ドイツの社会学者マックス・ウェーバーはその代表的著作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、宗教改革で生まれたプロテスタント(新教徒)の禁欲的な倫理が、西欧における近代資本主義の精神的支柱となったと論じた。学校の教科書でも紹介されてきた、権威ある学説だ。
たしかに一見、この説はもっともらしい。近代資本主義の勃興をリードしたオランダ、英国はともにプロテスタントの国だし、米国はその英国から移住したプロテスタントの一派、ピューリタンの精神的影響が大きい。
けれども、じつはウェーバーの説には批判も少なくない。経済の歴史を振り返れば、近代資本主義は宗教改革期のオランダや英国で始まったわけではない。それ以前、中世イタリアの都市国家で生まれたものだ。それは近代資本主義の根幹をなす制度である複式簿記が、イタリアの商人たちによって発明されたことでもわかる。彼らはプロテスタントではなく、カトリック(旧教徒)だった。
近代資本主義の隆盛を担ったカトリック信者は、イタリアの商人だけではない。宗教改革を起こしたルターと同時代のドイツにもいた。大金持ちとして知られるフッガー家である。15世紀末から16世紀前半にかけての時代をドイツ経済史では「フッガー家の時代」と呼ぶ。
フッガー家の始祖は1367年、神聖ローマ帝国の都市、南ドイツのアウクスブルクで一旗揚げようと、近くの農村からやって来たハンス・フッガーにさかのぼる。最盛期を築いたのは、ハンスの孫で、「富豪」とあだ名されたヤーコプ・フッガーである。
ヤーコプは少年時代、一時教会に入れられるものの、十九歳の時に還俗し、商人見習いのためイタリア都市国家の一つ、ベネツィアに向かう。当時としては遅い旅立ちではあったが、本場で商魂を叩き込まれて帰国する。
ヤーコプが莫大な富を築くことができたのは、アウクスブルクの枠を越えた新しい経済活動に従事し、同族で経営する一大商事会社の指導者になったからだ。銀、銅、ミョウバンの鉱山業に投資し、ついで教皇庁、皇帝、諸侯を相手に欧州規模の金融取引を行った。
15世紀後半から宗教改革期にかけて、ドイツの鉱山は空前の産出量を誇った。領邦君主は鉱山特権を持ち、領内で算出する鉱石を優先的に特別安く先買することができた。財政が困窮に陥った領主はこの特権を担保に借金をした。
ヤーコプは1485年、皇帝フリードリヒの従兄弟にあたるティロール伯ジギスムントから銀の先買権を獲得している。銀の市価と先買権による購入価格の差額が、ジギスムントに対する貸付金の返済としてヤーコプの懐に入る仕組みである。
教皇庁と諸侯が絡んだ最も有名な金融取引は、贖宥状(免罪符)の販売だ。選帝侯ブランデンブルク家の出身でマクデブルク大司教であったアルブレヒトは1513年、たまたま空位になったマインツ大司教の地位を熱望した。だが大司教職を兼任することは教会法上許されないことで、黙認してもらうには教皇庁に莫大な献金が必要だった。
その資金を用立てたのがヤーコプである。アルブレヒトはこの借金を返すため、皇帝の許可を得て免罪符の販売を始める。免罪符を売り歩く一行にはフッガー商会の関係者が同行していたといわれる。フッガー家は売り上げの半分をアルブレヒトの債務返済にあて、残りの半分を特許料として教皇庁に支払った。支払いはフッガー商会のローマ支店が処理した。フッガー家は国際金融網を張り巡らし、現金を動かさずに取引していた。
ルターはこの免罪符販売に憤ったのをきっかけに、宗教改革の号砲となる「九十五カ条の論題」を提起したといわれる。ルターとフッガー家の因縁はこれだけではない。ルターが教皇の使節から審問を受けるためにアウクスブルクを訪れた際、審問の場所はフッガー邸だった。王宮のないアウクスブルクでは、皇帝をはじめ賓客の接待にはたいていフッガー邸が利用されていた。もっとも審問の席にヤーコプ自身はいなかった。
ヤーコプが行った最大の取引は1519年、カール5世の皇帝選挙の資金支援である。当時、神聖ローマ帝国皇帝は七人の選帝侯による選挙で決定された。その際、候補者は選帝侯に賄賂を支払うことが慣習となっていた。ヤーコプはカールにその資金を用立てたのである。
このとき、皇帝選挙には85万グルデン以上の資金が必要だったが、その7割はフッガー家が用意したとされる。当時、寄宿生活をする貧乏留学生が年間10グルデンの奨学金でなんとか勉強できたといわれているので、その選挙資金の大きさが推測できる(木村靖二編『ドイツの歴史』)。
この貸し付けには担保がなく、回収には困難をきたした。しかし、皇帝に対するこの大きな貸しは、別の形で返してもらっている。フッガー商会をはじめとする大商事会社による鉱工業製品や香辛料などの独占的取引が問題視され、1523年、帝国議会は独占規制の立法化に乗り出した。しかしフッガーは皇帝に働きかけ、規制対象から鉱産物取引を除外することに成功する。貸しを返してもらったわけだ。
ヤーコプは時に権力と結び、巨富を築いたが、決して金の亡者ではなかった。アウグスグルクの町の芸術保護者だったし、教会へのさまざまな寄付行為などは枚挙にいとまがない。その集大成とも言うべきは、世界最古の貧民救済住宅フッゲライの建設だった。
フッゲライは1521年、アウクスブルクの下町に建設され、五百年がたった現在も公共住宅として使われ、一部が博物館として公開されている。世界で最初にできた社会福祉の住宅施設とも言われる。
入居者は半年ごとに0.5グルデンの家賃を支払うよう定められていたが、学校教師や司祭のように家賃を免除されていた者や、未亡人のように半額の者もいた。
入居者の職業が興味深い。1624年の調査によると、一番多いのは織布工で、門番、大工職人、日雇いなど手間賃仕事が続き、ほかには金細工師、ソーセージ作り、火酒醸造人、袋かつぎ人夫、車引き、鳥小屋作り、絵入りの祈祷書やカレンダーを作る職人などが一人ないし二人、フッガー家の料理人と御者も入居していた。大作曲家モーツァルトの曽祖父にあたる左官のフランツ・モーツァルト一家も住んでいた。
当時、イタリアや南ドイツの事業に成功した商人の間には、死後の平安を願って、商売で獲得した財産の一部を教会に寄付する慣行があった。現世の営利と引き換えに死後の救済を得ようとする「彼岸との取引」である。大商人の会計には、この種の寄付を支出するための「慈善勘定」とでもいうような特別の勘定が設けられるようになった(諸田實『フッガー家の遺産』)。
フッガー会社も15世紀末にアウクスブルクの守護聖人の名をつけた「聖ウルリッヒ勘定」を設けて、精力的に寄付活動に励む。フッゲライの建設はヤーコプの寄付活動の最大にして最後のものだった。建設の四年後、ヤーコプは六十六歳で死去する。生前、伯爵に叙されていたが、称号は終生使わず、商人で通した。
冒頭で触れたウェーバーは同じ著作で、ヤーコプ・フッガーに言及している。ある同業者から「もう十分に儲けたのだし、他の人々にも儲けさせてやるべきだ」と隠退を勧められたヤーコプは、「私はまったく違った考えで、できるあいだは儲けようと思う」と答えたという。ウェーバーはこの言葉について、道徳とは無関係な個人的な気質の表明だと述べる。
しかし敬虔なカトリックだったヤーコプのこの言葉は、むしろウェーバーが主張するプロテスタントの禁欲的な倫理そのもののように思える。勤勉の精神とは、宗教や宗派を超えた普遍的なものではないか。フッガー家の歴史はそんな思いを抱かせる。
<参考文献>
- 木村靖二編『ドイツの歴史―新ヨーロッパ中心国の軌跡』有斐閣アルマ
- 諸田実『フッガー家の遺産』有斐閣
- 諸田実『フッガー家の時代』有斐閣
- 鍋島高明『相場ヒーロー伝説 -ケインズから怪人伊東ハンニまで』河出書房新社
- 谷克二=文、武田和秀=写真『 図説 ドイツ古都物語』(ふくろうの本)河出書房新社
- Murray N. Rothbard, Austrian Perspective on the History of Economic Thought. Ludwig von Mises Institute
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