1904(明治37)年2月8日、日本海軍が中国・遼東半島のロシア租借地にある旅順軍港を奇襲攻撃し、日露戦争が始まった(宣戦布告は10日)。20世紀最初の帝国主義戦争となったこの戦争で、日本国民は10年前の日清戦争を大きく上回る犠牲をこうむる。
列強の中国侵略に反発して起こった民衆蜂起「義和団の乱」(1900年)の鎮圧後、中国・朝鮮の利権を巡って日露両国が対立を深めたことが、開戦の直接のきっかけだ。しかし日本が戦争に踏み切った根底には、明治維新以来の「ロシア脅威論」がある。
幕末以来、討幕勢力の中心となった薩摩・長州両藩や明治維新政府は、基本的に英国からの情報で世界を見ていた。明治政府が多数雇った「お雇い外国人」で一番多いのも英国人だった。
当時英国はバルカン半島、アフガニスタンなど世界でロシアと対立していた。極東でも、朝鮮半島と満州を巡って英露は牽制し合っていた。この英国の反ロシア戦略が、日本の政治家やジャーナリストの意識に影響を与えていく。実際には当時のロシアに、朝鮮半島まで急速に南下し、日本に押し寄せるだけの余力はなかった。ところが日本の為政者たちはロシアを実態以上に強大に見て、速やかに接近してくる最大の「脅威」だと思ってしまったのである(山田朗『これだけは知っておきたい日露戦争の真実』)。
日露戦争に向けた日本側の軍備拡張は、日清戦争直後から進められた。海軍力は英国の技術援助を受けながら、開戦前には戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を基幹とする強力な艦隊を保有するに至った。これらの軍艦は日清戦争の時とは異なり、世界最高水準の最新鋭艦ばかりだった。陸軍力も日清戦争終戦時の8個師団から日露開戦前には13個師団へと増設され、部隊の火力も大幅に強化された。
この急速な軍拡は国家予算を圧迫する。一般会計に占める軍事費の割合は、日清戦争前の10年間(1884〜93年)は平均27.2%だったが、日露戦争前の10年間(1894〜1903年)には平均39.0%に達した。政府は軍拡費用を捻出するために大増税を行う。
日清戦争の時期から、軍事費を確保するために各種の税が導入・強化された。それまでの地租(地税)に加え、1887年には所得税、1896年には営業収益税(営業税)、1899年から法人税が導入される。さらに、1872年に導入した酒税の税率を上げ、1888年以降は税収に占める酒税の割合は20%を超え、97年以降は30%を突破する。日露戦争とその後の軍備拡張は酒税によって支えられたといっても過言ではない。塩・たばこなど国家専売品の値上げも軍拡費用を支えた(大日方純夫ほか『日本近現代史を読む』)。
これらの負担は民衆の生活にのしかかった。日露戦争は日本を重税国家に変えたのである。当時導入された税は、日露戦争が終わった後はもちろん、21世紀の現代に至るまで基本的に残っており、一度導入された税をなくす難しさを物語っている。
しかも税金だけでは膨大な軍事費を賄えなかった。その穴を埋めたのは国債で、とくに海外で販売する外債に多くを頼った。日露戦争にかかった17億円の軍事費のうち、税金で賄えたのは3億2000万円弱だけで、約13億円を内外の国債(外債約7億円、内債約6億円)に依存した。内債は希望者が購入する建前だが、現実には事実上の強制だった。海外では主にロンドンとニューヨークで募集し、発行総額は内債を上回った。この外債発行交渉を担当したのが、当時日本銀行副総裁だった高橋是清(後の日銀総裁、蔵相、首相)である。
日露戦争をきっかけに、それまで外資にあまり頼らずにきた日本経済は、一転して巨額の外国債に依存することになった。しかも中国から賠償金を獲得した日清戦争と違い、日露戦争でロシアからの賠償金はまったくなかった。その結果、戦時中に募集した国債が戦後の借金として残ってしまった。
開戦前の1903年に5600万円だった内外の公債残高は、1907年は内債10億1000万円、外債12億6000万円と、合計22億7000万円にまで膨らんだ。これはこの年の名目国民総生産(GNP)の61%、一般会計歳出6億200万円の約3.8倍に相当する。対GNP比率は、第一次世界大戦の始まる直前の1914年までに50%を下回ることはなかった。外債の利払い負担は国民に重くのしかかった。利払い費は1907年に年5905万円に達すると、その後も増加し、1913年には8500万円にまで増加した(板谷敏彦『日露戦争、資金調達の戦い』)。
日露戦争が始まると、大規模な軍事動員が行われた。日清戦争の際に兵士として動員された総数は約24万人だったが、日露戦争では約109万人に達した。戦争中には、陸軍は南山・遼陽・旅順・黒溝台・奉天など地上戦闘で苦戦に苦戦を重ねたために、11万人以上の戦死者・重傷者が出た。その大多数が徴兵された一般国民の若者だった。
国内の民衆も戦費調達のための増税、献金や国債購入のほか、農村では軍馬供出などで負担を強いられた。約20万頭の馬が動員され、騎兵用の乗馬だけでなく、輸送用にも多くの馬が使用され、戦地で約3万8000頭が犠牲になったといわれる(前出『日本近現代史を読む』)。
日本が資金と武器弾薬の欠乏と兵力不足から戦争継続に苦しみだしたころ、ロシアも国内で革命運動が起こって戦争継続が困難になった。ついに1905年9月、セオドア・ルーズベルト米大統領の斡旋によって日本全権小村寿太郎とロシア全権ウィッテは講和条約(ポーツマス条約)に調印する。これにより、ロシアは朝鮮における日本の優越権を認めるとともに、旅順・大連など中国からの租借地と南満州での鉄道利権を日本に譲渡すること、北緯50度以南の樺太を日本に割譲することなどを約した。
国民は人的な損害と大幅な増税に耐えてこの戦争を支えたが、賠償金がまったく取れない講和条約に不満を爆発させ、講和条約調印の日に開かれた講和反対国民大会は暴徒化した。日比谷焼き討ち事件と呼ばれる。
作家・司馬遼太郎氏は日露戦争を題材とした長編小説『坂の上の雲』で、日本海海戦のさなか、作戦を立案した海軍参謀・秋山真之が戦闘のあまりの無惨さに深刻な衝撃を受けた様子を描いている。秋山は戦後、長男を僧侶にし、自らは新興宗教に入信した。
大国ロシアを破った快挙として称えられがちな日露戦争は、重い負の遺産を残したのである。
<参考文献>
- 山田朗『これだけは知っておきたい日露戦争の真実―日本陸海軍の「成功」と「失敗」』(高文研)
- 大日方純夫ほか『日本近現代史を読む』(新日本出版社)
- 板谷敏彦『日露戦争、資金調達の戦い―高橋是清と欧米バンカーたち―』(新潮選書)
- 原朗『日清・日露戦争をどう見るか 近代日本と朝鮮半島・中国』(NHK出版新書)
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