コロナを口実に政府が経済・社会活動に対する制限を強めている。それに対する批判は最近かなり増えてはきたものの、いまだにソーシャルメディアなどで多く目にするのは、「安全のためなら自由が多少犠牲になっても仕方ない」といった意見だ。
ことわざにも「命あっての物種」というし、そういう感情は理解できる。しかし、自由を犠牲にして安全を得ようとするもくろみは、短期にはともかく、長期では決して成功しない。マット・リドレーの近著『人類とイノベーション』(ニューズピックス)を読めば、その理由がよくわかる。
現在、ほとんどの人は祖先と比べて繁栄している。欧米だけでなく中国やブラジルも含め、先例のないほど豊かになり、極貧率は史上初めて世界的に急落した。この大富裕化をもたらしたのは、イノベーションである。
リドレーによれば、イノベーションは、通常ひとつのアイデアをほかのアイデアと結びつけることによって起こる。そこではセレンディピティ(偶然の幸運)が大きな役割を果たす。だからイノベーションは、人々が自由に考え、実験し、冒険できるときに起こるし、人々が交換を行えるときに起こる。
コロナ下でのテレワークやオンライン会議も、コンピューターや通信のイノベーションなしには、そもそも実現できなかった。それを可能にしたのは自由な市場経済である。インターネットを利用した電子商取引が米国で爆発的に成長したのは、政府による過度の規制がなかったためだとリドレーは指摘する。
自由な経済がイノベーションを生んだから、コロナに対応できた。逆に言えば、コロナ対策と称して経済活動の自由を制限すれば、その分イノベーションが起こりにくくなり、危険に対処する能力が失われる。つまり、安全を確保できなくなる。
安全と引き換えに自由を売り渡せば、自由と安全の両方を失うことになる。なぜなら、何が起こるかわからない世界で安全を確保するにはイノベーションが必要であり、イノベーションは自由なしには生まれないからだ。
合理的な楽観主義者を自認するリドレーは、珍しく悲観的な雰囲気で本書を終える。「現状に甘んじている大企業の黙認、官僚主義の大きな政府、新しいもの嫌いの大規模な抗議団体」といった要因がイノベーションの欠乏を招いているからだ。
コロナに便乗した自由の剥奪は、イノベーションの欠乏をさらに悪化させる。安全が大事だと思うのなら、自由を手放してはならない。
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