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2024-10-06

アジア太平洋戦争、日本の敗因

緒戦の勝利と危機の予兆


1941(昭和16)年12月8日、日本軍はハワイの真珠湾などを奇襲攻撃し、マレー半島にも上陸して、米国・英国に宣戦布告して太平洋戦争が始まった。

その際、日本の軍部の謀略によって、日本から駐米日本大使館への電報が遅らされ、そのため日本大使館からの日米交渉打ち切りの通告が遅れた。米政府は日本のだまし討ちと国民に宣伝し、元来戦争に乗り気でない米国民を、日本やドイツ、イタリアとの戦争に熱狂的に駆り立てることになった。

太平洋戦争の歴史 (講談社学術文庫 1669)

太平洋戦争は、当時の米国での呼称(the Pacific War)であり、日本は大東亜新秩序を建設する立場から、この戦争を大東亜戦争と呼んだ。この戦争のアジアへの広がりを示すため、近年、アジア太平洋戦争(あるいはアジア・太平洋戦争)という呼称も使われている。

独伊も三国同盟にもとづき米国に宣戦し、戦争は世界的規模に拡大した。

開戦後の半年間は、日本軍が米英の植民地防衛軍の劣勢に乗じて、中部太平洋から東南アジアに及ぶ広大な地域を占領した。緒戦は日本軍の圧勝に終わったとはいえ、危機の予兆はすでに現れ始めていた。欧州情勢の変化である。

日本政府のシナリオでは、南方作戦によって戦略的自給圏を確保して不敗の体制を確立するとともに、中国・蒋介石政権への圧力を強化する、他方で、独伊と軍事的に連携しながら、まず英国を屈服させ、それによって米国民の戦意を喪失させて講和に持ち込む、という目論見だった。

当時、英国の強固な抵抗にあったドイツは英本土上陸作戦を断念し、矛先を東に転じて41年6月には独ソ戦を開始していた。日本のシナリオの前提は、独ソ戦は短期間のうちにドイツの勝利に終わり、ソ連は崩壊する、独ソ戦の勝利によって戦略態勢を強化したドイツは、続いて英国を屈服させる、というものだった。

たしかに、スターリン体制下での大量粛清の結果、ソ連軍が弱体化していたこともあって、ドイツ軍の進撃は急であり、11月末には、首都モスクワまで33キロの地点に到達していた。しかし、死にものぐるいの反撃によってドイツ軍の総攻撃を挫折させたソ連軍は、12月上旬には反撃に転じ、ドイツ軍を押し返し始めた。アジア太平洋戦争が始まったのは、まさにその時だった。「日本の軍事戦略の前提そのものが、静かに崩れ始めていたのである」(吉田裕『アジア・太平洋戦争』)

連合国軍の反攻


日本は緒戦の予想以上の大戦果を実力の差によるものと過信し、安易な情勢判断と作戦計画に走った。陸海軍間には統一した戦略が欠如していた。

陸軍は、石油などの戦略的資源の開発と日本本土への輸送に力を注ぎながら、南方戦線では持久戦の態勢へ移行することを重視した。北方で対ソ戦を開始することを計画していたからである。一方、米国との国力の大きな格差から長期戦に自信の持てない海軍は、積極的な攻勢作戦の連続によって米国に短期決戦を強要し、米国民の戦意を喪失させることを基本戦略としていた。

その結果、1942年3月に決定された「今後採るべき戦争指導の大綱」は、戦略的重点のあいまいな折衷案となった。また同月決定された「世界情勢判断」では、米国など連合国軍の本格的な反攻作戦が開始される時期を、「概ね昭和18(1943)年以降なるべし」と予想した。だが実際には、米軍の反攻作戦は42年夏に始まった。

日本軍の緒戦の勝利を一気に覆したのは、42年6月のミッドウェー海戦の惨敗だった。ミッドウェー攻略作戦は連合艦隊司令部が海軍軍令部の反対を押し切って計画したものである。敗北の背景には、機動部隊の疲労と連勝による驕慢とがあった。

日本海軍は、ミッドウェー攻略作戦に虎の子の正規空母4隻を投入したが、日本軍の暗号を解読することによって攻撃を事前に知っていた米海軍は、3隻の正規空母を配備して日本軍を待ち受けていた。6月5日、日本軍のミッドウェー島に対する空襲で始まった戦闘は、当初、日本軍優位のうちに推移していたが、米海軍の急降下爆撃隊にすきをつかれ、たちまち「赤城」「加賀」「蒼龍」の3空母を失った。残る「飛龍」も米軍機の攻撃で沈没し、結局、このミッドウェー海戦は日本海軍の大敗に終わった。

大本営発表を受けた新聞記事では「肉を斬らせて骨を斬る必殺の海軍魂」のあらわれだとしたが、現実には、「骨」を斬られたのは日本海軍だった。この真実を国民に隠すため、厳しい秘密主義がとられた。生存者にはかたく口止めがされ、通信は絵ハガキだけが許されて、封書はいっさい禁止された。

戦死者の遺族に対しても、ことの真相は隠され続けた。たとえば、空母「加賀」乗組の戦死者の遺族には、1カ月以上たってから、「名誉の戦死」の公報が送付され、①「生前ノ配属艦船部隊名等」の守秘義務②父母妻子(やむをえない場合は兄弟)以外には戦死の事実を漏らさないこと③僧侶の読経など外部へ漏れる行事の禁止——といった注意事項が指示されていた(黒羽清隆『太平洋戦争の歴史』)。

沖縄戦の悲劇


日本の敗色が濃厚となった1944年、日本軍は沖縄諸島の防衛を強化しようと、16歳から48歳までの男性を防衛隊などの名で動員し、陣地の構築や飛行場の設営作業を行わせた。

1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸した。6月に守備軍が全滅するまで、戦闘は沖縄全土を巻き込み、約3カ月続いた。この間、日本軍は働ける男性のほとんどを、武器を持たない兵員である義勇軍として徴兵した。中等学校生は、男子が鉄血勤皇隊として戦い、女子が看護要員として働き、悲惨な最後を遂げた。

沖縄戦の特徴の一つは、日本軍守備隊の戦死者数とほぼ同じ数の一般住民(いずれも約9万4000人)が戦闘に巻き込まれて死亡していることである。沖縄の防衛にあたる第32軍と大本営は、沖縄戦を、本土決戦準備のための時間を稼ぐ捨て石作戦として位置づけていた。県民の避難計画や安全確保対策は後回しとなり、県民から大きな犠牲者を出す結果となった。

沖縄戦のもう一つの特徴は、日本軍によって、多数の沖縄県民が殺害されたことだ。日本軍は、米軍のスパイとみなした一般住民をただちに処刑しただけでなく、日本軍将兵用の壕を確保するため、住民を壕から追い立てた。これによって、多くの住民が激しい銃放火にさらされ、生命を奪われた。

さらに深刻なのは、「集団自決」である。米軍に圧倒され、戦局の行く末に絶望して自暴自棄になった日本軍将兵は、手榴弾を配るなどして、住民に「皇国臣民」として「自決」することを強要した。沖縄の地方有力者が協力している場合もあるが、日本軍が関与・主導しなければ、この「集団自決」は起こりえなかっただろう(前掲『アジア・太平洋戦争』)。

作家の司馬遼太郎氏は沖縄戦について考察し、「軍隊というものは本来、つまり本質としても機能としても、自国の住民を守るものではない」「軍隊は軍隊そのものを守る」と喝破する。さらに、「もし米軍が沖縄に来ず、関東地方にきても、同様か、人口が稠密なだけにそれ以上の凄惨な事態がおこったにちがいない」と述べる(『街道をゆく6 沖縄・先島への道』)。

アジア太平洋戦争の戦死者の大部分は、沖縄戦を含む、マリアナ諸島陥落後の絶望的抗戦期に発生している。岩手県の事例によれば、44年1月以降の戦死者は、全体の実に87.6%に達している。歴史学者の吉田裕氏は、「戦争終結の決断が遅れたことで、どれだけ多くの生命が失われたかを、この数字は示している」と指摘する。

2024-09-29

日中戦争と統制経済

局地衝突から全面戦争へ


満州事変以降、日本政府と軍部は、「満州国」を確保し、さらに権益を拡大するために、華北を「第2の満州国」にしようとする華北分離工作を進めた。これが日中全面戦争の伏線となる。

日中戦争 前線と銃後 (講談社学術文庫)

1937(昭和12)年7月7日、日中両軍が北京郊外の盧溝橋付近で衝突する盧溝橋事件が起きるが、11日には停戦協定が現地で調印された。

ところが、すでに7月10日、陸軍中央は日本本国、関東軍、朝鮮軍から合計約10万人の大兵力を華北に派遣することを決定し、11日には近衛文麿内閣もこれを承認し「重大決意」を声明した。陸軍は現地で再び小規模な衝突が起こったことを口実に27日、派兵を最終決定し、現地軍も28日から総攻撃を開始した。盧溝橋事件の起きた現地では事態が収束したにもかかわらず、むしろ日本国内において、この際、華北分離を実現しようという考えが支配的になり、事態を拡大させたのである(江口圭一『十五年戦争小史』)。

日本軍の戦力動員に伴って、中国側(蒋介石政権)も国内の抗日意識の高まりを背景に、積極的な軍事活動を行なった。本格的な戦力動員を行えば蒋介石はすぐに屈服・妥協すると考えていた日本側の予想は外れる。8月13日には上海で日本海軍の陸戦隊が中国軍と衝突(第2次上海事変)し、同日、日本政府は上海派遣軍の派遣を決定するとともに、海軍も15日より長崎県大村基地からの南京、上海への渡洋爆撃を開始し、戦火は一挙に広がった。

同日、日本政府もそれまで建前としてきた「不拡大方針」を明確に放棄するとともに、国民をこの戦争に集中させるために、国民精神総動員運動を始めた。この官製国民運動によって、ラジオや講演会などを通じて戦意の高揚をはかるとともに、貯蓄奨励、消費節約など政府の経済政策の実践を国民に呼びかけた(大日向純夫他『日本近現代史を読む』)。

戦火が華北から華中に飛び火した段階で、日本側の実質的な戦争目的は、単に華北を国民政府から分離することから、蒋介石政権の打倒へと変わっていった。

1937年9月、蒋介石は共産党との第2次国共合作に踏み切り、日本軍は中国側の激しい抗戦に直面して苦戦する。日本は大軍を投入し、1937年末に首都南京を占領した。その際、日本軍は中国軍捕虜、一般中国人を含めて少なくとも数万人以上を殺害し、国際的な非難を浴びた。南京大虐殺と呼ばれる。

戦時体制と統制経済


日中戦争が全面化すると、第1次近衛内閣は国民を戦時体制に協力させるため、国民精神総動員運動の開始に続き、1938年には国家総動員法を制定した。

同法により、政府は議会の承認なしに、労働力、物資、出版など国民生活の全体にわたって統制する権限を得た。また産業報告会もつくられ、労働運動を吸収していった。前年には、内閣直属の総合国策立案機関として企画院が発足しており、物資動員計画がつくられ、軍需産業には資材や資金が優先的に配分された。このように、日本は明治以来の自由主義経済の体制を変質させ、政治や社会も含め、官僚統制のきわめて強い国家になっていった。

日中戦争が拡大する中で、軍需生産は拡充したが、民需品の生産は減少した。また軍事費をまかなうための赤字国債や日銀券の濫発によって物価が高騰し、多数の兵士の動員で労働力不足になっていった。

そこで1939年、政府は国家総動員法に基づき国民徴用令や価格等統制令を出し、政府の指令で一般国民を軍需産業に動員したり、公定価格を定め、物価の統制をはかった。そのうえで、国民に「ぜいたくは敵だ」のスローガンのもとに、生活の切り詰めを強いた。1940年からは、砂糖、マッチなどの切符制が実施され、代金のほかに国から割り当てられた切符がないと購入できなくなった。

また政府は、地主よりも小作などの耕作者を優遇して、米の生産力を増大させようとしたが、労働力や肥料などが不足したために、1939年を境に、食料生産は低下し始め、食料難が深刻になっていった。そこで1940年から農村では米の供出制が実施され、翌年には国民に対し米が家族数に応じた配給制となった。

経済が戦時体制へと編成替えされるにつれて、軍需産業以外の中小企業者の大部分とその従業員は失業した。中年の失業者には、新参者として工場に勤めても安い賃金では妻子を養うこともできない気の毒な境遇に追い込まれた者が少なくない。徴用の場合にはもっと悲惨な目にあった。作家の永井荷風はこう記している。

「このたび実施せられし徴用令のことにつきその犠牲となりし人びとの不幸なる話は地獄も同様にも聞くに堪へざるものなり。大学を卒業して会社銀行に入り年も四十近くとなれば、地位も進みて一部の長となり家には中学に通ふ児女もある人あり。/しかるに突然徴用令にて軍用品工場の職工になり下り、石炭鉄片などの運搬に追ひ使はれ、苦役に堪へやらずして斃死するもの、また負傷して廃人となりしものも尠(すくな)からず。幸ひにして命つつがなく労働するもその給料はむかしの俸給の四分の一くらゐなれば駐留過程の生活をなす能(あた)はず、妻子もにはかに職工なみの生活をなさざるべからず、涙に日を送る由なり」(橋川文三・今井清一編著『果てしなき戦線』)

国民を犠牲にし、戦時体制を支える統制経済は、アジア太平洋戦争でさらに強まっていくことになる。

国民の自発的な戦争協力


日中戦争下の国民統制について忘れてならないのは、国民の戦争協力は必ずしも国家が強制したのではなく、自発的なものだったという点だ。

すでに述べたように、日中戦争の長期化は、国内体制の総動員化を要求した。政府の制定した国家総動員法は、社会大衆党などの無産政党(社会主義政党)にとって、「社会主義の模型」と受け止められた。無産政党はこの法律によって、国家が資本を統制し、富が再配分されれば、国内体制の「社会主義」化に一歩近づくものと考えた。

1938年に開いた社会大衆党大会で、同党の衆議院議員・麻生久は、社会大衆党が戦争に協力する理由をこう説明した。 「吾々は、現在においても、帝国主義戦争には絶対反対である。しかし今次の支那事変は、民族発展の戦争であって、資本主義改革を要求する所の国内改革の戦争である」

無産政党が国家総動員法を支持した背景には、戦争に協力する労働者や農民、女性たちがいた。歴史学者の井上寿一氏は、「それまで体制から疎外されていた社会の下層の人びとは、戦争による社会の平準化を、相対的な地位の向上のチャンスとして歓迎した」と指摘する(『日中戦争 前線と銃後』)。

同氏によれば、たとえば1938年1月の厚生省の設置は、労働力・兵力としての国民の力を強化する目的を持ちながら、事実として、部分的ながら、社会保険制度の拡充につながった。あるいは同年4月の農地調整法、翌年12月の小作料統制令といった立法措置は、戦時下食糧増産のために、地主に対する小作農民の地位を相対的に向上させる結果をもたらした。また戦場に赴いた男性の代わりを女性が務めることで、女性の社会進出が目立つようになった。女性たちは、「台所からの解放」を実感することができた。

戦争に自発的に協力したのは、国民の中でも社会的弱者とされる労働者、農民、女性たちだったのである。

だがその後、戦局が一段と悪化すると、下流階層の相対的な地位上昇は実感できなくなった。農民の小作料は減免され、労働者の賃金は上がったものの、皮肉なことに、彼ら自身が支持した戦争に伴うハイパーインフレによって、収入増をはるかに上回る物価上昇に見舞われたからだ。

戦争は軍需産業の隆盛や国家による富の再分配を背景に、一部の国民を潤すことはある。しかし、それが長続きすることはない。多くの人を豊かにする経済の長期にわたる繁栄は、平和によって築かれる。

2024-09-22

満州の暴走

1931(昭和6)年9月18日、中国東北部の奉天(瀋陽)近郊の柳条湖で、南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された。関東軍(「満州」=中国東北部に駐屯する日本軍)は、この柳条湖事件を中国兵の仕業であると称して、中国軍(張学良軍)に対する軍事行動を開始し、翌32年初頭までに満州全土をほぼ制圧した。この満州事変は、第一次世界大戦後の世界秩序を破壊する先駆けとなった重大な事件である。

図説 写真で見る満州全史 (ふくろうの本)

満州事変は、発端の鉄道爆破から関東軍の出動、治安維持・邦人保護を口実にした満州の制圧まで、「満蒙」(中国東北地方と内モンゴル)を武力占領しようとした関東軍の計画的軍事行動だった。作戦参謀・石原莞爾を首謀者とする関東軍は当初、満蒙の日本併合を目指していた。だが国際連盟による英国のリットンを団長とする調査団派遣や諸外国の批判に対応するために、関東軍は自らの満州の武力占領を「自治運動」の結果であるかのように偽装し、「満州国」を建国する方針へと転換する。吉林省では、関東軍参謀にピストルで脅されながら、省政府首脳が「独立宣言」をした。

東アジアの秩序の変更を目指した満州事変により、国家改造(政党政治を倒し、軍部主導・天皇中心の政府に代える)と大陸への膨張を求める軍部を中心とする勢力は活気づいた。英米協調の幣原外交(幣原喜重郎外相)を政策の柱としていた、第二次若槻礼次郎内閣は倒れた。満州事変は、結果的にクーデターの役割を果たしたといえる。事実、戦前の政党政治は、翌32年の5・15事件によって幕を閉じた。

柳条湖事件をきっかけに軍事行動を始めた関東軍に続き、1931年9月21日には、朝鮮軍(朝鮮の日本軍)が独断で満州へ越境出動した。この朝鮮軍の行動は、関東軍と事前に打ち合わせておいたものだったが、天皇の許可なく担当地区外に出兵することは、明らかに朝鮮軍司令官の擅権(越権行為)だった。だが天皇も軍中央首脳も、満州での衝突はさほど拡大しないだろうとの楽観的な見通しから、朝鮮軍の越権も、関東軍の独断専行も追認していった。

国民の徴兵による「天皇の軍隊」を勝手に、天皇の命令もなしに動かすことは、本来なら大罪である。石原莞爾やその盟友・板垣征四郎をはじめとする満州事変の首謀者、関東軍を助けに行くために朝鮮軍を勝手に動かして「越境将軍」と呼ばれた朝鮮軍司令官・林銑十郎らは、全員この時点で「擅権の罪」で死刑になるべきだったと、経済学者の安冨歩氏は著書『満洲暴走 隠された構造』で指摘する。ところが彼らはみんな出世した。石原莞爾は参謀本部作戦課長に栄転する。エリート中のエリート、英雄扱いである。

たしかに、20万から30万といわれる張学良軍を、1万ほどの関東軍と増援の朝鮮軍であっという間に蹴散らし、日本の面積の3倍ほどある満州全土を占領したのだから、軍事的にみれば歴史に残るような大手柄である。「しかし、これが何よりもよくなかったのです」と安冨氏は述べる。これで「あ、なにやってもいいんだ、独断専行でやって、擅権だろうと何だろうと結果オーライだったら出世するんだ」と軍人みんなが思ってしまった。

その後、軍人が勲章と出世欲しさに暴走し、暴走を止めようとすると、止めようとした者が弾き飛ばされるというパターンが繰り返される。皮肉なことに、のちに中国戦線が拡大した際、関東軍を止めようと説得に行った石原莞爾は、現地参謀の武藤章に「私は閣下がやったことと同じことをしているだけです」と言い返された。

満州事変が始まると、新聞・ラジオなどは軍部を支持する報道を行い、国民の間に満州占領の軍事行動は当然であるとの空気が形成されていった。なお石橋湛山の主催する「東洋経済新報」は、事変直後に満蒙権益放棄論を唱えて事変を批判した数少ない例である。

戦線を拡大した関東軍は、10月8日には張学良政権の政庁が置かれていた錦州を爆撃した。この爆撃は、錦州が満鉄沿線から遠く離れ、英国の権益に属する北寧線(京奉線)沿線にあったこと、第一次世界大戦以来初の都市爆撃だったことによって、世界に衝撃を与えた。錦州爆撃に続いて、関東軍は1931年11月にはチチハルを、翌32年2月にはハルビンを占領し、満州北部まで制圧した。

日本の満州占領に対して国際世論の厳しい批判が集まり、満州に傀儡政権を樹立しようとする日本にとって障害となった。そこで国際社会の注目を満洲からそらすため、関東軍と日本の駐上海領事館の武官は共謀して、中国人暴徒に日本人僧侶を襲撃させる事件を企て、これを口実にして1932年1月、日本の海軍陸戦隊は上海の中国軍を攻撃し、日中両軍が衝突した(第一次上海事変)。

関東軍は32年3月、旧清朝の廃帝・愛新覚羅溥儀を担ぎ出して満州国を建国させた。満州国は、溥儀を執政(のち皇帝)に据え、「五族協和(日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人の協力による平和な国づくり)」「王道楽土(徳に基づいて治められる安楽な土地)」をスローガンにして建国されたが、実際には関東軍と日本人官吏によって支配された傀儡国家だった。

満州国建国後も抗日勢力の活動は活発で、日本軍はこれらを匪賊であるとして「匪賊討伐」に明け暮れた。また匪賊討伐は、しばしば抗日軍とともに日本軍に敵対する一般住民への虐殺へと発展した。32年9月に撫順の日本軍守備隊が行った平頂山での住民虐殺(平頂山事件)はその最大級のものである。女性や子供、老人を含む3000人余りのほとんどが命を失った。

満州国は経済も迷走した。当初、資本主義経済の進入を拒否するという態度をとった。五族協和、王道楽土を金看板にする以上、満州では搾取があってはいけないという理想からだ。しかし日本が自由な資本主義なのに、満州だけが統制経済で進もうとしても油と水を混合するようなもので、無理な話である。日本の財界は「関東軍は赤(共産主義者)だ」と騒ぎ、大財閥の三井や三菱はそっぽを向いてしまった。

そこで商工省の高級官僚だった岸信介(戦後に首相)は新興財閥の日本産業株式会社(日産)を満州に引き入れ、「満州重工業開発(満業)」を発足させる。ところがこの満業の経営に対し、関東軍が何かと口を出した。ああしろこうしろと軍人の思いつきで、意味のないことばかりやらされる。結局、まったくもうからず、赤字を出しては本体の日産の子会社の利益でカバーするというような状態に陥った(前掲『満洲暴走』)。

満州で始まった軍の暴走は、日本をさらなる危機へと追いやっていく。

<参考資料>
  • 小田部雄次・林博史・山田朗『キーワード日本の戦争犯罪』雄山閣、1995年
  • 橋川文三編著『アジア解放の夢』(日本の百年)ちくま文庫、2008年
  • 安冨歩氏『満洲暴走 隠された構造 大豆・満鉄・総力戦』角川新書、2015年
  • 平塚柾緒著、太平洋戦争研究会編『図説 写真で見る満州全史』(ふくろうの本)河出書房新社、2017年

2024-09-15

第一次世界大戦と軍拡競争

20世紀初頭の欧州では、英国・ロシア・フランスの三国協商と、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟の対立が深刻となり、1914(大正3)年、バルカン半島のサラエボでオーストリア皇太子が暗殺されたのをきっかけに、第一次世界大戦が勃発した。戦争は西部戦線において激戦を繰り返しながらも、一進一退の膠着状態となる。米国の参戦(1917年4月)で西部戦線のバランスは崩れ、1918年11月、4年間にわたる戦争はドイツの敗北をもって終結した。

軍備拡張の近代史: 日本軍の膨張と崩壊 (歴史文化ライブラリー 18)

大戦勃発に先駆けて、各国は軍艦をはじめとする軍備の強化にしのぎを削った。英国は1905年に弩級戦艦(12インチ=30センチ主砲を8門以上搭載)の一番艦ドレッドノートを、1909年には超弩級戦艦(13.5インチ=34センチ主砲を8門以上搭載)オライオンを起工し、建艦競争を常にリードした。毎年のように、起工される戦艦の大きさと主砲のサイズ、搭載数は増えていった。

日本も日露戦争でロシアを破った日本海海戦を主力艦決戦の典型としてそれを理想化し、常にその再現を目指そうとして、大艦巨砲主義(大型の大砲をできるだけ多数搭載しようとする建艦方針。結果的に艦は大型化する)の道を突き進んだ。米国を仮想敵国とし、主力艦クラスの軍艦の国内建造が可能になったこともあり、弩級、超弩級戦艦の世界的建艦競争に参入した(山田朗『軍備拡張の近代史』)。

その財政負担は国民にのしかかった。大戦勃発時、当時の雑誌「風俗画報」はこう伝えた。「海軍砲の最新式12インチの砲口へは、人間1人が楽々と入りうるほどである。この大砲を製造するには、砲身のみにて12万円、砲塔を加算して40万円を要する。しこうしてズドンと1発放つときは1000円はかかる。この40万円を我々の日常生活費に割り当て三度の飲食費をかりに20銭とすると1日に200万人だけ生活され、一カ年に5350人の生活費を支弁されうる。〔略〕いまや欧州の天地においてこの大砲が惜し気もなくドンドン発砲さるるのである。それことごとく国民の血と肉であるを思えば、戦慄するばかりである」(今井清一編著『成金天下』)

日本は欧州で戦争が始まるとただちに1914年8月、ドイツに対して宣戦布告を行った。英国の要請により日英同盟に基づいての参戦というのが、大義名分だった。日本は英国からアジアの海域におけるドイツ艦艇(とくに商船を攻撃する仮装巡洋艦)掃討を要請されたことを格好の口実にして、中国山東半島の青島だけでなく山東鉄道や太平洋のドイツ領諸島(グアム島以外の赤道以北の南洋群島)を11月までに占領した。

日本は欧米諸国が欧州での戦争に全力を投入し、アジアのことを省みる余裕がない時をとらえて、中国における権益の拡大を図った。大隈重信内閣の加藤高明外相は、陸軍の中国への過大な要求に屈し、1915(大正5)年、中国の袁世凱政府に二十一カ条要求を突きつけ、大部分を強引に承認させた。その主な内容は、①山東省のドイツ権益を日本が継承する②旅順・大連の租借期限を99カ年延長する③南満州・東部内蒙古の権益の強化——などだった。この要求に中国国民は憤慨し、要求を受け入れた5月9日を国恥記念日とした。

第一次世界大戦の講和条約・ベルサイユ条約の調印は、1919年6月に行われた。大戦の終結とこの条約によって、従来の英独を軸とする諸国の対立図式は崩壊し、戦勝国である英米仏主導による一極的支配体制が成立した。この一極的支配体制は、一面では国際連盟(1920年成立)という平和維持機構を成立させるとともに諸国の軍備制限を行い、他面では欧州におけるベルサイユ体制、アジア・太平洋地域におけるワシントン体制という新たな国際秩序を生み出した。

ベルサイユ条約によって、敗戦国ドイツは領土を削減されるとともに、海外植民地はすべて戦勝側諸国によって再分割された。日本は中国と太平洋地域におけるドイツ権益をそのまま継承することになった。ドイツ領だった南洋群島(サイパン、テニアン、トラックなど)はそのまま委任統治領として、国際連盟から日本が委任される形式をとって統治することになった。委任統治領には軍事施設を建設することはできないものの、行政と住民への教育などの責任は日本が負い、事実上の領土といってもよい存在だった。

大戦が終わった後も、大艦巨砲主義に基づく建艦競争は、英国・米国・日本を対抗軸にして続いた。巨大化した主力艦の建造費用は膨れ上がり、日本の国家予算が15億円に満たない時代に主力艦は1隻3000万円から4000万円もしたため、建艦費は国家財政をひどく圧迫した。1920年には八・八艦隊案(戦艦8、巡洋戦艦8)が成立し、1921年、原敬内閣の時期の海軍費は国家歳出の31.2%を占めるに至った(陸海軍全体の軍事費は国家歳出の49.5%に達した)。

このような状況の中で、1921年、米国の提唱によるワシントン会議が開催された。この会議には、軍縮による平和維持と、植民地を有する大国の権益維持という二つの性格があった。会議には、米英仏日蘭ベルギー・ポルトガル・中国の9カ国が参加し、主力艦と航空母艦の大きさ、性能と保有量を定めた海軍軍縮条約、太平洋に関する4カ国条約、中国に関する9カ国条約の3つの条約が締結された。

ワシントン海軍軍縮条約によって日本の主力艦・航空母艦保有量は米国の6割とされたほか、4カ国条約の締結に伴い日英同盟は廃止され(1923年)、9カ国条約の結果、日本は旧ドイツ権益を中国に返還し、出兵していたシベリアからも撤退することを迫られた。すなわち、「満蒙特殊権益」については黙認されたものの、ワシントン会議において日本は、大戦中に拡大した中国での権益の大部分を失ったことになったのである。

このため、これらの諸条約は、米国による日本封じ込め政策であるといった反米論が日本国内で高揚した。軍縮条約の締結によって海軍の軍縮が実行されるとともに、1920年代には陸軍の軍備も削減されたが、軍内部においては、人員整理、すなわち職業軍人の失業と部隊の廃止によって軍縮に対する強い反発を残すことになった。

それでも、もしワシントン海軍軍縮条約が締結されていなかったら、日本は財政破綻の危機に直面していただろう。残念ながら、第二次世界大戦ではこうした歯止めは失われてしまう。

<参考資料>
  • 大日方純夫ほか『日本近現代史を読む』新日本出版社、2010年
  • 歴史教育者協議会編『ちゃんと知りたい! 日本の戦争ハンドブック』青木書店、2006年
  • 山田朗『軍備拡張の近代史』吉川弘文館、1997年
  • 今井清一編著『成金天下』日本の百年〈5〉、ちくま学芸文庫、2008年

2024-09-08

大逆事件の闇

近代日本で国家主義が次第に台頭していた1910(明治43)年5月25日、長野県明科のとある製材所の奥で、注意深く隠された木箱が発見された。その中身は、明治天皇暗殺のために準備された爆裂弾の材料だった。後にいう大逆事件、すなわち社会主義者・無政府主義者の幸徳秋水一味が天皇暗殺を目論んだとして大逆罪に問われ、処刑された一大事件発覚の瞬間である。この事件は、国家によるフレームアップ(でっち上げ)の典型として知られる。明治の「闇」を象徴する出来事だ。

「社会」のない国、日本 ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆 (講談社選書メチエ)

当時は産業革命の進展に伴って賃金労働者が増加し、社会主義運動が盛んになりつつあった。幸徳、安部磯雄、片山潜らは1898年に社会主義研究会をつくり、1901年、最初の社会主義政党である社会民主党を結成したが、治安警察法によってすぐに解散させられた。それでも幸徳らは日露戦争に反対し、反戦論を唱えた。

日露戦争反対を機に高揚した社会主義運動に対し、政府は機関誌紙の発禁や集会の禁圧、結社禁止などの抑圧を加えた。実質的な運動はほとんど展開できない状勢になり、幸徳、管野スガらの創刊した「自由思想」も発禁の連続で廃刊を余儀なくされ、合法的な運動は不可能になる。管野、宮下太吉、新村忠雄、古河力作の4人は、天皇の血を流すことにより日本国民の迷夢を覚まそうと爆裂弾による暗殺計画を練った。

宮下は長野県明科の製材所で爆裂弾を製造し、爆発の実験も試み、1910年1月には東京・千駄ヶ谷の平民社で投擲の具体的手順を相談するが、幸徳は計画に冷淡で著述に専念しようとした。

当時の第2次桂太郎内閣は、当局にスパイを潜入させたりなどしてこの計画を感知し、同年5月の長野県における宮下検挙を手始めに、6月1日には神奈川県湯河原で幸徳を逮捕した。政府は一挙に社会主義運動の撲滅を狙って、幸徳が各地を旅行した際の放談などをもとに26名を起訴するほか、押収した住所録などから全国の社会主義者、無政府主義者数百名を検挙して取り調べた。

検察当局は、爆裂弾で明治天皇の暗殺を計画したものとして、刑法の大逆罪を適用し、26人を起訴した。実際に計画を相談したことを認めたのは宮下ら4人だけだったが、翌1911年1月、わずか1カ月の審理で裁判所は幸徳ら24人に死刑を宣告し、その月のうちに幸徳、管野ら12人を絞首刑にした(12人は天皇の特赦として無期懲役に減刑)。管野はその手記に「今回の事件は無政府主義者の陰謀というよりも、むしろ検事の手によって作られた陰謀という方が適当である」と記している。

なお幸徳は弁護士宛の陳弁書で、無政府主義思想について「東洋の老荘と同様の一種の哲学」と述べ、「無政府主義者が圧制を憎み、束縛を厭い、同時に暴力をも排斥するのは必然の道理で、世に彼等程自由平和を好む者はありません」と力説した。このような無政府主義者からは、暗殺者は少なく、むしろ「暗殺主義なりと言わば勤王論愛国思想ほど激越な暗殺主義はない」と反論している。

大逆事件は同時代の文学者や思想家に衝撃を与えた。東京・本郷弓町の下宿に両親妻子5人とともに暮らしていた詩人、石川啄木にとって、事件の発覚した1910年は「思想上において重大なる年」となった。

啄木はかつて日露戦争を賛美したが、日露戦争後は痛烈な国家批判の立場に移っていた。幸徳やそのグループと接触はなかったが、大逆事件公判の進められている期間、絶えず旧知の弁護士から話を聞き、幸徳の陳情書などの記録を借り受けて、その膨大な記録を筆写した。幸徳らが処刑された日、「ああ、何という早いことだろう」と嘆いている。

小説家、徳富蘆花は翌月の2月1日、第一高等学校(現在の東大教養学部)弁論部の求めに応じて演壇に立ち、「謀叛論」と題して演説した。講演は暗くなってろうそくがともされるころまで続いた。それは痛烈な政府批判であり、また幸徳らの擁護論だった。

蘆花は幸徳らを「自由平等の新天新地を夢み、身をささげて人類のためにつくさんとする志士である」「死は彼らの勝利」であると断じ、志士をただ殺戮する以外に能のない閣臣、「蛇の蛙をねらうような」検察当局を痛罵したのち、「諸君、幸徳君らは時の政府に謀叛人と見なされて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものはつねに謀叛である」と訴えた。

しかし、蘆花のように幸徳らを堂々と擁護する言論人は他にほとんどいなかった。幸徳らを乗せた囚人馬車を偶然目撃した小説家、永井荷風は「わたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした」と記した。

一方、取締当局は、事件をテコに弾圧体制の整備を図った。1910年7月、内務相は首相に社会主義に対する意見書を提出し、警察に社会主義専門の担当者を置いて偵察を徹底させることなどを提案した。このような意見を踏まえ、1911年4月、社会主義の取り締まりを専門に行う警察官の増員が図られた。8月には警視庁に特別高等課が設置された。のちの特別高等警察(特高)である。監視の網はいっそう厳しくなり、社会主義者などを「特別要視察人」としてリストアップして監視する体制が固められた。大逆事件を契機に社会主義には「冬の時代」が訪れた。

社会学者の菊谷和宏氏は著書『「社会」のない国、日本』で、ともに国家による冤罪であるフランスのドレフュス事件と日本の大逆事件を対比している。

ドレフュス事件では、軍部が捏造したスパイの証拠によってユダヤ系陸軍大尉ドレフュスが軍法会議で有罪とされる。これに対し作家ゾラはドレフュスを擁護し、一時亡命を強いられながらも、再審の道を開く。ゾラを衝き動かしたのは、「人間性が国の都合に優先されてはならない」「国家以前に尊重されるべきものがある」という信念だった。

このような信念を生んだものは何か。ゾラの同時代人である仏社会学者デュルケームによれば、それはキリスト教である。キリスト教が育んだ個人主義精神からみれば、国家という組織はそれがいかに重要であれ、ひとつの道具に過ぎず、目的のための手段でしかない。

一方、大逆事件では、荷風が恥じたように、ゾラのように立ち上がり、幸徳らを堂々と擁護する言論人はほとんどいなかった。キリスト教の伝統をもつフランスと異なり、日本には「国家以前に尊重されるべきものがある」という思想は根づいていない。菊谷氏の言葉を借りれば、国家のみがあって社会が存在しない。

日本では長い物に巻かれることがよしとされ、国家の暴走に歯止めをかける者がない。それは「和をもって貴しとなす」日本人の長所を帳消しにしかねない、深刻な短所である。

<参考資料>
  • 橋川文三編著『明治の栄光』日本の百年〈4〉、ちくま学芸文庫、2007年
  • 田中伸尚『大逆事件』岩波現代文庫、2018年
  • 菊谷和宏『「社会」のない国、日本 ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆』講談社選書メチエ、2015年

2024-09-01

秩父事件はなぜ起きたのか

1884(明治17)年11月、「困民党」と呼ばれた埼玉県・秩父地方の農民たちが、借金の10年据え置きと40年賦返済、学校費軽減のための3年間の休校や減税などを求めて蜂起し、郡役所、裁判所、警察署などを襲撃し、高利貸しに放火するなどした。秩父事件である。

秩父事件: 圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ

蜂起の発端となったのは秩父地方だったが、群馬県や長野県にまで広がる。鎮圧には警察だけでなく、憲兵隊や高崎鎮台兵が出動した。農民の一部は軍隊と交戦して、30人以上が死亡したとされる。検挙者は埼玉県で約3500人、群馬県で約300人、長野県で約600人という。広域にわたる大規模な事件だった。秩父事件はなぜ起こったのだろう。

秩父事件の背景の一つには、高揚期に達していた自由民権運動の影響がある。

1881(明治14)年、開拓使官有物払い下げ事件で民権運動による政府批判が強まり、国会開設をめぐる政府内の対立も激化した。その結果、大隈重信が下野し(明治14年の政変)、国会開設の勅諭が出されて10年後に国会が開かれることになった。

民権運動派は国会開設に向け、政党の結成に動く。板垣退助を中心とする自由党、下野した大隈重信を中心とする立憲改進党などが結成された。しかし改正集会条例で政治結社の支部の設置が禁じられており、全国的な組織づくりが困難だった。さらに政府は自らの主導権で憲法を制定するため、伊藤博文を欧州に派遣し、その一方で、板垣退助を外遊させるなどして自由党の切り崩しを図った。党内でも対立があり、自由党は解散するに至る。秩父事件の直前のことだ。

党の中核を失い、方向性が定まらないなか、福島事件、高田事件、群馬事件、加波山事件など、自由党が何らかの形で関わった激化事件が頻発した。秩父事件も、その一つに位置づけられてきた。しかし他の激化事件より規模がはるかに大きいうえ、異なる特徴をもつ。

特徴の一つは、秩父の蜂起勢の指導部には博徒(博打打ち)がいたことだ。自由党員の井上伝蔵、落合寅市、高岸善吉らのうち落合、高岸は博徒でもあり、その親分にあたる加藤織平も蜂起勢の幹部となっている。最高指導者の田代栄作も博徒だった。蜂起には農民、自由党員、博徒といった多様な人々が参加していたのである。

日記や裁判記録などには、次のような農民の言葉が書かれている。「圧政を変じて良政に改め、自由の世界として人民を安楽ならしむべし」「恐れながら天朝様へ敵対するから加勢しろ」「総理板垣公の命令を受け、天下の政事を直し、人民を自由ならしめんと欲し、諸民のために兵を起こす」

これらの言葉からは、明治政府の圧制を改め、自由で安心して暮らせる政治を実現するのだという強固な思いが読み取れる。事件は全国各地の新聞のほか、ロンドンで発行されていた「ベルギー独立」紙、フランスの「ルタン」(現「ルモンド」)紙にまで報道された。

秩父事件のもう一つの重要な背景は、松方デフレだ。

1877(明治10)年に西郷隆盛を擁して士族が起こした西南戦争は、明治の士族反乱として最大規模のものだった。西郷軍の総兵力は約3万人であり、これに対して政府は約6万人の兵力を投入した。整ったばかりの徴兵制による軍隊だけでなく、軍夫も雇い、戦費は4200万円もの莫大な額になった。政府はその多くを、不換紙幣を増発することで賄った。

その影響は2~3年後に激しいインフレとなって現れた。市場に出回る紙幣が多くなったために、物価が急激に高騰したのである。この事態に対応するため、大蔵卿の松方正義は、不換紙幣の消却を急速に進めた。一言でいえば、デフレ政策である。これはインフレの害を静めるためにやむをえない措置だが、痛みを伴った。

政府は一方で、増税にも踏み切った。これは朝鮮半島での壬午軍乱(反日的クーデター)をきっかけに始まった、清国との交戦を念頭においた軍備拡張計画の財源でもあった。内務卿の山県有朋は軍備拡張の必要性を説き、たばこ・酒類などに課税することによって経費を生み出すと述べた。そして、増税の令を一度発すれば、増税反対が起こることは承知のうえだが、それには弾圧をもって臨むといった。

増税となったのは、地租以外の「雑税」だった。雑税の合計額は1879年が21万9975円、1884年が45万4619円と5年間で倍増した。税額のうち最も額が大きいのが酒税、次いで各種印紙税、車税、たばこ税などと続く。地方税も増加の一途をたどった。地方税とは県税で、地租割、戸数割、営業税、雑種税だ。地方税は5年間で1.9倍になった。とくに営業税の伸びが顕著だった(秩父事件研究顕彰協議会編『秩父事件』)。

折からの世界的な不景気の影響もあり、増税とデフレ政策によって多くの農家が深刻なダメージを受けた。租税が納められず、滞納によって強制処分を受けた農民は36万人にものぼり、やむなく競売にかけられた土地は4万7000歩にもなった(藤野裕子『民衆暴力』)。

松方デフレによるダメージがとくに大きかったといわれるのは、養蚕地帯だ。秩父事件に参加した地域は養蚕地帯だった。

幕末の開港によって生糸の輸出が増加したため、この地域は養蚕・製糸業に重点を移すことで農家の経営を発展させていった。生糸価格は下落しても一時的だった。収益性が高かったため、高利貸し(個人だけでなく、銀行・企業など)から高い利息で借金をしても、通常であればそれ以上の利益を得て返済できた。

しかし今回の急激なインフレとデフレは、政府の政策によってつくり出されたものだ。強気になって借金をしすぎた農家に自業自得の面はあるものの、激しいインフレを生み出し、経営判断を惑わせた政府の責任は軽くない。

借金を10年据え置きにし、40年かけて返済するという要求は、現在の感覚からすると、かなり法外な要求にも思える。だがこの要求の背景には、貧窮に陥った際に温情的な措置を施す、現在の金融とは異なる負債整理の伝統的な慣行があったと指摘されている。

事件後、憲兵隊と警察隊は各村々に入り、参加者を逮捕しつつ自首を強要していった。警察の厳しい尋問を経て、裁判は事件の中心人物らを死刑、懲役、禁固の刑に処し、多くの人々を罰金・科料とし、彼らを「暴徒」として断罪した。そのため事件参加者の遺族や子孫の多くは、事件に口を閉ざして生きてきた。近年に至り、ようやく名誉回復が進んでいる。

秩父事件を起こしたのは、インフレや増税など明治政府の誤った政策が招いた生活苦だった。蜂起した人々が夢見た、圧制のない、自由で安心して暮らせる社会は、今も庶民の理想であり続けている。

<参考文献>
  • 松沢裕作『自由民権運動 〈デモクラシー〉の夢と挫折』岩波新書、2016年
  • 藤野裕子『民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代』中公新書、2020年
  • 秩父事件研究顕彰協議会編『秩父事件 圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ』新日本出版社、2004年

2024-08-25

田中正造の戦い

北関東を流れる渡良瀬川の上流にある足尾銅山は、もとは幕府直轄の銅山だった。1876(明治9)年12月、生糸貿易商の古河市兵衛はこの銅山を買い取り、設備を近代化して採鉱を開始した。のちに会社組織の古河鉱業となる。開発が進むにつれて銅の産出量は年々増加した。

田中正造 (センチュリーブックス 人と思想 50)

ところがそれに伴い、渡良瀬川やその沿岸で異変が起こる。魚が大量に死んだり、山林や稲が枯れたりし始めたのである。銅の精錬に伴う亜硫酸ガスの放出量が増えるとともに、銅・亜鉛・鉛・砒素などの有毒重金属を含む鉱毒が川に大量に垂れ流されたせいだと、後日判明する。

栃木県選出の改進党代議士、田中正造は、この問題の解決は足尾銅山の操業停止しかないと考え、1891年の第2回議会に質問書を提出した。農商務大臣の陸奥宗光は答弁を避け、議会解散後に答弁書を官報に載せた。それには、被害は事実だが原因は確実でない、鉱業人(古河市兵衛)はなすべき予防の措置を準備しつつある、とあった。まるで「政府は鉱業人の代言人(弁護士)」のようだと批判を浴びる。陸奥大臣の次男は古河の養子だった。

正造は政府の言い逃れに騙されはしなかった。翌年の臨時議会に再度質問書を提出する。今度は専門家の分析結果が発表されたので、政府も足尾の鉱毒を認めたが、一方で手を回して、県知事や県会議員を仲裁役に立て、被害農民と古河の間に示談を成立させた。それは古河に著しく有利なものだった。

日清戦争中、足尾銅山は一段と発展し、被害は依然として続いた。田中は議会ごとに声を枯らして政府を難詰したが、事態は容易に進まなかった。

田中正造は1841(天保12)年、栃木県の名主の家の生まれで、19歳の若さで名主を継ぐと、農民を苦しめる領主の悪政を改めるために奔走し、捕えられ投獄されたという前歴がある。自由民権運動を経て国会開設とともに推されて議員となり、ほぼ10年間の議員活動の大半を、この鉱毒問題に注いだ。

1901年2月に正造の行なった質問は、「亡国演説」として有名である。正式な表題を「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」という。登壇した正造は、次のように政府を厳しく批判した。「民を殺すは国家を殺すなり。法を蔑(ないがしろ)にするは国家を蔑(なみ)するなり。皆自ら国を毀(こぼ)つなり。財用を濫(みだ)り民を殺し法を乱して而(しこう)して亡びざるの国なし」

同じ月の13日、被害地の農民2500人が大挙して議会への請願のため、上京に向かった。ところが利根川べりの川俣(群馬県明和町)で当局が待機させた200人の警官・憲兵と衝突し、数十人が逮捕され、上京は阻止された。「川俣事件」である。

正造は川俣事件に強い衝撃を受け、ただちに議会で2度の質問に立ち、警察・憲兵の暴行を批判した。2月15日には憲政本党(改進党の後身)への失望から、同党を脱党した。

同年3月の第15回議会では、あらためて鉱毒についての質問を数度行う。そのなかでとくに重要なのは、人民は国家権力の不当な行使に対して抵抗することができるという「抵抗権」の思想をはっきりと表現したことだ。

もし政府が古河市兵衛の指図を受けて、憲法で保障された人民の請願を妨害したり、被害民を捕えて牢へ入れるといった乱暴なことをするなら、政府は人民に「軍(いく)さを起す権利を与えるのである」と正造は主張した。

第15回議会は、北清事変(義和団事件)の出兵に充てる増税案を可決して閉会した。この出兵を機に日本は帝国主義に向かって大きくカーブを切る。当時、銅は生糸、綿製品に続く重要な輸出品であり、政府は輸出の花形である銅を守り、被害民を切り捨てたのである。

同年10月23日、正造はついに衆議院議員を辞職した。「憲法・政府・政党・議会といった制度を他力的に頼っても、問題が少しも解決しない」(布川清司『田中正造』)と悟ったからである。

しかし、すべての制度に絶望したかにみえる正造にも、ひとつだけ最後の希望が残っていた。それが辞職からまもない12月10日、第16回議会の開会式から帰る明治天皇に対して敢行した直訴だった。

この日、正造は黒の綿服、黒の袴、足袋はだしで拝観人の中から飛び出し、直訴状を手に高く掲げつつ、「お願いがござります」と叫びながら天皇の馬車に突進した。慌てた警護の警官がこれをさえぎろうとして落馬。正造もつまずいて転び、警官に取り押さえらえた。正造は麹町警察署に連行され、一晩留め置かれ、「狂人」として釈放された。

直訴文は正造の依頼で、当時名文家として知られた社会主義者の幸徳秋水が執筆し、当日の朝、正造が訂正・捺印したものだった。直訴という衝撃的な行為によって世論を喚起しようとしたのである。世間の人々は鉱害の認識を深め、その惨状に心を動かされ、支援の輪が広がった。

1902年、政府は渡良瀬川下流の谷中村を買収して村民を立ち退かせ、遊水池にして洪水を防ごうという計画を打ち出した。正造は遊水池化に反対して村民とともに運動を展開し、谷中村に移り住んで抵抗したが、1907年、政府は「土地収用法」を適用し、最後に残った16戸を強制破壊した。ちなみに政府側責任者の内務大臣原敬は、前年まで古河鉱業の副社長だった。

正造には他にも、現在においてもなお輝きを失わない主張がある。非戦平和の思想だ。

正造は、日露戦争開戦前の1903年2月10日に、静岡県掛川で初めて非戦論を主張した後、「倍々(ますます)非戦争論者の絶対なるもの」になっていった。日露戦争の際には、「日本の開戦ハ誠に山師の主張ニて国民の主張ニあらず」と述べ、その階級的性格を鋭く指摘する一方で、「戦争ニ死するものよりハ寧ろ内地に虐政に死するもの多からん」と言う視点から、日露両国政府に抑圧されているもの同士が国境をこえて連帯する必要性も呼びかけた。

また、ポーツマス講和条約の締結後も、「矢張小国ハ小国なり」として、油断して大国ぶることを戒め、日露戦争に勝利した日本だからこそ世界に先駆けて軍備を全廃するのが日本の「権利」であるという独特の認識を形づくるに至った。

20億円の軍事費を全廃すれば、5人家族平均125円となり、10年間無税にすることができる。あるいはまた、そのかわりに外交費を30倍、300倍に増やして、日本が世界平和の唱道者にならなければならない、それこそが日本の世界的使命であると主張した。「人類は平和の戦争コソ常に奮闘すべきもの」というのが、正造の基本的な考えであった。「まぎれもなく、日本国憲法第九条の先駆者の一人であるといえよう」(『田中正造』)と歴史学者の小松裕氏は指摘する。

正造は残った農民とともになおも抵抗を続けたが、1913(大正2)年9月4日、71歳で死去した。

1911年6月9日の日記に、正造は次のように書いた。「対立、戦うべし。政府の存在せる間は政府と戦うべし。敵国襲い来らば戦うべし。人侵さば戦うべし。その戦うに道あり。腕力殺伐を以てせると、天理によりて広く教えて勝つものとの二の大別あり。予はこの天理によりて戦うものにて、斃れても止まざるは我が道なり。天理を解し、この道実践のもの宇宙の大多数を得ば、即ち勝利の大いなるもの也」

歴史学者の由井正臣氏は、「まことに彼の生涯は、人民の生活を破壊し、権利をうばうものとの、天理・人道にもとづく壮絶な戦いの連続であった」(『田中正造』)と総括する。

政府と親密な有力企業が環境汚染などによって人民の生活を破壊するケースは、今もなくならない。人間の権利という「天理」に基づく抵抗の大切さを、田中正造の生涯は教えている。

<参考文献>
  • 布川清司『田中正造』(人と思想)清水書院、1997年
  • 由井正臣『田中正造』岩波新書、1984年
  • 海野福寿『日清・日露戦争』(日本の歴史)集英社、1992年
  • 松本三之介編著『強国をめざして』(日本の百年)ちくま学芸文庫、2007年
  • 大日方純夫ほか『日本近現代史を読む』新日本出版社、2010年
  • 小松裕『田中正造——未来を紡ぐ思想人』岩波現代文庫、2013年

2024-08-18

政商から財閥へ

ロシア報道に登場する「オリガルヒ」は、「新興財閥」と訳されることが多いが、ときに「政商」という訳語を目にする。こちらのほうが本質を言い当てている。政商とは「政治家や高級官僚といった政治権力者と関係を持って、利権や情報を得ている商人」をいうからだ。

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日本では、政商は明治初期に登場し、特権的立場を利用して膨大な富を蓄積した。その半面、権力者との癒着には大きなリスクもつきまとった。その一つは、権力者が政商に特権を与えた見返りに、何らかの利益を求めてくることだ。後で述べるように、三井銀行ではそうした要求を断れず、権力者に融通した資金が不良債権となり破綻の危機に瀕した。

そこで、ある時点で一部の政商は、政府との関係を意図的に弱めていく。政商のままでは、権力者の意向を配慮するあまりに、自由な事業活動が束縛されてしまうからだ。権力者との関係を弱めることに成功した政商は、それまでに蓄積した資本を元手に、多角的な事業活動を展開し、「財閥」へと発展していく。財閥とは「富豪の家族・同族の閉鎖的所有、支配下に成り立つ多角的事業経営体」を指す。

財閥が多角的な事業を展開するにあたって、事業を管理するトップマネジメントが必要となった。旧来の番頭経営では近代的なビジネスに対応することはできない。そこで、専門知識と企業家精神を持った人材を外部に求め、管理者として登用していく。そうした人材の多くは「学卒者」と呼ばれる高等教育機関の出身者だった。代表的な人物の一人が、三井銀行の雇われ経営者として同行の再建に成功し、三井の近代化の担い手となった中上川(なかみがわ)彦次郎である。

三井銀行は官金取り扱いを目的に設立された私立銀行だ。しかし1882(明治15)年に日本銀行が設立されたことによって、一般の商業銀行への転換が急務となった。

当時、三井銀行は多額の不良債権を抱え、経営危機に陥っていた。不良債権の多くは、官金取り扱いの見返りとして、不利な条件で政府関係者に貸し出したものだった。政商活動は三井にとって官金取り扱いといううまみがある半面、見返りの融資によって不良債権が増えていくというジレンマがあった。官金を取り扱っている限り、政府関係者に強く返済を促すことができなかったのである。

1891年、三井銀行の京都分店で取り付け騒ぎが発生し、同行は倒産の危機に直面した。そこで明治政府は、明治の元勲で、三井家顧問の井上馨に三井銀行の救済を依頼する。井上は、三井家内部に適当な人材が見当たらないことから、中上川彦次郎を三井家に推薦した。

中上川彦次郎は1854(安政元)年、中津藩(大分県中津市)に生まれた。母親は福沢諭吉の姉だった。1869(明治2)年、上京した中上川は叔父の福沢が設立した慶応義塾に学び、21歳で英国に留学する。帰国後、ロンドンで知り合った井上馨の招きで工部省に入るが、「明治14年の政変」による井上の失脚とともに明治政府を後にする。その後、福沢と設立した新聞社「時事新報社」の社主を経て、山陽鉄道の経営に携わっていた。

三井入りをするにあたって、叔父であり恩師でもある福沢諭吉に相談したところ、福沢は「三井の信用をもってすれば天下の金を左右することができるのだから面白い仕事だと思う」と勧めた。三井入りを決断した中上川は三井銀行の実質的経営者である副長となり、三井の改革を進めていく。

中上川はまず、不良債権の原因となっていた官金取扱業務から撤退する。業務を政府に返上し、全国に23あった取扱店を廃止した。

次に、徹底した債権回収に着手する。不良債権の筆頭は、京都の東本願寺に対する100万円の貸付金だった。中上川は東本願寺の別邸である枳殻邸(きこくてい)を抵当に取り、1年以内の返済を求めた。本願寺は中上川を仏敵として非難しつつ、全国の信者から浄財を集め、借入金を返済した。

政府高官の情実や口利きによる融資、高官個人への貸付なども断固とした態度で回収していった。三井入りを推薦した井上馨の反対を無視して、井上の友人・知人に対して返済を迫ることもあった。これが井上の不興を買い、のちの失脚の原因となる。「中上川は自分の信念に反することは、恩人の井上からの忠告であっても聞くことはなかった」と経営学者の山崎泰央氏は指摘する(『企業家に学ぶ日本経営史』)。

中上川は官金取扱業務からの速やかな撤退と不良債権の徹底回収によって、わずか2年で三井銀行の再建に成功する。この過程で三井と政府の関係を弱め、政商路線からの脱却を成し遂げた。

さらに中上川は、三井銀行の不良債権処理で回収した資金などを利用して、工業分野への展開を進める。それまでの三井家事業は呉服に始まって、銀行、商社など商業的な色彩が強いものだった。

鐘淵紡績(鐘紡)、芝浦製作所(東芝の前身)、新町紡績所、富岡製糸場などを経営したほか、王子製紙、北海道炭礦鉄道を三井傘下に収めた。同時にこの時期には三井物産が三池炭鉱の払い下げを受けた。455万5000という巨額の払い下げ代価であったが、同炭鉱とともに三井に入ったマサチューセッツ工科大学(MIT)出身の技術者・団琢磨の努力により、三池は発展し、三井のドル箱となった。

中上川の急進的な改革は、長くは続かなかった。日清戦争後の不況によって工業部門が不振になると、改革に不満を持つ反中上川派の台頭や井上馨の反発、三井同族からの警戒などによって、三井内部で孤立していった。さらに彼自身、健康を害したこともあり、療養のため第一線から身を引くことになった。1901(明治34)年10月、48歳という若さで失意のうちに世を去る。三井改革は、彼の死とともに、およそ10年で終わった。

失脚したとはいえ、中上川の改革は三井家だけにとどまらず、日本経営史に大きな足跡を残した。その成果は、①三井家が財閥に発展する基盤をつくったこと、②財閥の事業発展の方向を示したこと、③専門経営者(雇われ経営者)進出の端緒をつくったことだ。「中上川は三井を政商から近代的財閥へと再出発させたエース投手であった」と経済学者の宮本又郎氏は評価する。

<参考文献>
  • 宇多川勝・生島淳編『企業家に学ぶ日本経営史』有斐閣、2011年
  • 宮本又郎『企業家たちの挑戦』(シリーズ日本の近代)中公文庫、2013年

2024-08-11

植民地支配の教訓

日清・日露の戦争をきっかけに、日本は台湾や朝鮮半島で植民地支配に乗り出していく。明治政府が植民地政策を推し進めた背景には、ロシアの南下政策に備えるという国家戦略があった。しかし今から振り返ると、植民地支配は自由貿易に比べ、政治的・経済的に無理のある政策だった。

日清・日露戦争をどう見るか 近代日本と朝鮮半島・中国 (NHK出版新書)

まず台湾から見てみよう。日清戦争は1895(明治28)年4月の下関条約で講和が成立し、形式的にはその時点で終結した。しかし日本軍による台湾征服戦争は、それから始まった。

下関条約によって日本に割譲されることになった台湾では、割譲反対派により「台湾民主国」の建国が宣言され、日本の支配に抵抗する動きがあった。5月末に台湾北端部に上陸した日本軍は、各地で武装した民衆によるゲリラ戦に悩まされ、南部の台南を占領したのは10月下旬のことだった。

この5カ月間の侵攻・鎮圧作戦により、台湾の軍民約1万4000人が犠牲になったとされる。日本側も戦死527人、戦病死3971人を出した。歴史学者の山田朗氏によれば、これは台湾征服戦争を含めた日清戦争全体の日本軍の戦死・戦病死者1万3458人の実に33%を占め、台湾島民の抵抗がいかに激しかったかを示している(『日本近現代史を読む』)。

日本は1895年8月に台湾総督府を設置し、翌96年3月まで軍政(占領軍による直接支配)を敷いた。4月から民政に移行し、恒常的な植民地支配を始める。民政移行後もゲリラ鎮圧作戦は間断なく続けられた。児玉源太郎総督の統治時代に民政長官を務めた後藤新平の報告によれば、1898年から1902年までの5年間だけで「叛徒」1万950人を処刑もしくは殺害したという(海野福寿『日清・日露戦争』)。

産業政策では農地改革を実施したほか、製糖業を中心に米・樟脳・木材などの産業振興策をとった(樟脳はクスノキから樹液を精製した薬品で、この当時は火薬の原料として使用された)。1897年には植民地における最初の特殊銀行である台湾銀行を設置し、日本本国からの資本導入の窓口とする。ただし、これらの産業政策の狙いは台湾の近代化というよりも、台湾統治の財政基盤を確保することにあった。

日本は朝鮮半島でも植民地化を進めた。韓国(当時朝鮮は「大韓帝国」と改称し、韓国と呼ばれていた)に対し、日露戦争開戦中の1904(明治37)年締結の第1次日韓協約によって、財政・外交に関する日本人顧問を韓国政府が任用することを認めさせた。続いて日露戦争終結直後の1905年、第2次日韓協約を結ばせて韓国を保護国とし、外交権を奪い、漢城(ソウル)に統監府を置き、伊藤博文が初代の統監となる。さらに1907年には、韓国皇帝(高宗)を退位させ、第3次日韓協約を結んで軍隊を解散させ、以降、司法・警察権も掌握するに至る。

このように韓国に対する支配力を強めたうえで、1910年、韓国併合条約を成立させ、韓国を朝鮮と改めて植民地とし、漢城を京城に改め、朝鮮総督府を置いて統治した。韓国併合である。

日本の進出・支配に対しては日清戦争中の1894年から農民主体の義兵闘争が始まり、日露戦争中にも朝鮮半島南部を中心に義兵闘争が広まった。1907年に韓国軍隊が強制的に解散されると、旧韓国軍の将兵たちの多くが蜂起して農民義兵に合流し、反日武装反乱が各地に広がった。日本軍はこれを厳しく弾圧する。

日本は朝鮮の土地支配のために、1908年に農業拓殖事業を行う国策会社である東洋拓殖会社を設立、1910年には朝鮮の土地調査事業を本格的に開始する。日本は朝鮮を食糧(米)と工業原料(生糸・綿花)の供給地と位置づけ、農民に作付転換などを強要した。

さらに鉄道網の整備、中央銀行の設置も進める。すでに台湾では中央銀行の台湾銀行を設置し「台湾銀行券」を流通させていたが、韓国では早くから日本の第一銀行釜山支店が活動しており、第1次日韓協約によってこの第一銀行が「朝鮮銀行券」の発行業務を行っていた。1909年には韓国銀行を設置し、中央銀行券の発行業務を第一銀行から継承する。総裁も行員も建物も、すべて第一銀行から引き継いだ(原朗『日清・日露戦争をどう見るか』)。

こうした日本の植民地支配は台湾・韓国に技術やインフラを導入することで、第二次世界大戦後の経済発展の土台を築いたといわれることがある。当たっている部分はあるものの、全般には誇張されているようだ。経済アナリストのリプトン・マシューズ氏はそう指摘する。

同氏が米シンクタンク、ミーゼス研究所のウェブサイトで公表した記事によれば、台湾・韓国で日本企業は政府官僚とのつながりを利用して特権を手に入れ、コネのない地元企業は排除された。一部の地元企業は恩恵にあずかったものの、大半は民需に基づくものというより、軍事的・地政学的な需要だった。

台湾・韓国の産業成長は、アジアの他地域と比較してそれほど急速ではなかった。日本の植民地はインフラの先駆者だと思われているが、ライバルより優れているというよりも、むしろ同等だった。どの植民地でも、植民地技術者は鉄道、道路、灌漑事業などの建設に、都市住民の専門知識を活用した。たとえば、オランダのジャワ島での成果は、日本の台湾での成果と似ている。オランダはジャワ島に大規模な灌漑網を建設し、それは現在も残っている。

健康面でも日本の植民地はアジアの日本以外の植民地と大差はなく、台湾の乳児死亡率は英領マラヤより少し低い程度だった。教育面では、台湾・韓国には学校が建設されたが、エリート主義であり、ほぼすべての台湾人が高等教育やホワイトカラーの仕事に就くことを拒否された。日本は韓国の初等教育に投資したものの、敵対的な文化政策をとり、韓国語の使用を制限し、韓国固有の教育制度を崩壊させた。1944年には韓国で学校教育を受けた人は14%未満、初等教育以上の教育を受けた人は2%となった。

日本の植民地政策は先進的に見えるかもしれないが、日本以外の植民地と比較すると、むしろ平凡だった。「韓国・台湾が戦後に遂げた目覚ましい発展は、植民地時代の後に加速した経済政策、起業家精神、人的資本への投資によるものだと推論できる」とマシューズ氏は指摘する。

<参考文献>
  • 大日方純夫ほか『日本近現代史を読む』新日本出版社
  • 歴史教育者協議会編『日本の戦争ハンドブック』青木書店
  • 海野福寿『日清・日露戦争』(日本の歴史)集英社
  • 原朗『日清・日露戦争をどう見るか 近代日本と朝鮮半島・中国』NHK出版新書
  • Was Japanese Colonialism the Engine of Later Prosperity for Korea and Taiwan? Probably Not | Mises Wire [LINK]

2023-11-14

日露戦争と重税国家

1904(明治37)年2月8日、日本海軍が中国・遼東半島のロシア租借地にある旅順軍港を奇襲攻撃し、日露戦争が始まった(宣戦布告は10日)。20世紀最初の帝国主義戦争となったこの戦争で、日本国民は10年前の日清戦争を大きく上回る犠牲をこうむる。


列強の中国侵略に反発して起こった民衆蜂起「義和団の乱」(1900年)の鎮圧後、中国・朝鮮の利権を巡って日露両国が対立を深めたことが、開戦の直接のきっかけだ。しかし日本が戦争に踏み切った根底には、明治維新以来の「ロシア脅威論」がある。

幕末以来、討幕勢力の中心となった薩摩・長州両藩や明治維新政府は、基本的に英国からの情報で世界を見ていた。明治政府が多数雇った「お雇い外国人」で一番多いのも英国人だった。

当時英国はバルカン半島、アフガニスタンなど世界でロシアと対立していた。極東でも、朝鮮半島と満州を巡って英露は牽制し合っていた。この英国の反ロシア戦略が、日本の政治家やジャーナリストの意識に影響を与えていく。実際には当時のロシアに、朝鮮半島まで急速に南下し、日本に押し寄せるだけの余力はなかった。ところが日本の為政者たちはロシアを実態以上に強大に見て、速やかに接近してくる最大の「脅威」だと思ってしまったのである(山田朗『これだけは知っておきたい日露戦争の真実』)。

日露戦争に向けた日本側の軍備拡張は、日清戦争直後から進められた。海軍力は英国の技術援助を受けながら、開戦前には戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を基幹とする強力な艦隊を保有するに至った。これらの軍艦は日清戦争の時とは異なり、世界最高水準の最新鋭艦ばかりだった。陸軍力も日清戦争終戦時の8個師団から日露開戦前には13個師団へと増設され、部隊の火力も大幅に強化された。

この急速な軍拡は国家予算を圧迫する。一般会計に占める軍事費の割合は、日清戦争前の10年間(1884〜93年)は平均27.2%だったが、日露戦争前の10年間(1894〜1903年)には平均39.0%に達した。政府は軍拡費用を捻出するために大増税を行う。

日清戦争の時期から、軍事費を確保するために各種の税が導入・強化された。それまでの地租(地税)に加え、1887年には所得税、1896年には営業収益税(営業税)、1899年から法人税が導入される。さらに、1872年に導入した酒税の税率を上げ、1888年以降は税収に占める酒税の割合は20%を超え、97年以降は30%を突破する。日露戦争とその後の軍備拡張は酒税によって支えられたといっても過言ではない。塩・たばこなど国家専売品の値上げも軍拡費用を支えた(大日方純夫ほか『日本近現代史を読む』)。

これらの負担は民衆の生活にのしかかった。日露戦争は日本を重税国家に変えたのである。当時導入された税は、日露戦争が終わった後はもちろん、21世紀の現代に至るまで基本的に残っており、一度導入された税をなくす難しさを物語っている。

しかも税金だけでは膨大な軍事費を賄えなかった。その穴を埋めたのは国債で、とくに海外で販売する外債に多くを頼った。日露戦争にかかった17億円の軍事費のうち、税金で賄えたのは3億2000万円弱だけで、約13億円を内外の国債(外債約7億円、内債約6億円)に依存した。内債は希望者が購入する建前だが、現実には事実上の強制だった。海外では主にロンドンとニューヨークで募集し、発行総額は内債を上回った。この外債発行交渉を担当したのが、当時日本銀行副総裁だった高橋是清(後の日銀総裁、蔵相、首相)である。

日露戦争をきっかけに、それまで外資にあまり頼らずにきた日本経済は、一転して巨額の外国債に依存することになった。しかも中国から賠償金を獲得した日清戦争と違い、日露戦争でロシアからの賠償金はまったくなかった。その結果、戦時中に募集した国債が戦後の借金として残ってしまった。

開戦前の1903年に5600万円だった内外の公債残高は、1907年は内債10億1000万円、外債12億6000万円と、合計22億7000万円にまで膨らんだ。これはこの年の名目国民総生産(GNP)の61%、一般会計歳出6億200万円の約3.8倍に相当する。対GNP比率は、第一次世界大戦の始まる直前の1914年までに50%を下回ることはなかった。外債の利払い負担は国民に重くのしかかった。利払い費は1907年に年5905万円に達すると、その後も増加し、1913年には8500万円にまで増加した(板谷敏彦『日露戦争、資金調達の戦い』)。

日露戦争が始まると、大規模な軍事動員が行われた。日清戦争の際に兵士として動員された総数は約24万人だったが、日露戦争では約109万人に達した。戦争中には、陸軍は南山・遼陽・旅順・黒溝台・奉天など地上戦闘で苦戦に苦戦を重ねたために、11万人以上の戦死者・重傷者が出た。その大多数が徴兵された一般国民の若者だった。

国内の民衆も戦費調達のための増税、献金や国債購入のほか、農村では軍馬供出などで負担を強いられた。約20万頭の馬が動員され、騎兵用の乗馬だけでなく、輸送用にも多くの馬が使用され、戦地で約3万8000頭が犠牲になったといわれる(前出『日本近現代史を読む』)。

日本が資金と武器弾薬の欠乏と兵力不足から戦争継続に苦しみだしたころ、ロシアも国内で革命運動が起こって戦争継続が困難になった。ついに1905年9月、セオドア・ルーズベルト米大統領の斡旋によって日本全権小村寿太郎とロシア全権ウィッテは講和条約(ポーツマス条約)に調印する。これにより、ロシアは朝鮮における日本の優越権を認めるとともに、旅順・大連など中国からの租借地と南満州での鉄道利権を日本に譲渡すること、北緯50度以南の樺太を日本に割譲することなどを約した。

国民は人的な損害と大幅な増税に耐えてこの戦争を支えたが、賠償金がまったく取れない講和条約に不満を爆発させ、講和条約調印の日に開かれた講和反対国民大会は暴徒化した。日比谷焼き討ち事件と呼ばれる。

作家・司馬遼太郎氏は日露戦争を題材とした長編小説『坂の上の雲』で、日本海海戦のさなか、作戦を立案した海軍参謀・秋山真之が戦闘のあまりの無惨さに深刻な衝撃を受けた様子を描いている。秋山は戦後、長男を僧侶にし、自らは新興宗教に入信した。

大国ロシアを破った快挙として称えられがちな日露戦争は、重い負の遺産を残したのである。

<参考文献>
  • 山田朗『これだけは知っておきたい日露戦争の真実―日本陸海軍の「成功」と「失敗」』(高文研) 
  • 大日方純夫ほか『日本近現代史を読む』(新日本出版社)
  • 板谷敏彦『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち―』(新潮選書)
  • 原朗『日清・日露戦争をどう見るか 近代日本と朝鮮半島・中国』(NHK出版新書)

2023-10-12

日清戦争と明治のメディア

日清談判破裂して、品川乗り出す吾妻艦——。日清戦争当時、大流行した「欣舞節」の歌い出しである。テレビもラジオもない時代に、空前の大流行となっただけでなく、歌に踊りがつけられ、その踊りもまた大流行した。 

日清戦争 「国民」の誕生 (講談社現代新書) 

日露戦争が司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』やそのドラマ化によってよく知られるのに比べると、その10年前、1894(明治27)年夏に起こった日清戦争の印象は現在では希薄なようだ。しかしこの戦争は近代日本が初めて経験した大規模な対外戦争であり、その後の日本の進路を決定づけた戦争といえる。

日清戦争の起源は開戦のおよそ20年前にさかのぼる。1875(明治8)年、日本の軍艦、雲揚号が朝鮮の江華島沖で挑発的な行動をして朝鮮側の砲台と交戦する事件(江華島事件)を起こし、これを契機に日本は軍艦を送って日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させる。同条規は治外法権を定め関税自主権を与えないなど、かつて日本が欧米に強制された不平等条約と同様の内容を押しつけた。これにより朝鮮は日本や、その後同様の条約を結んだ欧米への反発を強めていく。

1894年春、カトリックの西学に対する民族主義的な東学を中心に、朝鮮で減税と日本や西欧の排除を要求する農民の反抗が起こり、拡大した(甲午農民戦争・東学の乱)。鎮圧に手を焼いた朝鮮政府は6月初め、緊急に清朝の政府に対して援軍の派遣を要請した。以前から戦争を準備していた日本は、この機に乗じて朝鮮に軍隊を送り、清国軍との衝突を引き起こし、清国の勢力を追い出して朝鮮を支配しようと考えた。

このような意図があったので、朝鮮の情勢が落ち着いた後も日本軍は撤退するどころか、逆に7月23日早朝、朝鮮王朝に攻め込んで占領し、国王・高宗と王妃の閔妃を拘禁した。7月25日、日本の艦隊は、黄海で清国の軍艦と清国の兵隊を乗せた輸送船を攻撃して、日清戦争の火蓋を切った。その後、日本の陸軍は平壌を防衛する清国の軍隊を攻撃して陸戦も始めた。戦場は中国の遼東半島へと移ったが、軍備不足と戦意低下などが重なり、清国軍は海でも陸でも敗北した。

一方、日本人は戦勝に狂喜した。国民の間に戦争に対する熱狂を生み出すうえで、メディアが果たした役割を無視できない。日清戦争は、新聞や雑誌、写真といった明治時代の新しいメディアによって伝えられた。あるいは、この戦争前後から盛んに歌われるようになった軍歌は、近代日本人の精神に多大な影響を及ぼしていく。

最大の情報源となったのは新聞だった。当時の新聞ジャーナリズムはまだ黎明期にあり、各社が部数を拡大しようとしのぎを削っていた。戦争は部数拡大のまたとないチャンスだった。実際、日清戦争は新聞の発行部数を飛躍的に拡大した。「万朝報」は開戦した年の発行部数が1457万部と前年に比べ60%も増え、「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」はどちらも30%前後の伸びを見せた。

小説家・劇作家で『半七捕物帳』の作者として知られる岡本綺堂は、当時、東京・銀座に集まっていた新聞各社から号外売りが鈴を鳴らして駆け出すと「待ち受けている人たちが飛びついて買う。まるで喧嘩のような騒ぎだ」と回想している。銀座界隈は大混雑し、氷屋や汁粉屋が儲かったという。

「時事新報」は福沢諭吉の経営で、特に経済関係記事に定評のある高級紙として知られていたが、甲午農民戦争を契機に朝鮮への出兵が行われて以来、他紙以上に激しい対清・対朝鮮強硬論を展開する。開戦以降は日清戦争の報道と戦争への協力に熱心な新聞として知られた。経営主の福沢自身、日清戦争を文明国である日本と野蛮国である清の戦争、すなわち「文明の戦争」であると論じ、時事新報紙上で戦争支持を表明するとともに、自身も軍事献金組織化の先頭に立つなど、積極的に戦争に協力した(大谷正『日清戦争』)。

従軍記者制度は日清戦争から始まった。従軍した記者の数は全国66社から129名と伝えられる。記者たちが戦地から競って送る「連戦連勝」の記事は、現代のオリンピック報道と同様に人々を興奮させた。「国民新聞」の記者として巡洋艦千代田に乗り込んだ作家の国木田独歩は、同じ新聞社に勤務する弟に宛てた手紙という形式で従軍記を同紙に連載して好評を博し、のちに『愛弟通信』として単行本になった。

有力紙のなかには画家を従軍させて、紙面に多数の挿絵を掲載するというビジュアル戦略をとる新聞もあった。日清戦争に従軍した洋画家は、小山正太郎・浅井忠・黒田清輝・山本芳翠がよく知られている。このうち浅井忠は「時事新報」に雇われ、「画報隊」の一員として戦場に赴いた。

軍歌も多く作られた。その歌詞の多くは清との戦争を「正義の戦争」と称え、相手をあからさまに侮辱したものだった。日清戦争当時、大流行した「敵は幾万」(山田美妙作詞・小山作之助作曲)は、「敵は幾万ありとても、全て烏合の勢なるぞ、烏合の勢にあらずとも、味方に正しき道理あり」と歌う。「敵」は言うまでもなく清である。こうして、勇敢な日本兵に対し、清兵は「烏合の勢」にすぎないという意識が、社会に広く共有されていく。

しかし、すべての人が戦争の熱に浮かされたわけではなかった。作家の田山花袋は『東京の三十年』で当時を回想し、「軍歌の声が遠くできこえる……。それは悲壮な声だ。人の腸を断たずには置かないような、または悲しく死に面して進んで行く人のために挽歌をうたっているような声だ」と記している。

さまざまなメディアは、日清戦争という出来事を社会的な共通経験へと再編成し、結果として「日本人」という意識を広く社会に浸透させた。「それは、日本が近代的な国民国家へと姿を変えていく契機となっている」と国文学者の佐谷眞木人氏は指摘する(『日清戦争』)。

1895(明治28)年4月、戦争に勝利した日本は、講和条約で朝鮮に対する清の支配権を排除し、遼東半島・台湾・澎湖諸島と賠償金2億両(約3億円)などを手に入れた。しかしロシア・フランス・ドイツが遼東半島を清国に返せと迫り、日本政府はやむをえずこれを受諾する。この三国干渉は国民の中に屈辱感を植えつけ、「臥薪嘗胆」を合言葉に、次の戦争の準備へと駆り立てられていく。

<参考文献>
  • 大谷正『日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像』中公新書
  • 佐谷眞木人『日清戦争 「国民」の誕生』講談社現代新書
  • 日中韓3国共通歴史教材委員会『未来をひらく歴史―日本・中国・韓国=共同編集 東アジア3国の近現代史』高文研
  • 宮地正人監修『日本近現代史を読む』新日本出版社

2023-09-15

自由民権と小国主義

近代日本の対外政策は明治維新後まもなく、「大国主義」に舵を切る。大国主義とは「国際関係において、経済力・軍事力に勝っている国がその力を背景として小国に対してとる高圧的な態度」(goo国語辞書)のことだ。この路線は日清・日露戦争を経て第二次世界大戦で壊滅的な敗北を喫するまで、ほぼ一貫して続くことになる。

新・人と歴史 拡大版 45 中江兆民と植木枝盛

そうしたなかで、明治政府の大国主義を批判し、軍事的な対外膨張を戒める「小国主義」を唱える人々がいた。その中心となったのは、自由民権運動の論客たちである。自由民権運動とは明治前期の1870〜80年代、政府に対し民主的改革を要求した政治運動だ。

そもそも日本では幕末の開国当時から、軍事による対外進出を目指す発想が存在した。その一例は長州出身の思想家、吉田松陰である。松陰は書簡で、欧米の先進列強に対しては当面「信義」を守っておき、その間に軍備を整え、周辺の東アジア諸地域を抑え込んでいわば実力のほどを示し、やがて欧米諸国と対等の関係に入るという青写真を描いた。

維新直後の1871(明治4)年から73(明治6)年にかけて欧米を視察した岩倉使節団(岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら)は、欧州で英国・フランス・ロシア・プロイセン(ドイツ)・オーストリアの大国だけでなく、ベルギー・オランダ・スウェーデン・スイスといった小国も訪れ、関心を示している。しかし結局、使節団を最も強くひきつけたのは、小国から大国への道を歩んだプロイセンだった(百瀬宏『小国』)。

岩倉使節団の帰国後、明治政府は1874(明治7)年、近代日本国家による最初の海外派兵である台湾出兵を行う(征台の役)。また翌1875(明治8)年、軍艦を江華島に派遣して朝鮮側を挑発し、交戦して砲台を破壊した(江華島事件)。翌年、朝鮮を独立国として承認し、領事裁判権・関税免除特権などを盛り込んだ日朝修好条規を結ぶ。これは日本が欧米から強いられた不平等条約を朝鮮に強制するものだった。

明治政府側がこのように、小国から大国への道を歩もうとするなかで、小国の存在理由を積極的に肯定し、日本の将来像をそこに定めようとする「小国主義」の論陣を張ったのが、自由民権運動の論客たちである。

たとえば、「郵便報知新聞」は1881(明治14)年の社説で、スイス、デンマークなどの弱小国が独立を保っているのは「権理」によるものだと述べた。「権理は国の強弱によって進退あるもの」ではないので、腕力国家の横暴に対しては、毅然として「ただ権理によりて外国に応対し争議する」ことが正しいと、道義立国、平和外交を主張している(色川大吉『自由民権』)。

自由民権の論客の中で、小国主義の主張でとりわけ精彩を放ったのが、植木枝盛、中江兆民の二人だ。

植木枝盛(1858〜92)は土佐国(高知県)で中級藩士の家に生まれた。上京して同郷の板垣退助の家に住み込む一方、読書や講演で知識を旺盛に吸収する。新聞への投書が言論規制に触れて投獄され、民権派の自覚を固めた。帰郷して政治結社の立志社に入り、民権運動のリーダーとなっていく。

1881(明治14)年、政府が国会開設を公約すると、民権派を中心に在野でも独自の憲法草案をつくるものが出てきた。なかでも枝盛の起草した「日本国国憲案」は、政府が憲法に違反して人民の自由・権利を抑圧したときは、これを倒して新しい政府を樹立することができるという抵抗権を盛り込むなど、急進的な自由主義で知られる。

枝盛の論文「無上政府論」は、小国主義の理念が明確にうかがえる。枝盛はそこで、現在の国連に似た「万国共義政府」の創設を唱える。この共義政府が設置され、国連憲章を思わせる「無上憲法」が定められれば、各国は外患の憂いが少なくなり、かりに国家間のトラブルが起こっても、共義政府の保護を受けることができる。

その結果、枝盛によれば、世界の国は皆、国を自由に小さく分けることができるようになる。そして、国土が小さくなればなるほど人々はお互いに接近して相互理解が進み、直接民主制も実施しやすくなる。また、国際紛争を共義政府によって解決するようになれば、各国の軍備が減り、それだけ人民の福祉を増進することができる。人間の品格も良くなり、「これまた大きな利益ではないか」と枝盛は説いた(田中彰『小国主義』)。

一方、中江兆民(1847〜1901)は本名を篤助(のち篤介)といい、約10歳下の植木枝盛と同じく土佐国出身で、下級武士の子である。長崎・江戸でフランス学を学び、岩倉使節団の留学生に加わった。フランスへ留学した兆民は、主としてパリとリヨンでルソーをはじめとする哲学や史学・文学を研鑽した。帰国後、元老院の書記官となるが、1977(明治10)年初めに辞し、以後は在野のジャーナリストとして健筆を振るった。

1882(明治15)年、兆民は「自由新聞」に論説「外交を論ず」を発表し、日本外交の基本的態度はいかにあるべきかを説いた。

まず兆民は、当時政府が目指そうとしていた「富国強兵」は、絶対に矛盾するという。経済を重んずれば多くの兵を蓄えることはできないし、もっぱら武を崇(とうと)ぼうとすれば多くの財貨を増やすことはできないからだ。なお別の論説で兆民は、徴兵による常備軍の廃止と民兵制の導入を唱えている。

次に兆民は、欧州の弱肉強食の国際情勢は「他国の弱なるを冀(ねご)ふて己が国の強なるを求むる」からだと論じる。そのうえで、小国が自信をもって独立を保つには、「信義」「道義」の上に立って、大国といえども畏れず、小国たりとも侮らないようにするしかないと説く。

歴史学者の松永昌三氏によれば、兆民は「日本の進むべき道は、軍事力に依拠して他民族を抑圧するがごとき『大国』への道ではなく、人民の自由権利の増進と生活の向上を求めて、各国人民が連帯し協力しあう『小国』への道であるとし、小国独自の発展を探求すべきだと説いた」のである(『中江兆民と植木枝盛』)。

残念ながら、枝盛や兆民の小国主義は主流の思想とはならず、近代日本は「軍事力に依拠して他民族を抑圧するがごとき『大国』への道」を進んでいく。

現在、国際情勢において大国の身勝手な行動が目立ち、世界を混乱に陥れている。小国主義の理念があらためて評価される日は遠くないだろう。

<参考文献>
  • 百瀬宏『小国:歴史にみる理念と現実』岩波現代文庫
  • 色川大吉『自由民権』岩波新書
  • 田中彰『小国主義―日本の近代を読みなおす』岩波新書
  • 松永昌三『中江兆民と植木枝盛:日本民主主義の原型』清水書院

2023-08-15

明治維新と武士のリストラ

明治新政府は1868(明治元)年3月、五箇条の誓文を出し、天皇親政のもとで公議世論の尊重と開国和親を骨子とする政府の基本方針を示した。日本の近代化を推し進めた明治維新の始まりである。

秩禄処分 明治維新と武家の解体 (講談社学術文庫)

さまざまな改革のうち、最も重要なものの一つが「四民平等」である。士農工商(四民)の封建的身分制度が撤廃され、華族(公卿・大名)・士族(幕臣・藩士)・平民(農工商)の3族籍に再編された。とりわけ急激な変化に直面したのが、幕末まで支配階級の一角を占め、明治維新で士族となった幕臣・藩士、すなわち武士である。その歩みをたどってみよう。

新政府の実権を握ったのは、薩摩・長州・土佐・肥前などの藩を代表して活動していた武士たちだった。彼らは藩を廃止して権力を中央の政府に集める必要があると考え、1869年1月、出身藩の4藩主に働きかけて、版(土地)と籍(人民)を朝廷に返すことを申し出させた(版籍奉還)。ほとんどの藩主もこれに続き、政治的・軍事的な権力が朝廷のもとに集められた。

つづいて新政府は、薩長土3藩の兵士合計1万人を政府直属の軍隊とし、この軍事力を背景に1871年7月、廃藩置県を断行した。大改革だったにもかかわらず、目立った反対はなかった。すでに戊辰戦争など戦乱の中で藩の財政が破綻し、とくに小藩では藩の存立そのものが脅かされていたからだ。

それに加えて、華族と士族の家禄(世襲性の俸禄)は全額が政府に引き継がれ、彼らの生活維持がしばらくは保証されたことも功を奏した。とくに旧藩主の多くは維新前よりもむしろ多額の所得を確保している。

しかし政府の側からみれば、負担が重くのしかかる。家禄および戊辰戦争の論功行賞として与えられた賞典禄は、合わせて財政支出の3割以上を占めた。家禄をなんらかの形で処分しないことには、国家財政はとうてい保てないことは明らかだった。また理念のうえでも、版籍奉還で藩の仕事に携わることがなくなり、徴兵令(1873年)で兵役の義務も平民と同じになった士族に、とくに禄を支給する理由はなかった。

そこで政府は秩禄処分に乗り出す。最初にこれに取り組んだのは、大久保利通大蔵卿が岩倉使節団で外遊中だった留守を預かった井上馨大蔵大輔である。井上は秩禄の額を減じたうえで、その6年分を公債で交付し、以後の支給を打ち切る構想を立てた。公債で数年分を支給するのは、受け取った側が、秩禄より額が減るものの、公債の利子を生計の足しにするか、あるいは公債そのものを売却して事業の資金にするか自由に選べるようにするためだ。支給する国の側も公債を発行するだけで、すぐには資金を必要としないので好都合である(鈴木淳『維新の構想と展開』)。

井上の構想はいったん挫折したものの、枠組みは引き継がれ、実行に移される。政府はまず1873年12月、希望者に秩禄6年分を年利8%の秩禄公債と現金を半々で交付する家禄奉還を行った。これに応じて9万人余りが家禄全額を奉還し、一部奉還者を含めて家禄の23%が処分された。政府は奉還者に対して官有地を安く払い下げ、農業への転身を支援した。

つづいて1875年には支給方法を米などの現物から現金(金禄)に改めた。最終的には1876年8月、前年の江華島事件による緊張を契機に、金禄公債を交付して家禄の支給を打ち切ることを決めた。

金禄公債は5%、6%、7%、10%と4種類の利率のものが交付され、禄高の少ない者ほど利率が高くなるように設定された。それでも金禄総額1776万円強のうち、519万円強は華族分で、476人の華族が金禄の3分の1近くを占め、残る3分の2強が約32万人の士族に分与されていた。士族の大半を占める下士層に与えられた7%利付公債は年間の利子が29円50銭、1日あたり8銭にすぎず、大工職人(45銭)や土方人足(24銭)の日給にも劣った。これでは最低限の生活を維持するので精一杯である。

一方、金禄公債の利払いも元金償却も、結局は国民の税金によらなければならない。そしてその納税者の大部分は農民である。言い換えれば、主として農民の負担によって、封建領主階級の禄が国家に買い取られたわけである(井上清『明治維新』)。

漢学の素養など武士の教養を生かせる教師や官吏、あるいは警官など安定した収入を得られる職種に就けなかった士族の多くは、没落していった。士族の生活状況は地域によっても異なり、1883(明治16)年に政府が全国視察した記録によると、岐阜県士族については就業に励む者が多い一方で、宮城県士族の様子については「維新の際、減禄甚(はなはだし)く、為めに生計を失し、妻子離散するに至る者多し」と記されている。

政府の近代化政策に不満を抱く士族は、1874年の佐賀の乱など、士族反乱を起こしたが、1877年の西南戦争での敗北を最後に、武力で反抗する道をとざされた。

秩禄処分で金利生活者となった士族にとって最も生活を脅かすものは物価高騰だったが、西南戦争による不換紙幣の大量増発と、1870年代の大隈重信大蔵卿による積極財政で増進したインフレは、士族を苦境に陥れることになる。多数の士族が公債を一斉に手放したことから、売値の相場も下落した。

貴族化された華族に対し士族にはまったく特権が存在せず、その呼称はただの出自の証にすぎなかった。それでも明治政府は模範的集団として士族を位置づけ用途した。教育の重視や家名の尊重など武家風の生活習慣は平民の間にも浸透し、日本のミドルクラスは出自にかかわらず武士的な人々を軸に形成された。

「このことは、国家建設への積極性や職責への忠実性など多くの面で近代化の梃子となる」と歴史学者の落合弘樹氏は著書『秩禄処分』で強調する。ただし、もともと戦嫌いだった民衆をアジアへの拡張主義や戦争肯定に導くという負の側面もあった。

落合氏が述べるように、秩禄処分を現在にたとえるならば、公務員をいったん全員解雇して退職金も国債での支給とし、そのうえで必要最小限の人員で公職を再編するというような措置である。財政改革が急務となるなかで、「武士のリストラ」である秩禄処分は、今日の参考となる部分がありそうだ。

<参考文献>
  • 鈴木淳『維新の構想と展開』(日本の歴史)講談社学術文庫
  • 井上清『明治維新』(日本の歴史)中公文庫
  • 落合弘樹『秩禄処分 明治維新と武家の解体』講談社学術文庫
  • 大日方純夫他『日本近現代史を読む』新日本出版社

2023-07-01

黒船来航と避戦外交

1853(嘉永6)年6月、米国の東インド艦隊司令官ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀(神奈川県横須賀市)に来航した。そのうち2隻は巨大な蒸気艦のミシシッピー号とサスケハナ号で、当時の世界最大・最先端の戦艦だった。黒船来航である。

幕末外交と開国 (講談社学術文庫)

ペリーはフィルモア大統領の国書を提出して開国を要求した。ペリーが再来日した翌年、幕府は日米和親条約を結んだ。英国、ロシア、オランダとも同様の条約を結び、二百年以上にわたる「鎖国」に終止符を打つ。

幕末開国について、これまでは次のような理解が支配的である。①徳川幕府は無能無策だった②そこにペリーの強力な軍事的圧力がかかった③このため日米和親条約は極端に不平等な条約となった——。

幕府無能無策説は、幕府を倒して成立した明治政権下で強くなった。前政権を打倒した正統性を補強するため、幕府の無能無策を喧伝したのである。歴史学者の加藤祐三氏は「この政治的キャンペーンを、現代人がそのまま事実と受け取るのは愚かである」と指摘する(『アジアと欧米世界』)。

日米和親条約の内容や締結の経緯を詳しくみると、幕府無能無策説には疑問符がつく。たとえば、19世紀は戦争の時代である。戦争に敗北すると「敗戦条約」を結び、賠償金を払い、領土を割譲した。アヘン戦争の南京条約がその典型だ。さらに厳しい場合には、条約さえ結ぶことなく、国家の主権の三権(立法・司法・行政)をすべて失い、植民地となった。インド、インドネシアがその例である。

しかし日本は圧倒的な軍事力を擁する米国と戦争にならず、そのおかげで、賠償金支払いや領土割譲を強いられることなく、植民地にもならなかった。日米和親条約はたしかに不平等な面はあったものの、戦争を伴わない「交渉条約」であり、アジア諸国の多くが経験した植民地や敗戦条約に比べて、不平等性ははるかに弱かった。

そうした結果を導いたのは、一つには江戸幕府が事前に情報を収集・分析し、それに基づいて、戦争を回避する「避戦」の方針を早くに固めたことにある。もう一つ、米国側にも戦争を避けたい事情があった。それぞれみていこう。

まず米国側の事情である。ペリーの任命の形式は、米外交では異例だった。条約締結の使節派遣は通常、国務省の所轄である。ペリーの場合は、フィルモア大統領により、海軍省所管の東インド艦隊司令長官に任命された。海軍の作戦行動の一環として、日本との条約交渉を行うよう指示を受けている。

米憲法では交戦権(宣戦布告権)は大統領にはなく、上院に属する。ペリーは出航前に、大統領による「発砲厳禁」の至上命令を、国務長官代理コンラッドからあらためて受けた。英国のように内閣が交戦権を持つ国とは違って、米国はもともと「砲艦外交」を行うことはできなかったのである。

しかもフィルモア大統領は選挙を経ていない。タイラー大統領の副大統領として当選し、大統領が途中で死去したため、憲法に従って、その残任期間だけ大統領に昇格した。タイラーはウィッグ党(共和党の前身)で、議会の多数派は民主党だった。議会と協議のうえで使節派遣を行う余地はなかった。

ペリーはそれ以外にも制約を抱えていた。最先端技術の蒸気船は、石炭補給路を断たれれば、巨大な漂流物となる。また当時の国際法では、二カ国が戦争状態になった場合、第三国が中立宣言をすると、交戦国の船は中立宣言をした国(植民地を含む)の港には入港できず、物資の補給が断たれる。

次に、日本側の対応である。幕府は対外策の決定に、日本に来航する異国船と接して得た直接情報と、間接情報として長崎に入る海外情報を生かしていた。海外情報には中国船・オランダ船が長崎にもたらす書籍類と、幕府が提出を義務づけた風説書(最新情報)とがある。

ペリー来航が予想もしない青天の霹靂であったなら、突然に姿を見せた黒船艦隊に、ただ慌てふためくばかりだったに違いない。しかし幕府は事前に情報を得ていた。アヘン戦争から十年後、オランダ商館長にクルチウスが着任し、1852年4月7日付で風説書を長崎奉行に提出した。ペリー来航の一年以上も前である。

風説書には「北アメリカ共和政治の政府が日本国へ使節を送り、日本国との通商を望んでいる」とあった。そのうえで「帆船4隻が唐国に集結しており、さらにアメリカ海軍は数隻の蒸気船を増派する予定」で、「ミシシッピー号にペリー司令長官が乗っている」と述べていた。

老中首座(現在の総理大臣)でまだ三十代の若さの阿部正弘は、この秘密情報を有力大名に共有したうえで熟慮を重ね、戦争回避の原則を立てた。戦力からみれば、海軍を持たない幕府が、米国の巨大艦隊に対抗する方法は皆無といえる。軍事的対決を回避し、外交により対処するしかない。

幕府の避戦の方針は、ペリー来航の十年以上前から徐々に培われていた。アヘン戦争における中国敗戦の情報を日本の教訓としてとらえ、外国船が沿岸に近づいた場合の対応を変更した。1842年、それまでの強硬な打払令(文政令)を撤回し、天保薪水令に切り替えたのである。発砲せず、必要な物資を与えて帰帆させる穏健策だった。

ペリーが初めて浦賀沖に来航したとき、幕府側は天保薪水令に従い、大砲などで攻撃しなかった。そして、浦賀奉行所のオランダ通詞(通訳)の堀達之助が与力の中島三郎助とともに小さな番船で旗艦サスケハナ号に近づくと、「I can speak Dutch!(自分はオランダ語が話せる)」と英語で叫んだ。甲板に立つ水平には英語しか通じないだろうと推測し、あえて英語を使った。あらぬ誤解や小競り合いを避けるためである。最初の出会いで発砲外交を避けることができたのは、その後の平和な交渉を象徴する出来事だった(加藤祐三『幕末外交と開国』)。

また、ペリー艦隊が補給線を持たず、戦争になる可能性は小さいことを、ペリーとの交渉にあたった林大学頭の家臣が明白に指摘していた。このような情報分析を踏まえ、また米国側の戦争を避けなければならない制約もあって、幕府はペリー側と穏健に交渉を進めることができたのである。

地政学リスクが高まる昨今の世界情勢では、日本が戦争に巻き込まれる可能性を否定できない。それどころか、最近の日本政府は自分からあえて戦争に巻き込まれようとしているようにすら見える。江戸幕府の避戦外交から学ぶべき点は少なくない。

<参考文献>
  • 加藤祐三・川北稔『アジアと欧米世界』(世界の歴史)中央公論社
  • 加藤祐三『幕末外交と開国』講談社学術文庫
  • 加藤祐三『開国史話』神奈川新聞社

2023-03-04

藩政改革の苦闘

18世紀の半ば頃から江戸幕府・諸藩の国家財政は赤字を重ね、信用を失墜させて商人らからの資金調達も難しくなる事態が現れ始める。17世紀のような開発・成長を前提とした政治が限界を迎えたのである。

江戸のCFO 藩政改革に学ぶ経営再建のマネジメント

苦境から脱するため、諸藩は財政再建を柱とする藩政改革を行った。その推進役となったのは、藩主自身や藩内から抜擢した優秀な人材、さらには藩外から招聘した財政家たちである。しかしその道のりは厳しく、険しいものだった。

恩田木工(1717〜1762年)は信濃国(長野県)松代藩家老。家老中最年少の39歳のとき、勝手掛(財政担当)の大役を命じられ、専制政治や放漫経営によって混乱した藩政の改革に取り組む。

恩田は勝手掛に就任すると、「自分は決して嘘をつかない」ということを、藩主、藩上層部、藩士たちのみならず、領民に対しても宣言した。

そのうえで恩田は領内に触れを出し、松代城内大広間で大会議を催す。 当日参集したのは、藩の諸役人をはじめ、町民、農民であり、なかでも最も多かったのは農民だった。身分制度の厳しい当時、これは破天荒のことだった。

この会議で恩田は、改革の具体策を公開した。そのなかで注目すべきは、「年貢月割金納制」という新たな税制である。年貢の上納に際し、食用とする御飯米などのための現物納入分以外は金納(貨幣による上納)とし、月割で納めることを許したのである。

これは米以外に櫨、栗、青苧、紅花、生糸などの商品作物が多く生産され、換金できた松代藩の特色を生かした妙案だった。

興味深いことに、この新税制は三カ年の時限立法という形で導入された。これは、恩田が「領民の心底からの同意に基づいて新税制を運営していくという契約的な立場を貫いている」ことの表れだと歴史学者の笠谷和比古氏は指摘する。この次元立法は更新を繰り返すという形で、廃藩時まで継続する。

とはいえ、税制改革の効果はすぐには出なかった。藩財政がようやく改善に向かったのは恩田の死から数年後、後継者たちによる努力が実ってからだった。

上杉鷹山(1751〜1822年)は出羽国(秋田県の一部と山形県)米沢藩主。日向国(宮崎県)高鍋藩主秋月種美の次男として生まれる。米沢藩主上杉重定の養子に迎えられ、1767年(明和3)に16歳の若さで米沢藩主となる。

鷹山は江戸時代屈指の名君として名高いが、有能な家臣が補佐したことを忘れてはならない。とりわけ大名貸と呼ばれる藩への貸し付けを行う大商人との関係改善に力を尽くしたのが、江戸家老の竹俣当綱だ。

江戸の両替商である三谷家は、長く米沢藩と関係を取り結び、藩領の特産品である漆蠟(ロウソクの原料)の蔵元に指定された有力な商家である。ところが藩主の側近・森平右衛門が藩政を取り仕切った時代に、米沢藩の不義理によって信頼関係が崩れると、資金融通の依頼に一切応じなくなった。

竹俣当綱は平右衛門を粛清し、鷹山の家督相続を機に、三谷家との関係改善に乗り出す。苦心の調整の結果、三谷家の手代、喜左衛門の米沢訪問が実現することになった。

入念に準備を進めて喜左衛門を米沢の地に迎えた竹俣らは、城下周辺の漆木の実蔵や漆蠟加工場、蠟打ち、桑畑開作場、青苧蔵などを案内して回った。豪商の経営幹部に対して「現地でプレゼンを行い、米沢藩の産業の現状、改革の成果と可能性のアピールに全力を尽くしたのである」と歴史学者の小関悠一郎氏は述べる。

領内視察日程の最後に、竹俣は自ら著した殖産計画書を喜左衛門に手渡した。詳細な計画書に三谷家の当主、三九郎は甚だ感心し、千五百両を用立てた。

海保青陵(1755〜1817年)は経営コンサルタントの先駆けとも評される、異色の儒学者である。丹後国(京都府)宮津藩家老の長男として江戸藩邸で生まれたが、家督を弟に譲り、30代半ばには江戸を離れて京へ向かう。その後は各地で経済上のさまざまな相談に乗り、家計や経営の立て直しに手腕を振るった。

江戸時代の武士や儒者の間では、金銭や商売について論じることは精神の堕落という考えが根強かった。青陵はそうしたタブーに真っ向から挑戦し、極言すれば、一切の世のからくりを商品とみなし、売買関係からとらえようとした。

青陵は「君臣は市道なり」という過激な思想を提唱する。「(君は)臣へ知行をやりて働かす。臣はちからを君へ売りて米を取る。君は臣を買ひ、臣は君へ売りて、売り買ひなり」。忠義を媒介として武家社会で神聖視されてきた士道を市道としてとらえ直し、商人の知恵に学ぶべきだというのである。

藩政改革の具体策の一つとして、「産物廻しの法」を提唱する。一藩経済主義から脱し、国産の物品を広く諸藩に移出する道を講じなければならないという主張だ。藩境を越えた自由貿易の勧めといえる。

青陵は他藩との自由な交易を「平和の戦争」だとみなした。「平和の戦争」である産物廻しを公正に行えば、単に一藩を利するだけでなく、交易相手の藩にも経済的メリットをもたらすと指摘している。

青陵が藩政改革の指南番として実際に助言にあたった例としては、加賀国(石川県)金沢藩のケースが知られる。金沢藩は「加賀百万石」といわれるように国内随一の大藩であり、発足当初は随分裕福だった。しかし貨幣経済・商品経済の発展に伴い、しだいに財政悪化の道をたどり始めた。

そんなとき諮問を受けた青陵は、産物廻しの法を主体とした再建策を具申した。それによって、それまで一藩経済にとじこもりがちだった金沢藩は他藩との交易に乗り出し、難局を乗り切ることができたと伝えられる。

山田方谷(1805〜1877年)は備中岡山藩(岡山県)家老。農商の長男に生まれるが、学問の才能を評価されて士分に取り立てられ、藩財政改革を託された。

方谷は葉タバコ「松山刻」など地場商品のブランド化で知られるが、それと並んで注目すべきは、藩札の信用回復である。

藩札とは、各藩が独自に発行する紙幣だ。本来は幕府が発行する貨幣(金貨や銀貨)との交換を前提とする兌換紙幣である。財政難に苦しむ藩は、赤字を補填するために藩札を発行するようになる。貨幣の準備高を大幅に超える不換紙幣が出回るようになったのである。

備中松山藩では天保年間(1830〜44年)に大量の藩札を発行しているが、すでにその頃には貨幣の準備高が払底していたらしい。乱発によって藩札の価値が暴落したうえ、偽札まで出回っていた。

方谷は三年間と言う期限を切って藩札を貨幣と額面で交換する旨を触れ、藩札の回収に努めた。回収された藩札は、偽札も含めると約八千両に及んだ。回収の費用には産業振興のために用意していた資金の一部をあてたが足りず、新たに借金をしてまかなったという。

方谷は財政再建への強い意志を印象づけるため、大胆なデモンストレーションを行う。河原に積み上げた大量の藩札を燃やしたのである。見物に訪れた多くの人々は持参した弁当で空腹を満たしながら、紙幣が燃やされるだけのパフォーマンスを楽しんだという。

方谷はその後、産業振興で獲得した貨幣を準備金として「永銭」という新たな藩札を発行する。永銭には「永銭百文」「永銭十文」「永銭五文」の三種類があって、それぞれ十枚、百枚、二百枚をもって金一両に引き替えるという明文が裏に記載されていた。

一連の通貨政策は経済安定に貢献し、「方谷の財政再建を成功へ導く重大な転換点となった」と経済学者の大矢野栄次氏は指摘する。

<参考文献>
  • 大矢野栄次『江戸のCFO―藩政改革に学ぶ経営再建のマネジメント』日本実業出版社
  • 百瀬明治『名君と賢臣―江戸の政治改革』講談社現代新書
  • 笠谷和比古『『日暮硯』と改革の時代―恩田杢にみる名臣の条件』PHP新書
  • 小関悠一郎『上杉鷹山―「富国安民」の政治』岩波新書
  • 徳盛誠『海保青陵―江戸の自由を生きた儒者』朝日新聞出版
  • 山田方谷に学ぶ会『入門 山田方谷』明徳出版社

2023-02-05

財政学者・新井白石の慧眼

政府の財政危機をどう乗り切るかについて、昔も今も日本人の考えにあまり変化はないようだ。政府が独占する通貨発行権を、財政収入の「打ち出の小槌」として利用するのである。

元禄時代、この手法をフル活用した財務官僚・荻原重秀は「経済学者ケインズの理論を先取りした」とよく称賛される。しかしケインズ理論に基づく経済運営で日本を含む先進主要国が巨額の政府債務を抱え、財政難に瀕する今になってみれば、むしろ荻原を厳しく批判した儒学者・新井白石の慧眼に注目したい。

江戸幕府・破産への道―貨幣改鋳のツケ (NHKブックス)

徳川幕府の財政は、江戸時代の初期には直轄領(天領)からの年貢収入のほか、 金銀鉱山からの収益と活発な外国貿易の利益があり、かなり豊かだった。しかし中期にさしかかる5代将軍・徳川綱吉の時代になると、明暦の大火の復興などで支出が増大する一方で、銀産出量の減少などで収入は頭打ちとなっていた。

窮した幕府は通貨の改鋳を決断する。金貨は金と銀、銀貨は銀と銅が原料だったが、金貨の金含有率、銀貨の銀含有率を引き下げることで、その分、鋳造量を増やそうと目論んだ。つまり増加分の金貨や銀貨も支出に充て、財政危機を乗り切ろうとしたのである。

1695年(元禄8)8月、幕府はそれまでの慶長小判、慶長丁銀の回収とともに、元禄小判、元禄丁銀の鋳造を始める。回収した慶長金銀貨は元禄金銀貨の原料となるが、新旧金銀貨の重さは同じであるものの、金や銀、銀や銅の含有率は異なっていた。

元禄小判の場合、金の含有率が87%から57%になり、30%も引き下げられた。その分、銀を多く含んだわけだ。元禄丁銀の場合、銀の含有率は80%から64%になり、その分、銅を多く含んだ(安藤優一郎『徳川幕府の資金繰り』)。

金や銀の含有率を引き下げた分、幕府は金貨や銀貨を大量に鋳造できるようになった。その分、収入が増えた。増収分は「出目(でめ)」と呼ばれた。通貨の品質を下げることで得られた臨時収入である。新井白石はこの手法を「陽(あらわ)にあたえて陰(ひそか)に奪う術」と批判した。

実際、改鋳の行為は、貨幣の品位を下げてはならぬという江戸幕府の開祖、徳川家康の遺命にもとるものだった。それだけに秘密行動とならざるをえない。改鋳は金銀貨の鋳造所である金座や銀座ではなく、本郷霊雲寺近くの大根畑のなかに造幣所を臨時に設け、職人を集めてひそかに作業にあたらせた。

元禄の改鋳で得た出目は約500万両ともいわれる。当時の幕府の歳入は100万両強であり、数年分の収入を労せずして得た計算だった。

この改鋳を建議したのは、幕府の財政を預かる勘定所で吟味役を務める荻原重秀である。荻原は佐渡奉行を勤めた経験もあり、金銀の産出動向に通じていた。元禄の改鋳の功績により、翌1696年(元禄9)に勘定奉行へ昇進する。

荻原の発言として、こんな言葉が伝えられる。「貨幣は国家が作るところ、瓦礫を持ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」。国家が造る貨幣は瓦や小石でもいい、と言い放ったというのである。

改鋳により金銀貨の発行量が大幅に増え、幕府の財政危機は一時救われた。通貨の流通量が増えたことで、「元禄バブル」といわれる派手で華美な好景気も起こった。

味をしめた幕府は再び改鋳に踏み切る。1709年(宝永6)に叔父・綱吉の死を受けて6代将軍に就任した徳川家宣は、翌1710年(同7年)4月に宝永小判、宝永丁銀の鋳造を開始させた。この改鋳も荻原が主導した。

宝永の改鋳では、金の含有率が慶長金と同水準にまで引き上げられたが、問題は重さだった。宝永金は慶長金の約半分の重量しかなかったため、金の含有量も約半分だった。 含有率が引き下げられた元禄金と比較しても、重さが半分しかなかった分、含有量は約76%に減った計算だ。つまり金の含有量が元禄金よりも減った分、出目として幕府の収入が増える仕掛けが施されていた。

宝永小判は「二分小判」と俗称されたという。額面は1両だが、重さは半分であったため、1両の半分にあたる2分の価値しかないとみなされたのだ。実際、金の含有量は慶長小判の半分で、その重さも半分だった。銀貨は宝永年間に4度の改鋳を繰り返す。最後の「四ツ宝銀」は銀の割合が20%(銅が80%)まで下がり、慶長銀の80対20から逆転してしまった。

改鋳により幕府財政はひと息ついたものの、一方で副作用も広がった。物価高(インフレ)である。質の落ちた金貨や銀貨が大量に出回ったことで、通貨の価値が下がり、インフレが引き起こされたのである。

江戸の庶民は、1回目の元禄の改鋳では、幕府に寄せた絶対的信頼が仇になり、最初の事件ということもあって不意をつかれ、反応にはかなり時間がかかった。しかし2回目以降には両替商や商人を中心にすばやく反応するようになり、強制交換にも応じず質の良い貨幣を隠した。「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則どおりである。両替商は厳禁を犯してまでも、自身のためはもちろん、依頼に応じて貨幣を鑑定し、三井両替店の場合には、その証明に「イ」のような自店特有の小極印を打つなどして自衛手段を講じた。

商人は商品の販売価格を貨幣の品質低下に応じて引き上げ、被害の軽減を図った。これによりインフレが進行し、物価高が出目の収益を実質相殺していく。幕府は自分の首を絞める形となった。

宝永年間、幕府が何度も改鋳を繰り返したのは、こうした庶民の自衛手段に対して出目を確保しようとの焦りからだ。極度に品質の落ちた四ツ宝銀の出現で、さらに悪質な貨幣が出るとの風説が発生すると、庶民は金銀貨の代わりに米穀・絹布・薬種などの入手に走った(三上隆三『江戸幕府・破産への道』)。

一方、貨幣改鋳は対外貿易で深刻な問題をもたらした。権力を背にした出目追及のための悪貨発行は、国内では何とか無理を通せても、貨幣の実力のみを問う国際取引では通用しない。

朝鮮は日本に朝鮮人参・生糸などを輸出し、その支払いを日本の銀貨で受け取っていた。その銀を朝貢貿易で清朝に再輸出していたのである。純度の下がった元禄銀をそのまま清に輸出できないので、朝鮮は純度を80%に再精製しなければならなかった。そのため、朝鮮は銀含有率64%の元禄銀貨を、一定の割引をもって、貿易窓口の対馬藩から受け入れた。すなわち貨幣改鋳は、日本の主要輸出品目である銀の価値を下げ、結果的に日本国内における輸入品の額面上の値上げをもたらしたのである。

しかし、銀の含有率を50%にまで下げた1706年(宝永3)の「宝字銀」は、どれだけ割引しようとも、朝鮮側には受け入れられなかった。対馬藩の財政は、朝鮮との貿易に完全に依存していたため、幕府は対馬藩のために、対朝鮮支払い用に限って、改鋳前の純度80%に戻した銀貨を鋳造するという措置をとった。この銀貨は「人参代往古銀」と呼ばれる(トビ『「鎖国」という外交』)。

荻原重秀主導の改鋳政策に対し、幕府内には強く反発する人物がいた。新井白石である。家宣が将軍の座に就くと侍講に任命され、政治顧問として幕政に大きな影響力を及ぼす。

白石は金銀の含有量を引き下げて通貨の品位を落とすことは、鋳造者である幕府の威信を低下させるものという考えの持ち主だった。国辱とまで考えており、二度の改鋳の立役者である荻原を退けるよう家宣に諫言を繰り返した。

1712年(正徳2)9月、荻原は白石の弾劾を受け入れた家宣により勘定奉行を罷免される。翌10月に家宣は死去し、わずか5歳の嫡男家継が7代将軍の座に就くが、白石は引き続き幕政に関与し、劣化した貨幣の品質を回復させようと改鋳の準備を進めた。「正徳の治」である。

1714年(同4)5月、幕府は慶長金銀の品位に戻す改鋳を断行した。これには材料となる金銀の確保が必要になる。幕府は貿易制限で金銀の流出を防ぎ、逆にその流入をはかったが、材料不足を改善するには至らなかった。このため元禄・宝永金銀に比べれば鋳造量の減少は避けられず、 流通量も減少した。その結果、商品経済は停滞し、デフレ不況に陥る。

しかし、もし白石が通貨価値の劣化に歯止めをかけていなかったら、財政危機はさらに深刻になり、江戸幕府の寿命を縮めたかもしれない。事実、再び改鋳に頼り始めた1818年(文政元)以降、幕末にかけて幕府は破産への坂道を転げ落ちていく。

日本円の通貨価値が問われる今、財政学者としての新井白石の見識を再評価するべきではなかろうか。

<参考文献>
  • 安藤優一郎『徳川幕府の資金繰り』彩図社
  • 三上隆三『江戸幕府・破産への道―貨幣改鋳のツケ』NHKブックス
  • 村井淳志『勘定奉行 荻原重秀の生涯 ―新井白石が嫉妬した天才経済官僚』集英社新書
  • ロナルド・トビ 『「鎖国」という外交』(全集日本の歴史)小学館

2023-01-01

江戸の飢饉はなぜ起こったか

江戸時代の農村は、冷害、日照り、風水害、虫害などによって、たびたび凶作を経験した。しかし、凶作が必ずしも飢饉に直結したわけではない。幕府・藩による経済への介入が、飢饉の悲劇を大きくした。

飢えと食の日本史 (読みなおす日本史)

江戸時代に起こったおもな飢饉には、寛永の飢饉(1641〜42)、享保の飢饉(1732)、宝暦の飢饉(1755〜56)、天明の飢饉(1782〜87)、天保の飢饉(1833〜39)などがある。とくに享保、天明、天保の飢饉は「三大飢饉」と呼ばれる。

三代将軍・徳川家光の治世に起こった寛永の飢饉のきっかけは、西日本で流行した牛疫病だ。西日本では牛は耕作や運送に欠かせないものだったから、農業生産に大打撃となった。牛疫病に続き、旱魃、大雨・洪水に襲われ、飢饉の様相が深まった。東日本でも北海道駒ヶ岳の噴火の影響で冷害に見舞われる。

このため全国的な大飢饉が襲った。農村ではくずやわらびの根を採って飢えをしのぎ、都市では米価の高騰と、農村からの飢えた農民の流入により、多数の餓死者が道端に充満することになった。

幕府の大老だった酒井忠勝は「五十年百年の内にもまれなる」飢饉と危機感を抱いた。農民の疲弊を無視して年貢収納を強行すれば、島原・天草の乱のような一揆も起きかねない。そこで幕府は困窮した農民の救済措置などいくつかの対策を打ち出すが、必ずしも問題の本質解決につながるものではなかった。

たとえば、江戸における米流通の拡大策だ。幕府は上方の蔵米(幕府・諸藩の米蔵に収納された米)や各地の城米(城中に貯蔵した米)を江戸に回送するよう命じた。また諸藩には、江戸滞在の家臣の兵糧米を江戸で買うことを禁じ、国元から回送するよう命じている。これは全国的な米価の高騰を呼ぶ。

この対策からわかるように、幕府の姿勢は将軍権力の膝元である江戸の米を最優先し、いかに確保するかに最大の神経を使っていた。これがしばしば江戸と地方、江戸と大坂の利害対立を招く。

藩の側にも、江戸や上方への米の回米を優先しなければならない事情があった。窮乏化する藩財政を支えるために、各藩とも、少しでも高く、より多く、藩内で生産された米を売るために、年貢のみならず強制的買い上げも行いながら、それらの米を領内ではなく江戸や大坂で売却しようとするようになる。しかも高く売るためには、米価が高騰する米の端境期に、前年度に獲れた米を売る必要がある。このような藩の判断が、領内における米払底をもたらし、飢饉を招くことになった。

寛永の飢饉では、幕府蔵奉行らが町人と謀って年貢米の納入を遅らせ、利益をあげていたことが露見し、関係者が逮捕されている。城米蔵奉行三人、浅草蔵奉行四人ら多くの役人や江戸町人に、死罪などの厳しい処分が行われた。幕府がこの不正を米価高騰の一因と考えたためだが、不正は米価高騰の原因というよりも、結果というべきだろう。不正をいくら摘発しても、米不足や飢饉の解決にはならない。

享保の飢饉でも、幕府・藩の対応はみごととはいえなかった。代表的な失政として、四国の伊予松山藩の例がある。

瀬戸内地方では、讃岐うどんが名物であるのでわかるように、麦の裏作が盛んだった。ところが気候不順が続き、麦は大不作でウンカが大発生した。城下にも農民たちが救いを求めて流れ込んできたが、藩は取り押さえ追い払うだけだった。

餓死者の死骸があふれるようになると、藩士たちに禄高による給米をやめて家族の数に応じた米を支給することにして手は打ったものの、庶民には足元を見て、高値での備蓄食料放出を行う始末である。それ以外は、野菜や蕎麦などの緊急作付けを許すだけだった。

やがて江戸の藩主にも状況の深刻さが伝わり、目付一行を松山へ帰し、緊急食料支援を庶民にも広げた。死者は3489人とされ、全国の餓死者の3割にあたり、逃散した者なども含め人口の1割にあたる2万人の減少を見た。これだけの失政をしても、幕府は藩主に半年ほどの「差控」(謹慎)を命じただけだった(八幡和郎『江戸時代の「不都合すぎる真実」』)。

幕府や藩の行動そのものが、飢饉の悲劇を悪化させた面があった。食料を確保する手段として、穀留という方法がよく採られた。藩はひとつの国家のようなものだったから、領内の民を飢えさせないために関所での取り締まりを強化し、穀物が流出しないようにしたのである。

穀留は領主による自衛策だが、食料が払底している藩にとっては他領からの買い付けが不可能となり、致命的だった。食料に多少ゆとりがあった藩でも、世情不安、食料不安を抑える都合上、他藩の支援要請に応えるには消極的になる。

盛岡藩の星川正甫はその著『食貨志』で、宝暦の飢饉の被害を大きくしてしまった原因として、領内の米が藩の米のみならず農民の米までも買い集められ、根こそぎ回送されてしまい、凶作に対応できなかったと指摘している。江戸時代の当時から、飢饉の原因ははっきり知られていたのである(菊池勇夫『飢えと食の日本史』)。

宝暦の飢饉では、幕府の飢饉対策は後退し、むしろ民間人が個人レベルで救済したり、「救荒食」(飢えをしのぐ食物)の手引書を著した。しかしその後に起こった天明の飢饉は、一時の対応では対処できないほど激しかった。

天明の飢饉は、浅間山の大噴火・降灰、冷害などが重なり、東北・関東を中心に約92万人の死者を出した。死人の肉を食べたとの記録も見られ、各地で一揆や打ち壊しが続発した。
幕府は米穀売買勝手令を出して、周辺地域からの穀物の流入と問屋・仲買以外の素人でも自由に売買することを認めた。江戸への米の移入増と米価の引き下げを狙ったのである。当初は効果を発揮する場面もあったが、関東農村も飢饉に陥ると、江戸への回米は増加しなくなり、米価は高騰を続けた。

やがて幕府は売買勝手令を撤回し、旧来のように六軒の米問屋に上方米の扱いを独占させ、彼らに安値販売させることで米価の高騰を抑えようとした。幕府の米価対策の迷走に、市場も消費者も混乱した。結局、米価の高騰は収まらず、1787年(天明7)年5月、ついに江戸で大規模な打ちこわしが始まる。

打ちこわされた家は500軒を超え、米関係の商人が3分の2を占めた。打ちこわしと前後して、市中の各地で施行(豪商などによる施し)が行われ、騒動は数日でようやく沈静化する。幕府は6月、「武家寺社町方共一統救い合い」の気持ちを持って「助け合う」ように触れた(倉地克直『江戸の災害史』)。

19世紀に入り、1820年代までは大きな凶作に見舞われなかったが、1833(天保4)〜36年に異常気象で全国規模の凶作が生じ、天保の飢饉となった。各藩は自藩領での食料確保のために米穀の領外移出を禁止し、幕府も天明の飢饉時に生じた都市打ちこわしへの教訓から江戸市中での食料確保を優先させたため、局所的に激しい食糧不足が生じた。

幕府は例によって江戸への米の移入に努め、米価高騰を食い止めようとした。その結果、関東周辺から大量の米穀が江戸市中へ回送され、大凶作が生じなかった地域でも食料が逼迫し、貧窮民が打ちこわしを起こした。

大坂でも、大坂町奉行所が江戸への米の回送に積極的に協力したため、大坂市中での貧窮民への施米は江戸に比べて貧弱だった。大坂町奉行所与力を隠居していた大塩平八郎は、1837年(天保 8)に幕府の施政を批判して門弟らとともに蜂起した。大塩平八郎の乱は半日で鎮圧されたが、武士身分の者が幕府の施政を批判した点で、一揆・打ちこわしとは異なる衝撃を与えた。

江戸時代の日本は、年貢を多く取りたいので米に偏った作付けが行われ、海外からの食料輸入もさせず、全国的な物流・流通が発展していなかったので、餓死やそれに近い打撃が起きやすい構造問題を抱えていた。

天保の飢饉を最後に、日本で大規模な飢饉が起こらなくなった背景には、幕末開港後に、安価な外国米(南京米)が輸入され始めたことがある。日本の庶民を飢饉から救ったのは、開国による自由貿易だったのである。

<参考文献>
  • 八幡和郎『江戸時代の「不都合すぎる真実」 日本を三流にした徳川の過ち』PHP文庫
  • 菊池勇夫『飢えと食の日本史』(読みなおす日本史)吉川弘文館
  • 倉地克直『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』中公新書
  • 中里裕司編『日本史の賢問愚問』山川出版社
  • 中西聡編『日本経済の歴史 列島経済史入門』名古屋大学出版会
  • 中西聡編『経済社会の歴史 生活からの経済史入門』名古屋大学出版会

2022-12-04

起業家がつくった江戸の海運網

新型コロナウイルス感染症やロシアとウクライナの紛争を受け、世界でサプライチェーン(供給網)が混乱に陥った。円滑な経済活動を維持するうえで、物流がいかに重要か、あらためて認識させられた。

「商い」から見た日本史―市場経済の奔流をつかむ

物流網の整備というと、政府による計画や支援を思い浮かべやすい。しかし歴史上、物流網の構築に大きな役割を果たしたのは、民間の起業家たちだった。

江戸時代の経済発展を支えたのは海上交通である。江戸という巨大な消費都市を支えるために、大坂から江戸へ呉服・木綿・油・酒・醤油などの多様な商品が運ばれた。大坂から江戸へ運ばれる商品は、「下り荷」と呼ばれた。「下り荷」は、江戸に住む参勤交代の大名や旗本など武家の需要が中心であり、上質なものが選ばれた。 品質の水準が劣るものは、大坂の地元で消費され、「下らぬ物」といわれた。

江戸時代の経済の担い手は当初、都市商人だった。その典型的な例は、江戸十組問屋仲間や大坂二十四組問屋仲間を結成していた問屋商人、小売商人たち、および東西を結ぶ輸送に従事した菱垣廻船、樽廻船という廻船集団である。これら商人たちは、幕府や藩権力と持ちつ持たれつの関係で結びついていた。

菱垣廻船や樽廻船は、江戸の商人・河村瑞賢が17世紀後半、幕府の命を受けて整備した東廻り・西廻り海運を利用し、当時の主力商品である米を生産地から消費地へと運んだ。

ところが18世紀以降、それまでの官主導の経済体制では対応できない出来事が起こる。大規模な飢饉である。とりわけ1780年台に襲った天明の大飢饉は、東方地方を中心に被害が甚だしく、餓死者は仙台藩だけで約30万人に達したという。

飢饉は社会に深い爪痕を残したが、その一方で、日本の経済構造に大きな変化をもたらす契機にもなった。全国的な海運再編を促したのである。

飢饉は天候不順や自然災害をきっかけに起こるが、経済体制が柔軟であれば、防ぐことができる。貿易の発達した現代の世界で、飢饉が前近代より少ないのはそのためだ。しかし、幕藩権力の保護のもと機能してきた江戸前期の流通機構では、飢饉のような非常事態への緊急対応は不可能だった。

一方、幕藩権力のしがらみから割合自由な新興海運業者にとって、食物の迅速な運搬が求められる飢饉は、むしろ商機となりえた。こうして飢饉をきっかけに、新たな海運勢力が各地で勃興していく。天明の大飢饉のさなかには、地方の廻船業者で船の数が急速に増大するという興味深い変化もあった。これは主として、近距離航路に就航した小型船の増大によるものだった。

地方で台頭した新興海運勢力の代表といえるのが、北前船と内海船である。

北前船は、北海道や東北の物資を、松前(北海道南西部)や日本海各地に寄港し、下関を廻って大坂などに輸送した。

有力船主の一角を占める福井県河野浦の右近権左衛門家は、7代目のとき、天明の大飢饉に遭遇する。7代目の記した「万年店おろし帳」には、飢饉のなかで、蝦夷地の江差での交易が、同家に大きな利益をもたらしたと記されている。また大福帳のほかに「店卸帳」を作成し、素朴ながらも資産管理を行おうとしていた。ここからも同家が天明飢饉を契機に、業容を拡大し始めたことがうかがえる。

一方、内海船は、尾張国知多半島の内海村を主な拠点とした廻船である。尾州廻船ともいう。主に江戸〜上方間の輸送で活躍した。

内海船を代表する船主が、内田佐七家である。初代佐七にとって最初のビジネスチャンスは、1830年(文政13)のお蔭参りであった。お蔭参りとは江戸時代に流行した伊勢神宮への集団参詣で、文政年間には数カ月間に約200万人が、全国から伊勢へ押しかけたという。佐七はこの機会を機敏にとらえ、伊勢方面に大豆を売り込んでかなり大きな利益を得た。

さらに大きな商機となったのが、1833年(天保4)に始まった天保の大飢饉である。このとき、佐七は伊勢湾や瀬戸内方面ではまだ若干余裕があった米を買いつけ、米不足にあえぐ江戸市場に輸送し、巨額の利益を獲得した。おりしも大坂では、江戸への米移出に反対して大塩の乱が勃発していたが、内田家はこれをかいくぐって、江戸への米輸送を果たしたのだった。

佐七の廻船経営は安いところで買い、高いところで売るという、買積商法だった。現代なら当然の商行為だが、江戸時代としては危険な行為だった。当時の経済原則は、幕府や藩が特定の商人仲間に商品独占を認める見返りに、それら特権商人から運上金や冥加金を上納させ、また物価維持政策にも協力させるというものだったからである。したがって特権商人の独占を脅かすものは、幕府や藩が取締りや弾圧の対象とすることもあった。

ところで内田家が登場した文化文政期は、江戸を中心に民衆の食生活に革命が起きた時期とされる。握り寿司・てんぷら・蒲焼き・豆腐料理・麺料理など、おもな和食のほとんどは、このころ江戸で急速に普及するようになり、今日に続く味わいを確立するのである。

こうした和食文化の確立は、味噌・醤油・味醂・酢などの醸造調味料、ならびに昆布・鰹節などの海産調味料の大量供給があってはじめて一挙に花開いたといえる。そして味噌や醤油の原料である大豆を運んだ内田家の尾州廻船や、昆布を運んだ右近家の北前船こそ、まさにこうした食文化の革命を、流通の面から支える海運勢力だった(伊藤雅俊他『「商い」から見た日本史』)。

北前船や内海船といった、利にさとい起業家たちがいなければ、今の日本が世界に誇る和食文化は生まれなかったかもしれない。

大坂〜江戸間の内海船、日本海・西廻り航路の北前船と並び、東北太平洋・東廻り航路を担ったとされるのが、石巻周辺を本拠とする奥筋廻船である。これら三つの勢力は互いに連結し、日本列島沿岸を一周する沿海海運網を形作った。

新興海運勢力が生み出した、この全国的流通網は「領主の意図が支配する領主的流通ではなく、市場競争の原理から起動される新たな民間型の流通であり、それが全国市場の形成につながっていく」(『大学の日本史・近世』)と歴史学者の斎藤善之氏は指摘している。

<参考文献>
  • 伊藤雅俊・網野善彦・斎藤善之『「商い」から見た日本史―市場経済の奔流をつかむ』PHP研究所 
  • 斎藤善之『海の道、川の道』(日本史リブレット)山川出版社 
  • 杉森哲也編『大学の日本史―教養から考える歴史へ 〈3〉近世』山川出版社 
  • 中里裕司編『日本史の賢問愚問』山川出版社

2022-11-06

江戸の金融危機

金融機関の経営悪化や取り付け騒ぎ、破綻、企業の連鎖倒産などが起こり、経済が危機的な状況になる現象を金融危機という。金融危機はなぜ起こるのだろうか。その答えのヒントが、江戸時代の米取引にある。

江戸幕府によって貿易の道をふさがれ、都市の市場での物品販売が唯一の幕府貨幣獲得手段となった諸大名にとって、最大の産物である米をより高く売りさばくことが、財政上の重要課題となっていた。 

大坂堂島米市場 江戸幕府vs市場経済 (講談社現代新書)

当時の都市の中で、豊臣政権下で蓄えた経済的豊かさを江戸時代に継承し、東西の交通の要衝として整備された大坂は、後発の江戸などとは比べようもないほどのにぎわいだった。米の流通・換金においても、さまざまな面で有利だった。

大坂での初期の米取引は、領主米の販売を委託された米問屋(蔵元)が、自店の店先に米仲買人を集めた米市で行われていた。有力だったのは戦国期以来の豪商淀屋で、井原西鶴の『日本永代蔵』にも取引の盛んな様子が描かれている。

藩にとって、この米の委託販売は管理上、煩瑣で複雑なものになってきたので、大坂に領主米を置く蔵を建て、そこに実務担当者(蔵役人)を配置するようになる。 これが大坂の蔵屋敷の発端といわれる。各藩の米取引の責任者である蔵役人には、藩の厳しい財政をやりくりするため、蔵の米を思惑通りの値段で仲買人に買わせ、藩に必要な資金を調達するという使命があった。

元禄年間には95の蔵があった。この蔵屋敷で、国元から送られてきた物産を大坂の商人に売りさばくのだが、米については売買で移動させるには重くてかさばることから、「米切手」と呼ばれる証書の形で販売した。

通常の米切手は、厚紙を裁断した長方形の用紙に、切手と交換できる俵の数、産年、蔵名、通し番号などが記載されている。この米切手を発行元の蔵屋敷に持参すれば、実物の米と引き替えることができるわけだが、多くの場合、米切手は第三者へ転売された。この転売市場が堂島米市場である。

もともと淀屋の門前で立っていた米市が1697(元禄10)年、堂島(大阪市北区)に移り、ここでの米相場が全国に大きく影響するようになった。1730(享保15)年に米仲買に株が許可され、堂島は幕府官許の米市場として発展する。

米市場とは呼ばれるものの、堂島では実物の米を売買したわけではない。堂島の取引風景を描いた絵を見ると、米俵は描かれていない。すでに述べたように、堂島は米切手の取引市場であり、米俵の取引市場ではないのである。さらにいえば、取引風景には米切手すら描かれていない。取引はすべて帳簿上で管理され、米切手と現金のやりとりが取引のたびごとに行われることはなかった(高槻泰郎『大坂堂島米市場』)。

さて各藩は、年貢として徴収した米や商品作物の売却益といった収入の中から、江戸藩邸費用、参勤交代費用、普請手伝い費用、治水事業費用などを支出していたが、相次ぐ大規模干拓事業などの実施により、江戸初期から多くの藩は財政が苦しかった。

各藩が不足する資金を調達する方法としては、蔵屋敷に出入りする掛屋といわれる商人から借りる方法があった。これとは別にもう一つ、不足する資金を調達する方法があった。いわゆる「空米切手」を利用した、堂島米市場からの資金調達である。

米切手は建前としては、蔵から販売される米の量に見合った量で発行されている。しかし実際には、蔵にある米の量より多くの米切手が発行されていた。このような、蔵にある米を超える米切手を「空米切手」という。形式的にはどの米切手も同じもので、どれが空米切手で、どれがそうでない米切手かという区別があるわけではない。

各藩にとって米切手は、ある種の「打ち出の小槌」のようなもので、財政上の都合でついつい過剰に発行しがちなものだった。米切手の保有者が米との引き替えを求めて一斉に殺到しない限り、交換できなくなる恐れは小さいものの、破綻に直面するリスクはつねに存在していた。

実際、江戸幕府は空米切手禁止令(米での交換が確約できない米切手の発行禁止)を何度か出し、米切手が交換できない事態をできるだけ減らそうとした。しかしやはり何度か、米切手を米と交換できない事態に陥る。有名なのは筑後国(福岡県)久留米を本拠とした久留米藩のケースだ。

1620(元和6)年に成立した久留米藩は、島原の乱への出陣、飢饉や洪水の復旧などで出費がかさんだ結果、財政難に陥る。進退極まってとった選択は、空米切手の乱発だった。

1791(寛政3)年、久留米藩蔵屋敷に54名の米商人が押しかけ、米切手と米の交換を速やかに行うことと、過剰に発行された米切手の回収を要請する。これに対し蔵屋敷には交換に応じるだけの米はなく、やむなく蔵役人は米との交換を断った。この対応に米商人は、蔵屋敷の蔵元らを相手取り、8万5830俵余の蔵米出し不履行を大坂町奉行所に訴え出たのだった。

奉行所の調べによれば、久留米藩蔵屋敷が保有していた蔵米はわずか2370俵しかなく、米切手8万5830俵分のほぼすべてが空米切手だった。米商人たちは「米で返せなければ金で返せ」と久留米藩に迫った。

米商人の要求どおりにすれば、さらに久留米藩の財政は困窮するが、今後、米商人に筑後米を買ってもらえなくなれば、藩の存続そのものが危うくなる。やむなく、久留米藩はありったけの米を出して返済した。それでも不足する5万9220俵については、大部分を両替商からの借入れで返済している。結局、久留米藩の借金は、減るどころかいっそう膨らむことになった(日本取引所グループ『証券市場誕生!』)。

久留米藩で起こったことは、現代の銀行取り付け騒ぎを連想させる。銀行は短期の借入れ(預金)で長期の貸し付け(投資)を行っているが、この双方の満期に不一致がある。これが取り付け騒ぎ発生の根本的な原因だが、これは、蔵にある米が米切手の量と見合っていないことに似ている。

現代では取り付け行動を防ぐために預金保険制度が導入されているが、金融機関の不健全な経営を許容するモラルハザードを招きかねないなど、弱点もある。金融機関にしろ、かつての藩のような政府機関にしろ、金融危機の根本の原因である不健全な財務に陥らない心がけが何より大切だろう。

<参考文献>
  • 高槻泰郎『大坂堂島米市場 江戸幕府vs市場経済』講談社現代新書
  • 日本取引所グループ『日本経済の心臓 証券市場誕生!』集英社

2022-10-02

「もの言う」江戸の百姓たち

「もの言う株主」がしばしば経済ニュースをにぎわす。「もの言う」態度がニュースになること自体、沈黙を美徳とし、あからさまな自己主張を差し控える日本社会の特質を示しているのかもしれない。

しかし、日本人は昔からそうだったわけではない。江戸時代の人口の約八割を占めた百姓たちは、武士に一方的に支配される無力で弱い存在というイメージが強い。しかし、じつは村のルールを自分たちで決め、自分の利益を守るためなら積極的に訴訟を起こし、ときには支配層である領主たちに敢然と自己主張するたくましい人々だった。

言いなりにならない江戸の百姓たち: 「幸谷村酒井家文書」から読み解く

まず、村のルールを見てみよう。近世の村社会を特徴づけるのは村掟である。村はどこでも自分たちの手で掟を作っていた。農業用水や共有山の利用から日常生活にいたるまで、緊密な連携を必要とする農業社会にあっては、 他所からの奉公人を含むすべての村構成員を統制し、違反者に対して制裁を加えるルールが必要だった。

たとえば1662(寛文2)年、近江国蒲生郡の三津屋村で定められた村掟では、「2月1日から11月1日までの間は、木の葉の掻き集めをしてはいけない。もし盗み掻きした者は、米五升の罰とする」などと定めている。

この村では米五升が制裁の標準だったが、各地の村では掟に違反した者に対する制裁を取り決め、実際に執行していた。制裁の種類はおおむね追放刑を頂点に、付き合い禁止(村八分)、見せしめ刑、罰金刑から構成されていた。

見せしめ刑には、坊主にして謹慎させる、片鬢を剃り落とし赤頭巾を着せて葬式行列の前に立たせる、人前に出る時は赤頭巾を被せるなど各種あった。なかには前代以来の慣習と思われる「耳を削ぎ追放する」といった過酷な制裁を掲げる村もあった(水本邦彦『村——百姓たちの近世』)。

次に、訴訟の実態を見てみよう。戦国時代までは、村々は自力で自村の領域を守っていた。そこでは村同士の話し合い、近隣の有力者の仲介を得ての交渉、ときには武器を取っての実力行使など、さまざまな手段がとられた。

それが江戸時代に入ると、泰平の世のもと実力行使が禁止される一方で、幕府・領主への訴訟が紛争解決手段としてきわめて大きな意味をもつようになった。訴訟に勝てなければ、自村の領域を維持できない時代になったのである。

百姓たちは、訴えたいことがあると、幕府領の百姓なら自分が住む村を管轄する代官所、大名領(藩領)なら藩の農政担当部局である代官所や郡奉行所に訴え出た。領主が異なる村・百姓間の争いは幕府が裁いた。

百姓・町人が領主に提出した訴状は、「恐れながら……願い上げたてまつり候」という言葉から書き始められることが多い。江戸時代の庶民は、民事紛争の解決を領主に要求する権利をもっていたわけではなく、庶民の訴訟は「お上の手を煩わす」ものとされていたのである。領主が訴訟を受理することは、領主の義務ではなく、お慈悲だった。

けれども、こうした建前にもかかわらず、実際には百姓たちは武士たちが辟易するくらい頻繁に訴訟を起こした。百姓たちは、「お上の手を煩わす」ことを恐れはばかってばかりはいなかったのである(渡辺尚志『百姓たちの山争い裁判』)。

とくに水は、飲料水・生活用水であるとともに、農業用水としても不可欠だった。このため水不足の年などには、同じ川から農業用水を取水する村々の間で、水をめぐる争いが起こった。たとえば、上流部の村が多く取水したため、下流部の村まで水が行き渡らなくなり、下流部の村が上流部の村に抗議するといったケースである。

今でも、互いに自己主張して譲らず、延々と言い争うことを「水掛け論」というが、これは百姓たちが互いに自分の田に水を引こうとして、一歩も譲らず争ったことからきた言葉である。

複数の領主が錯綜して村々を支配しているところでは、用水をめぐる村々の争いに複数の領主が関係することになる。領主の異なる村々が争った場合には、訴訟は幕府に持ち込まれる。しかし、幕府の担当部局も一元化してはいなかった。

そこで村々の側も、願いを聞き届けてくれそうな役所を選んで願い出ることがあったし、それでもだめなら江戸の評定所(現在の最高裁判所にあたる幕府の機関) に訴え出ることも辞さないといった、したたかさを持ち合わせていた(同『百姓たちの水資源戦争』)。

百姓たちは、訴訟で互いに争っていただけではない。支配階級である武士に対しても、自己の利益を守るためには堂々と自己主張した。

近江国蒲生郡の鎌掛村で1758(宝暦8)年から庄屋を務めた平蔵が残した記録によれば、領主への願書や届書の中でも最も多いのは、納税に関するものである。平蔵の庄屋時代は、年貢徴収方法は毎年の作柄を調査して年貢額を決める検見取りだったが、この件に関して何通かの願書を提出している。

たとえば、「蒲生郡村々の早稲方の見分をお願いします。今年はことのほか永旱(ながひでり)で、例年より赤らみが早いようです。ことに山方村は猪鹿の制動(制圧)に難儀するので、今月20日頃に御出でくださり御見分ください」とある。

百姓と領主役人との間で、日程や方法をめぐって折衝が続く。どの時点でどのような検見を受けるかは、百姓たちにとって稲刈り、収穫作業に関わる最重要のテーマだった。

年貢額そのものに関する願書もたびたび提出された。宝暦8年9月には、じつに八十年も前からの経緯を述べながら、年貢の減額を願い出ている。庄屋平蔵たちは古い文章を博捜して、根拠資料を調べあげたのである。こうしたデータにもとづいての願い出は一定程度効果を上げたらしい(水本前掲書)。

さらに一歩踏み込んで、百姓が武士の罷免を求めるケースもあった。

1773(安永2)年、春日氏の知行所(領地)常陸国真壁郡赤浜村など六カ村が共同で、18世紀後半以降、財政赤字が増大し、安永2年当時約400両の借金を抱えて苦しんでいた春日氏に対して、その負債内容を村々に公開させたうえで、支出削減などの財政再建策を行うよう、具体的な金額をあげて提案した。

提案には、春日氏の家臣の人員削減も含まれていた。百姓が武士のリストラを要求しているのだ。さらに、財政収支を知行所村々が管理して収支のバランスを適正化し、確実に財政健全化を図ることとされた(渡辺尚志『言いなりにならない江戸の百姓たち』)。

もちろん武士と百姓という身分の違いは歴然としているものの、武士が百姓を一方的に搾取したという江戸時代のイメージとは大きく異なる。税・社会保障の負担にじっと耐える現代の日本人は、むしろ江戸の百姓たちを見習い、政府に「もの言う」姿勢を示してみてはどうだろうか。

<参考文献>
  • 水本邦彦『村 百姓たちの近世』(シリーズ 日本近世史 2)岩波新書
  • 渡辺尚志『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』草思社文庫
  • 渡辺尚志『百姓たちの水資源戦争:江戸時代の水争いを追う』草思社文庫
  • 渡辺尚志『言いなりにならない江戸の百姓たち: 「幸谷村酒井家文書」から読み解く』文学通信