうが、「1900年や2000年頃の先進国の生活は理解できないだろう」という。

同氏が指摘するように、古代ギリシャの女性は男性の所有物だった。これに対し現在、女性は多くの国を運営し、大半の国で投票権がある。男性が危険な仕事をしたり、外国の戦争で戦ったりして死ぬ可能性は昔よりずっと低い。奴隷制はおそらく農業の誕生以来、存在していたが、18世紀英国で組織的・持続的な反奴隷運動が起こった。昔、児童労働と体罰は珍しくなかったし、同性愛は罰せられた。動物への残酷な行為はいたるところで行われていた。魔女狩り、人肉食、新生児遺棄、人間の生けにえも忘れてはならない。

テューピー氏は、悪いニュースが高い視聴率や閲覧数を集めやすい現象には、人間の進化で形成された特質が関係していると指摘する。人間のハードウェア(脳の構造)とソフトウェア(心理学)は、否定的な事柄に強く反応するように進化してきた。これは危険・残酷・不快な世界で生き残るには適切なメカニズムだ。脅威かもしれないものに過剰反応し、それが偽物だとわかっても、取り越し苦労で済む。しかし本物の脅威に過小反応しかしなかったら、命にかかわる。

けれども世界が大きく変化した今、人類にとって重要なのは、脅威を過剰に恐れ、規制によって安全を求めることではない。歴史から正しい教訓を学び、世界の繁栄は個人の自由、経済の自由と深く結びついていると理解することだ。それができなければ、「経済が停滞し、自由が後退する恐れさえある」とテューピー氏は警告する。

経済の繁栄にとって、カギを握るのは他者との協力だ。同じくケイトー研究所の主任研究員ヨハン・ノルベリ氏は著書『OPEN(オープン)』で、その理由を以下のように説明する。

ホモ・サピエンスは協力的な生物種だ。人間は他の多くの動物に比べると、特に強くもないし足も遅いし、外皮も弱いし空も飛べず、泳ぐのもあまり上手ではない。だが、圧倒的な優位性をもたらす別のものがある。他の人間たちだ。

言語の発達と、社会関係を把握する過大な脳のおかげで、大規模な協力が可能になり、他人のアイデア、知識、労働が使えるようになった。この協力のおかげで、人工的な強さ、速度、衣服や医療という優れたものが得られた。そして動物界のどんな生物よりも速く空を飛び、海を渡れるようにすらなった。

人は生まれながらの交易者だ。たえず他人とノウハウや頼みごとや財を交換し、自分一人の才能や経験に限定された場合よりずっと多くのことを実現できる。

「今日のグローバル化は、この協力を国境を超えて拡大し、世界中に広げて、ますます多くの人々が、世界中のどこにいようとも他人のアイデアや仕事を活用できるようにしただけの話だ」とノルベリ氏は指摘する。

同氏はさらに、「洞察の数、アイデアや解決策の組み合わせは、潜在的に無数にある。あらゆる知識を使い、あらゆるアイデアを試す唯一の方法は、みんなの好きにさせて、自由に協力しやりとりができるようにすることだ」と強調する。

経済学者ミーゼスは「社会とは、協調行為であり、協業である」としたうえで、「社会的協業の組織下では、社会構成員の間に、同情と友情の感情や連帯感を生むことができる。これらの感情は、人間の最も喜ばしい、最も崇高な経験の源泉である。これらは、人生の最も貴重な光彩であり、動物の一種族である人間を、本当に人間的な存在の高さにまで引き上げる」と述べる

ミーゼスが言うように、人間同士の協力は、互いに経済的な恩恵を生むだけでなく、友情や連帯感を育む感情面の効果もある。グローバル化によって協力が世界に広がれば、国家間の対立を和らげ、平和をもたらす役割を果たすだろう。

ウクライナ紛争をきっかけに米欧日がロシアに対する経済制裁に踏み切り、これまで順調に発展してきたグローバル化にブレーキがかかろうとしている。これは憂慮すべき事態だ。世界が再び繁栄と希望の道を歩むためには、早期の停戦を実現するとともに、効果に疑問も持たれる経済制裁を中止し、世界の人々の間に経済的な協力関係を復活させることが欠かせないだろう。

2024-07-28

ニクソン・ショックで失われたもの

1971年8月15日、米ドルと金の交換が停止された。当時のニクソン大統領が緊急会見で発表したため、「ニクソン・ショック」と呼ばれる。これにより、世界で米国だけがかろうじて維持していた金本位制は完全に失われた。それは健全な通貨の規律が失われた瞬間でもあった。

ロン・ポールの連邦準備銀行を廃止せよ

金本位制とは、金を本来の通貨とする制度だ。中央銀行の発行する紙幣はいわば金との引換券で、一定量の金と交換が約束されている。中央銀行は紙幣を大量に発行しすぎると、金との交換を次々に求められた場合、保有する金が底をついてしまう。米国が金ドルの交換停止に追い込まれたのは、まさにそれだった。

大戦の終結間際、米国を中心とする連合国が戦後の国際通貨秩序であるブレトンウッズ体制を策定した。その柱として米国はドルを1オンス35ドルで金と交換することを約束し、ドル供給量の拡大に制約を課した。

1950年代後半から60年代にかけ、米国は国内消費の増加に加え、東西冷戦を背景に新興独立国へ莫大な経済援助を行ったり、ベトナム戦争で軍事費が膨らんだりしたことなどから、国際収支が大幅な赤字となった。各国は獲得したドルを米中央銀行の連邦準備理事会(FRB)に提示し、金への交換を請求したため、大量の金が海外に流出した。

米国は外交圧力によって外国政府からの金の交換要求を遅らせることしかできなかった。1950年代初めから1971年の金ドル交換停止までの間に、米国は金の保有高の55%を失うことになる。

この間、米国はドルの動揺を抑えようと、さまざまな防衛策を講じた。たとえば1960年から貿易収支改善のため、政府が優先的に米国製品を購入することを定めたバイアメリカン法(米商品優先購入法)の適用を始めた。また同時期、やはり国際収支改善のために、輸送に米国船の利用を義務づけるバイシップ政策が採用されたが、どちらも大きは効果は上がらなかった。

また、米国からの長期資本流出を阻止するため、株式や社債が発行される際に臨時税を課した。金利平衡税という。しかし平衡税の対象にならない短期資本の借り換えや直接投資が増加して、ドルの流出は止まらなかった。

手持ちのドルを金に交換する各国の請求に米国が容易に応じなかったため、各国はロンドンの自由金市場で金ドルの交換を行なった。そのためロンドンの金価格はじりじり値上がりし、米国の保証する公定価格と大きな差が生まれた。米国と欧州主要国はドルの信用を回復しようと1961年から金プール機構を作り、ロンドンの金市場で金売り介入を行った。

1968年になると、金取引がさらに拡大したため、金は1オンス35ドルの公定価格以外に自由価格を認める二重価格となった。自由金市場では金1オンス600ドルにもなった。ドルは市場によって事実上切り下げられたことになる。

米国から金の流出に歯止めはかからず、ニクソン大統領は金ドルの交換停止を宣言することになった。当時は一時的な措置の予定だったが、結局、現在に至るまで金本位制を放棄したままとなっている。

ドルは商品の裏付けから完全に切り離され、純粋な不換紙幣となった。FRBは民間人、企業、外国政府、外国の中央銀行からの金との交換請求にわずらわされることなく、ドルを自由に発行できるようになった。

一見よいことのように思えるが、ひとつ問題があった。お金を自由に生み出せる「打ち出の小槌」を手にした人間は、節度のある使い方をすることが難しい。予算のばらまきに走りがちな政治家なら、なおさらだ。ドルが大量に発行されるのと並行して、政府の債務が急膨張していく。

米連邦政府の総債務は1970年末に約4000億ドルだったが、2022年1月末に初めて30兆ドル(約3450兆円)に達した。約半世紀で75倍に膨張している。約30兆ドルのうち、国債など連邦政府自身の債務が約23兆5000億ドル、社会保障基金などその他の公的機関の債務が約6兆5000億ドルとなっている。また、外国に対する債務は約7兆7000億ドルあり(2021年11月時点)、そのうち日本に対する債務が約1兆3000億ドルと最も多く、中国の約1兆1000億ドルが続く。

世界全体でも債務は膨らんでいる。とくにここ十数年は2008年のリーマン・ショックをきっかけとする世界金融危機、2020年からの新型コロナ感染症の流行に対し、各国政府が財政による対策に乗り出したため、公的債務の増大に弾みがついた。

国際通貨基金(IMF)によると、2020年に民間部門を含む世界の債務は第二次世界大戦以降、最大の年間増加額を記録し、債務残高は過去最高の226兆ドル(約2京5800兆円)に達した。対国内総生産(GDP)比は28ポイント上昇の256%となった。

債務増加額の約半分は政府が占め、残りは非金融企業と家計部門だ。公的債務は今や世界全体の40%を占め、ここ60年弱で最大となっている。世界の公的債務は対GDP比で過去最高の99%に跳ね上がった。

債務拡大はとくに先進国で顕著で、公的債務の対GDP比は2007年の約70%から、2020年には124%まで上昇した。中国を除き、新興国・途上国の割合は比較的小さい。

IMFは2022年4月に公表した論評で、世界の債務負担が「危険な水準」に達したと警鐘を鳴らした。新型コロナ対策がいまだに多くの政府予算に重くのしかかるなか、ウクライナでの戦争を受けてリスクがさらに増したためだ。「負債の透明性を改善し、債務管理の政策および枠組みを強化するために、当局者による改革が急務」と呼びかけた。

しかし米欧日諸国は債務を削るどころか、ウクライナの戦争支援や物価高対策などに支出を増やしており、財政は一段と悪化する恐れが強まっている。

そうしたなか、ロシア大統領府は2022年4月29日、通貨ルーブルと金やその他商品の交換比率を固定することを検討していると明らかにした。

ロイター通信によると、ペスコフ大統領報道官が記者団との電話会見で「この問題をプーチン大統領と話し合っている」と表明した。ロシア中央銀行のナビウリナ総裁は記者会見で「いかなる形でも議論していない」と語っているものの、実現すれば、ニクソン・ショック以来の金本位制復活となる。

半世紀にわたる債務膨張への反省から、通貨制度の枠組みが大きく転換するのか、注目される。

2024-07-21

「戦争で経済繁栄」の嘘

「戦争は経済に利益をもたらす」という主張をよく耳にする。戦時には武器や弾薬、兵士の食糧などが大量に必要になり、それらを扱う企業が儲かる。さまざまな技術が戦争をきっかけに開発される。戦争が終わると、戦時中に破壊された多くの住宅やビルが建て直され、経済活動を刺激する――。だから戦争は悲惨であっても、国を経済的に豊かにする、というのだ。しかし、これは本当だろうか。

学校で教えない大恐慌・ニューディール

戦争が繁栄をもたらすという根拠の一つとしてしばしば持ち出されるのは、 第二次世界大戦中の米国だ。たしかに当時、米国の各種経済統計は改善を示しているように見える。しかし、そこには落とし穴がある。

最初に、失業率を見てみよう。1940年の14.6%から1944年にはわずか1.2%まで低下している。表面上は、戦時中に失業がほとんどなくなったように見える。しかし数字の背景にある現実を考慮すれば、額面どおりに受け取ることはできない。失業者が減った大きな要因は、徴兵などによって軍隊に入る国民が増えたことにある。

エコノミスト、ロバート・ヒッグス氏の著書(Depression, War, and Cold War)によれば、この期間、失業者は745 万人(公式統計)または462万人(民間統計)減少したが、軍隊の人員は1087万人増加した。民間の失業をなくすことが繁栄をもたらすと考えるとしても、民間人の失業を100人減らすために146人または235人を軍隊に入れるとは、異様なやり方だ。

しかも兵役は、民間の仕事とはまったく性質が異なる。しばしば肉体的・精神的傷害の危険にさらされるし、過酷な環境にもかかわらず報酬はわずかで、戦争が続く限り、やめたくてもやめられない。大戦中、米国人の死者は約40万人、負傷者は67万人に上った。兵役が民間の仕事をどれだけ補ったか、単純な比較はとてもできないだろう。

次に、経済成長である。米政府の公式統計によれば、実質国内総生産(GDP)は戦時中の1941年から43年にかけて、年率およそ20%という驚くべき勢いで増加した。44年も8.4%と高い伸びだった。

しかし、そもそも戦時に限らず、国内総生産やその前身の国民総生産(GNP)は定義上、政府が財政支出を増やせば増加につながる。それが経済を豊かにするかどうかは別問題だ。政府の公共事業が政治力に左右され、非生産的な用途に回されがちであることはよく知られる。

戦争中はとくにその傾向が強まる。第二次大戦中に増加した米政府の支出は、大半が兵器の購入と徴兵で急増した兵士への給与支払いに充てられた。しかし戦争関係の政府支出を統計に含めることには、経済学者の間に異論があった。とくに注目したいのは、GNP統計の生みの親である、ノーベル賞経済学者サイモン・クズネッツの意見だ。

クズネッツはつねづね、GNPは「平時の概念」であると強調していた。それによれば、政府支出をGNPに含めてよいのは、それが消費者向けの財購入か資本の形成に充てられる場合だけであり、軍事支出は原則除外しなければならない。その根拠をクズネッツは「(外敵から)生命や身体を守ることを、個人への経済的サービスとして語ることには無理がある。それは経済的サービスの前提条件であり、サービスそのものではない」と述べている。

クズネッツはこの考えに基づき、戦中・戦後の経済成長の修正値を試算した。1939年のGNPを100とすると、政府の公式統計(1990年作成の推計値)では戦時中の1944年に192.7のピークに達し、終戦直後の1946年に153.1に急低下している。これに対し、クズネッツの修正値は1942年に118.2(公式統計では150.8)、43年に117.6(同178.1)と公式統計を大きく下回り、一方で終戦後には1946年に146.5と前年比17%上昇している。公式統計とは対照的な推移だ。この違いはおもに、クズネッツが一部軍需品の高すぎる購入費を修正し、兵士への給与支払いを統計から除いたことによる。

戦時中、生活必需品が不足して国民が不自由で貧しい生活を強いられたことや、終戦とともに社会が繁栄を取り戻したことを考えあわせれば、軍事支出で水増しされた政府の公式統計より、クズネッツの修正値のほうが経済の実態をより適切に反映していることは明らかだろう。

最後に、個人消費だ。同じく1939年の実質個人消費支出額を100とすると、政府の公式統計(1990年推計値)では41年の110.5から44年の115.9まで上昇基調をたどっており、これをもとに「戦時中は個人消費が盛んだった」と主張する論者がある。

これらの論者が見落としているのは、公式統計が戦時中の物価上昇を過小に見積もっていることだ。戦時中、政府は物価統制を行い、商品の値段を人為的に抑え込んだ。軍事費を賄うため連邦準備銀行を通じて通貨供給量を増やした影響で物価に上昇圧力がかかり、国民の不満が強まったためだ。

闇市場では公定価格より高い値段で商品が売買されたが、政府が算出する消費者物価統計には反映されない。この結果、物価上昇分を差し引いた個人消費額は過大に計算されてしまう。

経済学者ミルトン・フリードマンとアンナ・シュワルツの試算によると、公式統計による物価上昇率は1943年で3.7%、44年で7.7%、45年で8.9%、それぞれ過小に見積もられているという。これに基づき1人あたり実質個人消費を算定すると、39年の100から41年に108.7のピークに上昇した後は42年に104.2、43年に101.9と低下し、44年も102.0にとどまる。これが戦時中の個人消費の実態に近いだろう。

以上が「戦争の経済効果」の実像である。大戦に経済効果があったとすれば、米軍需産業の輸出を増やしたことだろう。欧州の連合国は戦火にさらされ、生産能力が落ちたためである。米国政府はレンドリース法(武器貸与法)に基づき、総額501億ドルの兵器・武器、軍需物資を他の連合国に売却や貸与の名目で提供した。

代金と引き換えではなかったため、ルーズベルトは国民の同意を得るため、これは火事を消すために隣人にホースを貸すようなものであると説明した。しかし代金の支払いや物資の返却は結局ほとんど行われず、コストを実質負担したのは米国の納税者だった(ロバート・マーフィー『学校で教えない大恐慌・ニューディール』)。

クズネッツの修正GNPが示すように、米国経済が繁栄を取り戻したのは戦争が終わってからだった。終戦が近づいた頃、ケインズ経済学の影響を受けた多くの経済学者は、膨大な軍事支出がなくなる結果、米国経済はふたたび大不況に突入すると予想した。しかしその予想はみごとに外れ、戦後経済は力強く復活への道を歩み始めたのだった。

2024-07-14

ニューディール政策は成功したか

秋の米大統領戦で返り咲きを狙うトランプ前大統領の1期目、その経済政策を「トランプ流ニューディール」と評する声が聞かれた。道路や橋、空港、トンネル、鉄道などのインフラ整備に意欲を示したし、メキシコ国境での壁建設も一種の巨大な公共工事といえる。1930年代米国を襲った大恐慌に対し、積極的な経済対策で立ち向かったフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策を思わせる、というわけだ。

ビジネスマンなら知っておきたい 教養としての近代経済史 狂気と陰謀の世界大恐慌

しかし今でも広く信じられている、「ニューディールのおかげで米国は大恐慌を脱した」という説はそもそも正しいのだろうか。米経済は1940年代に入っても、ひどく低迷していた。これはルーズベルトが大統領に就任しニューディール政策を始めた1933年から10年近くが過ぎても、成功しなかったことを意味する。

当時の米経済の低迷を顕著に示すのは、失業率である。ニューディールを擁護する専門家は、1937~38年を除けば、失業率は毎年低下したと称賛する。

しかしその見方には無理がある。まず、失業率の水準が高すぎる。1933年から米国が第二次世界大戦に参戦する1941年まで9年間の平均は17.6%で、黄金の20年代と呼ばれた1923~29年の平均(3.3%)の5倍以上である。繁栄を取り戻したとはとてもいえない。

米国史上、大恐慌以前の不況はたいてい2年以内、最長でも5年以内に終わっている。開始以来10年近くたっても不況が終わらなかったとすれば、ニューディールは成功例というよりむしろ失敗例にふさわしい。

また、ニューディールが始まって以来、失業率が毎年下がったというだけでは、それがニューディールの成果によるものなのか、それとも市場経済の自律的回復によるものなのか、判断できない。ここで参考になるのは、第一次世界大戦(1914~1918年)終結直後の厳しい不況とそこからの立ち直りである。

自由放任主義のハーディング政権のもとで、失業率は1921年に11.7%まで上昇し、2年後の1923年にはわずか2.4%まで低下した。年平均4.5ポイント強の低下である。

ニューディールの成否は、過去との比較だけでなく、同時代の他国との比較でもわかる。

ニューディールのような介入政策が行われなかった隣国カナダでは、失業率は1930~33年に大きく上昇したものの、その後改善に向かっている。注目すべきは、米国でニューディールが始まって以来、米国よりむしろ改善の度合いが大きいことである。

ルーズベルト政権に先立つフーバー政権時代(1930〜33年)に米国の失業率はカナダを3.9ポイント上回るだけだったが、ニューディール時代(1934〜41年)にはその差が5.9ポイントに広がった。

欧州諸国の回復も米国より早かった。たとえば英国では1937年には失業率が10.3%まで低下した。同時期の米国より4ポイント低い。

失業率以外の指標を見ても、ニューディール政策の成果は芳しくない。一人あたり国民総生産(GNP)が大恐慌開始時の1929年の水準をかろうじて回復したのは、1940年のことである。本格的な成長は戦後まで訪れなかった。個人消費支出は1940年になっても719億ドルと、1929年の水準(789億ドル)を8%下回っていた。

ケインズ経済学の影響力が増した戦後の経済学会では、ニューディールは政府の介入政策の成功例として長らく称賛されてきた。しかし近年はその風潮にも変化がみられる。

カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の経済学者リー・オハニアンとハロルド・コールは2004年8月、権威ある学術誌ジャーナル・オブ・ポリティカル・エコノミーに「ニューディール政策と大恐慌の持続」と題する論文を掲載した。それによると、一人あたり実質国内総生産(GDP)は、大恐慌が頂点に達した1933年にはそれ以前の傾向から導いた理論値を39%下回ったが、1939年になっても27%下回っていた。同様に民間労働時間は1933年に理論値より27%少なかったが、1939年になっても21%少ないままだった。

オハニアンとコールは「ニューディール政策は経済を大恐慌から脱出させなかった」と結論づける。むしろ市場経済に介入したせいで米経済の回復は7年遅れてしまったとみる。

ニューディールが思ったほどの成果をあげていないことは、当時から当事者が誰よりも痛感していた。ルーズベルト政権が2期目の終わりに近づいた1939年5月、モーゲンソー財務長官はこう嘆いている。「我々はカネを使おうとしてきた。かつてない規模で使っているのに、効き目がない。〔略〕多数の失業者は当初と変わらない。おまけに、積み上がった膨大な債務。ただ座して時間を浪費するばかりで、くたびれ果ててうんざりだ。なぜだ。まったく光明が見えない」

不成功の教訓は重い。政府が経済をテコ入れしようとさまざまに介入すれば、かえって経済の活力を弱めてしまう。この事実を次の大統領には忘れないでもらいたい。

2024-07-07

ナチス経済は資本主義だったか?

第一次世界大戦に敗れたドイツでは、過大な賠償金支払いなどを求めるベルサイユ体制に対して国民が強い不満を抱き、新興政党であるナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)や共産党が勢力を伸ばした。

ヒトラーの率いるナチスは、1923年のミュンヘン一揆に失敗した後、合法路線に転じ、ベルサイユ条約の破棄・大ドイツ国家の建設・反ユダヤ主義・不労所得の廃止などを唱え、大衆宣伝や突撃隊(SA)の行動力によって、既成政党に絶望した農民や中間層の支持を集めた。

ナチス 破壊の経済 上

1932年の総選挙で第一党に躍進したナチスは、1933年1月にヒトラー内閣を樹立した。

ナチスは国会議事堂放火事件を利用して共産党を弾圧したほか、3月には政府に立法権を与える全権委任法を成立させ、ナチス以外の政党や団体を解散させて、わずか半年で一党独裁体制を確立した。1934年にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相と大統領を兼ねて総統となった。

ナチスの独裁体制と思想をナチズムといい、イタリアで起こったファシズムの一種とみられている。ファシズムは自由主義・共産主義に反対し、独裁的な指導者や暴力による政治の謳歌などを特徴とする。

このナチズムについて、しばしばある誤解が見受けられる。共産主義に反対したことから、経済体制としては資本主義に分類されるという見方がそれだ。

しかし、資本主義が政府の介入を排した自由な市場経済に基づく体制だとすると、ナチズムがそれに当てはまるとは考えにくい。実態を見ていこう。

1933年2月20日、25人ほどの実業家の一団が、秘密会議のために当時の帝国議会議長ヘルマン・ゲーリング邸に召集された。招かれた中にはドイツ産業界のリーダーたちがいた。やがてヒトラー首相が現れ、演説を始めた。「左翼との闘争の次の局面は3月5日の選挙後に始まる。ナチスが国会で33議会追加できれば、反共産党法案を合憲手段で可決できる」という内容だった。これに対しドイツ実業界の大半は、喜んで十分な準備資金を用意した。

英歴史学者アダム・トゥーズ氏は、この秘密会合とその結果について「ドイツ実業界がヒトラーの独裁体制樹立をどれほど積極的に支援したかを示す最も悪名高い例だ」と述べる。それだけでなく「実際あらゆる状況で、抵抗が予想されそうな局面においてさえ、政権の政治的代表者たちはドイツ実業界に積極的協力者を見出した。専制計画、再軍備、そして多くの新たな規制機関でさえ、すべてドイツ産業界が好意で提供した経営専門知識による支援を受けていた」と指摘する。

ナチスの支配するドイツでは、企業が政府の介入に抵抗するどころか、進んで協力し、ほとんど一体化していた。このような体制を自由な資本主義とは呼びにくい。

ナチス経済の実情をさらに詳しく見ていこう。

巨大化学企業IGファルベン社はドイツのみならず、世界最大の民間企業の一つだった。 もともと他国間貿易を重視し、ドイツ産業界の自由主義派に属していた。それがある事業をきっかけに、ナチス政権と親密な関係を結ぶ。

1926年、同社はドイツ中部のロイナ工場で、石炭をガソリンに変える錬金術じみた製法、人造石油の設備建設に世界で初めて着手した。この計画は、いつの日か石油は枯渇するという見通しが動機になっていた。

ところがその見通しは見事に裏目に出る。石油不足の予測が探査ブームを巻き起こし、1920年代末にはベネズエラ、米カリフォルニア、オクラホマ、テキサス各州での開発により、世界の原油市場は供給過剰になった。追い打ちをかけるように、1930年10月、ブラック・ジャイアントの異名をとる東テキサス油田が発見された。数カ月のうちに世界の原油価格は暴落し、IGファルベン社による人造石油への投資は経済的根拠を失った。事業に未練のある同社は、自給自足経済を目指すナチスに接近する。

その年末には航空省と陸軍両方の後押しで、財務省がいわゆるガソリン契約の条項を固めた。国が資本投資の最低5%の収益をIGに保障する代わりに、IGは人造石油の設備を年間生産量35万トンにまで拡大する責務を負った。たとえ市場価格が安価な輸入品によって下がっても、国が補助金でIGの収益を保障した。その一方で、5%を超える収益はすべて国に納めた。第二次世界大戦終結後に開かれたニュルンベルク国際軍事裁判で、IGファルベン社とナチス政権との親密な関係はドイツ産業界のナチスとの「野合の象徴」とされた。

1934年秋から1935年春にかけて、政府によって業界組織の新たな枠組みが強制された。各産業部門で多数存在した自主的な業界団体がまとめられ、国家集団(商業、銀行、保険など)、経済集団(工業、製鉄、機械など)、専門集団の各階層組織に組み入れられた。当初、経済集団の主な役割は国家経済省と個々の企業との連絡係だったが、1936年以降、加入企業の経営内部にまで立ち入る権限を与えられた(トゥーズ『ナチス 破壊の経済』)。まさに官民一体の体制といえよう。

これに先立つ1933年2月、ナチス政府は政令で、私有財産を保障するワイマール憲法153条を無効とした。これにより、資本主義の基礎である私有財産制度が根底から揺らぐことになった。

私有財産の権利があれば、事業主は自分の製品・サービスを自由に売れるはずだ。しかしナチス政権の下でそれはできなかった。販売店が価格を上げるには、価格委員会の特別な許可を得なければならない。値上げの要請は、まずグループのリーダーの認証を受けなければならない。値上げの必要性の詳細な説明と、生産コストや流通コストなどの関連データも添えなければならなかった。

またナチスの官僚たちは、財界や金融界の有力者たちに、危険で採算が合わないと思われる事業を強要できた。

エコノミストのギュンター・ライマンは当時の経済界のムードを描写し、「ファシズムのもとでの資本家は、単に法律を守る市民であるだけでなく、国家の代表者に従順でなければならないのだ。彼は、権利を主張してはならないし、私有財産権がまだ神聖であるかのように振る舞ってはならない。私有財産をまだ持っていることを総統に感謝しなければならない」と書いている。

またライマンによると、あるドイツの事業家は米国の知人に宛てた手紙で、「公式には我々はまだ独立したビジネスマンであるという事実にもかかわらず、ロシア(ソ連)の制度との違いは、あなたが考えているよりもずっと小さいのです」と述べた(『吸血鬼経済』)。

経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは「社会主義実現には、二つの類型がある」と指摘する。第一はロシア型で、工場・商店・農場といった生産手段は形式上、国有化され、公務員によって経営される政府の部局である。第二はドイツ型で、生産手段の私有を名目上、保持しているものの、企業経営者は政府の命令に無条件で服従しなければならない。ミーゼスは「これは資本主義の名目で偽装した社会主義である」と強調する(『ヒューマン・アクション』)。

ナチス経済の実態に照らせば、ミーゼスが言うようにそれは資本主義ではなく、「偽装した社会主義」と呼ぶのがふさわしいだろう。このナチスドイツの経済体制は、同時代の日本の政策構想にも大きな影響を及ぼしていく。

2024-06-30

ソ連社会主義の運命

第一次世界大戦は、世界全体に大きな変動をもたらした。その一つがロシアで起こった史上初の社会主義革命である。

ソ連史 (ちくま新書)

ロシアでは大戦の長期化によって食糧や物資が欠乏し、国民は厭戦気分に包まれた。1917年3月、首都ペトログラードで民衆によるデモとストライキが起こり、兵士もこれに加わった。反政府運動は拡大し、各地で労働者・兵士のソビエト(「会議」の意)が結成された。国会では自由主義派の立憲民主党を中心に臨時政府が樹立された。皇帝ニコライ2世は退位し、ここにロマノフ王朝は崩壊した(二月革命)。

二月革命によって、農村では土地を求める農民の蜂起が広がった。ボリシェビキ(のちのソビエト連邦共産党)の指導者レーニンは4月に亡命先のスイスから帰国。臨時政府との対決を主張し、労働者と農民の革命を結合するよう説く。11月、ボリシェビキは武装蜂起して臨時政府を倒し、社会革命党左派の協力を得てソビエト政権を樹立した(十月革命)。これは世界最初の社会主義革命だった。

ソビエト政権(1922年にソビエト社会主義共和国連邦=ソ連)は誕生直後から、白軍(反革命軍)との内戦や、資本主義諸国が起こしたシベリア出兵などの対ソ干渉戦争に直面した。しかしソビエト政権を最も長期にわたり悩ませることになるのは、国内外の軍事的脅威ではなく、市場経済(資本主義)という「内なる敵」だった。

内戦や干渉戦争に直面したソビエト政権は、チェカ(非常委員会)によって反革命運動を取り締まる一方、トロツキーの指導のもと赤軍を組織して対抗した。そして全工業を国有化し、農民からの食糧徴発、労働義務制などの厳しい戦時共産主義を断行して、政治と経済の統制を強化した。

工業国有化は資本家や職員らの強い反発を招き、経済と生産は混乱に陥った。農業の危機は一層深刻だった。シベリアやボルガ川流域、ウクライナなどでは、ソビエト政権による軍隊への動員、馬や穀物の徴発、教会への抑圧などへの反発から、農民たちの抵抗運動がときには十万人規模で起こった。しかもそこに干ばつが重なって、飢餓が発生した。1921年の飢餓では100万人以上が死んだとも言われる。食糧危機は当然都市にも及んだ。

ソビエト政権では、食糧を確保しつつ農民の抵抗を和らげることが急務であるとの主張が強まった。そのための具体的な政策が、レーニンが強く主張し、党内の異論を押し切って1921年に始めた「新経済政策(ロシア語の略語でネップ)」である。

「新経済政策」と呼ばれたものの、その内実は資本主義の一部復活だった。農産物の収穫に対して定率の税を課し、税を納めた残りの収穫物は市場での売買も含めて農民が自由に処分することを認めたもので、収穫が多ければ多いほど豊かになる可能性が農民に与えられた。国営企業にも独立採算制が導入され、市場的な関係が復活した。ネップは人々の生産意欲を刺激し、経済は安定した。世界初の社会主義革命で生まれたソ連を経済危機から救ったのは、皮肉なことに、資本主義の一部復活だった。

ネップの成功は影ももたらした。旧資本家の一部が国営企業の経営専門家として復活し、技術人員も高い賃金で雇われた一方で、独立採算を求められた国営企業が合理化を進めた結果、労働者が解雇されて失業が発生した。農村では富農が経済力を強め、農村共同体内での影響力を強めた。私的な商業活動も認められたことから、都市と農村を結ぶ「かつぎ屋」や「ネップマン」と呼ばれる商人や企業家が多数出現した。彼らは商品流通に少なからぬ役割を果たしたが、不当な利益を得ているとして怨嗟の的ともなった。

ソ連共産党内では、ネップによって生じた経済格差などに労働者や一般党員の不満が強まったこともあり、指導的党員のなかにもネップに批判的な態度を示す者がおり、激しい党内論争を招いていく(松戸清裕『ソ連史』)。

1924年のレーニン死後、スターリンは一国社会主義論を唱え、世界革命論を堅持する左派のトロツキーや、ネップ継続を主張する右派を粛清して独裁的地位を築いた。スターリンは1928年、ネップに代わって社会主義経済の建設をめざす第1次五か年計画に着手し、工業生産を順調に伸ばした。この成果は資本主義国が世界恐慌で苦しんでいたときだけに、世界の注目を集めた。

しかし、一見順調なソ連の計画経済は、その裏側で農村経済の恐るべき破綻を招いていた。五カ年計画では重工業の発展が優先されたため、消費物資の生産が減少してモノ不足になり、国民は不自由な生活を強いられた。さらにスターリンは農業の集団化を強制し、農村を土地・農具・家畜などを共有する集団農場であるコルホーズに再編し、さらにそのモデルとなる大規模な国営農場(ソフホーズ)を設けた。

革命で地主支配から脱し、自分の土地を持つことができたと思っていた農民たちは、集団化に抵抗した。特に激しい抵抗を示したのは比較的豊かな自営農たちだった。スターリンはこうした自営農たちを、社会主義の理想を阻む強欲なブルジョワであり、内なる敵であると名指しして徹底的に弾圧した。富農たちは次々に逮捕され、処刑されるかシベリアの強制収容所に送られた。富農だけでなく、集団化に抵抗する農民たちも容赦なくシベリア送りにされた。

さらに、農業集団化そのものも悲惨な結果を生んだ。どれだけ収穫しても自分の利益にならず、働きがいを失った農民たちは、コルホーズでの農業労働を拒否したり手を抜いたりした。農業生産は落ち込んだ。

しかもソ連は、五カ年計画を成功させるために農産物を都市部に大量に供給させた。農村は集団化によって土地を失ったばかりか、自分達が生産した食料を手に入れることすら困難になった。その結果、1932年から1933年にかけて、多くの地域で飢餓が広がり、穀倉地帯のウクライナやカザフスタンで大量の餓死者が出ることになった。飢餓による死者は数百万人にのぼるといわれる。

ソ連は1933年から第2次五カ年計画を開始したが、この時期にスターリンの個人独裁が確立していく。スターリンは自らの権力を確固たるものにするために、大量の人々を逮捕し、強制収容所に送るか処刑した。大粛清と呼ばれる。大粛清の対象はきわめて恣意的で大規模なものになり、死者数は少なくとも150万人から300万人に及ぶとされる。

もちろん対外的には、恐怖に覆われたソ連国内の実態は情報統制によって隠され、五カ年計画の成功が宣伝されていった。西洋諸国が恐慌に苦しむなか、工業生産高を上昇させるソ連に世界は驚愕し、「ソ連型モデル」として称賛された(北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー』)。

けれども実際には、ソ連経済の内実は疲弊しており、ついには1991年の破綻に至ったことは周知の事実だ。

じつはソ連経済の破綻を早くから予測した経済学者がいた。オーストリア出身のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスである。ミーゼスはロシア革命からまもない1920年に発表した論文で、社会主義経済は実現できないと断言した。社会主義では土地や労働力など生産手段の市場が存在せず、したがって合理的な経済計算の基礎となる価格が存在しないからだ。

発表当時、ミーゼスの主張は多くの反論を巻き起こしたが、結局正しかったことが歴史によって証明された。ソ連の社会主義体制はその誕生当初から、経済の原理に反し、滅びることを運命づけられていたのである。

2024-06-16

第一次世界大戦の悲劇

「するとたちまち恐ろしい唸り声とともにぴかっと光った。この掩壕(えんごう)は一発の命中弾を食って、あらゆる隙間がばりばりっと音を立てた。〔略〕あらゆる金属性の恐るべき音響を発して、壁は震え、武器も鉄兜も地面も泥も塵も、ことごとく飛散した。硫黄の匂いを含んだもうもうたる烟(けむり)が、遠慮なしに侵入してきた」

西部戦線異状なし (新潮文庫)

ドイツの作家レマルクの小説『西部戦線異状なし』(秦豊吉訳)の一節である。第一次世界大戦に出征したレマルクはその体験をもとにこの作品を執筆した。未曾有の大量殺戮に戦慄する兵士たちの姿を生々しく描き、世界的反響を巻き起こした。

第一次世界大戦は1914年から1918年まで独墺陣営(同盟国)と英仏露陣営(協商国・連合国)との間で戦われた、史上初の世界戦争である。

戦争は長期化し、甚大な被害をもたらす。19世紀のおもな戦争の戦死者数がナポレオン戦争198万人、南北戦争62万人、普仏戦争18万人だったのに対し、第一次世界大戦は855万人にも達した。

死傷者数が膨大な数にのぼった一因は、毒ガス、戦車、軍用飛行機、軽機関銃などの新兵器の投入である。『西部戦線異状なし』で主人公のドイツ人兵士ボイメルは毒ガスについてこう語る。

「僕は野戦病院で、恐ろしい有様を見て知っている。それは毒ガスに犯された兵士が、朝から晩まで絞め殺されるような苦しみをしながら、焼けただれた肺が、少しずつ崩れてゆく有様だ」

戦争が世界規模に拡大した背景には、各地で激化していた列強の植民地を巡る利害対立があった。なかでもバルカン半島におけるオスマン帝国の領土の奪い合いが大戦の思わぬ火種となった。

1914年6月、バルカン半島にあるボスニアの州都サラエボでセルビア人青年が放った銃弾により、オーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が殺害された。オーストリアは同盟国ドイツの軍事協力の約束を取り付けてのち、7月にセルビアに宣戦布告し、オーストリア・セルビア戦争が勃発する。

当事者のオーストリアもセルビアも、それらの同盟相手のドイツもロシアも、この戦争はボスニアを巡る局地戦争にすぎず、それがまさか世界大戦と呼ばれるような大戦争に発展するとは、誰も思っていなかった。しかし実際には軍事同盟を介してロシア、ドイツ、フランス、英国が次々と参戦し、バルカンの局地戦争は一カ月の間に全欧州の戦争へと拡大していった(北村厚『20世紀のグローバル・ヒストリー』)。

軍事同盟は平和の維持が目的とされるけれども、第一次世界大戦勃発の経緯に鑑みれば、むしろ戦争を引き起こすリスクもあることを忘れてはならないだろう。

参戦国の多くは開戦後まもなく、兵器、弾薬、その他軍需品の不足に直面し、長期戦を見据えた戦時生産体制に移行する。

ドイツは英国による経済封鎖で海外からの工業原料が途絶する事態に備え、陸軍省に戦時原料局を設置し、大手電機会社AEGの社主ラーテナウにその運営を委託した。最初は金属原料から始まった統制は、やがてほとんどの産業分野に及んだ。ドイツの戦時統制経済は戦後、ソ連の社会主義建設や日本の高度国防国家のモデルとされた。

英国は敵国ドイツ同様、経済に対する政府の介入を加速させる。軍需省を新設し、社会政策推進で国民に人気のあったロイド・ジョージを大臣に任命した。ロイド・ジョージは要所に経済人を登用し、軍需生産のテコ入れを図った。英国の経済介入体制は戦後の福祉国家の原型となる。

フランスではポアンカレ大統領が開戦直後の教書で、国土防衛のための「ユニオン・サクレ(神聖なる団結)」を提唱した。フランス国民は戦争は短期終結するだろうとの予測の下、個人の権利の制約を受け入れ、国家に大きな権限を与えた(板谷敏彦『日本人のための第一次世界大戦史』)。

第一次世界大戦が起こる前、世界経済はおおむね自由主義が主流で、政府が経済に積極的に介入することは少なかった。それが大戦によって大きく変容していった。ある意味で、自由主義以前の重商主義の時代に逆戻りしたとも言えるだろう。

一般民衆の間にも戦争の影響は広く及んだ。参戦国の多くで、それまで反戦平和を唱えていた労働組合や社会主義政党も戦争協力に転じ、挙国一致体制が成立した。また植民地を含めて総力戦体制が構築され、戦闘員と民間人との境界線があいまいになった結果、民間人を巻き込む都市爆撃が行われるようになった。

生産体制の強化とともに参戦国の課題となったのは、戦費の調達である。

戦時財政の規模はどの国でも巨額に上った。ドイツの場合、大戦勃発直前の1913年の政府の税収23億マルクに対し、敗戦時の戦費負担は総額1550億マルクになっていた。連邦制をとるドイツは中央政府の課税能力に限界があり、戦費中の租税充当分はわずか3%にすぎない。不足分は国債・公債発行で調達するしかなかった。英国などの妨害や米国世論の反独傾向から国外での発行は成功せず、ほとんどが国内での発行となった。

一方、英国は早くから増税で対応した。労働者など低所得者に配慮して中・高所得者の所得税率を引き上げ、さらに高額所得者には別途、特別税を課して社会的不公平感の高まりを和らげた。その結果、戦費の26%を税収で賄い、この比率は参戦国中で最も高かった。

フランスは戦争前半は短期信用で、後半になって公債、増税による調達も併用した。ロシアはほぼ全額を英仏の同盟国で、さらに米国でも調達した。

いずれにせよ、租税で支えられるのは戦費の一部にすぎず、大部分はいわば借金で賄った。各国とも最初は短期戦だろうと期待したことと、その後は「勝ったら敵に払わせる」ことを前提にしたからだ。それが、勝つまでは戦争を続けなければならないという決意を固めさせ、戦争を長引かせる要因の一つになった(木村靖二『第一次世界大戦』)。

ドイツの哲学者カントは著書『永遠平和のために』で軍事国債の禁止を唱えた。国債の発行によって戦争の遂行が容易になり、平和実現にとって大きな障害になると考えたからだ。しかし第一次世界大戦で列強の政治指導者たちはカントの警告を無視して戦費を国債に頼り、その結果、甚大な戦禍を引き起こし、人々を苦しめた。

第一次世界大戦が起こるまでは、ある仕組みによって政府の借金に一定の歯止めがかかっていた。金本位制だ。

金本位制では金が本来の通貨とされ、政府通貨は一定の重さの金を裏付けとしなければならない。このため政府は保有する金の量以上に通貨を発行することができなかった。金本位制を維持したままでは、政府通貨を大量に発行し、それによって自ら国債を買い取って戦費を調達することができなかった。

そこで各国は大戦が始まると、相次いで金本位制を停止した。その結果、各国は財政上の歯止めから解放され、国債で多額の戦費を賄い、それが戦争の長期化と被害の拡大につながっていった。もし金本位制が維持されていたら、戦争はもっと早く終わり、人的・物的被害も少なく済んだかもしれない。

『西部戦線異状なし』の主人公ボイメルは「なぜだ、なぜ戦争を止めないんだ」と悲痛に叫び、ある日戦死する。しかし司令部報告は「西部戦線異状なし、報告すべき件なし」と記すだけだった。

国家の利益を巡る対立が一般国民を巻き込み、多数の命を消耗品のように奪った第一次世界大戦の悲劇。それが経済・社会にもたらした負の影響は戦後も続き、やがてもう一つの大戦につながっていく。

2024-06-09

帝国主義を批判した鉄鋼王

米国は南北戦争後の急速な経済発展により、1880年代に世界最大の工業国となった。そして1890年代に開拓対象となる西部辺境(フロンティア)が消滅したこともあり、海外進出の機運が高まっていった。

米国は建国以来、国際政治への介入を控える「孤立主義」の伝統を守ってきた。それが大きく転換し、海外進出に向かうきっかけとなったのは、米西戦争である。1898年、キューバとフィリピンを舞台に米国とスペインの間で戦われた。日本でいえば日清戦争の終結から四年後のことだ。

カーネギー自伝 新版 (中公文庫)

1895年2月、ホセ・マルティによってキューバのスペインからの独立運動が始まると、スペインは苛烈な弾圧を行い、長引く動乱のため島は荒廃した。一方、同じくスペイン領のフィリピンでも独立の機運が高まり、1896年8月に独立革命が勃発、その後一時挫折したものの1898年に入って再燃していた。

米国はキューバに投資と貿易の利害をもち、戦略的関心を抱いてもいた。米国民はみずからの独立戦争を想起して同情の声を上げ、これを米国のイエロー・ジャーナリズムと呼ばれる扇情的な新聞が煽った。映画「市民ケーン」のモデルとして知られるウィリアム・ランドルフ・ハースト、ピューリツァー賞に名を残すジョセフ・ピューリツァーらの経営する新聞はその代表格だ。

1898年2月、ハバナ港に停泊中の米戦艦メイン号が爆発、沈没し、将兵二百六十名が死亡した事件をきっかけに、前年大統領に就任していた共和党のマッキンリーは3月末、スペインに最後通牒を突きつけた。「メイン号を忘れるな」のスローガンが叫ばれる中、米議会はキューバ独立のための武力行使を決定した。

ところが戦争の第一報はフィリピンから届いた。1898年5月1日、米海軍がマニラ湾に侵入し、スペイン艦隊を撃破した。スペイン軍はキューバとフィリピンの双方で反乱軍や米軍と対峙せざるをえず、総崩れとなる。スペインのカリブ艦隊は7月に米軍に撃破された。8月には米軍とエミリオ・アギナルド率いるフィリピンの反乱軍により、マニラが陥落した。

米西戦争の勝利により、米国はスペインからフィリピン、グアム、プエルトリコを奪ったうえ、キューバを独立させて事実上の保護国とした。

しかし、米政府のこの決定に対し、国内では憂慮する声も広がった。

米国のフィリピン領有を正式に決めるパリ講和の最中、米国内では反対運動が盛り上がり、反対派は1898年10月、反帝国主義連盟を結成した。連盟に名を連ねたのは、作家マーク・トウェイン、共和党上院議員ジョージ・ホア、民主党大統領候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアン、哲学者ウィリアム・ジェイムズらである。

フィリピン併合への反対論の核心は、キューバ解放のための戦争がアメリカ帝国の建設を導いてしまったことにあり、独立宣言により誕生した共和国アメリカが異民族を支配する帝国となることは、アメリカ民主主義の堕落だと主張した。

連盟メンバーの一人であるエール大学の社会学者ウィリアム・グラハム・サムナーは1899年、「スペインによるアメリカの征服」と題する講演で、「アメリカは、膨張主義ないし帝国主義の道を歩むことによって、アメリカがこれまで象徴してきたものを失い、スペインが象徴してきたもの——すなわち帝国主義——を採用することになるのであるから、戦争ではスペインに勝っても、観念および政策の分野ではスペインに屈したことになる」と米政府を批判した。

反帝国主義連盟メンバーのうち異彩を放ったのは、鉄鋼王として知られるアンドリュー・カーネギーである。スコットランドからの移民で、無一文から巨万の富を築いた。

カーネギーは、キューバ独立を支援する米国の戦争には賛成した。この戦争は純粋に人道的理由に基づき、領土拡大が目的ではないというマッキンリー大統領の言葉を信じたからだ。

ところが戦争の結果、米国がフィリピンを併合する見通しが強まった。カーネギーはこれに怒り、フィリピンを米支配下に置くあらゆる条約の締結に反対しようと決意する。そして公然と反対論を唱え、反帝国主義運動に資金を提供するようになった。実現はしなかったものの、フィリピンの人々を米国の支配から自由にするため、資金力に物を言わせてフィリピン諸島を買い取ることまで試みた。

米西戦争が終結した1898年夏には、併合反対論は戦勝への熱狂にかき消されがちだった。しかし秋になると、反帝国主義運動が米国内に広がり、全国組織の連盟へと発展していく。カーネギーは雑誌への寄稿で、次のように力強く訴えた。
米国がフィリピンの独立への戦いを弾圧する役目を果たすなど、できるだろうか。もちろんできない。どんな顔をして、フィリピンの学校に米国の独立宣言を掲げつつ、彼らに独立を認めないなどということができるだろう。フィリピンの人々の心は、リンカーンの奴隷解放宣言を読んだとき、どう反応するだろう。私たちは独立を実践しつつ、従属を説くというのか。書物では反乱を教えつつ、武力で鎮圧するというのか。反逆の種をまきつつ、忠誠という収穫を期待するというのか。
カーネギーはこう続けた。「米国は早くもその使命に飽き飽きして捨て去り、勝利の独裁、つまり外国人による支配を打ち立てるという不可能な任務に乗り出そうというのか。そして自治という天賦の権利を主張してきた数百万のフィリピン人が、独立を勝ち取ったことを最大の誇りとする米国人の最初の犠牲者にならなければならないのか」

カーネギーのこの議論は、英国の植民地から独立して誕生した由来を持つ米国自身が、他国をその意思に反して植民地にする矛盾を鋭く衝いている。

カーネギーは新聞、国会議員、自分と同じ資本家らにも手紙で併合反対を訴えた。マッキンリー大統領にも何度も手紙を書いたが、やがて直接話す機会が訪れた。

米西戦争の終結後、マッキンリー大統領は西部を遊説し、至る所で米国の勝利について演説し、拍手で迎えられた。そしてフィリピンから撤退するのは大衆の意思に反するという印象を受けて首都ワシントンに帰り、それまでの撤退方針を撤回した。

カーネギーはある閣僚から、大統領を考え直させるよう頼まれ、ワシントンへ行き、大統領に会った。しかし、大統領は頑としてきかなかった。「撤退するなら、国内で革命が起きる」という。それでとうとう閣僚らも、これは一時の駐留であって、将来何かの口実をつくって撤退するのを条件にして、いちおう了承した。

カーネギーら反帝国主義連盟による併合反対論は、米国が「白人の責務」として、未開で自治能力を欠くフィリピンを民主化するという主張にも押し切られ、1898年12月、米国のフィリピン領有が正式に決まった。

カーネギーは自伝でこう回想している。「ここに、アメリカ合衆国ははじめて、重大な国際的な過ちを犯したのである。この誤りが、結局、この国を国際的な軍国主義の渦中に投じ、またそれが強力な海軍の建設というところに追い込んだのである」

フィリピンでは、米国による領有の決定と同時に、アギナルド率いるフィリピン独立軍との激しい戦闘が開始された(米比戦争)。独立運動は1901年に鎮圧されるが、それまでに米軍の残虐な仕打ちで20万人以上のフィリピン人が死亡した。カーネギーの恐れたとおり、米国が独立を阻む弾圧者に変貌したのである。

資本家というと、帝国主義的な対外膨張を好むイメージがあるかもしれない。たしかにフィリピン併合当時、通商拡大による経済効果を期待し、賛同した資本家たちもいた。だが一方で、カーネギーのように強く反対した人もいた。

米国はその後、アジア進出を加速させ、太平洋戦争やベトナム戦争につながっていく。戦勝の熱狂の中、帝国主義を批判したカーネギーの見識と勇気は、末永く称えられる価値がある。

<参考文献>
  • 貴堂嘉之『南北戦争の時代 19世紀』岩波新書、二〇一九年
  • アンドリュー・カーネギー(坂西志保訳)『カーネギー自伝』(新版)中公文庫、二〇二一年
  • Stephen Kinzer, The True Flag: Theodore Roosevelt, Mark Twain, and the Birth of American Empire, Henry Holt and Co., 2017

2024-06-02

泥棒貴族という英雄たち

南北戦争後、1870年代から90年頃までの米国では経済が急速に発展した。日本では明治時代前半にあたるこの時期は、「金ぴか時代」と呼ばれる。この名称は十九世紀の米文学を代表するマーク・トウェインらの小説の題名からきており、外見だけは華やかだが、金儲けに人々が奔走し、政財界に腐敗が蔓延した時代との批判が込められている。

The Myth of the Robber Barons: A New Look at the Rise of Big Business in America (English Edition)

金ぴか時代に拝金主義や政財界の腐敗という影の部分があったのは事実だ。けれども、それがすべてであったわけではない。理想の追求や勤勉の精神、慈善の拡大といった輝かしい側面もあった。

金ぴか時代のこの二面性を理解するうえでカギとなるのは、「ロバー・バロン(泥棒貴族)」と呼ばれる人々だ。もともとは中世英国で領内を通行する旅人から通行料を取る悪質な貴族のことだが、それにならって、情け容赦なく、際限なく利益を追求する資本家・事業家を指してこう呼んだ。

金ぴか時代には、泥棒貴族と呼ばれる資本家が輩出した。たしかにそのうち一部は、政治権力と癒着して不当な利益をむさぼった。しかし一方で、フェアな市場競争を通じ正当に富を築いた事業家も少なくなかった。泥棒貴族の真の姿を探ってみよう。

南北戦争後の米国では、大陸横断鉄道をはじめ鉄道網が発達した。その立役者となったのは鉄道資本家だ。

政府による資金支援がなければ大規模な鉄道建設は無理だと信じている人は少なくない。たしかに一部の鉄道資本家は政府とのコネを利用して支援を引き出した。たとえばセントラル・パシフィック鉄道の創業者リーランド・スタンフォードはカリフォルニア州知事、同州選出の連邦上院議員を歴任した政治家でもあり、そのコネを利用して鉄道の競争を妨げる法律を通し、独占による利益を享受した。

彼などはまさしく、権力を利用して不当な利益をあげた泥棒貴族の名にふさわしい人物だろう。しかしそのせいで、まっとうな商売で富を築いた起業家まで同類に扱われ、非難されるのは残念なことだ。

鉄道業界でそうしたまっとうな起業家の代表は、グレート・ノーザン鉄道の創業者ジェームズ・ヒルだ。ヒルは十四歳で父を亡くし、母を支えるため学校をやめて働き始める。食料雑貨品店、農業、海運、羽毛販売などで元手を蓄えた後、ミネソタ州の倒産した鉄道会社を仲間とともに買い取った。

ヒルはただちに鉄道業の才能を発揮する。業務の無駄を省き、社員が交代で必ず休憩時間を取れるようにした。コスト削減の成果を農業、鉱業、林業関係者など利用客とも分かち合い、運賃を引き下げた。自社と顧客は共存共栄の関係にあると知っていたからだ。水害や不況に苦しむ農家のために穀物の種子を無料で提供し、町に土地を寄付して公園、学校、教会が作れるようにもした。

ヒルは、同業者で結託して運賃を高めに維持しようとするカルテルの誘いを拒んだ。むしろ進んで運賃を引き下げ、カルテルを崩そうとした。

1886年から1893年にかけ、大陸を横断するグレート・ノーザン鉄道を建設した際には、補助金頼みの鉄道とは違い、景色よりも耐久性や効率性を重視した。少しでも距離を短く、勾配をなだらかに、カーブを少なくするため、より良い路線の調査・開発に努めた。その結果、グレート・ノーザン鉄道は世界の主要鉄道のうち、最も便利で儲かる鉄道となった。

これに対し、健全な鉄道の建設よりも政府からの補助金獲得に力を入れた鉄道会社は、経営が不効率で、次々と倒産した。実のところ、最後まで倒産しなかった大陸横断鉄道は、ヒルのグレート・ノーザン鉄道だけだった。

まっとうな起業家でありながら、泥棒貴族とおとしめられる資本家の代表といえば、石油王ジョン・ロックフェラーだろう。

鉄道王ヒルと同じく、ロックフェラーも恵まれない境遇から身を起こした。行商人の子として生まれ、十六歳で高校卒業後、見習いの経理事務員となる。キリスト教プロテスタントの一派であるバプテスト教会の敬虔な信者で、勤勉と貯蓄を重んじた。いくつかの営業職を経て、二十三歳のときには十分な資金を蓄え、オハイオ州クリーブランドの石油精製会社に出資した。

ロックフェラーはやはりヒルと同様、事業のあらゆる細部に気を配り、コストの削減、製品の改善、品ぞろえの拡大に努めた。ときには肉体労働者に交わってまで、事業をとことん理解しようとした。他の経営幹部もこれにならい、会社は急成長する。のちのスタンダード石油である。

石油製造に伴う多くの無駄をなくす方法も考案した。社内の化学者に命じ、潤滑油、ガソリン、パラフィンワックス、ワセリン、ペンキ、ニス、その他三百種に及ぶ副産物の生産方法を考え出した。これにより生産の無駄をなくし、採算性を高めた。稼いだ利益は精製施設の改善に惜しみなく投じた。操業の安全性に強い自信を持っていたため、保険にすら入らなかったという。

スタンダード石油は急速に市場シェアを伸ばしていく。1870年の4%から1874年には25%に、1880年には約85%にまでシェアを高めた。その原動力になったのは低価格だ。精製油の値段は1869年の1ガロン30セント超から1874年には10セントに、1885年には8セントに下がった。安くなった灯油は、家庭で明かりの燃料として使われるようになる。これは米国民の生活に革命を起こす。当時、日が暮れてから働いたり物を読んだりする習慣はまだ目新しかった。

ロックフェラーは顧客に対してだけでなく、従業員に対しても非常に寛大で、競合他社より大幅に高い給与を支払った。おかげでストライキや労働争議に悩まされることはめったになかった。

ロックフェラーにまともな商売で太刀打ちできない同業者らは、そんなときの常套手段に訴える。政府にロビー活動で働きかけ、法律や規制で相手を縛ることだ。1906年、米連邦政府はスタンダード石油に対し反トラスト(独占禁止)規制に基づく訴訟を起こす。

そもそも独禁規制の目的は、消費者の保護にあるとされる。そうだとすれば、米政府がスタンダード石油を訴えたのはおかしなことだ。前述のように、同社は効率経営によって石油の値段を数十年にわたり大きく引き下げ、消費者に大きな恩恵を及ぼすとともに、競合他社に値下げを促してきたからだ。

市場シェアからも、スタンダード石油を独占とみなすのは疑問だった。1890年には88%と高水準にあったものの、1911年には64%に低下していた。競合他社は数百社もあった。それにもかかわらず、米連邦最高裁は同年、同社に対し独禁法違反の判決を下した。スタンダード石油は三十四の新会社に分割される。

その結果、スタンダード石油の経営は効率が低下し、不効率な同業他社が得をすることになった。損をしたのは消費者である。

スタンダード石油が独禁法違反で摘発された背景には、マスコミによる攻撃もあった。急先鋒だったのは、当時人気雑誌だった「マクルアーズ・マガジン」の編集長アイダ・ターベルだ。ターベルはロックフェラーとの競争に敗れて破産した石油業者の娘で、ロックフェラーはいわば親の仇だった。ターベルのロックフェラー批判は経済学的には的外れだったが、ロックフェラーを悪玉に仕立て上げ、世論を動かすうえで大きな力があった。

ロックフェラーは一般に信じられている姿とは違い、控えめで物静かな人物だった。新聞や雑誌から攻撃を受けると、「夜も寝られない」と不満を述べ、「これほどの心痛で苦しまなければならないのなら、自分が手に入れたすべての富など意味がない」と漏らすこともあったという。

信仰心の厚いロックフェラーは若い頃から教会などの慈善事業に寄付をしてきたが、富を築いてからはそれを本格化した。シカゴ大学はロックフェラーによる寄付金をもとに今日では名実ともに世界的な大学となった。医療研究、文化施設にも多くの寄付を行った。

金ぴか時代の泥棒貴族には、政治の力で金儲けをし消費者の利益を損なう、まさに泥棒の名にふさわしい連中もたしかにいた。しかしそれ以外に、ビジネスの王道を通じ社会を豊かにした英雄的な起業家たちもいた。これら二つの集団を混同してはいけない。それは縁故主義と資本主義の違いでもある。

<参考文献>
  • 飯塚英一『若き日のアメリカの肖像: トウェイン、カーネギー、エジソンの生きた時代』彩流社
  • 松尾弌之『列伝アメリカ史』大修館書店
  • Thomas J. Dilorenzo, How Capitalism Saved America: The Untold History of Our Country, from the Pilgrims to the Present, Crown Forum
  • Burton W. Folsom, The Myth of the Robber Barons, Young Amer Foundation

2024-05-26

南北戦争の真の目的

米バージニア州の州都リッチモンドで、公園に建てられた南北戦争の南軍司令官ロバート・リー将軍の銅像が撤去された。リー将軍の銅像は、奴隷制度や人種差別の象徴だとして長年批判にさらされてきた。黒人の男性が白人の警官に首を押さえつけられて死亡した事件をきっかけに、人種差別への抗議運動が広がったことを受け、州知事が撤去を表明していた。

The Real Lincoln: A New Look at Abraham Lincoln, His Agenda, and an Unnecessary War (English Edition) 

米国では南部を中心に、奴隷制存続を主張した南部連合(アメリカ連合国)にゆかりのある人物の銅像や記念碑が数多く設置されているが、抗議運動の中で、各地で倒されたり自治体によって撤去されたりする動きが相次いだ。

南北戦争(1861〜65年)に関しては、人種差別をめぐる善対悪の単純な図式にあてはめた報道が目立つ。しかし実際の背景はもっと複雑であり、ニュースでは触れられない意外な事実が少なくない。

まず、戦争の目的である。南北戦争は初めから奴隷解放のための戦争だったと思うかもしれないが、そうではない。戦争が始まってから少なくとも一年半の間、奴隷制は戦争の争点ではなかった。

開戦前にさかのぼって経緯をたどってみよう。1860年11月の大統領選挙で、奴隷制の拡大反対を唱える共和党からエイブラハム・リンカーンが当選すると、これを機に南部ではサウスカロライナ、テキサス、ルイジアナ、ミシシッピ、アラバマ、ジョージア、フロリダの7州が相次いで連邦から脱退し、翌61年2月、アメリカ連合国を結成した。3月4日にリンカーンが第16代大統領に就任したときには、合衆国はすでに分裂状態になっていた。

ところがリンカーンは同日の大統領就任演説で、奴隷制を批判しなかった。むしろ「奴隷制度が敷かれている州におけるこの制度に、直接にも間接にも干渉する意図はない」と述べた。同年7月4日に特別議会へ与えた教書でも、南部の行動を「連邦破壊の試み」だとして非難するばかりで、奴隷制の是非などはまったく語っていない。

リンカーンは個人としても、奴隷制や人種差別に反対ではなかった。1858年、イリノイ州選出の上院議員候補として出馬し、民主党の現職議員スティーブン・ダグラスと論戦を交わした際、こう述べた。「私は白人と黒人のいかなる社会的・政治的平等の実現にも賛成しないし、賛成したこともない。黒人が選挙権や裁判権を与えられたり、公職に就いたり、白人と結婚したりすることに賛成でないし、賛成したこともない」

リンカーンはこれに先立つ1834〜42年、イリノイ州議会の議員を務めているが、この間、州の黒人差別立法に反対したことはない。黒人への選挙権付与に反対し、黒人に裁判で証言を認めさせようとする請願に署名することを拒んだ。

リンカーンは黒人植民を強く支持してもいた。黒人植民とは、奴隷から解放され、自由な身分となった黒人を米国外の地に移住させることだ。1816年に創設されたアメリカ植民協会は、黒人植民によって合衆国を白人の共和国にすることを目指した。リンカーンが政治の師と仰いだ大物政治家ヘンリー・クレイは同協会の創立メンバーで会長も務めた。リンカーン自身、黒人をアフリカのリベリアや中米のハイチに移住させる案を抱いていた。

当時の米国で人種平等や奴隷解放を唱えたのはごく一部の運動家だけで、奴隷や黒人への蔑視と嫌悪は、南部に限らず、北部でもごく一般的な感情だった。リンカーンもそうした普通の白人の感情を共有していた。もし黒人差別を理由にリー将軍の像を撤去するのなら、ワシントンの記念堂にあるリンカーンの大理石像も問題にしなければならないだろう。

リンカーンと北部諸州にとって、戦争の本来の目的は奴隷解放ではなく、連邦の維持にあった。

先に連邦を離脱した7州に続き、1861年4〜5月にかけて、バージニア、ノースカロライナ、テネシー、アーカンソーの4州が新たに南部連合に加わり、首都はバージニアのリッチモンドに置かれた。一方、南北の間に位置し「境界州」と呼ばれるミズーリ、ケンタッキー、メリーランド、デラウェアの4州は、奴隷州でありながら南部連合には加わらず、連邦にとどまった。

これに対しリンカーンはいかなる州も勝手に連邦を離脱することはできないとして、断固連邦を維持する決意を示した。1862年8月、ニューヨーク・トリビューン紙の編集長ホレス・グレーリーに対し、明確にこう述べている。「この戦争における私の至上の目的は、連邦を救うことにあります。奴隷制度を救うことにも、滅ぼすことにもありません。もし奴隷は一人も自由にせず連邦を救うことができるものならば、私はそうするでしょう。そしてもしすべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるのならば、私はそうするでしょう。またもし一部の奴隷を自由にし、他はそのままにしておくことによって連邦が救えるものならば、そうもするでしょう」

リンカーンは、合衆国憲法にのっとって正当に選出された自分の権威が、相次ぐ離脱によて否定されるのは耐えがたかった。また、共和党や北部世論にとっても、連邦体制は一種の神聖さを帯びた理念であり、実体でもあった。

だからといって、連邦離脱は許さないというリンカーン側の言い分には疑問が残る。南部連合側の主張によれば、離脱の法的根拠は合衆国憲法修正第10条にある。同条では「この憲法が合衆国に委任していない権限または州に対して禁止していない権限は、各々の州または国民に留保される」と定めている。合衆国憲法に連邦離脱に関する規定はなく、なおかつ州は連邦政府に対し離脱を禁止するいかなる権限も委任していない。したがって、離脱は州の権利として留保されているはずだという。

これは決して無理な主張ではない。事実、リンカーンの前任者ジェームズ・ブキャナン大統領が最初の南部7州の離脱を黙って認めた背景には、この法解釈があった。ブキャナンは南部諸州に離脱の権利があるとまでは考えなかったものの、連邦政府に離脱を禁止する権限があるとも思わなかった。

しかしリンカーンは、離脱に対し強硬姿勢で臨んだ。1861年4月、南部連合はサウスカロライナ州の中心都市チャールストン、つまり自国のど真ん中に残された連邦政府のサムター砦に砲撃を加え、陥落させた。死傷者はなかったが、リンカーンは反乱のレッテルを貼り、7万5000人の兵を差し向けた。ここに南北戦争の幕が切って落とされた。当初、南北双方とも自らの勝利のうちに短期間で終わると楽観していた戦争は、丸四年続くことになる。

戦争が長引くにつれ、リンカーンは焦りを覚えた。このままでは英国やフランスの干渉を招き、南部連合の独立の承認という耐えがたい条件を飲まされることになる。戦局を好転させる窮余の一策として脳裏に浮かんだのが、奴隷解放の宣言だった。

実行すれば、奴隷解放を求める内外の声に応え、「人道のための戦争」として世界の世論を味方につけることができる。同時に、南部の奴隷たちは大挙して大農園を脱出し、北軍のもとに押し寄せるだろう。それは南部社会・経済の根幹を破壊し、南軍の戦争遂行能力に打撃を与えるだけでなく、脱走奴隷を北軍の兵士や労働者として使役すれば、連邦政府側の戦力が高まる。

こうして1862年9月22日、リンカーンは「奴隷解放予備宣言」を発し、翌63年1月1日、正式な「奴隷解放宣言」を発した。ただし、解放の対象となったのは反乱状態にある州や地域の奴隷だけであり、連邦軍がすでに支配していた地域や境界州の奴隷は対象外だった。境界州の奴隷主たちを刺激しないための配慮だった。リンカーンの奴隷解放が人道上の目的ではなく、政治・軍事上の手段でしかなかったことを物語る事実だ。北軍に逃げ込んだ黒人奴隷は自由にはならず、野営地で過酷な労働を強いられるか、奴隷主に送り返された。

奴隷解放が目的であれば、戦争に訴える必要はなかった。18世紀後半から19世紀にかけて、奴隷制は英国、フランス、スペインの植民地を含め多くの国・地域でなくなったが、米国と違い、いずれも平和裡に廃止された。奴隷は労働者の賃労働に比べ割高で、経済的に不採算になっていたからだ。

南北戦争では近代的兵器が初めて使用され、両軍合わせ約60万人が戦死した。これは第二次世界大戦の約40万人、ベトナム戦争の約5万人などを上回り、米国史上最大の犠牲者数である。戦争末期、北軍の将軍ウィリアム・シャーマンが決行した焦土作戦では道路や鉄道、橋、工場などが破壊され、家畜が殺戮された。当時でも戦争犯罪にあたる非道な行為だ。

南北戦争は英語でCivil War(内戦)と呼ばれるが、正確には内戦ではない。内戦とは国内における権力の奪取をめぐる戦争だが、南部諸州は権力を奪おうとしたのではなく、独立を望んだだけだ。リンカーン政権が黙って離脱を認めていたら、戦争で甚大な犠牲者を出すことはなかったし、奴隷制も平和に廃止されていたかもしれない。南北戦争を善対悪の図式でとらえるだけでは、その真の教訓を学ぶことはできない。

<参考文献>
  • 小川寛大『南北戦争-アメリカを二つに裂いた内戦』中央公論新社、二〇二〇年
  • 貴堂嘉之『南北戦争の時代 19世紀』岩波新書、二〇一九年
  • 紀平英作編『アメリカ史 上』山川出版社、二〇一九年
  • Thomas E. Woods Jr., The Politically Incorrect Guide to American History, Regnery Publishing, 2004
  • Thomas J. Dilorenzo, The Real Lincoln: A New Look at Abraham Lincoln, His Agenda, and an Unnecessary War, Crown Forum, 2003

2024-05-19

「鉄血宰相」負の遺産

今から約150年前の1871年といえば、日本では発足まもない明治政府が廃藩置県を断行した年だ。その年の1月、フランスのベルサイユ宮殿でドイツ帝国創立式典が執り行われた。プロイセン国王ヴィルヘルム一世がドイツ皇帝に即位し、ここに国民国家としてのドイツ帝国が誕生した。

ビスマルク - ドイツ帝国を築いた政治外交術 (中公新書 2304)

ドイツ帝国の初代首相となったのはオットー・フォン・ビスマルクである。「鉄血宰相」として有名なビスマルクはその後、約二十年間にわたりドイツ帝国の舵取りを行うことになる。大政治家として知られるが、彼が残した「負の遺産」は小さくない。

ビスマルクはユンカーと呼ばれる地主貴族層の出身で、学生時代は決闘や喧嘩を好んだという。プロイセン王国の保守派の代議士、外交官を経て1862年、国王ヴィルヘルム一世が軍備拡張のため議会と衝突した際に首相に任じられる。このとき議会で「問題は、演説や多数決ではなく、ただ鉄と血によってのみ解決される」と有名な演説をした。鉄は武器を、血は兵士を意味する。

ドイツではこれに先立ち、工業地帯のラインラントを有するプロイセンが1834年にドイツ関税同盟を結成するなど、経済面で統一が進んでいた。ところが首相となったビスマルクは軍事力によって強引に統一を目指す。デンマークやオーストリアとの相次ぐ戦争で勝利し、1867年には、半世紀前のウィーン会議によって発足したドイツ連邦に代えて、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を成立させた。

一方、南ドイツ諸邦では、強大な隣国の誕生を恐れるフランスの煽動もあり、反プロイセン感情が根強かった。そこでビスマルクは、フランス皇帝ナポレオン三世を挑発し普仏戦争を起こさせた。外敵の出現で北ドイツ連邦と南ドイツ諸邦は協同してドイツ軍を結成し、ナポレオン三世を捕虜にしたうえでパリを包囲した。ベルサイユ宮殿でドイツ帝国創立式典が執り行われたのは、このときだ。

ドイツ帝国は連邦制をとり、プロイセン王が皇帝位を世襲した。男性普通選挙制の帝国議会には、予算審議権があるのみで力はなかった。

イギリスで始まった産業革命が波及し、十九世紀後半のドイツでは鉄鋼、鉄道、自動車、兵器、化学といった産業が急速に発達した。これらの産業で働く労働者の数が激増し、労働条件の向上を求める声が高まる。

こうしたなか、ドイツ出身の思想家カール・マルクスらによって確立された社会主義思想が労働運動に対し影響力を強める。フェルディナント・ラサールが全ドイツ労働者協会を、アウグスト・ベーベルらが社会民主労働者党をそれぞれ結成し、1875年に合併してドイツ社会主義労働者党(現在のドイツ社会民主党の前身)となった。この党が労働運動をリードし、ビスマルクは脅威を感じるようになる。

ビスマルクは社会主義勢力のこれ以上の台頭を防ごうと、出版法や結社法を総動員して規制を試みるが、1877年の帝国議会選挙では逆に社会主義労働者党に五十万票近くが集まり、十二名に議席を許してしまう。

1878年5月11日、ブリキ職人マックス・ヘーデルによる皇帝暗殺未遂事件が起こり、これを受けて社会主義者を取り締まる法律を帝国議会に提出したが、法の前の平等を損ねる内容だったため、圧倒的多数で否決された。ところが6月2日にまたしても皇帝暗殺未遂事件が起こり、八十一歳のヴィルヘルム一世が重傷を負うと、ビスマルクはこの法案を可決しようと帝国議会の解散に打って出る。

二度目の暗殺未遂事件の犯人は大学出のカール・ノビリングで社会主義勢力とは直接関係がなかったにもかかわらず、政府は社会主義の恐怖を煽動した。それもあって同年の帝国議会選挙では保守勢力が議席を伸ばした。その結果、ようやく法案は可決される。「社会主義者鎮圧法」である。

この法律によって、社会主義系の組織は疑わしいものも含めて解散させられ、集会や印刷物も禁止された。当初は二年の時限立法のはずだったが、四回にわたって延長されて1890年まで効力を持ち続け、約千五百名が禁固刑に処され、約九百名がその地域から追放処分にされた。

ところがこのような厳しい取り締まりにもかかわらず、結果はビスマルクの思惑とは裏腹となった。社会主義者鎮圧法では、選挙に参加する権利と議員としての免責権が保障されており、抑圧されながらも社会主義労働者党は活動を続けた。その結果、1880年代にはむしろ議席を着実に伸ばしていった(飯田洋介『ビスマルク』)。

そこでビスマルクは次の一手を打つ。社会保障制度の導入である。社会主義抑圧という「ムチ」が利かないのであれば、労働者に「アメ」をしゃぶらせようというわけだ。

ビスマルクは1883年に疾病保険、84年に労働災害保険、89年に障害・老齢保険(年金保険)と一連の社会保険を世界で初めて立法化した。これらを「ビスマルク社会保険三部作」とも称し、社会保険はその後、急速に近隣諸国に広まった。日本ではしばらく遅れて、同じように労働争議の激化や米騒動などの社会問題が深刻化した1922年、ドイツにならって最初の社会保険である健康保険法が制定された。

これらビスマルクの社会保険は、当初加入義務が一定の部門に限られ、失業を含めカバーされていないリスクがあった。また労災保険については、ビスマルクは現在各国でよく見られるような、国家が社会保険に直接関与する形を考えていたが、連邦制のドイツ帝国では中央集権的な国家の介入には抵抗があったうえ、自由主義勢力から「国家社会主義」と批判されたことなどから、国家が直接関与しない形に譲歩した。それでも全体として、国営の社会保障に踏み出した意義は大きいとされる。

しかし制定の経緯が示すように、ビスマルクが社会保障を導入したのは、労働者の利便を向上させるためというよりも、あくまで政治上の立場を有利にすることが第一の目的だった。1890年代、知人に対し「私が考えたのは労働者階級の買収だ。つまり労働者を味方につけ、政府は彼らのために存在し、彼らの幸福に関心を持つ社会組織だと思わせるのだ」と本音を語っている。

労働者にセーフティーネット(安全網)を提供するには、必ずしも政府が介入する必要はなかった。一部の大企業はビスマルク以前にすでに企業独自の福祉制度があった。たとえば鉄鋼や軍需産業で有名なクルップ社は、疾病者に対する疾病金庫、年金金庫などを独自に用意していた。また、工場労働者たちが労働組合などを通じて相互扶助を行う仕組みも作られていた(橘木俊詔『福祉と格差の思想史』)。

国家の介入を正当化する根拠として、民間の小規模な助け合いだけでは給付水準が限られるという見方がある。しかしそれは民間のネットワークを広げることにより、対応できるはずだ。政府の官僚機構は民間のような柔軟性を欠き、細やかなサービスが得意ではない。

国家であれば民間以上の給付水準を実現できるといっても、財源は民間から徴収する保険料や税金だから、当然限りがある。それにもかかわらず、給付水準は政治的な配慮によって引き上げられやすい。その結果が今、日本をはじめ先進各国が直面する社会保障費の膨張だ。

ビスマルクが推し進めた政治的な地域統合は、今の欧州連合(EU)につながる考えだが、それも英国の離脱などにより是非が問われている。中世のハンザ同盟は政治的なつながりなしに繁栄を享受した。鉄血宰相の功罪を冷静に検証するべきときだろう。

<参考文献>
  • 飯田洋介『ビスマルク - ドイツ帝国を築いた政治外交術』中公新書
  • 橘木俊詔『福祉と格差の思想史』ミネルヴァ書房

2024-05-12

イギリス帝国主義への道

イギリスでは十九世紀前半、自由主義思想が隆盛し、リチャード・コブデン、ジョン・ブライトらマンチェスター派の政治家は自由貿易、平和主義、自由放任を唱えた。1846年の穀物法廃止は、その輝かしい成果と言える。

新・人と歴史 拡大版 29 最高の議会人 グラッドストン

ところが十九世紀半ばから、自由主義に逆行する動きが目立ち始める。武力で植民地を維持・獲得しようとする帝国主義である。

自由主義を唱えるマンチェスター派は植民地について、自治権を与えて本国からの自立を促すよう主張していた。しかし現実の植民地政策はまったく逆の方向に展開した。

十九世紀半ば、イギリスの帝国主義をまず先導したのは外相、首相を歴任したパーマストン子爵である。彼はロシア帝国の南下政策を阻止するとして1854〜56年にクリミア戦争に参戦し、フランス、サルディニア(のちのイタリア王国)と協力して戦争を勝利に導き、国民的英雄になった。1856年には中国でフランスとともに第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こす。

同時にパーマストンは「イギリスの通商業者、製造業者のために新たな市場を確保するのは政府の仕事である」との確信を抱いて、帝国主義政策を世界各地で積極的に推進した。

次いで帝国主義政策の中心人物となったのは、保守党政治家のベンジャミン・ディズレーリである。1804年、ユダヤ系の文筆家の長男として生まれ、親とともにキリスト教(イギリス国教会)に改宗。1868年と1874〜80年の二度にわたり首相を務めた。外交政策では、本国からインドに至る「エンパイア・ルート」を、他の欧州列強の海外進出から防衛することを重視した。

ディズレーリは軍備を拡張し、露土(ロシア・トルコ)戦争に介入、同じくロシアの南下政策に対抗した第二次アフガン戦争を引き起こした。また、キプロスを占領し、南アフリカのトランスバール共和国を侵略した。

1875年にはエジプトのスエズ運河株を買収する。スエズ運河はフランス資本で作られ、株の多くをフランスが握っていた。破産しかけたエジプト副王が保有株(全株式の四四%の十七万六千六百株)をフランス資本家に売却するという情報をつかんだディズレーリは、議会に無断でユダヤ系金融資本ロスチャイルドから四百万ポンドを急ぎ借り受け、先手を打って株を買い取る。これによりイギリス政府がスエズ運河の最大株主となった。

ディズレーリはビクトリア女王に、「陛下、これでスエズ運河は陛下のものです。フランスに作戦勝ちしました」と報告したという。もっとも、本当に勝ちと言えるかは微妙だ。スエズ運河買収後、イギリスは約八十年にわたりエジプトを直接・間接に支配するが、その間、戦争と軍事費膨張、政治的動揺に見舞われることになる。

ディズレーリがスエズ運河を買収した狙いは、英本国とインドの往来をより安全にすることだった。そのインドでは十九世紀半ばまでに、イギリスは東インド会社を通じ、英語を公用語とし、官僚制度による近代的な行政・司法制度を導入した。一方で「野蛮な風習」を排斥するとして啓蒙主義的変革を進め、伝統の破壊として多くのインド人の反発を招いた。

1857年、北インドで東インド会社のインド人傭兵(シパーヒー、英語名セポイ)の反乱が起こった。シパーヒーはデリーを占拠し、ムガル皇帝を盟主として擁立。反乱は北インド全域に広がった。インド大反乱である。しかしイギリスは反乱を鎮圧。ムガル皇帝を廃し、東インド会社を解散させ、旧会社領をイギリス政府の直轄領に移行させた。

1876年、ディズレーリ首相はビクトリア女王にインド皇帝の新たな称号を贈る国王称号法を制定。翌77年1月にビクトリア女王のインド皇帝宣言が行われ、政府直轄領と五百程度の藩王国で構成するインド帝国を成立させた。

現地のデリーでは、インド総督リットンが旧ムガル帝国の儀式にのっとって大謁見式(ダールバール)を開催した。イギリスの君主制とインドが直結され、帝国の一体性と偉大さが強調された。

政府が推し進める帝国主義政策に対し、反対する声はあった。穀物法廃止で活躍したコブデンは議会に対し、クリミア戦争に介入しないよう訴えた。世界中を見回り、目に入るあらゆる悪事を正す「欧州のドン・キホーテ」になるのはイギリスの仕事ではないと主張した。しかし帝国の拡大を支持する声が強く、コブデンは反戦の主張のせいで一時議席を失った。

ディズレーリの政敵である自由党のウィリアム・グラッドストンも1879年の遊説で、武力による拡張主義外交をこう批判した。「我々が未開人と呼ぶ人々の権利を忘れるな。彼らの粗末な家の幸福も、雪に埋もれたアフガニスタンの丘陵の村に住む人々の生命の尊厳も、万能の神の目においては、諸君の生命の尊厳とまったく同じく、侵すべからざるものであることを忘れるな」

帝国主義に対する警告は的中した。政府が進めていた第二次アフガン戦争は頓挫した。南アフリカではズールー王国との戦争で八百人のイギリス兵が戦死した。さらに他の欧州列強との対抗上、地中海で海軍の配備を増強した。

ディズレーリは軍事費を賄うため増税に踏み切ったが、財政は赤字に陥った。これは前任首相のグラッドストンが減税し、しかも財政黒字を保ったのと対照的だ。

ディズレーリは、冒険主義的な外交を批判して平和主義を訴えるグラッドストンに1880年の総選挙で敗れる。グラッドストンは1894年まで首相を務めるが、帝国主義の流れは止められなかった。グラッドストンの退任後、イギリス政府はジョゼフ・チェンバレン植民相の下で海外膨張を推し進めていく。

歴史学者の間では、十九世紀の中葉、1850〜1870年代前半のイギリスの海外膨張を「自由貿易帝国主義」と呼ぶ。必要ならば軍事力による領土併合によって、自由貿易を各地に強制したからだという。

しかしこの主張は論理的に無理がある。そもそも言葉の定義上、「自由」を「強制」することはできない。もし国家が貿易を強制したのなら、それはもはや自由貿易ではなく、国営貿易とでも呼ぶべきだろう。逆に、イギリスと植民地時代のアメリカの貿易のように、貿易が自由な意思で行われているのであれば、それ自体に悪い点はない。悪いのは植民地にした帝国主義政策であって、その結果起こった貿易ではない。したがって、あえて「自由貿易帝国主義」などという言葉を使わず、単に「帝国主義」と呼べばいい。

経済学者シュンペーターは「帝国主義はその性格において原始的である。その特質は大昔からあらゆる社会で重要な役割を演じ、今まで生き延びてきた。つまり帝国主義とは現在ではなく、過去の生活状況の産物だ」と述べている。帝国主義は自由貿易とは相容れない政治行動だった。

近代文明の精華といえる自由貿易で豊かさを享受したイギリスは、前近代的で野蛮な帝国主義によって徐々にその土台を侵され、疲弊していった。戦前の軍国主義への反省を踏まえ、貿易立国として生きる日本にとって重要な教訓である。

<参考文献>

  • 秋田茂『イギリス帝国の歴史 アジアから考える』中公新書
  • 君塚直隆『物語 イギリスの歴史(下) 清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで』中公新書
  • 尾鍋輝彦『最高の議会人・グラッドストン』清水新書
  • Jim Powell, The Triumph of Liberty: A 2,000 Year History Told Through the Lives of Freedom's Greatest Champions, Free Press
  • Jim Powell, Wilson's War: How Woodrow Wilson's Great Blunder Led to Hitler, Lenin, Stalin, and World War II, Crown Forum

2021-10-03

百年の平和を築いた思想


1814年9月、欧州諸国の代表がオーストリアの首都ウィーンに集まった。フランス革命とそれに続くナポレオン戦争から生じた混乱を収拾し、欧州の新しい秩序を建設しようとする「ウィーン会議」である。

「会議は踊る、されど進まず」と風刺されたように、会議は初め大国間の利害対立のため難航したが、翌1815年、ナポレオンの再挙兵を機に議定書の調印が実現した。議定書では、フランス革命以前の政治秩序の回復を目指すとともに、大国の勢力均衡による国際秩序の平和的維持が追求された。これをウィーン体制という。

ウィーン体制の成立から1914年7月に第一次世界大戦が勃発するまでの約百年は、欧州が長期にわたる平和と経済の繁栄を享受した時代だった。それを支えたのは、ナポレオン戦争の悲惨な経験を繰り返したくないという人々の思いだけではない。自由主義と呼ばれる思想の隆盛が大きく貢献した。

自由主義とは、個人の自由な行動が社会の発展をもたらすとする思想だ。とくに経済活動にさまざまな規制を加えず、自由な活動を認めるよう強調した。スコットランドの経済学者アダム・スミスは『国富論』(1776年)で自由な貿易は国を豊かにすると説き、ナポレオン戦争後の欧州で影響力を広げる。

スミスの思想を深め、行動に結びつけたのはマンチェスターの織物業者リチャード・コブデンである。コブデン自身、後述するように、その思想と行動が欧州各国の自由主義に強い影響を及ぼしていく。

コブデンは1804年、サセックスで貧しい農家の息子として生まれた。極貧の中で育ち、正式な教育はほとんど受けていない。若くしてロンドンでキャラコ染の販売会社が成功し、マンチェスターで豊かな生活を送るようになった。その財産で世界旅行を始め、欧州の多くの国や米国、中東を訪ねる。旅上で執筆した小冊子で自由貿易、平和、対外不干渉に基づく新たな外交政策の考えを支持し、反響を呼んだ。

1839年、英国に戻り、穀物法の撤廃に賛同する。穀物法は1815年に制定された国産農業保護法。ナポレオン没落後の大陸封鎖令廃止で安価な大陸産穀物が流入するのを防ぐため、地主や農家の働きかけで、輸入穀物に高関税を課した。関税によって食料・穀物の値段は人為的につり上げられ、国内の農家を潤していた。

コブデンは、穀物法は英国民の食料価格を押し上げ、農業以外の産業の妨げになっていると主張。ジョン・ブライトとともに廃止運動の先頭に立つ。コブデン、ブライトらマンチェスターの産業資本化を中心とする自由貿易論者をマンチェスター派と呼ぶ。

1841年、コブデンは庶民院(下院)の国会議員に当選。コブデンと彼が率いる反穀物法同盟に対する国民の支持は広がり、1846年、ついに穀物法は廃止される。廃止後のイギリス経済は心配された農業への打撃もなく、黄金時代を享受していく。

コブデンの運動はフランスに刺激を与えた。1845年、ジャーナリストのフレデリック・バスティアは小冊子で穀物法廃止運動を紹介する。バスティアはアダム・スミスを信奉し、風刺の利いた多くの記事で、自由主義の利益と保護主義の害悪を説いた。ロウソク業者が政府に対し太陽との競争を防いでくれと請願する寓話は有名だ。

ドイツで自由貿易運動の中心人物になったのは、ジョン・プリンススミスである。イギリス生まれのプリンススミスはドイツに移住し、ベルリンでジャーナリストになる。イギリスで穀物法が廃止された1846年、コブデンの反穀物法同盟にならい、多くの財界人や言論人を集めてドイツ自由貿易協会を設立した。プリンススミスはフランスのバスティアの影響も受け、1850年にその著作を翻訳・出版している。

プリンススミスによれば、経済の発展には資本の蓄積が必要だが、政府の介入や重い税金は、資本の蓄積を阻害し、貧困を生み出す。とくに大きな妨げになるのが軍事費だとして、プリンススミスは反軍国主義の立場を長く貫いた。これはコブデンらマンチェスター派やバスティアにも通じる姿勢だ。

イギリスのコブデンは穀物法廃止後、活躍の場を海外に広げる。フランスの皇帝ナポレオン三世に謁見して自由貿易の利益を説き、1860年1月、世界初の自由貿易協定である英仏通商条約の締結に成功した。コブデン条約とも呼ばれるこの条約で両国の航海と通商の自由を定め、商品の関税を互いに引き下げた。

同条約の影響は大きかった。1862〜1866年にかけてフランスは各国と自由貿易条約を相次いで結んでいく。相手はドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、スイス、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、ノルウェーなどだ。これら諸国の多くも互いに貿易自由化に踏み切り、欧州では自由貿易が急拡大していく。

もう一つ、急拡大したのは移動の自由だ。フランスはコブデンの働きかけもあり、1861年、パスポート(旅券)とビザ(査証)をともに廃止した。産業革命で鉄道網が急速に発展し、移動の自由に対する要求が強まっていたことが背景にある。他の欧州諸国もフランスに追随し、20世紀初めには欧州全域でパスポートはほとんどなくなった。

コブデンらマンチェスター派の議論の出発点は、自由貿易による市場の拡大にあったが、そこから発展して独自の平和理論を築いていった。自由貿易による社会諸階級の利害の調和、自由貿易による各国の相互依存の深化がもたらす国際平和、国際平和のもとで可能となる軍事支出の節減、外国の紛争への不干渉主義などである。

コブデンは穀物法廃止を果たした1846年の演説で、自由貿易が世界平和をもたらすという信念をこう語っている。「夢かもしれませんが、遠い未来、自由貿易の力は世界を変え、政府の仕組みは今とまったく違うものになっているかもしれません。強大な帝国も大規模な軍隊もいらなくなるでしょう」

コブデンは1865年に死去する。その頃には自由主義が欧州を支配し、戦争はほとんどなくなっていた。コブデンの夢はかなったように見えた。

残念ながらその半世紀後、未曾有の大戦勃発で世界は戦争の世紀へと突き進んでいく。今も各地で戦火は絶えない。世界から戦争をなくすうえで、平和の百年を築いた自由主義の思想は貴重なヒントになるはずだ。

<参考文献>

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2021-09-05

フランス革命の光と闇


フランスのパリにある自由の女神像。フランスがアメリカの独立百周年を記念して贈った自由の女神像の返礼として、パリに住むアメリカ人たちがフランス革命百周年を記念して贈ったものだ。

1789年に始まったフランス革命は旧来の王制を倒し、近代市民社会の基礎を築いた。革命の光の部分だ。一方で、闇の部分もあった。暴力で反対者を弾圧する「恐怖政治」の発生だ。ギロチン(断頭台)はその恐ろしい象徴である。

自由の理念を掲げるフランス革命は、なぜ恐怖政治の闇を生んでしまったのだろうか。その原因は、自由の理念自体にあるのではない。革命政府が自由を十分に守らなかったことにある。守られなかった自由とは、経済活動の自由だ。

革命の経緯を簡単に振り返ろう。七年戦争でイギリスに敗れたフランスは、イギリスに対抗してアメリカの独立戦争を支援したが、多額の戦費で財政が悪化する。国王ルイ16世は課税の承認を求めて、1615年以来召集していなかった三部会を1789年5月に開く。三部会とは聖職者、貴族、平民の代表からなる身分制議会だ。しかし議決の方法をめぐって対立し、平民の議員を中心に、国民議会が形成される。

国民議会が憲法の起草を求めると、貴族と国王はこれを弾圧しようとした。このため、食料危機などに不満を抱いていたパリの民衆は7月14日、武器弾薬を求めて圧政の象徴とされたバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が始まった。8月、国民議会は封建的特権の廃止と人権宣言の採択を相次いで決めた。

革命は初め、立憲君主制をめざしたが急進化していく。1791年9月、男子普通選挙による国民公会が成立し、共和制の成立が宣言される。93年1月、ルイ16世は処刑された。

この間、庶民は食糧の不足と値上がりに苦しんだ。食糧事情は1789年に深刻化した後、90年、91年は緩和されたが、91年の不作が92年に影響し、民衆がテュイルリー宮殿を襲撃し国王らを捕らえた同年8月には絶頂に達した。革命期の重大な民衆行動の多くが夏から秋にかけての端境期に起こっており、食糧問題がいかに重要だったかを示している。

財産家や商人に対する民衆の攻撃が激しくなるにつれて、食糧の出回りはかえって悪くなり、値上がりが続いた。93年になるとパンの入手は困難になった。

庶民生活の困難のなかから、過激派(アンラジェ)と呼ばれる一団が生まれた。僧侶出身のジャック・ルーをリーダーとする過激派は、買い占め人、投機業者、財産家を目の敵にし、議会に迫って死刑を含む厳しい罰則で処罰すること、物価の統制、配給制の実施を求めた。

一方で過激派は買い占め人の襲撃や輸送中の物資の略奪、その安価な分配などの実力行動をたびたび展開した。その際、貧民たちや主婦が動員の対象とされた。主婦は生活問題に敏感であると同時に、信じやすいということを過激派の一人は指摘している。

革命政府内で穏健派とされるジロンド派は、経済の自由を尊重し、過激派の主張や行動を批判した。内務大臣ロランは、生産と流通の自由だけが食糧問題を解決するとして、声明で「おそらく議会が食糧についてなしうる唯一のことは、議会は何もなすべきではないということ、あらゆる障害をとり除くことを宣言することであろう」と述べた。

これに対し政府内で主導権を握る山岳派は、理論的にはジロンド派の自由主義を認めるが、過激派の主張を一部取り入れる態度を示した。同派のリーダー、ロベスピエールは「商業の自由は必要である」としつつ、「しかし、それは殺人的な貪欲が、商業の自由を濫用するにいたらないときまでのことにすぎない」と釘を刺した。

生活必需品である穀物の商業と、不要不急の染料の商業とを混同してはならないというのが、ロベスピエールの主張だった。これは経済に対する彼の無知を示していると言わざるをえない。政府が経済を統制し、市場経済の働きを妨げれば、かえって問題を悪化させてしまう。

1793年5月、穀物と小麦粉を対象に、値段の上限を定める「最高価格令」が決定された。9月には食糧のみならず全商品の価格を三年前の1790年の価格の三分の一増しに定め、また賃金も同じく1790年の二分の一増しとした。

しかし予想されたとおり、最高価格令は商品の売り惜しみを招き、かえって商品の出回りを妨げた。1793年から94年にかけての冬はことに厳しかったが、暖房用の燃料が不足し、夜の灯火も乏しくなった。春になって最高価格が引き上げられたものの、結果は変わらなかった。石鹸もローソクも手に入らず、人々は夜の2時から肉屋の戸口に集まった。

最高価格令の影響で、フランス中に闇市場が広がった。とくにバター、卵、肉などは戸別訪問によって少量ずつ販売され、手に入れたのはおもに富裕層だった。結局、富裕層が十分以上の食料品を手に入れ、貧乏人は飢えたままとなった。最高価格令は、民衆を救う狙いとは正反対の結果をもたらしてしまったのである。

飢えに苦しむ民衆は、富裕層への憎しみを募らせた。暴発を恐れた政府は1793年9月以降、半年前に設置した革命裁判所を舞台に、恐怖政治を本格化させていく。革命裁判所は、あらゆる反革命的企てに関わる事件を管轄する特別法廷で、控訴・上告は一切なく、ここで下された判決は即、確定の最終判決だった。

国会は最高価格令とともに、「疑わしい者たちに関する法令」を可決した。「疑わしい者たち」とは「反革命の輩」の意味だが、定義があいまいなため、ほとんど誰でも逮捕することが可能だった。

恐怖政治では王妃マリー・アントワネットらを含む約1万6000人が処刑され、1794年7月、テルミドールのクーデターでやっと終止符を打つ。

同月、ロベスピエールはそれまで多数の人々を送り込んだ断頭台で、自身が処刑される。ロベスピエールとその一派がパリの通りを処刑台へと向かう途中、群衆は「薄汚い最高価格令が通るぞ!」と野次を飛ばしたという。その年の12月、最高価格令は正式に廃止された。

経済の自由を安易に規制すれば、やがて社会全体の統制につながり、場合によっては深刻な権利侵害を招く。フランス革命の重い教訓である。

<参考文献>
  • 安達正勝『物語 フランス革命―バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで』中公新書
  • 河野 健二『フランス革命小史』岩波新書
  • 河野健二・樋口謹一『フランス革命』(世界の歴史)河出文庫
  • Robert L. Schuettinger, Eamonn F. Butler, Forty Centuries of Wage and Price Controls: How Not to Fight Inflation, Ludwig von Mises Institute

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2021-08-01

アメリカ独立は反税革命


7月4日はアメリカ独立記念日である。1776年、アメリカ大陸会議がイギリスからの独立宣言を採択した日で、米国では毎年盛大に祝われる。

トマス・ジェファーソンが起草した独立宣言は「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」という格調高い文章に続いて、当時のイギリス国王ジョージ三世による暴政を具体的に列挙している。そこには経済に関する事柄が少なくない。

たとえば、「おびただしい数の官職を新たに設け、この植民地の住民を困らせ、その財産を消耗させるために、多数の役人を派遣してきた」「われわれの世界各地との貿易を遮断する法律」「われわれの同意なしにわれわれに課税をする法律」などである。

これらの記述が示唆するとおり、アメリカ独立の大きなきっかけは、イギリス政府との間に起こった経済上の争いだった。その経緯をたどってみよう。

イギリスはフランスとの七年戦争(アメリカの戦場ではフレンチ・インディアン戦争)に勝利し、1763年のパリ条約で、フランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナを、スペインからフロリダを獲得した。その結果、最初のイギリス帝国が形成された。

しかし七年戦争は当時としては大戦争であったため、戦後のイギリスは深刻な財政難に見舞われる。七年戦争中に亡くなった祖父ジョージ二世の後を襲って王位に就いた若きジョージ三世は、自らに親しい政府とともに、北米植民地に対する従来の「有益なる怠慢」を見直し、財政負担を負わせる政策に舵を切る。

有益なる怠慢とは、北米植民地に対し比較的広い範囲の自治を認め、産業や貿易の統制を厳しくは行わない態度を指す。当時イギリスは、自国の輸出産業を保護育成し、貿易差額で資本を蓄積して国富増大を図る重商主義政策をとっていたが、北米植民地に対しては、離反を避ける狙いもあり、統制は緩やかだった。それが七年戦争でフランスを北米から追い出し、植民地に対する厳しい政策が可能になった。

さっそく七年戦争終結翌年の1764年、砂糖法を制定し、外国産の精白糖への関税を上げ、キャリコ、リネン、絹、ワインなど本国を経由して植民地に輸出される外国産品に対する関税を増やすことを狙った。

これは密輸入の増加を招いた。北米植民地の商人たちは、イギリス政府の輸入規制をかいくぐり、密輸で稼ぐしたたかさを備えていた。大陸会議議長として独立宣言で筆頭に署名したジョン・ハンコックは、密輸業者として有名だった。

近代経済学の父とされるアダム・スミスは、自由貿易を説いた主著『国富論』(1776年)でイギリス政府の重商主義を批判する一方で、密輸業者について「自然な正義という観点からは正当な行為を犯罪とする法律〔=輸入規制〕がなければ、どのような点でみても素晴らしい市民である場合が少なくない」と称えている。

イギリス政府は密輸入を防ぐため、本国から北米植民地に派遣する役人を増員して摘発を強化する。税関の取締官は大小あらゆる船に乗り込むことができ、税法違反と判断すれば船を積み荷ごと差し押さえることもできた。独立宣言にある「多数の役人を派遣してきた」とは、このことだろう。

翌1765年には、さらに問題の多い印紙法が制定される。これはアメリカ植民地の日常生活のほとんどすべてに影響するものだった。新聞、暦、小冊子などの出版物、証書その他の法律文書、船舶関係の書類、果てはトランプにまで政府の発行した印紙を貼るよう義務づけたのである。

印紙を用いたこの課税は、すでに本国では導入されていたが、従来のような関税ではなく、植民地内の諸活動に直接介入する内国税であるとして、植民地側は強く反発した。代表を送っていない本国議会による恣意的な課税は、植民地人が持つイギリス人としての固有の権利を侵害しているととらえたのである。マグナ・カルタや名誉革命後の権利章典などイギリスの伝統に基づく、「代表なくして課税なし」の論理である。

印紙税に対してアメリカ植民地全域で抵抗活動が活発化した。九つの植民地の代表が集まって印紙税反対の決議を行い、「自由の息子たち」と呼ばれる抵抗組織の活動も盛んになった。結局、印紙法は翌年廃止が決まった。ただし本国議会は同時に宣言法を制定し、植民地に対する立法権を引き続き主張した。

1767年、植民地に対する新たな課税が制定された。紙、塗料、ガラス製品、茶など本国や東インド会社の製品・産物である日用品の輸入に関税を課す、いわゆるタウンゼンド諸法である。

印紙税の失敗から、これらの税は形の上では内国税ではなく関税とされた。だが増税策であることは明らかであり、植民地全域で反発を招いた。不買運動が活発化し、茶や服飾など本国の商品に対する不買運動が展開された。1770年、イギリス議会は茶を除いて課税を撤廃した。

これにより平穏が保たれるかとみられたが、1773年5月、新たに茶法が制定された。アメリカ植民地に対し、東インド会社が通常の関税なしに紅茶を売ることを認めたものである。大量の茶の在庫を抱え、経営危機に直面していた東インド会社を救済する目的だった。

東インド会社は関税免除により、植民地の商人や密貿易業者が取り扱う紅茶よりも安い価格で供給することが可能になった。しかし事態は裏目に出た。多くの植民地人が密貿易から生活の糧を得ていたので、政府主導で特定の会社に特権的な利益をもたらすような制度を好まなかったのである。

同年12月、ボストン茶会事件として後世有名になる事件が起こった。商人たちが中心となり、農場主、農夫、きこり、船乗りらも加わって、先住民に扮装し、ボストン港に停泊中の東インド会社の船を襲い、積んであった茶箱をすべて海に投げ捨てたのである。非常に規律のとれた行動で、茶以外の品物には手をつけず、人に怪我もさせなかった。

事件に対し本国が制裁措置をとると、植民地側は1774年にフィラデルフィアで第一回大陸会議を開いて抗議した。年が明けて3月、大陸会議にも参加したヴァージニア植民地の指導者の一人、パトリック・ヘンリーは演説で「自由か、しからずんば死を」と訴える。

翌月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードで、本国の軍隊と植民地側民兵の武力衝突が起こり、独立戦争の幕が切って落とされる。八年の戦いの後、独立を勝ち取ったのは知ってのとおりだ。

アメリカ独立の前史を振り返ると、税を中心とする経済問題が独立に踏み切る大きな原動力となっていたことがわかる。アメリカ独立とは「反税革命」だったと言ってもいいだろう。

アメリカ独立を求めた人々にとって、自由とは経済の自由にほかならなかった。コロナ対策と称して経済の自由が安易に制限される現在、その事実の重みをあらためて噛みしめたい。

<参考文献>
  • 和田光弘『植民地から建国へ 19世紀初頭まで』(シリーズ アメリカ合衆国史)岩波新書
  • 紀平英作『アメリカ史 上』(YAMAKAWA Selection)山川出版社
  • Thomas J. Dilorenzo, How Capitalism Saved America: The Untold History of Our Country, from the Pilgrims to the Present, Crown Forum
  • Murray N. Rothbard, Conceived in Liberty, Ludwig von Mises Institute

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2021-07-05

イギリス産業革命の奇跡


18世紀のイギリスで始まった産業革命といえば、最近では環境問題の影響で良くないイメージが広まっている。石炭、石油、天然ガスなどの化石燃料の使用が急増し、大気中の二酸化炭素濃度が増加するきっかけになったと言われるからだ。

高校などの教科書でも、産業革命に関する記述は冷ややかだ。産業や交通が発達したことは評価するものの、あとは負の側面の指摘が続く。低賃金の長時間労働、劣悪な労働環境、女性や児童の酷使、都市の貧困や犯罪、衛生問題などだ。

けれどもこうした記述には、産業革命が普通の人々の暮らしを飛躍的に豊かにした事実が抜け落ちている。産業革命の奇跡ともいえる功績を明らかにしよう。

イギリスの産業革命は、マンチェスターを中心とするランカシャー地方の綿工業の技術革新から始まった。綿織物は毛織物に比べて洗濯しやすく清潔なうえ、軽く、鮮やかに染めることができる。17世紀以降、インドから大量に輸入され、爆発的な人気を得ていた。この人気を背景に、綿織物の国産化が図られる。

18世紀後半以降、イギリスでは機械の利用が広がり、蒸気機関という新しい動力が導入された。大規模な工場制度が普及し、生産力が向上した。生産の中心が農業から工業に移り、工場を経営する産業資本家が台頭し、工場労働者が増えた。産業革命とは、このような農業社会から工業社会への移行を指す。

さて、人々の生活水準はどうなっただろうか。資本主義を批判した思想家カール・マルクスの考えでは、産業革命によって楽天的で陽気な田舎者が極悪非道な工場と汚い安アパートに押し込まれ、体を壊して咳に苦しみながら若死にするまで働かされることになり、ほとんどの人の生活水準は下がったとされる。この考えに追随する人は今でも少なくない。

しかし貧困、不平等、児童労働、病気、汚染は工場の誕生前からあったと、英科学ジャーナリストのマット・リドレー氏は指摘する。

貧困について言えば、1700年の田舎の貧民は1850年の都市の貧民よりも著しく困窮していて、その人数も多かった。不平等については、身長も生き残る子供の数も、最富裕層と最貧困層の格差は産業化の間に縮まった。経済的な不平等が増大していれば、このようなことは起こらなかっただろう。

児童労働に関しては、産業革命の前には、手動の亜麻糸(リネン)紡績機を幼い子供が使って働いていた。病気について言えば、伝染病による死者は産業化の間に着実に減少した。

汚染については、スモッグはたしかに工業都市で増えた。だが17世紀のロンドンに見られた汚物だらけの通りは、1850年代のマンチェスターにはなかった。

産業革命における生産の機械化は、あらゆる階級の所得を引き上げたとリドレー氏は述べる。平均的なイギリス人の所得は三世紀にわたって停滞していたようだが、1800年頃に上がり始め、1850年までに、人口が三倍になったにもかかわらず、所得は1750年水準の1.5倍になった。

米経済学者ベンジャミン・パウエル氏も、産業革命によって生活水準が改善したと指摘する。1781年から1851年までに、生活水準は農場労働者で60%強、工場労働者で86%強、労働者全体で140%強、それぞれ向上した。

1851年にはイギリスの一人あたり所得は2362ドルとなり、これはドイツより65%、米国より30%多かった。

産業革命初期の1820年以前については、戦争の影響などで生活水準があまり向上しなかったとの見方もある。しかし少なくとも、戦争や人口の大幅な増加にもかかわらず、産業化のおかげで生活水準の悪化を防げたのは間違いない。

スウェーデンの著作家ヨハン・ノルベリ氏によれば、1820年から1850年にかけて、人口が三分の一も増えたとき、労働者の実質所得は100%近く増えた。それ以前のトレンドが続いていたら、平均的な人の所得倍増には二千年もかかったはずだ。イギリス人はそれをたった三十年で実現した。

前述のマルクスは、資本主義が金持ちをもっと金持ちにして、貧困者をもっと貧困にすると思った。だが1883年にマルクスが死んだとき、平均的なイギリス人は、マルクスの生まれた1818年より三倍も豊かになっていた。

1900年には、イギリスの極貧者数は四分の三も減少し、人口の10%ほどになっていた。ノルベリ氏は「人類がこんな経験をしたことは一度もなかった」と強調する。

産業革命とその恩恵はイギリスから他の西洋諸国に波及していった。ノルベリ氏が述べるように、一人あたり所得が持続的に増えた国が一つもない状況が何千年も続いた後で、西洋は1820年から1870年にかけて、一人あたり所得を年率1%以上高めた。1870年から1913年にはこの率が1.6%となり、二度の世界大戦後にそれがさらに加速した。1900年代初頭、極貧比率は西欧と北米で10〜20%に下がった。

現代の水準からすると、1800年のイギリスで工場に勤務する労働者が、ごく若いときから、ひどく危険で汚くて騒がしい環境の中で働き、汚染された街を通って人がひしめく不衛生な家に帰り、雇用保証も食事も健康管理も教育もひどい状態だったことは疑いようのない事実だ。

それでも前出のリドレー氏は、当時の工場労働者について「農場労働者だった祖父や羊毛を紡いでいた祖母よりも良い暮らしをしていたことも、同じくらい疑いようのない事実だ」と指摘する。だからこそ、人々は農場を離れて工場に押し寄せたのだ。

同様の現象はその後、世界各地に産業化が広がるたびに繰り返された。

リドレー氏は、1920年代に米ノースカロライナ州の綿摘み人が語った、こんな言葉を紹介している。「農場からここに移って工場で働くようになったら、農業をしていたときよりもたくさんの服やいろんな種類の食べ物が手に入るようになったよ。それに家も良くなったし。だから、そう、工場に来てからのほうが生活は楽だね」

産業革命初期のイギリスの貧困が強い印象を残すのは、それ以前に貧困が存在しなかったからではない。都市に暮らす著述家や政治家の目に初めてとまったからにすぎない。産業革命によって、人々が富を生む能力は大きく高まった。そのおかげで、貧困者を慈善によって助ける余裕も生まれた。

現代の視点から産業革命を過度に批判すれば、今の豊かさを築いた資本主義そのものの否定につながりかねない。それは今も残る貧困や環境問題の解決に決してプラスにはならない。

<参考文献>
  • マット・リドレー(大田直子他訳)『繁栄――明日を切り拓くための人類10万年史』ハヤカワ・ノンフィクション文庫
  • ヨハン・ノルベリ(山形浩生訳)『進歩: 人類の未来が明るい10の理由』晶文社
  • Benjamin Powell, Out of Poverty: Sweatshops In The Global Economy, Cambridge University Press
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2021-06-06

オランダと寛容の精神

米国で2020年の大統領選以来、社会の分断が加速している。信条や文化の異なる人々が対立せず、調和した社会を築くには、どうすればよいのだろう。

そのヒントは、米最大の都市ニューヨークにゆかりの国、オランダにあるかもしれない。ニューヨークの名は、1664年に英国のヨーク公(のちのジェームズ二世)に占領されたことにちなむが、それ以前はニューアムステルダムというオランダ人の植民地だった。

15世紀末からスペインの支配下にあったネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)では、古くから毛織物業や商業が栄え、南部のフランドル地方のアントウェルペンは国際商業の中心地となっていた。宗教的にはプロテスタントのカルヴァン派が勢力を拡大していた。

16世紀後半、スペインのフェリペ二世がネーデルラントにカトリックを強制し、都市に重税を課したため、貴族が自治権を求めて反抗し、これにカルヴァン派の商工業者が加わって、オランダ独立戦争が始まる。カトリック勢力の強い南部十州(のちのベルギー)は途中で脱落したが、ホラント州など北部七州はユトレヒト同盟を結び、英国の援助を受けて戦い続けた。1581年に独立を宣言し、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)を成立させる。

独立戦争の混乱の中で、スペイン軍に封鎖されたアントウェルペンの市場は壊滅した。代わりに、独立した北部のアムステルダムに南部から多数の商工業者が亡命し、その経済活動は劇的に発展する。造船の技術が高かったオランダ人は、バルト海貿易でも優位だった。毛織物工業、陶器業、醸造業などのほか、大規模な干拓によって耕地を拡大した近郊型の農業やニシン漁を中心とした漁業も繁栄した。

オランダといえば、1602年に設立され、アジア貿易を独占した東インド会社が有名だ。しかし意外にも、東インド会社の貢献がオランダの貿易量全体の10%を超えることはなかったという(『リートベルゲン『オランダ小史』)。

スペイン王権の束縛から解放され、自由な経済活動によって他に例を見ない繁栄を築いたオランダの17世紀は「黄金時代」と呼ばれる。

黄金時代を築いたオランダの国制の特徴は、その分裂状態にあった。七つの州があり、それぞれが主権を有していた。七州の中で最も勢力が強かったのはホラント州だったが、他の州に対し強引に自分たちの主張を押しつけられるほど強くはなかった。

オランダには国王がおらず、ホラント州の総督が指導権を発揮することが多かった。とはいえ、総督は給与を支払われる立場にあり、現実にオランダの支配権を握っていたのは各州だった。

オランダには各州の代表からなる連邦議会があった。とはいえ、この議会の権限は弱かった。連邦議会はホラント州のハーグで開催され、対外政策、戦争や和平の宣言のような共和国全体に関する問題を扱ったが、総督がそれに参加することはなかった(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』)。

オランダはこのように分裂した国家であり、真の中央政府がなかった。これがむしろ経済の発展に寄与した。当時、他の欧州諸国の大半では中央政府が保護主義的な経済政策を採り、貿易や経済の自由な発展を妨げた。地方分権の徹底したオランダは幸い、この弊害を免れることができた。

政治の分権と経済の繁栄を背景に、オランダには独特の自由主義的な文化が広がった。その大きな特色は宗教的寛容である。

オランダはカルヴァン派の国家であり、同派の改革派教会はカトリックに敵対的だったが、それでも宗教的には他国よりもはるかに寛容だった。ユトレヒト同盟結成時に「何人も宗教的理由で迫害されることも、審問されることもない」と決められていたし、経済が急速に発展したため、宗派にこだわっていては取引ができなかった。

オランダ、なかでもアムステルダムは欧州の宗教的寛容の中心だった。このためさまざまな宗派の商人がアムステルダムに移住した。彼らは出身地と緊密な関係を持ち、独自のルートを用いて経済情報を入手した。

商品や国債、東インド会社の株式などを扱うアムステルダム取引所では、プロテスタント商人とカトリック商人、場合によってはユダヤ人、さらにはアルメニア人までもが狭い空間で商業活動に携わった。このような場所は、16〜17世紀はおろか、18世紀になってもどこにも存在しなかった(前掲『近代ヨーロッパの誕生』)。

市民社会の発展したオランダでは、画家たちが宮廷ではなく、裕福な市民のために肖像画や風俗画を描いた。とくに17世紀最大の画家の一人とされるレンブラントの作品は、オランダにおける複数宗派の共存を伝えている。

レンブラント「放蕩息子の帰還」

レンブラントはもともと、神話や聖書の非日常的世界を描くことを画業の目標としていた。そのための素材探しに役立ったのが、国際商業都市アムステルダムの多様な異邦人の存在だった。たとえば、偶然見かけてスケッチしたユダヤ人の姿は、聖書の逸話を描いた「放蕩息子の帰還」の右端の人物の描写に生かされている。

レンブラント「織物組合の見本検査人たち」

レンブラントの集団肖像画の傑作の一つ、「織物組合の見本検査人たち」には、無謀の召使いを除いて五人の組合幹部が描かれている。彼らの所属宗派はすべて判明していて、左からカトリック、メンノー派、カルヴァン派、レモンストラント派、カトリックである。品質管理という組合内で最も重要な責務を分担する同僚たちが、私生活上の宗派の違いを超えて協力し合っていたという現実を、この絵は表している(桜田美津夫『物語 オランダの歴史』)。

オランダは宗教だけでなく、新しい思想についても寛容だった。米歴史学者イマニュエル・ウォーラーステインは、オランダは「哲学者にとっての天国であった」として、こう述べる。

デカルトは、フランスではえられなかった落着きと安定をオランダに見いだした。スピノザは、破門されてセファルディ(スペイン)系ユダヤ人のヨーデンブラー通りから追い立てられ、オランダ人市民の住む、より友好的な地域に引っ越した。ロックもまた、ジェイムズ二世の暴虐を逃れて、オランダ人がイギリスの王位についた、より幸せな時代まで、この地に避難場所を求めた。

ウォーラーステインはオランダの宗教的寛容にも触れたうえで、それらはすべて「禁止は最少に、導入はどこからでも」というオランダ人の商業上の原則をこうむったと指摘している(前掲『近代ヨーロッパの誕生』)。

オランダはその後、ナポレオンによるフランス併合をきっかけに王国となり、現在に至る。首都アムステルダムの広場に面して建つ豪壮な王宮は、共和国時代に市庁舎として建設されたもので、往時の繁栄を今に伝えている。

米国はかつてのオランダ共和国と同じ連邦国家だが、時代とともに中央政府の権限と影響力が強まっている。だから大統領選が過剰なまでに国民の注目を集め、対立の原因にもなる。地方分権を強めることで、人々の自由な経済活動を促し、寛容の精神を育むこと。これが米国に限らず、世界がオランダの歴史から学ぶことのできる教訓ではないだろうか。

<参考文献>
  • ペーター・J・リートベルゲン(肥塚隆訳)『オランダ小史 先史時代から今日まで』かまくら春秋社
  • 玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』講談社選書メチエ
  • 桜田 美津夫『物語 オランダの歴史 - 大航海時代から「寛容」国家の現代まで』中公新書
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2021-05-02

フッガー家の時代

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーはその代表的著作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、宗教改革で生まれたプロテスタント(新教徒)の禁欲的な倫理が、西欧における近代資本主義の精神的支柱となったと論じた。学校の教科書でも紹介されてきた、権威ある学説だ。

たしかに一見、この説はもっともらしい。近代資本主義の勃興をリードしたオランダ、英国はともにプロテスタントの国だし、米国はその英国から移住したプロテスタントの一派、ピューリタンの精神的影響が大きい。

けれども、じつはウェーバーの説には批判も少なくない。経済の歴史を振り返れば、近代資本主義は宗教改革期のオランダや英国で始まったわけではない。それ以前、中世イタリアの都市国家で生まれたものだ。それは近代資本主義の根幹をなす制度である複式簿記が、イタリアの商人たちによって発明されたことでもわかる。彼らはプロテスタントではなく、カトリック(旧教徒)だった。

近代資本主義の隆盛を担ったカトリック信者は、イタリアの商人だけではない。宗教改革を起こしたルターと同時代のドイツにもいた。大金持ちとして知られるフッガー家である。15世紀末から16世紀前半にかけての時代をドイツ経済史では「フッガー家の時代」と呼ぶ。

フッガー家の始祖は1367年、神聖ローマ帝国の都市、南ドイツのアウクスブルクで一旗揚げようと、近くの農村からやって来たハンス・フッガーにさかのぼる。最盛期を築いたのは、ハンスの孫で、「富豪」とあだ名されたヤーコプ・フッガーである。


ヤーコプは少年時代、一時教会に入れられるものの、十九歳の時に還俗し、商人見習いのためイタリア都市国家の一つ、ベネツィアに向かう。当時としては遅い旅立ちではあったが、本場で商魂を叩き込まれて帰国する。

ヤーコプが莫大な富を築くことができたのは、アウクスブルクの枠を越えた新しい経済活動に従事し、同族で経営する一大商事会社の指導者になったからだ。銀、銅、ミョウバンの鉱山業に投資し、ついで教皇庁、皇帝、諸侯を相手に欧州規模の金融取引を行った。

15世紀後半から宗教改革期にかけて、ドイツの鉱山は空前の産出量を誇った。領邦君主は鉱山特権を持ち、領内で算出する鉱石を優先的に特別安く先買することができた。財政が困窮に陥った領主はこの特権を担保に借金をした。

ヤーコプは1485年、皇帝フリードリヒの従兄弟にあたるティロール伯ジギスムントから銀の先買権を獲得している。銀の市価と先買権による購入価格の差額が、ジギスムントに対する貸付金の返済としてヤーコプの懐に入る仕組みである。

教皇庁と諸侯が絡んだ最も有名な金融取引は、贖宥状(免罪符)の販売だ。選帝侯ブランデンブルク家の出身でマクデブルク大司教であったアルブレヒトは1513年、たまたま空位になったマインツ大司教の地位を熱望した。だが大司教職を兼任することは教会法上許されないことで、黙認してもらうには教皇庁に莫大な献金が必要だった。

その資金を用立てたのがヤーコプである。アルブレヒトはこの借金を返すため、皇帝の許可を得て免罪符の販売を始める。免罪符を売り歩く一行にはフッガー商会の関係者が同行していたといわれる。フッガー家は売り上げの半分をアルブレヒトの債務返済にあて、残りの半分を特許料として教皇庁に支払った。支払いはフッガー商会のローマ支店が処理した。フッガー家は国際金融網を張り巡らし、現金を動かさずに取引していた。

ルターはこの免罪符販売に憤ったのをきっかけに、宗教改革の号砲となる「九十五カ条の論題」を提起したといわれる。ルターとフッガー家の因縁はこれだけではない。ルターが教皇の使節から審問を受けるためにアウクスブルクを訪れた際、審問の場所はフッガー邸だった。王宮のないアウクスブルクでは、皇帝をはじめ賓客の接待にはたいていフッガー邸が利用されていた。もっとも審問の席にヤーコプ自身はいなかった。

ヤーコプが行った最大の取引は1519年、カール5世の皇帝選挙の資金支援である。当時、神聖ローマ帝国皇帝は七人の選帝侯による選挙で決定された。その際、候補者は選帝侯に賄賂を支払うことが慣習となっていた。ヤーコプはカールにその資金を用立てたのである。

このとき、皇帝選挙には85万グルデン以上の資金が必要だったが、その7割はフッガー家が用意したとされる。当時、寄宿生活をする貧乏留学生が年間10グルデンの奨学金でなんとか勉強できたといわれているので、その選挙資金の大きさが推測できる(木村靖二編『ドイツの歴史』)。

この貸し付けには担保がなく、回収には困難をきたした。しかし、皇帝に対するこの大きな貸しは、別の形で返してもらっている。フッガー商会をはじめとする大商事会社による鉱工業製品や香辛料などの独占的取引が問題視され、1523年、帝国議会は独占規制の立法化に乗り出した。しかしフッガーは皇帝に働きかけ、規制対象から鉱産物取引を除外することに成功する。貸しを返してもらったわけだ。

ヤーコプは時に権力と結び、巨富を築いたが、決して金の亡者ではなかった。アウグスグルクの町の芸術保護者だったし、教会へのさまざまな寄付行為などは枚挙にいとまがない。その集大成とも言うべきは、世界最古の貧民救済住宅フッゲライの建設だった。

フッゲライは1521年、アウクスブルクの下町に建設され、五百年がたった現在も公共住宅として使われ、一部が博物館として公開されている。世界で最初にできた社会福祉の住宅施設とも言われる。

入居者は半年ごとに0.5グルデンの家賃を支払うよう定められていたが、学校教師や司祭のように家賃を免除されていた者や、未亡人のように半額の者もいた。

入居者の職業が興味深い。1624年の調査によると、一番多いのは織布工で、門番、大工職人、日雇いなど手間賃仕事が続き、ほかには金細工師、ソーセージ作り、火酒醸造人、袋かつぎ人夫、車引き、鳥小屋作り、絵入りの祈祷書やカレンダーを作る職人などが一人ないし二人、フッガー家の料理人と御者も入居していた。大作曲家モーツァルトの曽祖父にあたる左官のフランツ・モーツァルト一家も住んでいた。

当時、イタリアや南ドイツの事業に成功した商人の間には、死後の平安を願って、商売で獲得した財産の一部を教会に寄付する慣行があった。現世の営利と引き換えに死後の救済を得ようとする「彼岸との取引」である。大商人の会計には、この種の寄付を支出するための「慈善勘定」とでもいうような特別の勘定が設けられるようになった(諸田實『フッガー家の遺産』)。

フッガー会社も15世紀末にアウクスブルクの守護聖人の名をつけた「聖ウルリッヒ勘定」を設けて、精力的に寄付活動に励む。フッゲライの建設はヤーコプの寄付活動の最大にして最後のものだった。建設の四年後、ヤーコプは六十六歳で死去する。生前、伯爵に叙されていたが、称号は終生使わず、商人で通した。

冒頭で触れたウェーバーは同じ著作で、ヤーコプ・フッガーに言及している。ある同業者から「もう十分に儲けたのだし、他の人々にも儲けさせてやるべきだ」と隠退を勧められたヤーコプは、「私はまったく違った考えで、できるあいだは儲けようと思う」と答えたという。ウェーバーはこの言葉について、道徳とは無関係な個人的な気質の表明だと述べる。

しかし敬虔なカトリックだったヤーコプのこの言葉は、むしろウェーバーが主張するプロテスタントの禁欲的な倫理そのもののように思える。勤勉の精神とは、宗教や宗派を超えた普遍的なものではないか。フッガー家の歴史はそんな思いを抱かせる。

<参考文献>
  • 木村靖二編『ドイツの歴史―新ヨーロッパ中心国の軌跡』有斐閣アルマ
  • 諸田実『フッガー家の遺産』有斐閣
  • 諸田実『フッガー家の時代』有斐閣
  • 鍋島高明『相場ヒーロー伝説 -ケインズから怪人伊東ハンニまで』河出書房新社
  • 谷克二=文、武田和秀=写真『 図説 ドイツ古都物語』(ふくろうの本)河出書房新社
  • Murray N. Rothbard, Austrian Perspective on the History of Economic Thought. Ludwig von Mises Institute
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2021-04-04

宗教改革と主権国家

ニュースを見ていると、「主権国家」という言葉に出会う。英国の欧州連合(EU)離脱をめぐり、英国がEUに対し「我々は主権国家として独自のルールを持つ」と主張するといったケースだ。

主権国家の登場は近世の欧州だ。当時、教皇や皇帝という、個々の国家を超越する権力が衰え、各国が独立性を強め、自国の領域内で最高の権力(主権)を主張するようになった。これが現在まで続く主権国家だ。今でこそ当たり前の存在と思われているけれども、歴史上、それほど古いものではない。

主権国家の形成を推し進める役割を果たした出来事がある。宗教改革だ。宗教というと、現代の欧米では国家とは距離を置いた存在になっているが、意外なことに、主権国家の成立と宗教改革は深いかかわりがあった。その歴史をたどると、宗教改革の明るい面だけではなく、暗い影の部分も浮かび上がる。


宗教改革は、ドイツの神学者マルティン・ルターが1517年に贖宥状(しょくゆうじょう)の効力に関する九十五カ条の論題を提起したことから始まった。贖宥状は、免罪符の呼び名でも知られる。罪を犯した者でも、教皇が発行するこの証書を買えば、罪が赦されるとされた。

かねて贖宥状に疑問を抱いていたルターは、教皇レオ十世がローマの聖ピエトロ大聖堂の改修費にあてるために認めた贖宥状の販売を批判した。人は聖書のみをよりどころにし、信仰のみによって救われると説いたルターの考え方は、教皇や教会の権威を否定することになった。

教皇はルターを破門するがルターは従わなかった。神聖ローマ皇帝カール五世が、1521年のヴォルムス帝国議会にルターを呼び出し、その教説の撤回を求めても応じなかった。皇帝の弾圧に抗議するルター派はプロテスタント(抗議者)と呼ばれ、のちにこの言葉は、ローマ教皇の権威を否定する新教徒全体を指すようになる。

ルターはザクセン選帝侯フリードリヒの下に身を寄せ、そこで聖書のドイツ語訳を進めた。グーテンベルクが発明した印刷術により、聖書は民衆の間に広まり、ローマ教皇の権威をさらに揺るがしていく。

ルターが宗教改革を始めるのに先立つ四十年余りの間に、欧州は一つの転機を迎えていた。主権国家の出現である。

イングランドでは、1455年から三十年間続いたばら戦争ののち、テューダー朝が成立する。フランスでも、百年戦争と国内統治の強化によってイングランド王とブルゴーニュ公の勢力を排除した。一方、神聖ローマ帝国が君臨するドイツでは、バイエルン、プロイセン、ザクセンといった領邦(地方国家)単位での統合が進んだ。

こうした主権国家にとって最も障害となったのは、国内のローマ・カトリック教会勢力だった。教会は十分の一税で国の富の多くを吸い上げていたほか、教会や修道院は大地主として国土の多くの部分を所有していた。

なにより困ったことに、こうした教会の活動は国家を超越していた。教会の利害と国家の利害が衝突した場合、国家は国内の教会が国家の利害に沿って行動することを期待できなかった。

したがって、ローマ・カトリック教会当局と衝突して窮地に陥ったルターを、ザクセン選帝侯フリードリヒがかくまったのは偶然ではない。歴史学者の小泉徹氏が指摘するとおり、フリードリヒにしてみれば、「敵の敵は味方」、ローマ・カトリック教会の敵は味方だったのである(『宗教改革とその時代』)。

こうしてドイツの各地の領邦で、同じように領邦君主がプロテスタント聖職者を保護し、他方、プロテスタント聖職者が領邦君主の支配を正当化するという関係が生じた。1555年、アウクスブルクの宗教和議でルター派は公認されたが、宗派を選ぶ権利が認められたのは諸侯だけで、個人の信仰の自由が認められたわけではなかった。宗教改革の進展は、主権国家の支配強化という政治的な目的に支えられていた。

イングランドの場合はもっとはっきりしている。離婚問題でローマ教皇と対立したヘンリ八世は、1534年、議会の協賛を得て国王至上法(首長法)を定め、国王を最高の長とするイギリス国教会を創設し、教皇と絶縁した。しかし目的はローマ・カトリック教会の政治力排除にあり、ヘンリ自身はルターの教説には何の関心もなかった。

このように宗教改革と主権国家の形成の間には密接な関係があった。その関係が最も極端な形で現れたのは、修道院などカトリック勢力の財産の没収である。

宗教改革の当初から、北ドイツの領邦君主はカトリック勢力の財産に手をつけた。ルター派に改宗したホーエンツォレルン家のアルブレヒトは1525年、十字軍以来の歴史を持つドイツ騎士団国の土地を没収し、プロイセン公国を創設した。ヘッセン方伯フィリップ一世は領内にある修道院の土地をすべて没収し、収入の大半を自分のものにした。

イングランドには1530年におよそ八百の修道院があり、イングランド全土の五分の一から四分の一を所有し、総収入は王室に匹敵するといわれていた。ヘンリ八世はこの莫大な財産に目をつけ、1535年、政治的右腕であるトマス・クロムウェルを自らの代理に任命する。

クロムウェルは風紀の乱れを調査するという名目で各地に委員を派遣し、修道院を含む教会財産を綿密に調査し、目録を作成した。そしてまず翌年、規模の小さい修道院を対象に、とくに風紀の乱れが甚だしいという理由で解散を命じる。大修道院の抵抗をかわすため、弱い部分から手をつけたのだ。

イングランドの各地で修道院の解散が始まると、すべての旧秩序が変革されるのではとの不安からジェントリ(地方貴族)や農民が武装蜂起した。クロムウェルは、一部の大修道院がこれに加担したと難癖をつけ、関係者を処刑する。この事態におびえた各地の大修道院は雪崩を打って自ら解散し、1540年にはすべての修道院が解散してしまった(前出『宗教改革とその時代』)。

「抗議者」という言葉の由来から、プロテスタントは国家権力に抵抗する人々というイメージを持つかもしれない。だがプロテスタントが抗議したのはローマ教皇の権威であり、国家権力ではなかった。しかも主権国家の力を借りてローマ教皇に対抗した関係上、国家権力を否定する契機はほとんどなかった。

ルター自身、そうだった。1524年、西南ドイツの農民が、ルターの教えに触発されて大規模なドイツ農民戦争を起こした。ルターは初め農民の運動を支持したが、農民たちがトマス・ミュンツアーらの指導のもとに領主制の廃止や土地の共有などを要求すると、これに反対し、諸侯に一揆を鎮圧するため、妥協せずに徹底的に戦うよう説いた。

例外はあった。ルターと並ぶ宗教改革の旗手ジャン・カルヴァンの一派は、フランスではユグノーと呼ばれ、カトリックの王権から厳しく弾圧され、内乱を起こした。プロテスタント神学者テオドール・ベーズは、被治者の同意を欠く統治を行う者は「公敵」であり、すべての被治者はこれに対する武装抵抗権を持つとして、ユグノーの立場を擁護した。もっとも、このような抵抗権理論はプロテスタント思想に本来備わっていたものではなかった。

宗教改革は結果として、一つの国家に一つの宗教という形態を生み出した。国家と宗教はつねに協力関係にある。とりわけルターを生んだドイツでは、プロテスタントは今日に至るまで一貫して体制保持に協力してきた。20世紀のナチス政権に対しても、ヒトラー暗殺計画に加わり処刑された神学者ディートリヒ・ボンヘッファーのような例外はあるが、全体として無批判だったとされる。

ナチスは、ルターが1543年に書いた「ユダヤ人とその偽りについて」という文書をユダヤ人の迫害や反ユダヤ主義のために利用した。宗教改革によってユダヤ人がキリスト教への改宗を始めるだろうという期待が外れ、その腹いせに書いたような文書だ。ルターはユダヤ人を厳しい言葉で批判した。ナチスに都合よく抜粋され、編集されたとはいえ、ルターの主張であることに違いはない。

このため第二次世界大戦中や終戦直後、連合国側の研究者から「ルターはヒトラーの先駆者だった」とまで批判されることになった。

だがヒトラーを滅ぼした米英などもその後、反共産主義や反テロリズムを旗印に、アジアや中東で十字軍を思わせる軍事介入に乗り出す。異なる宗教・文化の人々を暴力で苦しめ、今も苦しめている。

熱烈な信仰や思想は、それだけで平和を脅かすことはない。国家権力と結びついたとき、脅威となる。宗教改革と主権国家の歴史は、その危険に警鐘を鳴らす。

<参考文献>
  • 小泉徹『宗教改革とその時代』(世界史リブレット)山川出版社
  • 深井智朗『プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで』中公新書
  • 宮田光雄『ルターはヒトラーの先駆者だったか: 宗教改革論集』新教出版社
  • Rothbard, Murray N., Austrian Perspective on the History of Economic Thought, Ludwig von Mises Institute.
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

2021-03-07

清の栄光と小さな政府

「中国」の形成 現代への展望 (シリーズ 中国の歴史)

世界経済の歴史をたどると、ひとつの法則があることに気づく。市場経済に対する規制や課税の少ない「小さな政府」の国は繁栄するということだ。古代ローマ帝国がそうだし、アッバース朝やオスマン帝国などのイスラム帝国もそうだった。

中国史上、最後を飾る王朝となった清もその最盛期、小さな政府によって空前の繁栄を享受した。その賢明な統治は、満洲族の建てた征服王朝であるという強い自覚から生まれたものだった。

満洲(満州)は文殊菩薩(マンジュシュリ)が語源とされ、それまでの女真に代わって民族名とされた。のちに彼らの原住地である中国東北部を指す地域名としても用いられるようになる。

16世紀に明との貿易による利益で台頭した満洲人の後金は清へ発展し、17世紀には明に代わって中国を支配するとともに、モンゴルを押さえてチベット仏教世界の盟主となった。北京を都とし、康熙・雍正・乾隆の3代の皇帝の時代に最盛期を迎える。

清はきわめて大きな版図と、多様な人々を抱える帝国だった。満洲人に漢人、モンゴル人もいればチベット人もいて、東トルキスタンのムスリム(イスラム教徒)も加わった。それを清朝の皇帝がすべて統治するという形だった。

その際、清朝は各地域に特定の統治原理を押しつけず、その土地の習俗・慣例に即して統治した。こうした方法を漢語で「因俗而治(俗に因〔よ〕りて治む)」と言う。現状をあるがままに追認し、不都合のない限り、統制も干渉も加えようとしなかった。

満洲人は、人口で漢人やモンゴルなどに劣る自らの非力な立場をよくわきまえていた。その自覚が各地の自治を尊重する「因俗而治」の統治を選ばせた。結果として「多元化した東アジア全域に君臨しうる資質を生み出したばかりか、清朝そのものに三百年の長命を与えた」と京都府立大学教授の岡本隆司氏は指摘する(『「中国」の形成』)。

清帝国は周辺国との関係でも、明朝時代のありようを踏襲しつつ、より円滑になるよう配慮した。前代の明朝は、「北虜南倭」と呼ばれる遊牧民や倭寇(後期倭寇)の侵入に悩まされた。これは、どれほど禁止しても遊牧民や倭寇との貿易が旺盛だったことを意味する。

そこで清朝は貿易を禁圧することなく、現実を追認し、むしろ促進できるように制度を整える。民間商船の出航と外国商船の来航を認めて各貿易港の税関に管理させる「互市貿易」である。1757年以降は広州を入港地に指定し、公行(コホン=特許承認の組合)を通じて貿易させた。

貿易の拡大は、清の経済を繁栄に導く。東南アジアとの貿易も活発だったが、最もインパクトが大きかったのは西洋との貿易である。

互市貿易のスタートとほぼ同時期、主として広州に来て貿易を営み始めたのが、英国など西洋諸国の貿易商人である。当初その量は小さかったが、18世紀も後半に入ると、西洋からの商人がおびただしく中国を訪れ、急速に購買を増やしていく。

西洋商人が買い付ける商品は生糸や陶磁器など中国の特産品であり、とりわけ脚光を浴びたのは茶だった。欧米では産業革命を始動していた英国を中心に、喫茶の習慣が定着しつつあった。茶は当時、世界でほぼ中国にしかできない。そのため中国茶の輸入は右肩上がりで伸びていった。

統治の安定と経済の発展の下で人口が急増し、18世紀半ばには漢人だけで3億人と前世紀の3倍に達した。その背景には荒れ地、産地でも栽培できるとうもろこし、さつまいもなどアメリカ大陸原産作物の普及があった。人口増とともに海外への移住が増加し、東南アジア各地で華僑社会が形成された。

一方で政府は、財政の無駄削減と税負担の軽減に努めた。中国歴代最高の名君の一人といわれる康熙帝は、宮廷費用の節約を図り、これを明代の十分の一に切り詰めた。巡幸の費用も宮廷の内帑金(ないどきん)で賄った。帝は大規模な遠征軍をたびたび出したが、その軍事費のための増税は行わず、しばしば減税を命じた(増井経夫『大清帝国』)。

とくに注目されるのは、即位五十周年を記念して施行された「永不加賦(えいふかふ)の制」である。国家の安定と国庫の充実を自負し、前年の壮丁男子の人口2462万を定数とし、それ以降増加したものは永久に人頭税をかけないこととした。これによって人頭税が消滅し、課税が土地に一本化される。それまで税を逃れるために隠れていた人々が表に出てきたことも、人口急増の一因とみられる。

人口の大幅増にもかかわらず、財政の規模は小さいままだった。1766年(乾隆31年)の歳出は3460万両と小規模で、半分以上を軍事費が占める。しかも歳入は4500万両余りなので、収支はかなりの黒字だった。前出の岡本氏は「驚くべき『小さな政府(チープ・ガバメント)』」だと述べる(『近代中国史』)

きわめて小さな政府でも支障がなかったのは、行政がもともと民間の社会・経済にあまり関わっていなかったからだ。医療、介護、救貧など現代では行政の業務とされる事柄の多くは、民間が緩やかな組織を独自に結んで営んでいた。

財政の抑制で役人や軍人の給与は安く、それをカバーするため汚職が横行したと、小さな政府のマイナス面を指摘する声もある。しかし庶民からしてみれば、役人や軍人に払う賄賂が税金より安くつくのであれば、そのほうが得だ。

経済繁栄のあだ花である、成金趣味に眉をひそめる向きもある。中国一の奢侈の都といわれた揚州では、バブル時代の日本を思わせるさまざまな贅沢三昧が伝えられる。

揚州では冠婚葬祭、家屋、飲食、衣服、乗り物などに数十万の金を費やすことが珍しくなかった。ある人は一万の大金を一時に使い果たしてしまいたいと考え、その金で全部金箔を買い込み、塔の上から風に飛ばした。ある人は高さ五、六尺もある銅の溲瓶(しびん)をつくり、夜中尿意を催すとわざわざ上って用を足したという(岡田英弘他『紫禁城の栄光』)。

たしかに、良い趣味とは言えない。しかしその一方で、自ら高尚な学問や芸術を楽しむとともに、学者や芸術家のパトロンとして文化に大きな役割を果たした者も少なくなかった。古典の解釈を実証的に行う考証学は、揚州の富豪たちの大きな財力によって発達した学問で、江戸時代の日本にも影響を与えた。

けれども繁栄の背後には、衰退の影も忍び寄っていた。欧米から大量に流れ込んだ銀が中国全土で物価騰貴を引き起こし、食糧暴動が頻発するに至る。社会不安の高まりを背景に世界の終末を唱える白蓮教徒の反乱が起こり、土地税の減免を求める土地所有者の運動も激しくなる。清朝は多額の費用を使って鎮圧にあたり、それが財政を圧迫した。

過去に繁栄を誇った国々の例に漏れず、清帝国もやがて衰え、最後は滅亡した。それでも民間の自由を尊重することでもたらされたその栄光は、歴史に長く刻まれるだろう。

<参考文献>
岡本隆司『「中国」の形成 現代への展望』(シリーズ 中国の歴史)岩波新書
岡本隆司『近代中国史』ちくま新書
増井経夫『大清帝国』講談社学術文庫
岡田英弘・神田信夫・松村潤『紫禁城の栄光―明・清全史』講談社学術文庫
岸本美緒・宮嶋博史『明清と李朝の時代』(世界の歴史)中公文庫

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)