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2021-11-25

国家という特殊な制度

反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー

青々と広がる水田、金色の麦畑は美しい。しかし、これら米や麦といった穀物が国家の暴力的な起源と密接な関係にあると知ったら、景色の見え方も変わるかもしれない。

政治学者・人類学者ジェームズ・スコット氏は、考古学や人類学の最新成果に基づく著書『反穀物の人類史〜国家誕生のディープヒストリー』(立木勝訳、みすず書房、2019年)で、「穀物が国家を作る」という大胆な仮説を提示する。

古代の最初の主要農業国家(メソポタミア、エジプト、インダス川流域、黄河)の生業基盤はどれも驚くほど似通っている(第四章)。すべて穀物国家で、小麦や大麦、黄河の場合は稗や粟などの雑穀を栽培していた。それに続く初期国家も同じパターンを踏襲し、水稲と新世界のトウモロコシが主要作物のリストに加わった。

なぜ穀物は、最初期の国家でこれほど大きな役割を果たしたのか。中東ではレンズ豆、ヒヨコ豆、エンドウ豆といった豆類、中国ではタロイモや大豆など他の作物はすでに作物化されていたのにである。

ここで、スコット氏は驚くべき考えを示す。「わたしの考えでは、穀物と国家がつながる鍵は、穀物だけが課税の基礎となりうることにある」。すなわち目視、分割、査定、貯蔵、運搬、「分配」ができるということだ。豆類や芋類にもこうした性質はいくつか見られるが、すべての利点を備えたものはない。

スコット氏は「穀物にしかない利点を理解するためには、自分が古代の徴税役人になったと想像してみればいい。その関心は、なによりも収奪の容易さと効率にある」と指摘し、こう続ける。「穀物が地上で育ち、ほぼ同時に熟すということは、それだけ徴税官は仕事がしやすいということだ。軍隊や徴税役人は、正しい時期に到着しさえすれば、1回の遠征で実りのすべてを刈り取り、脱穀し、押収することができる」

これに対し芋類は、一年後に熟すが、あと一年か二年は地中に残しておいても大丈夫だ。必要なときに掘り出し、残りは地中で貯蔵できる。軍隊や徴税官が芋をほしいと思ったら、ひとつずつ掘り出さなければならない。豆類も長期間にわたって継続的に実をつけるので、徴税官が早く来すぎたらほとんどまだ熟していないし、遅れてきたら、収穫の大半は納税者が食べてしまっているか、隠したり売ったりしてしまっている。

したがって、穀物が地上で同時に熟することには、国家の徴税官が判読、査定できるという、計り知れない利点がある。こうした特徴があったからこそ、小麦、大麦、米、トウモロコシ、稗や粟などの雑穀は第一級の「政治的作物」になったのだとスコット氏は説く。

じつは初期穀物国家は、人が暮らす場としては例外にすぎず、集中的な農業に好適な、生態学上のわずかなニッチにしか存在しなかった。その外には狩猟と採集、海洋での漁労と採集、園耕、移動耕作、専業遊牧といった、多種多様な生業活動が広がっていた。しかし国家の徴税官からみれば、それらに課税することはほとんど不可能だった。狩猟採集民や海洋採集民は分散して動いているうえに、収穫物は多様で傷みやすいからだ。

こうして初期の国家は穀物を基礎に築かれていく。そこで暮らす農民にとって、生活環境はおせじにも良好なものではなかった(第三章)。まず、急速な農業化によって食餌内容が炭水化物に偏り、多くの必須栄養素が不足した。残っている農民の骨格を、同時代に近隣で暮らしていた狩猟採集民と比較すると、狩猟採集民のほうが平均五センチ以上も背が高い。これは、食餌が多様で豊富だったからだと考えられる。弱った肉体に疫病が襲う。感染症が人口に繰り返し壊滅的な打撃を与えた。

追い打ちをかけたのが、国家による課税と戦争だ(第四章)。穀物での税が収穫の五分の一を下回ることはまずなかったとみられる。農民はエリート層を支える税を納めるため、事実上、生存できるぎりぎりの線で生活していた。

戦争ではたとえ勝ったとしても、戦争そのもののために作物が焼き払われ、穀物倉が強奪され、家畜や家財が押収されたから、生活する者にとっては、自国の軍も敵国の軍と同じくらい大きな脅威だった。スコット氏は「初期の国家は天候にも似て、恩恵をもたらすよりも、生存への脅威を追加するものだった」と記す。

これらを踏まえ、スコット氏は国家の「崩壊」という重要なテーマに議論を進める(第六章)。多くの歴史家は国家の崩壊を嘆き悲しむ。しかし、国家がこれまで述べられたように抑圧的なものなら、なぜ嘆く必要があるだろう。スコット氏は、歴史家にはひとつの偏見があると指摘する。「国家センターという頂点への人口集中を文明の勝利として見る一方で、他方では、小さな政治単位への分散を政治秩序の機能停止や障害だとする、ほとんど検証されることのない偏見」である。

初期国家の臣民が、税や徴兵や伝染病や抑圧から逃れるために農業からも都市の中心地からも離れていくことは、決して珍しくはない。こうした国家の放棄は、狩猟採集や遊牧といった原始的な生業形態への退行かもしれないが、解放と見ることもできる。もちろん国家の外で別の種類の捕食や暴力が待ち受けることもあるが、「都市中心部の放棄という事実そのものを野蛮と暴力への下降だと決めつけることはできない」とスコット氏は強調する。

たとえば、ギリシアで都市国家が姿を消した「暗黒時代」は紀元前1100年頃から同700年頃まで続いた。宮殿のある中心地は多くが放棄され、たいていは物理的に破壊されて燃やされた。ところが、西洋文学の源泉とも仰がれる叙事詩『オデュッセイア』『イーリアス』はまさにこのギリシア暗黒時代のもので、あとになって、現在知られている形で文字に起こされたにすぎない。スコット氏は「実際に、こうした朗誦と記憶を繰り返すことで生き延びていく口承叙事詩は、少数の識字エリート層に依存した文字テクストよりも、はるかに民主的な形態の文化を構成していると主張していいのかもしれない」と指摘する。

スコット氏によれば、今から四百年前まで、地球の三分の一は狩猟採集民、移動耕作民、遊牧民、独立の園耕民で占められていたのに対し、国家は本質的に農耕民で構成されるので、その範囲は世界にわずかしかない耕作好適地にほぼ限られていた(序章)。多くの人々は、国家の空間を出入りして生業様式を切り替えることができた。国家の締めつけをかわすチャンスは十分にあった。

現在、国家は生活のあらゆる局面に介入し、その存在を意識せずに暮らすことはほとんどできない。しかしスコット氏が指摘するように、明確な国家覇権の時代の始まりを紀元1600年頃だとすれば、「国家が支配してきたのは、私たちの種の政治生活の最後の1パーセントのうちの、そのまた最後の10分の2にすぎないことになる」。

今の国家はもちろん穀物には頼らず、その支配力を国民の財産全般に広げた。それでも補足は完璧ではないから、コロナ対応給付金などを口実に、マイナンバーと金融口座のひも付けをもくろんだりしている。実現すれば、昔の徴税官が豊かに実った田畑を眺めたときのように、政府当局者は顔をほころばせることだろう。

『反穀物の人類史』は、国家が庶民から税を搾り取る特殊な制度でしかないことを教えるとともに、脱国家の可能性に思いを巡らすきっかけを与えてくれる。

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2021-11-23

株主資本主義は悪くない

「公益」資本主義 (文春新書)

資本主義に対する批判がかまびすしい。さすがに「よし、それなら社会主義で」とは(今のところまだ)言いにくいので、代わりに主張されるのが資本主義の「修正案」だ。岸田文雄首相の「新しい資本主義」はその一つだが、この種の議論のはしりといえるのは、原丈人氏の『「公益」資本主義』(文春新書、2017年)である。

本の宣伝文句によれば、原氏は米国シリコンバレーで数々の成功を収めてきた「最強のベンチャー事業投資家」である。読者はこの肩書から、資本主義の本質を知り抜いた人物を想像することだろう。しかし残念ながら、投資家や資本家として成功した人物が、必ずしも経済や資本主義について正確に理解しているとは限らない。

原氏は「はじめに」で、本書の主張を簡潔に述べる。それは現在、世界を席巻しているという「株主資本主義」に代わり、「公益資本主義」という資本主義の新たなあり方を打ち立てることにある。

株主資本主義とは何か。一言でいえば、「会社は株主のもの」とする考え方だという。原氏によれば、株主資本主義では、会社の目的は株主の利益を上げること一点のみで、従業員や顧客の利益はないがしろにされる。これに対し公益資本主義とは、企業を構成する個々のステークホルダー(株主、従業員、取引先、顧客、地域社会、国、地球など)の立場に応じ、利益を公平に分配する仕組みだという。

原氏が考える、株主資本主義と公益資本主義の違いについて、もう少し詳しく見てみよう。原氏は第四章で、株主資本主義は株主と経営陣が利益を独占すると述べる。これはさきほど触れた、従業員や顧客の利益がないがしろにされるという主張と表裏一体である。

この考えはおかしい。株主が本当に自分の利益を増やしたければ、会社の利益を増やさなければならず、そのためには優れた人材を手厚い待遇(金銭的報酬とは限らない)で雇用し、優れた製品を安く顧客に提供しなければならない。そうであれば、従業員も顧客も得をする。つまり株主と従業員・顧客の利益は対立せず、ともに利益を得る。

一方、公益資本主義ではすべての「社中(ステークホルダー)」に利益を「公平に分配」しなければならないという。けれども分配が公平かどうか、誰がどうやって判断するのか、その具体的な説明はない。単純な均一配分では誰かから必ず不満が出るだろうし、かといって利益への貢献度で判定するのはもっと難しいだろう。組織として成り立つかどうか心もとない。

また原氏は、株主資本主義では短期の利益や株価上昇ばかりを追求すると述べ、こう続ける。「中長期の研究開発費を圧縮し、人件費を削って無理に利益を出させ、配当として吐き出すことを求めます」

これもよく耳にする俗論だが、正しくない。株主が本当に強欲なら、短期で小さな利益を手に入れて満足するのではなく、長期で大きな利益を求めるはずだ。

たしかに海外の買収ファンドなどが、厳しいコスト削減や増配の要求を突きつけるケースはある。けれども彼らがそうするのは、それが長期の利益拡大や経営効率の向上をもたらすと判断するからだ。株価は将来の利益を予測して動くものだから、短期の利益にしかつながらないと市場で評価されれば、たちまち下落し、投資家自身が損をしてしまう。

さらに原氏は、株主資本主義は目先の利益にとらわれるため、組織が硬直化し、変化への柔軟性を確保できないという。具体例として、一九七〇年代のオイルショックを機に消費者の関心が日本車など燃費の良い小型車に移っていたにもかかわらず、大型車から小型車への切り替えができず、衰退した米GM(ゼネラル・モーターズ)を挙げる。

けれども当時、日米自動車摩擦で米政府が日本に圧力をかけ、対米自動車輸出台数を制限する「自主規制」を強いた事実が示すように、GMをはじめビッグスリーと呼ばれる米自動車大手が衰退したのは、政府と癒着してその保護に甘んじ、市場競争を勝ち抜くための経営努力を怠ったからだ。

ビッグスリーの背後には全米自動車労組(UAW)という強力な労組が存在し、対日圧力を求めていた。つまり米自動車大手の衰退は、原氏にとっては皮肉なことに、政府や労組といったステークホルダーが会社を動かす公益資本主義のせいだったということになる。株主資本主義のせいではない。

原氏は、配当や自社株買いに熱心な米企業について「株主におもねっているだけで、これでは企業としていつまで存続できるのか心配になります」と批判し、社名を列挙する。IBM、マイクロソフト、ヒューレット・パッカード、プロクター&ギャンブル、ファイザー、タイム・ワーナー、ディズニーである(第二章)。それから四年たつが、これら米企業の多くは存続が危ぶまれるどころか、世界でますます存在感を増している。

もし原氏がいうように、日本企業が米国流の株主資本主義を模倣したせいで衰えたのなら、本家である米企業はもっと激しく没落しているはずだ。ところが実際には、日本企業だけが凋落している。ここから正しい教訓を導くとしたら、日本経済が衰退しているのは株主資本主義が過剰なためではなく、株主資本主義が足りないからと考えるしかない。

最後に、原氏が強調する、アメリカン航空のエピソード(第一章)について述べておく。2008年、経営不振に陥った同社は従業員に対して大幅な給与削減を求め、そのおかげで危機を脱することができた。経営陣はその功績によって多額のボーナスを受け取った。リストラに成功して経営を立て直したことが、株主から評価されたからだ。

原氏はこの事実について、株主資本主義が「現実からいかに乖離し、いかに倒錯しているか」を物語ると批判する。

しかし、もし原氏の考えに従い、危機脱出に成功しても満足する報酬を与えなければ、わざわざリストラを実行して嫌われ者になる経営者はいなくなる。しばらくはハッピーかもしれないが、いずれコスト高で破綻するしかない。そうなれば従業員すべてが路頭に迷うことになる。

経営者の判断がどれほど非情に見えようと、それは結果として会社を救うかもしれない。その場合は当然、米国なら米国、日本なら日本の相場に照らし、成果に見合う報酬が必要だろう。もし会社を救えなければ、その経営者は能力の劣った人物として市場から淘汰される。他人があれこれ口を出す必要はない。ましてや政府をステークホルダーとして取り込み、権力を使って身勝手な理想を押しつけようとするなど、傲慢でしかない。

原氏には『新しい資本主義』という著作もある。岸田首相のスローガンと関係があるかどうかは不明だが、日本に今必要なのは、こうした「ナントカ資本主義」のたぐいではなく、本来の自由な資本主義である。

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2021-10-31

国家という巨悪

生きることは闘うことだ (朝日新書)

国民から税を収奪する国家の本質は、みかじめ料を納めさせる暴力団と同じであるという考えは、西洋思想ではアウグスティヌスやマックス・ウェーバーをはじめ昔から言われていることだ。けれども日本では、お上に従順な一般市民はもちろん、専門の知識人や言論人ですらそれを理解している人は少ない。

しかし、例外はある。作家の丸山健二氏だ。1966年、当時最年少の二十三歳で芥川賞を受賞後、長野県に移住し、文壇とは一線を画した独自の創作活動を続ける「孤高の作家」として知られる。

丸山氏は発言集『生きることは闘うことだ』(朝日新書、2017年)で、こう言い切る。「国家はひとつの悪だ。それも巨悪だ。その悪に比べたらやくざの悪など実にちっぽけなものでしかない」(第二章)

先に国家の本質は暴力団と同じだと書いたが、その規模からいえば、暴力団(やくざ)は国家の足元にも及ばない。政府(国家)は社会において最大・最強の暴力を有する組織であり、その意味で丸山氏が言うとおり、他を圧する「巨悪」である。やくざとの違いは合法か非合法かにすぎず、法律は政府が作るのだから、自分の行為はすべて合法にできる。

多くの人は、国家が社会に秩序をもたらすと誤解している。丸山氏はその誤りを正す。「秩序と法を敬うことと、国家に盲従することは、一見似ているように思えても、その内容は大きく異なる」「大半の国民をただ羊のようにおとなしくさせておくだけの秩序ならば、断じて拒否すべきだ」(同)

安心を国家に保障してもらおうという考えも浅はかだ。丸山氏は言う。「安心を他者に求めることは却って危険を招く。自分では何もしないくせに庇護してくれそうな者を当てにするという、非常に醜悪な体質を改めない限り、国民の代表者たちはこれまで通りの、やれもしないことを次から次へと口走るばかりの、そしてその地位から得られる余禄が目当ての連中のみとなる」(第一章)

このように個人を突き放す厳しい発言は、昨今のメディアでは「自己責任論」と叩かれそうだ。しかし個人が他の個人との自発的な協力でなく、国家を頼って身の安全を図ろうとすれば、国家という暴力団はますます栄え、個人は結局食い物にされる。

最も甚だしい倒錯は、世界平和すらも国家に頼って実現しようとすることだ。丸山氏は「世界平和を口にするとき、絶対に目をそらしてはならないこと。それはどうしてこうもたやすく国家に従ってしまうのかという、ただこの一点にある」と喝破し、「そこに言及しない平和会議や平和集会は、単なる戯れ言の交換の場にすぎない。それどころか、もしかすると戦争を暗に容認する行為になるかもしれない」と指摘する(第二章)。

丸山氏の批判は、国家のお先棒をかつぐメディアや「専門家」にも向けられる。「ひっきりなしにテレビに登場するコメンテーターは、結局、国民を騙す側に身を置く、大悪党の手先の小悪党にすぎない。そもそもスポンサーや国家の影響を避けては通れないかれらに本音など言えるわけがなく、ましてや正真正銘の正義を唱える資格などあるはずもないのだ」(第一章)

本書はコロナ騒動が始まる前に出版されているが、まるで十分な根拠もなくコロナの恐怖を煽り、死亡を含む副作用の恐れを無視してワクチン接種を勧めるコメンテーターたちの登場を予言していたかのようだ。

丸山氏の発言すべてに賛同するわけではないものの、国家の本質をここまで正確に見抜き、恐れず発言する人物は、日本の文化人を見渡しても稀有といえる。最後に、七十代後半になっても衰えない丸山氏の若々しい正義感と闘争心が集約された文章を掲げる。

「すべての命は闘いつづけるために生まれたものであり、闘うこと自体が生きる証であり、意義であり、目的であって、しかし、真の人間として闘おうとした場合には、背中に正義を負わなければならず、そうなると、闘いの相手は当然悪ということになり、その最たるものである国家悪を避けては通れない」(第三章)

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2021-10-28

利他という取引

「利他」とは何か (集英社新書)

たいていの人は、利己的であることは悪いことで、利他的であることは良いことだと信じている。しかし実際はそう単純ではない。

伊藤亜紗氏(東京工業大学教授、美学)は共著『「利他」とは何か』(2021年、集英社新書) の「はじめに」で、「利他ということが持つ可能性だけでなく、負の側面や危うさも含めて考えなおすことが重要になってくるでしょう」と指摘する。

利他の「負の側面や危うさ」とは何か。伊藤氏は第一章で「特定の目的に向けて他者をコントロールすること。私は、これが利他の最大の敵なのではないかと思っています」と述べる。障害を持つ人々の心身を研究してきた同氏は、助けたいと言う思いが、しばしば「善意の押しつけ」という形をとり、障害者が、健常者の思う「正義」を実行するための道具にさせられてしまうという。

中島岳志氏(同、近代日本政治思想史)も第二章で、志賀直哉の小説「小僧の神様」などを例に取り、「哀れみによって利他的な行為をすると、その対象に対して一種の支配的な立場が生まれてしまう」と述べる。

それでは、どうすればいいのか。伊藤氏は「相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け、「聞く」こと以外にないでしょう。知ったつもりにならないこと。自分との違いを意識すること」と言う。さらに、「相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること」が必要だと強調する。

伊藤氏のこの主張はそれなりに納得いくものだ。けれども、少し視野を広げてみよう。伊藤氏のいう「相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け」る姿勢や、「自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っている」態度が大切なのは、別に利他的な行動だけに限らない。利己的な行動の場合も同じように大切だ。

利己的な行動の代表として、商取引を考えてみよう。商取引で儲けようと思ったら、お客の言葉や反応に対し、真摯に耳を傾けるのは当然のことだ。また、自分で立てた生産・販売の計画に固執せず、常にお客のニーズを取り込む余裕も欠かせない。

つまり、伊藤氏の説く利他の心得とは、ビジネスに携わる普通の人々なら誰もが承知し、日頃から実践していることにすぎない。この事実が示唆するのは、利他と利己の間には、実はそれほど大きな違いはないということだ。

中島氏も「おわりに」で、利他と利己は「常に対立するものではなく、メビウスの輪のようにつながっています」と記す。利他的な行為には、時に「いい人間だと思われたい」とか「社会的な評価を得たい」といった利己心が含まれているという。

もしそうなら、そもそも利他と利己を対立させることに無理がある。利己的行為の多くは、何かを提供する見返りに、金銭を受け取る。利他的行為は、金銭の代わりに、相手の笑顔や感謝による精神的な満足を得る。どちらも広い意味での交換であり、取引だ。

利他的行為は見返りを求めないように見えても、実は精神的満足という対価を求めている。人間は対価を求めるように進化した生き物なのだから、当然だ。それならそうと割り切ったほうが気楽だし、偽善に陥らなくて済む。必要なのは、ビジネスと同じウィンウィンの関係だ。相手のニーズに耳を傾け、親切にして自分もハッピーになればいい。

『「利他」とは何か』は、東工大「未来の人類研究センター」の「利他プロジェクト」という研究グループの成果だという。厳しい言い方をすれば、利他という言葉をあえて押し立てること自体、その背後には、意識するしないは別として、利己に対する道徳的な偏見がある。もし利他と利己が地続きのメビウスの輪であれば、そのように鼻持ちならない優越感は持てないはずだ。

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2021-06-18

『PCRは、RNAウイルスの検査に使ってはならない』〜PCR検査のまやかし


テレビや新聞は連日、都道府県の発表に基づき、新型コロナウイルスの感染者数を報道している。それを見て人々はコロナを恐れ、早くワクチンを打たなければと焦る。しかし、もしそれが大きく水増しされた不正確な数字だったら、どうするだろう。

新型コロナに感染しているかどうかは、おもにPCR検査によって判定されている(抗原検査もあるが、その割合は小さい)。PCRとはpolymerase chain reaction(ポリメラーゼ連鎖反応)の略で、ウイルスの遺伝子を大量に増やす手法だ。遺伝子の基礎研究のほか、個人識別や親子鑑定、犯罪捜査など広範に利用されてきた。

それが新型コロナの発生とともに、世界保健機関(WHO)のお墨付きにより、コロナ感染の判定手段として各国で大々的に活用されるようになった。

しかし一部の専門家は、コロナ感染の判定にPCRを使うのは問題だと指摘する。徳島大学名誉教授の大橋眞はその一人だ。大橋は著書『PCRは、RNAウイルスの検査に使ってはならない』(2020年)で、PCR検査の本質的な欠陥を以下のように指摘する。

PCRの利点として、特異性(特定の抗原を認識する性質)が99%と非常に高いことが強調される。いわば精度が高い。しかしコロナのPCR検査は、病原体のゲノム遺伝子全体のごく一部だけを調べる検査であり、この限られた部分についてのみ、高い精度で調べることができるにすぎない。

遺伝子の一部だけを高い精度で調べても、あまり意味はない。遺伝子のごく一部が他の遺伝子と類似するのは、ごくありふれた現象だからだ。大橋は「設計図図面の切れ端だけを見て、2つの建物全体が同じであるという推定をするようなもの」と喩える。

また、新型コロナウイルスなどのRNAウイルスは、変異が多いことで知られる。変異が進めば、PCR検査では検出できなくなる。2019年12月初旬にウイルスが発生したとして、2020年8月には変異率10%に達した計算で、「PCR検査ではほとんど検出できないレベル」になっていたはずだ。

ところがその後もPCR検査は続けられ、陽性者は感染者としてカウントされている。新型コロナウイルスは変異によりPCR検査では検出できないはずなので、それ以外の遺伝子を検出している可能性が高いが、その検証はされていない。

大橋は「もはや、医学的に意味のない検査を使い続けて、一体何の意味があるのだろうか。ただ何かわからないが、陽性反応が出るから良いだろうというようないい加減なことで済まされることではない」と批判する。

PCR検査の問題については最近、米国の医師ポール・アレクサンダーも別の角度から指摘している。

大臣や知事は「感染拡大」を口実に、市民の自由をいつまでも縛るつもりだ。マスク着用や対人距離の確保、外出・営業自粛といった対策の多くは、無症状者が感染源になるという説に基づき、その説の根拠はPCR検査だ。PCR検査という手法がまやかしであれば、根底から覆る。

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2021-05-17

『チョンキンマンションのボスは知っている』〜資本主義というセーフティネット


資本主義は格差を生み出したり人間を疎外したりするとして、代替的な経済システムを提案することが流行している。代替案の一つは、贈与だ。しかし贈与には、相手に精神的な負い目を負わせるという欠点がある。どうすればいいか。

文化人類学者の小川さやかは、著書『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』(春秋社)で、その答えを探る。答えは結局のところ、資本主義そのものの中にあった。

チョンキンマンション(重慶大厦)は香港の目抜き通りネイザンロードに立地する複合ビル。本書の主役であるタンザニア人をはじめ、アフリカ、南アジア、中東、中南米など世界各地から零細な交易人や難民、亡命者などが集まる場所だ。彼らはソーシャルメディアや電子マネーを駆使し、巨大な交易ネットワークを築いている。

興味深いのは、タンザニア人が築いたセーフティネットだ。日常的な助け合いの大部分は「ついで」で回っているという。香港に難民として居住するタンザニア人は、母国に残してきた家族への贈り物を偶然帰国する交易人に託して「ついで」に届けてもらう。資金がなくて香港に渡航できない者は、スーツケースのスペースに空きがある分だけ交易人に自分の商品も「ついで」に仕入れてきてもらう。

誰もが「無理なくやっている」という態度を押し出しているので、「この助けあいでは、助けられた側に過度な負い目が発生しない」と著者は指摘する。

タンザニア人たちは、「誰かは助けてくれる」という信念を抱いている。しかしその信念を支えるのは、「同胞に対して親切にすべきだ」という道徳心ではなく、多様なギブ・アンド・テイクの機会である。チョンキンマンションのボスと呼ばれるカラマは「大切なのは仲間の数じゃない、〔タイプのちがう〕いろんな仲間がいることだ」と話す。

資本主義の代替案として、メンバー相互の信頼や互酬性を育むことで「善き社会」を目的的に築こうとする「市民社会組織」がしばしば提案される。しかし香港のタンザニア人たちが築いたセーフティネットは、著者が述べるように、最先端のシェアリング経済やフリー経済の思想により近しい。

市民社会組織が道徳による解決策だとすれば、タンザニア人たちのセーフティネットは利害による解決策だともいえる。自己の利益を求める人間の本性からすれば、道徳心に頼った前者には「無理」がある。後者のほうが成功の見込みは大きいだろう。

著者はこう鋭く分析する。「逆説的に聞こえるかもしれないが、誰もが、俺たちは金儲けにしか興味がない、金を稼ぐのは良いことだ、俺たちはどんな機会も自らの利益に換えてみせると公言しているからこそ、気軽に助けを求められるのだ」

資本主義を批判する人々は、金儲けを敵視する。しかし金儲けを排除した経済・社会システムは機能しないし、多くの人を助けることができない。最善のセーフティネットとは、金儲けを肯定する開かれた資本主義である。

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2021-05-09

『人類とイノベーション』〜自由が安全をもたらす


コロナを口実に政府が経済・社会活動に対する制限を強めている。それに対する批判は最近かなり増えてはきたものの、いまだにソーシャルメディアなどで多く目にするのは、「安全のためなら自由が多少犠牲になっても仕方ない」といった意見だ。

ことわざにも「命あっての物種」というし、そういう感情は理解できる。しかし、自由を犠牲にして安全を得ようとするもくろみは、短期にはともかく、長期では決して成功しない。マット・リドレーの近著『人類とイノベーション』(ニューズピックス)を読めば、その理由がよくわかる。

現在、ほとんどの人は祖先と比べて繁栄している。欧米だけでなく中国やブラジルも含め、先例のないほど豊かになり、極貧率は史上初めて世界的に急落した。この大富裕化をもたらしたのは、イノベーションである。

リドレーによれば、イノベーションは、通常ひとつのアイデアをほかのアイデアと結びつけることによって起こる。そこではセレンディピティ(偶然の幸運)が大きな役割を果たす。だからイノベーションは、人々が自由に考え、実験し、冒険できるときに起こるし、人々が交換を行えるときに起こる。

コロナ下でのテレワークやオンライン会議も、コンピューターや通信のイノベーションなしには、そもそも実現できなかった。それを可能にしたのは自由な市場経済である。インターネットを利用した電子商取引が米国で爆発的に成長したのは、政府による過度の規制がなかったためだとリドレーは指摘する。

自由な経済がイノベーションを生んだから、コロナに対応できた。逆に言えば、コロナ対策と称して経済活動の自由を制限すれば、その分イノベーションが起こりにくくなり、危険に対処する能力が失われる。つまり、安全を確保できなくなる。

安全と引き換えに自由を売り渡せば、自由と安全の両方を失うことになる。なぜなら、何が起こるかわからない世界で安全を確保するにはイノベーションが必要であり、イノベーションは自由なしには生まれないからだ。

合理的な楽観主義者を自認するリドレーは、珍しく悲観的な雰囲気で本書を終える。「現状に甘んじている大企業の黙認、官僚主義の大きな政府、新しいもの嫌いの大規模な抗議団体」といった要因がイノベーションの欠乏を招いているからだ。

コロナに便乗した自由の剥奪は、イノベーションの欠乏をさらに悪化させる。安全が大事だと思うのなら、自由を手放してはならない。

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2021-04-25

『コロナ自粛の大罪』〜コロナ禍は人災である


経済ジャーナリストのヘンリー・ハズリットは「経済学というものはたった一つの教えに還元することができ、それはたった一つの文章で表すことができる」と述べている。たった一つの教えとはこうだ。「経済学とは、政策の短期的影響だけでなく長期的影響を考え、また、一つの集団だけでなくすべての集団への影響を考える学問である」

ハズリットに言わせれば、経済学的に見て、新型コロナに対する政府の政策は完全に落第だろう。短期的影響ばかりを見て長期的影響を考えず、一つの集団だけを気にかけてすべての集団への影響を顧みない。ジャーナリスト鳥集徹氏が医師七人への興味深いインタビューで構成した『コロナ自粛の大罪』(宝島社新書)を読むと、それがよくわかる。

まずは新型コロナについて基本的な事実を押さえておこう。本間真二郎氏(小児科医・七合診療所所長)が述べるように、「昨年(2020年)一年間の日本での死亡者は3459人です。関連死も含めると一万人から四万人ほども亡くなるインフルエンザに比べたら多くはありません」。そのうえ、PCR検査で陽性だった人は全員コロナ死とカウントされており、「純粋にコロナで亡くなった人はもっと少ない」。

今年(2021年)の死亡者は4月22日時点で6338人(東洋経済オンラインより算出)だが、夏から秋に増加ピッチが鈍る季節性からみて、今後インフルエンザを大きく上回るとは考えにくい。

しかも死亡のリスクには人によって偏りがある。高橋泰氏(国際医療福祉大学大学院教授)の分析によれば、新型コロナは要介護者や基礎疾患のあるハイリスクの人には致死率の高いウイルスだが、ほとんどの人の身体は風邪と同程度の対応で終わっているという。

高橋氏はこう述べる。「ローリスクの人が新型コロナに感染した場合、本人やその人からうつされた人が重症化や死亡に至る危険性はきわめて低いのに、その人を重症や死亡から守る、そして次の人に感染させないという名目で、隔離的処置が行われるようになりました。それによって保健所や医療機関の負担が膨大になったことが、医療崩壊的な状況を招いた一因です」

誤った基本認識に基づくコロナ対策は、社会・経済にさまざまな副作用をもたらす。

高橋氏は「ローリスクの人たちの社会活動を制限してしまうと、当然のことながら景気が悪化し、自殺者が増えてしまいます」と指摘する。過去の傾向からみて、コロナ死から三人を守るために自殺者を八人増やすことになりかねないという。

外出自粛の副作用は孤独だ。森田洋之氏(医師・南日本ヘルスリサーチラボ代表)は「実は人間の健康に一番影響があるのは孤独だということも医学ではよく知られています。健康を害する一番の要因は、タバコでも、酒でも、肥満でもなくて、孤独や孤立感」と指摘する。

和田秀樹氏(精神科医)は、飲食店の営業自粛に注意喚起する。「夜八時までしかお店が開いていないので、家飲みが増えますが、一人で飲むと止めてくれる人がいないので、酒量が増えがちです。終電を気にする必要もないので、夜眠るまで飲むようになってしまう」

とくに高齢者への影響は大きい。長尾和宏氏(長尾クリニック院長)は「閉じこもっているから、年寄りはどんどんやせ細っていく。出歩かないから疲れないし、日光にも当たらないから、体内時計がずれて不眠にもなる。眠れないと体調も悪くなるし、認知機能も低下していく」と話す。

和田氏も「おそらく五年くらいしたら、要介護者が激増するなどの影響が出てくるのではないでしょうか」と述べ、「介護財政が保たないかもしれない」と懸念する。

ある意味で高齢者以上に深刻なのは、子供への影響だ。萬田緑平氏(緩和ケア萬田診療所院長)は「子どもまでがコロナにかからないようにと、マスクや消毒をやらされているから、かわいそうですよね。免疫機能がどんどん弱くなって、何かに感染しただけで死んでしまうかもしれない」と警告する。

前出の本間氏は「子どもたちはコロナに対して最も安全な世代ですよね。二十歳未満はまだ一人も亡くなっていません」と指摘。それなのに「自粛生活によって一番危害を被っています」と批判する。

まるで当たり前のようになったマスク着用や手の消毒にも、良くない影響がある。「マスクを着け続けると酸素の取り込みが減り、二酸化炭素濃度が高くなるから、明らかに健康にはよくありません。手の消毒にしたって、皮膚を守っている皮脂や常在菌まで排除しているわけだし、手荒れの原因にもなる」。本間氏はこう警鐘を鳴らす。

現在の焦点はワクチンだ。本間氏は、ファイザーやモデルナのワクチンは「まったく新しいタイプのワクチン」であり、「とくにmRNAワクチンやDNAワクチンなどの遺伝子ワクチンを人に使うのは初めて」と注意を喚起。「病気の重症度から考えると、未知のワクチンを、リスクを冒してまで打つ必要はない」と、国民全員に打たせる勢いの政府や専門家を批判する。

前出の長尾氏は、子宮頸がんワクチンの副反応で自己免疫性脳炎になり歩けなくなった女性たちに言及し、こう警鐘を鳴らす。「そもそも科学の基本って、疑うことなんです。医療もそうです。それなのに、今回も何の疑いもなく外国からワクチンを大量に買い込んで、医者を使って人体実験しようとしている。こんな恐ろしいことをやっているのに、誰も何も言わないんです」

なぜ、このように愚かな政策しか出てこないのだろうか。一つには、政府に助言する専門家の視野の狭さがある。本間氏は「医者の使命は1%でもその病気を防ぐことです。でも、そこばかりにフォーカスしたら、他のものには目がいかなくなります」と話す。和田氏も「感染者を減らすことを目標にしている限り、どんな市民生活の制限もいとわないことになる」と指摘する。

しかし最大の問題は、政府自身の行動様式にある。

たとえば官庁の縄張り意識だ。木村盛世氏(医師・作家・元厚生労働省医系技官)によれば、コロナ対策の中心である厚生労働省のほか、大学病院は文部科学省、自衛隊ヘリによる患者搬送は防衛省、専用病棟を国有地につくるなら国土交通省、経済対策は経済産業省と管轄が異なる。厚労省は自分たちだけでできないことは各省庁に頼まなくてはいけないのに、それをしていない点で「厚労省の罪はものすごく大きい」。

それ以上に深刻なのは、自分の誤りを決して認めようとしない政府の体質だ。本書をまとめた鳥集氏はまえがきで、「コロナに対する態度を改めるなら、今が絶好のチャンスだ」と述べ、「自分たちの体面を保つために、何の罪もない飲食店や観光業などの人たちを追い詰め、未来ある若者や子どもたちにツケを回すのは、もうやめてもらいたい」と訴える。

鳥集氏が指摘するとおり、「コロナ禍は人災である」。政府を動かす政治家や官僚、専門家のもたらした人災である。彼らは無謬の神などではなく、一般の人々と同じく、過ちを犯す人間でしかない。

冒頭で引用したハズリットは、とかく人間というものは「政策の目先の効果あるいは特定集団にもたらされる効果だけにとらわれやすい」とも述べている。感染の押さえ込みという目先の効果だけにとらわれた緊急事態宣言は、その典型だろう。政府が自分たちで誤りを正さないのなら、国民がノーを突き付けるしかない。

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2021-04-16

『コロナパンデミックは、本当か?』〜狂気の計画


ドイツの感染症学者バクディとライス夫妻の共著『コロナパンデミックは、本当か?』は、世界保健機関(WHO)や各国政府、大手メディアの発するコロナ情報がいかに歪み、誤解を招くものかを丹念に述べる。

たとえば、感染を発症と同一視し、PCR検査の増加に伴う感染者数の急増を大きな脅威であるかのように伝えたこと。また、死亡者のうち、コロナウイルスに感染していたと確認された人全員を、たとえ癌で死亡した患者であっても、コロナによる犠牲者として公式記録したことなどだ。

注目したいのは、恐怖心を煽った背後に、政府の明確な意図があったことを明らかにしている点だ。機密扱いが解かれたドイツの政府文書によれば、同国のコロナ対策会議では、実際の死者数を発表しても「たいしたことがないという印象を与える」だけなので、数としては大きな感染者数を意図的にアナウンスしたという。

それ以外に、具体的な手法として①コロナによる死をゆっくりと溺れ死ぬイメージで詳細に記述する②子供たちが死のウイルスをまき散らし親を殺す危険な感染源だと人々に告げる③正式に証明されていなくても後遺症に関する注意喚起を拡散する——が挙げられていた。

著者らはこれを「狂気の計画」と呼ぶ。まさにそのとおりだろう。

ナチスに追われた哲学者ハンナ・アレントは、本書に引用されたように、「国民に不安と恐怖の念を抱かせる者は、彼らをどのようにでも操ることができる」と喝破した。政府は自分たちが正しいと考える目的のためなら、いつの時代も手段を選ばない。

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2021-03-28

大澤真幸・國分功一郎『コロナ時代の哲学』

コロナ時代の哲学

社会主義革命のチャンス?


マルクス主義の教理の一つに、恐慌待望論がある。経済恐慌が起こると、それに伴う社会の混乱に乗じて、資本家の搾取に苦しんできた労働者が革命を起こし、社会主義を打ち立てる。だから革命のチャンスである恐慌の到来を待ち望むというものだ。

1857年、米国発の恐慌が英国に波及すると、マルクスの盟友エンゲルスは、いよいよ革命が近いと期待し、株価の急落するロンドンの取引所にうきうきして通ったという

本書の目玉である対談で開陳されるのは、マルクス主義の影響が色濃い、ゆがんだ危機待望論だ。著名な論客二人は、あけすけに、あるいは遠慮がちに、新型コロナウイルス感染拡大を奇貨とした社会主義革命への期待を語る。

対談の冒頭、大澤真幸は「現在、新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大によって、日本を含む世界が未曾有の危機に晒されています」との認識を示す。

しかし、国内の死亡者は累計で九千人に近づいたが、インフルエンザでも例年三千〜四千人が亡くなり、関連死も含めると一万人に及ぶとされる。しかもコロナによる死亡者の八割近くが七十歳以上の高齢者で、二十歳代の死者は三人、十九歳以下の死亡者は一人もいない(鳥巣徹『コロナ自粛の大罪』および東洋経済オンラインによる)。

この事実に照らせば、コロナが「未曾有の危機」だという、政府の公式見解をなぞったような認識はそもそも疑問だ。けれどもここは目をつぶって、話を進めよう。

相手の國分功一郎の発言は当初、悪くない。コロナをきっかけに世の中に広まった、疫学的なものの見方は「非常に非人間的」だと警鐘を鳴らす。なぜなら「一人ひとりの人間を単なる駒と見なして、駒同士が会わないようにする、病状が悪化したら隔離することを原則とする」からだ。

ところが大澤は、せっかく國分が提示したコロナ政策の非人間性という論点を深掘りしようとせず、あらぬ方向に議論を誘導する。「世界共和国」の夢だ。

ウイルスは国境を越えて拡大するので、「自分の国だけでは解決できない、自分の国だけの解決はナンセンス」と大澤は強調する。そのうえで、コロナ危機は「世界共和国への最初の一歩」になりうると述べる。

世界共和国などつくらず、政府間の連携で十分な気もするが、これもよしとしよう。その世界共和国とは、いかなる政治経済体制になるのか。もちろん、社会主義だ。

大澤は「どんな政府も、この問題〔コロナ問題〕に対してギリギリの手を打ち続ける必要がある。そうしていく中で、気がついたら世界がすっかり変わってしまったということもあるかもしれない」と述べる。その先例として、2008年のリーマン・ショックを挙げる。

当時、経済危機を救うためとして、ゼネラル・モーターズ(GM)などの大企業や銀行に多額の公的資金が投入された。「あれほどの公的資金によって倒産を免れたということになると、大企業や銀行は、ある意味で、国有化されたに等しいわけです。国有化は、しかし、社会主義体制のやり方ではないですか」

国有化は社会主義のやり方だという大澤の指摘は正しい。しかし正しくないことが二点ある。ひとつは大澤が続けて述べた、「資本主義が延命するために、社会主義的な手法を使わざるをえなかった」という見方だ。社会主義的な手法を大々的に導入してしまったら、それはもう資本主義ではない。半社会主義とでも呼ぶべき代物だ。

正確には、米国経済はすでにリーマン・ショックの前から、政府・中央銀行と大企業・大銀行が癒着した半社会主義(縁故主義ともいう)に変質していた。リーマン・ショックはその弊害が露呈したものだ。政府と親しい企業・銀行に対する公的資金投入は縁故主義では当然の選択であり、それは資本主義の延命ではなく、縁故主義の肥大にすぎない。

大澤のもうひとつの誤りは、社会主義が資本主義に代替可能な経済体制だと楽観的に考えている点だ。それは大澤が次に述べる、ベーシックインカムに関する議論ではっきりする。

今、世界中の政府が国民に給付金を配布している。日本も一回の十万円では済まず、同じような給付を何回も、かなり長期間継続せざるをえないだろう。実質的にはベーシックインカムに近いものになる。そのアイデアを徹底させていくと、「能力に応じて貢献し、必要に応じて取る」というコミュニズム(共産主義)のスローガンに近づく。危機に対応した事実上のベーシックインカム導入により、資本主義の基本的なルールが否定されることになる。

「気づいたら『無意識の革命』が起きていた、ということがあるかもしれない」と大澤は話し、さらに一歩進めて、「無意識の世界同時革命になるかもしれません」と夢を膨らませる。

コロナが社会に良い変化をもたらすという考えには倫理的に抵抗していた國分も、大澤の怪気炎に気圧されてか、やがて「自分は、もしかしたら単に世論におびえていただけじゃないか」と頼りないことを言い出す。そしてコロナ対策として押しつけられた時短営業や外食自粛について、こんな告白をする。

実を言うと、夜の八時ぐらいには店がすべて閉まって暗くなっている街を見たとき、どこか痛快な気持ちがあったんです。これでいいじゃないか、なぜ夜遅くまで働かなければならないのか、って。

ベーシックインカムを十分配れば、「能力に応じて貢献し、必要に応じて取る」共産主義を実現させれば、誰も夜遅くまであくせく働かずに済むのに、と國分も大澤も言いたいのだろう。もし実現したら、すばらしい楽園に違いない。

けれども、それは実現不可能なユートピアだ。金をどれだけ大量に発行し配っても、社会は豊かにならない。金は食べることも着ることもできないからだ。社会が豊かになるには、品質が良く手頃で多彩な商品・サービスの生産を増やさなければならない。それが資本主義でなければ無理なことは、ソ連など旧社会主義国における市民生活の窮乏が示している。

ソ連崩壊から三十年になろうという今なお、知識人の多くが社会主義への幻想を手放さない。その哲学の貧困にはあきれるばかりだ。それに対し一般の人々は、理不尽な経済統制に苦しみながらも、起業家の助けを得て、乗り切る道を見つけていくだろう。市場経済の強靭な対応力は、この一年で誰もが目にしたところだ。

ちなみに、冒頭で触れた1857年の恐慌に続いて革命は起こらず、マルクスとエンゲルスを落胆させた。資本主義の自律的な回復力で、経済が再び成長に向かったからだ。コロナ時代の希望もまた、資本主義にある。

2021-02-21

芥川龍之介『羅生門 杜子春』

羅生門 杜子春 (岩波少年文庫 (509))
羅生門 杜子春 (岩波少年文庫 (509))

洛陽の繁栄、平安京の闇


唐の都、洛陽。金持ちの息子、杜子春は財産を使い尽くして落ちぶれ、途方に暮れていたところ、不思議な老人から膨大な黄金を与えられ、贅沢三昧にふける。朝夕押しかける客をもてなすため、杜子春は連日豪華な酒盛りを開く。こんな様子だ。

杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒を汲んで、天竺生まれの魔法使いが刀をのんで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡翠の蓮の花を、十人は瑪瑙の牡丹の花を、いずれも髪に飾りながら、笛や琴を節おもしろく奏しているという景色なのです。

シルクロードを通ってインドや中央アジアから商人や芸人が多数訪れ、繁栄を極めた唐の都らしい、エキゾチックな雰囲気がみごとに描かれている。

一方、日本の平安京。唐の都をモデルとし、天皇の威信を見せつけるため、道幅を必要以上に広大にするなど実用を無視して設計された。やがて災害や財政難で造営がストップし、荒廃する。正門である羅城門(羅生門)では、死者を捨てていく習慣までできた。クビになって行き所のない下人は、門の暗い楼の上でおぞましい光景を目撃する。

その死骸はみな、それが、かつて、生きていた人間だという事実さえ疑われるほど、土をこねて造った人形のように、口をあいたり手をのばしたりして、ごろごろ床の上にころがっていた。〔略〕ぼんやりした火の光をうけて〔略〕永久におしのごとく黙っていた。

平安京の闇を凝縮した、恐ろしい描写だ。シナと日本、二つの都市の対照的な姿を、芥川龍之介の筆力は的確に描き、物語に説得力を持たせている。

2021-02-14

アッペルバウム『新自由主義の暴走』

新自由主義の暴走 格差社会をつくった経済学者たち

政府の暴走


経済の本で何かが暴走するとき、それはたいてい、「新自由主義」「市場原理主義」「資本主義」など市場経済の側に決まっている。まるでブレーキの壊れた機関車か、狂った家畜の大群か何かのようだ。

そうした「暴走本」に、ニューヨーク・タイムズの論説委員が書いたこの本が新たに加わった。電子書籍版で検索してみるとわかるが、本文に「暴走」という言葉は出てこない。キーワードだと思われる「新自由主義」すら一度も出てこない。そもそも原題は『経済学者の時代——間違った預言、自由市場、そして社会の崩壊』であり、『新自由主義の暴走』ではない。

それでも本書の主眼は、市場経済の「行きすぎ」を批判することにあり、日本語版のタイトルは羊頭狗肉というわけではない。原題どおりの『経済学者の時代』ではおとなしすぎて売れないだろうし、本文にあろうがなかろうが、『新自由主義の暴走』というおどろおどろしい言葉をあえてタイトルに据えたのは、資本主義的に正しい判断だ。

さて、海外の経済ジャーナリストが書いた他の分厚い本と同じく、本書は興味深いエピソードが満載だ。今はコロナ戒厳令のせいでなかなかできないけれども、飲み会の席で披露するにはもってこいだろう。こんなのがある。米政府がまだ金本位制を採用していた1960年代後半、ドルの価値に不安を感じた外国政府が金との交換を求めるのに苦慮し、米国は金の試掘を検討した。ある下院議員は、核爆発を利用して金を採掘するよう提案したという(第八章)。

しかし、個々のエピソードは面白いのだが、これも類書と同じく、そこから何かを主張しようとすると、ロジックの弱さをさらけ出す。互いに矛盾していたり、一歩踏み込んだ考察が足りなかったりする。

例をいくつか挙げていこう。1960年代のジョンソン政権は英経済学者ケインズの説に従い、政府支出を急激に増加させた。同時に行った減税の効果もあり、経済は成長し、失業率は低下した。1965年1月、ジョンソンは「景気が避けられないものだとは思わない」と議会で断言し、その年の終わり、タイム誌は表紙にケインズを載せ、「史上もっとも大規模で長期にわたる、広く分配されている繁栄」を、ケインズの考えを採用したおかげとした。

また、ジョンソン政権は「貧困との無条件との戦い」を推進するため、医療保険プログラムのメディケアとメディケイド、フード・スタンプ(低所得者向けの食料費補助プログラム)、貧しい地区の学校に対する助成金を導入した。これら新しい社会福祉プログラムは「成功し、貧困を大幅に削減した」と著者アッペルバウムは称える(第二章)。

アッペルバウムはすぐ後で、「ケインズ主義の勝利は短命に終わった」ことを明らかにする。1965年の後半には、経済は過熱し始め、インフレ率が上昇していた。

ところがアッペルバウムは、ジョンソン政権の福祉政策については、成功したという評価を変えない。わざわざ注を付け、こう書く。

2014年に、当時下院予算委員会委員長だったポール・ライアン(共和党、ウィスコンシン州)は、ジョンソンの貧困への宣戦布告から50周年を記念する日に、あの戦争は「失敗」だったと言い放った。入手できる証拠は異なる結論を示唆している。

アッペルバウムが示す「証拠」とは、コロンビア大学の上級科学研究員クリストファー・ウィマーらによる2013年の論文だ。そこではたしかに、ジョンソン政権の福祉政策は貧困減少に大きな役割を果たしたと述べられている。

けれども、それだけで成功だったと主張するのは無理がある。当時貧困が減ったとすれば、ケインズ主義に基づく景気刺激策の効果を無視できないはずだ。その景気刺激策が短命に終わる失敗だったのに、福祉政策だけはまるで経済全体とは無縁でもあるかのように、成功だったと言うのはおかしい。

なにより、誰もが知るように、メディケア、メディケイドといった福祉政策の費用は現在、米政府の財政を圧迫し、破綻に追いやろうとしている。ジョンソン政権に始まった福祉政策は、今流行りの言葉でいえば、まったくサステナブル(持続可能)でなかった。それを成功と持ち上げるのは、あまりにも説得力に欠ける。

次に、反トラスト法(独禁法)をシカゴ大学の経済学者ジョージ・スティグラーが批判したことに対し、アッペルバウムは近代経済学の父といわれるアダム・スミスの言葉を持ち出す(第五章)。スミスの主著『国富論』には次のような有名な一節がある。「同業者が一堂に会することは、楽しみや気晴らしのためにさえ、めったにないが、まれに集まった場合には、会話は結局、大衆に対する陰謀か値上げのための何らかの計略になる」

独禁法を擁護するアッペルバウムにとって、スミスのこの言葉は心強いもののようだ。けれどもアッペルバウムは、スミスがすぐに続けて書いた次の言葉には、なぜか触れていない。「こうした集まりを法律で禁止しようとしても、取り締まりができないか、そうでなければ自由と公正を侵害する法律になる」

アッペルバウムは、独禁法によって連邦政府が1911年、ロックフェラー家のスタンダード石油を分割したことを高く評価する。しかし当時スタンダード社は石油価格を下げ、品質を高め、むしろ消費者の利益になっていた。事実を言えば、スタンダード社に勝てない競争相手らが連邦政府に働きかけ、分割に追い込んだのだ。

アダム・スミスが恐れたとおり、独禁法は「自由と公正を侵害する法律」になった。その標的とされたのは近年のマイクロソフトなど数多い。アッペルバウムはこうした独禁法の危険にあまりにも無頓着だ。

最後に、アッペルバウムは元連邦準備理事会(FRB)議長のアラン・グリーンスパンについて、金融規制に反対としたと批判する(第十章)。大手銀行による住宅ローンの拡大やデリバティブによる投機を放置したことなど、細かな部分では正しいかもしれない。けれども、大きな構図を見落としている。

グリーンスパンは政府傘下の中央銀行総裁として、経済に巨額の資金を注入し続けた。お金とは本来、政府が無からつくるものではなく、市場で個人間の取引を通じて自然に選ばれる。そうして選ばれた代表的なお金は金(きん)だ。米国が半世紀前に金本位制をやめるまで、金はお金としての地位を保っていた。グリーンスパン自身、若い頃は金本位制を支持していたことで知られる。

しかし中央銀行総裁となったグリーンスパンは、裏付けのないマネーを市場に大量に注ぎ込んだ。現代ではあまりにも当然の行為なので気づきにくいが、本来政府とは無縁に成立する金融市場に対し、これ以上の介入はない。グリーンスパンは何もしなかったのではなく、やりすぎたのだ。

過剰なマネーの注入はバブルを生み、その崩壊から経済危機を起こした。不動産や株式の値上がりによって格差拡大を招いた。さまざまな規制や課税は経済から活力を奪い、貧困の原因となっている。

今の経済・社会問題をもたらしたのは、市場経済の暴走ではない。政府の暴走だ。アッペルバウムのこの本からは、残念ながら、その真実を知ることはできない。

2021-02-13

スチーブンソン『宝島』

カラー名作 少年少女世界の文学 宝島


金貨と銀貨の物語


『宝島』といえば、膨大な財宝だ。「山のような金貨と黄金の箱が積み重ねてあり、たき火の薄い煙をとおして、きらきらと輝いていた」と、昭和の懐かしさあふれる「カラー名作・少年少女世界の文学」版(近藤健訳)では記す。カラー挿絵で描かれた金貨の山の美しさは格別だ。

スチーブンソンがこの物語を出版したのは、金貨が日常でお金として使われていた19世紀後半。今では書けないだろう。金貨は貴金属店や博物館でしかお目にかかれないし、お札はインフレで価値を失う。苦労して見つけた札束の山が五十年前の半分以下の値打ちしかないのでは、話が盛り下がる。

『宝島』の時代は金貨だけでなく、銀貨も使われた。悪役シルバー船長のおうむは「八銀貨! 八銀貨! 八銀貨!」とけたたましく叫ぶ。銀貨をぎっしり積んだ難破船の引き揚げを見ていて覚えたという。ユーモラスだがまがまがしい叫びは、「五百円玉!」ではさまにならない。

主人公の少年ジムは金貨の山をより分ける。欧州の国々のものばかりか、東洋のものも混じっていた。「このよりわける仕事ほど楽しみながらした仕事はないと思う」とジムは語る。金貨は国によってデザインは違っても、重さ当たりの価値は共通だ。

他国のお札を日々揺れ動くレートでいちいち換算しなければならない現代より、真にグローバルな通貨の時代だったといえる。この物語のスケールの大きさは、そんなところからも来ている。

2021-01-30

太宰治『走れメロス 太宰治 名作選』

走れメロス 太宰治 名作選 (角川つばさ文庫 F た 1-1)

名作は児童書レーベルで読むのがいい。絵が多くて楽しいし、活字は読みやすく、解説もわかりやすい。本屋や図書館でまとめて置いてあるので探しやすく、買っても安い。この太宰治アンソロジーは角川つばさ文庫版。夕陽を背景に駆けるメロスがかっこいい。

その「走れメロス」は、メロスが本人に断りもなく親友を王への人質に差し出すのがどうかと思うけれど、名文につい酔ってしまう。齋藤孝氏の解説によると、太宰治は、口で話した文章を奥さんに書き取ってもらうなど、時には実際に語って作品を書いていたそうだ。

「申し上げます。申し上げます。」で始まる「駈込み訴え」も、声に出して読みたくなる日本語だ。イエスに愛されなかった商人ユダの悲しみ。聖書からベニスの商人、転売ヤーに至るまで、商人はいつの時代も蔑まれる。

そして何といっても、「眉山」。ただのユーモア短編かと思って読み進めると、結末で一転して胸を突かれ、みごとな伏線に驚く。

2021-01-24

池上彰・的場昭弘『いまこそ「社会主義」』

いまこそ「社会主義」 混迷する世界を読み解く補助線 (朝日新書)

いまこそ無政府主義


社会主義をもてはやす昨今の風潮を苦々しく思っている者にとって、『いまこそ「社会主義」』(池上彰・的場昭弘共著、朝日新書)などという本の出版は、それだけでもう、血圧を上げるのに十分である。しかもその共著者の一人が、知名度絶大なジャーナリストときては、「ああ、これでまた悪の思想が日本に広まってしまう……」と、リバタリアンの無名週末ライターは無力感にとらわれそうになる。

しかし、本は読んでみないとわからないものだ。この対談本で、かねてマルクスに入れ込んでいる有名ジャーナリスト池上彰の発言に目新しさはないのだが、その一方で、お茶の間ではあまり有名でない(失礼)大学教授、的場昭弘の主張がすこぶる面白い。

的場はすでに多くの著書を出しており、名前は以前から知っていた。けれども、その多くが『復権するマルクス』だの、『マルクスだったらこう考える』だの、悪の教祖マルクスを持ち上げるようなタイトルばかりで、読む気にならなかった。実際、的場はマルクス経済学の専門家(神奈川大学副学長)であり、マルクスを否定するようなことを言うわけがない。

ところが今回初めて知ったのだが、的場は単純なマルクス礼賛者ではない。マルクスが激しく批判した、フランスの無政府主義者プルードンについても高く評価する。あとで触れるように、プルードンに関する著作も最近立て続けに出版している。

さて今回の対談本で的場は、19世紀に社会主義が形成された際、大きく二つの流れがあったと指摘する(第二章)。経済の自由を優先させる流れと、国家権力の介入を優先させる流れだ。

国家優先は、ルイ・ブランやエティエンヌ・カベーなどによる主張であり、一般に知られているマルクスが提唱した社会主義も、国家を優先するほうに属する。国家的中央管理によって規制していく方向だ。その考え方の淵源には、マルクスの盟友エンゲルスの発想があったという。

これに対し経済の自由優先は、プルードンやピエール・ルルー、フェリシテ・ド・ラムネーなどの社会主義者が考えた。プルードンはアナキスト(無政府主義者)と紹介されることが多いが、人々の自由な運営を重視した社会主義者でもあったと的場は述べる。

しかし、この自由主義的な社会主義は1840〜50年代にかけて力を失っていく。その最大の原因は、コロナ騒動の今から考えると興味深いことに、コレラの流行だった。防疫のために国家管理が強化され、フランスではルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)、ドイツではビスマルクといった強権主義者が国家権力を握っていく。

社会主義の理論でも最終的に力を持つに至ったのは、国家主義的な社会主義だった。その典型が、1917年のロシア革命で誕生したソ連だ。ソ連はその後崩壊し、今では反面教師のような国になってしまった。「肥大化した国家権力がわれわれの自由を奪うからです」と的場は正しく指摘する。

そのうえで的場は「理論としてはもっと違う社会主義もありえた」として、経済の自由を重視したプルードンの思想に注意を喚起する。

プルードンはマルクスのライバルで、マルクスとまったく違う社会主義を提唱した。それは中央集権国家がなく、小さなアソシアシオン(団体。営利・非営利を問わない)に分かれて、それぞれが水平的に民主的合意形成をしていく社会主義である。そこには国家権力がそもそも想定されていない。「言い方を換えれば、これはアナキズム(無政府主義)というやつです」

プルードンが目指した社会主義は、ソ連が体現したものとは真逆のものだった。「だからこそマルクス、エンゲルスたちはアナキストを大変恐れて、アナキスト的な社会主義を嫌っていた」と的場は解説する。

それにしても無政府主義とは、国家権力を排除することといい、国家主義的な社会主義を信じるマルクスやエンゲルスから嫌われたことといい、まるで自由放任的な資本主義のようではないか。じつは、ある意味でそのとおりなのだ。的場はここで驚くべき発言をする。

アナキストの社会主義は、一方で新自由主義に近いところがあるんです。国家の関与を極力否定しますからね。(強調は引用者)

的場はすぐに「新自由主義は資本家の利益を中心に置き、アナキストの社会主義は民衆の利益を大事にする」と両者の違いを強調するものの、国家関与の否定という共通点の指摘は、大胆であり鋭い。自分が共感を寄せる無政府主義と、忌み嫌っているだろう新自由主義の類似を率直に語る姿勢にも好感が持てる。

的場は、プルードンを正面から論じた『未来のプルードン』(亜紀書房、2020年)の前書きで、マルクスも若い頃は、プルードンと同じく国家権力の解体を目指していたと述べたうえで、「プルードンを批判するあまり、人間分析が不十分になり、機械論的な唯物論の罠にはまってしまった」という。マルクスを手放しに称賛せず、その過ちをきちんと指摘している。

また、マルクスがプルードンを批判した『哲学の貧困』の新訳版(作品社、2020年)でプルードンの思想について解説し、こう述べる。「ソ連崩壊とともに、国家権力を肥大化させたマルクス主義が崩壊したことにより、〔プルードンが唱えた〕労働者参加型、垂直型ではなく水平型の連合的、相互主義的社会主義という概念が求められるようになってきた」(第三部)

この分析は、コロナ騒動の現在によくあてはまる。今回の対談本に戻ろう。コロナ騒動をきっかけに、感染症の流行に対処するには国家権力による統制が必要との見方が増えている。だが、それは「あまりにも単純」だと的場は異を唱え、「むしろ、下からのアソシアシオン的なあり方のほうがいいのではないかという議論も出てきます」と語る(第二章)。

的場が述べるとおり、ロックダウン(都市封鎖)をした欧米では、強権に対する反動としての民衆運動が盛り上がっている。日本では対応が原則として地方に委ねられているほか、民衆が自分で注意して、国家による至上命令を避けさせている。結果として、死亡者数はロックダウンを行った欧米よりも低く抑えられている。

コロナについて、的場はさらに踏み込んだ発言をする(第三章)。コロナ禍によって、戦争でもないのに鎖国をし、あたかも戦争状態のようになった。海外に行けないし、海外からも来ない。「こういう状態をつくることを政府に自由にさせていいのか」

的場の住む静岡県では、県境で、神奈川県の人は来ないでくれ、と言っていたという。このままでは排外主義がどんどん広がり、たとえば海外からの供給が減ったマスクを国産にしても、それを作ったその町でしか使えないことになる。限られたマスクをどこかが先に使ってしまえば、内乱状態の争奪戦にもなってしまう。

「そんな争いをやめて、むしろ交易を拡大して国交の扉を閉ざさないで、外交努力で何とか協力して切り抜ける、ということも考えていく必要があります」。このまっとうな主張は、ほとんど自由主義者(リバタリアン)と言っていい。

的場の主張にすべて同意できるわけではない。それでも本書は、リバタリアンにとって貴重な示唆に富む。国家主義的な社会主義ではなく、無政府主義的な社会主義(あるいは無政府主義そのもの)を高く評価するのがミソなのだから、タイトルは『いまこそ「社会主義」』ではなく、『いまこそ無政府主義』のほうがふさわしかった。それじゃ売れないか。

2021-01-16

グレーバー『ブルシット・ジョブ』

ブルシット・ジョブの犯人


先日発表された「紀伊國屋じんぶん大賞2021」で、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)が一位に選ばれた。四百頁を超す大冊であるにもかかわらずベストセラーにもなった。それだけ読者の共感を集めたということだろう。

ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論

たしかに、この本で取り上げられる、さまざまな腹立たしい、あるいは情けない「クソどうでもいい仕事」には、誰しも思い当たるふしがありそうだ。けれども結局のところ、そうした「クソどうでもいい仕事」を生み出しているのは何なのだろうか。

訳者の一人である大阪府立大学教授の酒井隆史(社会思想)は、講談社現代新書ウェブサイトの2020年8月5日付記事(「なぜ『クソどうでもいい仕事』は増え続けるのか?」)で、「現在の金融化した資本主義システムが作動するとき、必然的に、この壮大な『ブルシット機械』も作動をはじめる」と述べる。「現在の金融化した」という限定付きではあるものの、ブルシット・ジョブを生む原動力は「資本主義システム」だという。

また、経済思想家の斎藤幸平も「資本主義に緊急ブレーキを!」と題する同じサイトの記事で本書に言及し、ブルシット・ジョブを批判している

どうやらブルシット・ジョブの犯人は資本主義のようだ。

ところが、そう思って本書を読み始めると、いきなり第一章の冒頭から意外な記述に出くわす。著者の人類学者グレーバーは、ブルシット・ジョブの「ある典型的な事例」を紹介するのだが、その事例というのが、ドイツ軍の下請業者の話なのである。

その会社では、たしかにバカバカしい無駄な仕事をやっている。兵士が兵舎の隣の部屋に移る際、わざわざレンタカーで出かけて行き、パソコンを取り外し、梱包し、物流業者に部屋まで運んでもらう。部屋に着いたら開封、設置。書類に記入し、署名をもらい、レンタカーで帰宅する。「兵士が自分でパソコンを五メートル運ぶかわりに、二人の人間が合わせて六時間から一〇時間も運転して、書類を一五枚も埋めて、四〇〇ユーロという額の血税が浪費されている」という。

あれれ、「クソどうでもいい仕事」を生むのは資本主義という話かと思ったら、軍隊の話ではないか。軍隊は政府の一部門であり、自由な市場経済に基づく資本主義とは関係ない。

すると著者は急いでつけ加える。この逸話は、軍事的官僚手続きのバカバカしさにまつわる古典的な事例とは違う。なぜならこの逸話で、実際に軍隊に属して働いている人間はほとんど誰もいない。厳密にいえば、かれら全員が民間部門の一員なのだ。昔と違い、今の軍隊は通信、装備輸送、人事といった部門を民間に外部委託している。この逸話が示すとおり、「私有化(民営化)は〔略〕それ特有の、しばしば、はるかに体裁の悪い多様な狂気を生み出している」と。

なるほど民間企業でも官僚主義がはびこることはある。いわゆる大企業病だ。しかし大企業病が治らなければ、やがて市場から淘汰される。官僚主義が招く不効率のせいで競争相手に比べサービスが低下したり、値段が高くなったりして、顧客が離れてしまうからだ。だから、たいていの民間企業では官僚主義がそこまで悪化しないうちに自浄作用が働く。

もし自浄作用が働かないとしたら、それは官僚主義にうつつを抜かしていても、顧客に逃げられる心配がないからだ。そんな心の広い顧客がいるだろうか。いる。政府だ。

政府と企業の契約はたいてい、何らかの政治的理由で決まる。だからサービスの質が悪かろうと、値段が高かろうと、契約を打ち切る理由にはならない。さきほどの事例で、無駄な作業で血税を浪費してもドイツ軍から契約を切られないのは、契約が経済的理由によるものではないことを逆説的に物語る。

そう考えると、ブルシット・ジョブを生むのは、市場原理に基づく自由な資本主義ではなく、政府と企業の政治的癒着ではないだろうか。

読み進むにつれ、その疑念は確信に変わる。

著者がブルシット・ジョブの例として挙げるのは、ロビイスト、政策アナリスト、企業の顧問弁護士、ヘッジファンド・マネージャー、プライベート・エクイティ・ファンドの経営者、マーケティングの教祖、広報調査員、電話勧誘員などだ。なんとなく、いかにも現代資本主義らしい職業のようだ。

けれどもよく見ると、その多くは政府と密接に関係する仕事だ。ロビイストや政策アナリストは言うまでもないし、企業の顧問弁護士もその仕事の多くは政府の規制や税務に関する相談だろう。著者グレーバーも「企業コンプライアンスのような産業全体が、政府による規制がなければそもそもいっさい存在しないであろう」(第五章)と述べる。

とりわけ著者がブルシット・ジョブの「範例」とみなすのは、金融業である。複数の巨大国際銀行にリスク管理担当として雇用されてきたサイモンという人物の「控えめな見積もり」によれば、「銀行の六万人のうちの八〇%が不必要」(同)だったという。

だが金融業は、政府とのつながりが最も強い産業の一つだ。さまざまな規制を受ける一方で、保護によって守られてもいる。普通の企業が経営危機に陥っても政府が税金で救ってくれることはめったにないが、銀行ならたいてい助けてもらえる。万が一、破綻しても、預金は公的な預金保険で守られ、預金者に迷惑はかけない。

これでは少しでも経営の無駄を削って競争に勝とういう気にはならないだろうし、その必要もないだろう。逆に、金融業が一般の産業並みに競争にさらされていれば、あきれるような無駄を放置する余裕はないはずだ。

著者グレーバーも「競争の激しい市場においては、不必要な労働者を雇い入れる資本家たちは生き残りの見込みがない」(同)と認める。

そうだとすれば、ブルシット・ジョブの原因はいったい何か。ここで著者は、それは資本主義だろうという先入観を完全に打ち砕く。

もしブルシット・ジョブの存在が資本主義の論理に逆らっているようにみえるとすれば、ブルシット・ジョブの増殖に対するただひとつのありうる説明は、いまのこのシステムが資本主義ではないからということになる。あるいは少なくとも、アダム・スミスやカール・マルクス、さらにいえばルートヴィヒ・フォン・ミーゼスやミルトン・フリードマンの著作から認めることのできるような資本主義ではないということになる。(同。強調は引用者)

ブルシット・ジョブを生んでいるのは資本主義ではない。少なくとも「新自由主義」の元凶とされるミーゼスやフリードマンが語るような、自由放任的な資本主義ではないと著者は言い切っている。そしてブルシット・ジョブを生む今の経済体制について、さらにこう述べる。

そこでは経済の命法と政治の命法とが大幅に融合をはじめているがゆえに〔略〕資本主義とはまったく異なっているということになる。たしかに、多くの点で、それは古典的な中世封建制に類似している。貴族や封臣、従者たちからなるヒエラルキーをはてしなくつくりだす傾向も同じである。(同)

ブルシット・ジョブの本当の犯人は近代的な資本主義ではない。中世封建制にも似た、経済と政治が融合した体制なのだ。その体制の名前を著者は記していないが、他の専門家からは「縁故主義」「縁故資本主義」「政治資本主義」などと呼ばれているものだろう。

そうだとすれば、ブルシット・ジョブをなくすには、「経済に対する政治の介入を排除し、近代的な資本主義を取り戻せ!」と叫ばなければならないはずだ。ところが、本書がせっかくベストセラーになっても、賞をとっても、そんな声はどこからも聞こえてこない。グレーバー自身、そこまで踏み込んではいない。

けれども読む人が読めば、本書の主張は政府の経済介入の縮小と自由な資本主義の擁護に行き着かざるをえないことに気づくはずだ。グレーバーは第七章でベーシックインカム(最低所得保障)の導入を提唱しているが、その目的は「官僚制の規模の大幅な縮小」である。もっとも、ベーシックインカムが官僚制の縮小につながるとは思えない

アナキストを自認する著者グレーバーには今後、もっと思索を深めてほしかった。残念ながら彼は昨年9月に急逝し、その望みはもうかなわない。

2020-12-30

池田清彦『環境問題の噓 令和版』

科学は多数決で決まらない


著者 : 池田清彦
エムディエヌコーポレーション
発売日 : 2020-10-06

菅義偉首相は10月に行った所信表明演説で、温室効果ガスの排出量を2050年までに実質ゼロにする目標を掲げた。その方針の前提とされるのは「地球は温暖化しており、それは代表的な温室効果ガスである二酸化炭素(CO2)の増加による」という説だ。

この説はメディアを通じ、絶対に正しい「常識」として通用している。けれども、その「常識」はほんとうに正しいのか。本書は疑問を投げかける。

メディアでは最近、台風の勢力が強くなり、数も多くなり、被害も甚大になったのは温暖化のせいだと喧伝する。これに対し著者の池田清彦氏は「台風の数はこの半世紀を通じて微減傾向にあるし、勢力も1960年代や70年代のほうが強かった」と、気象庁のデータを示しながら反論する。

20世紀後半になって地球の温度が急激に上がったことを示す、ホッケースティック型の有名なグラフがある。米気象学者マイケル・マンが作成したもので、 温暖化CO2犯人説の有力な根拠の一つとされてきた。

ところが2019年8月、グラフはデタラメだと批判したカナダの元大学教授ティム・ボールをマンが名誉毀損で訴えた裁判で、マンは完全敗訴した。被告が求めた、マンがグラフを作成するために使用した原データを開示せよ、という請求を拒んだことが、敗訴の大きな理由だった。

池田氏はこの一件を紹介し、「もともと捏造したのだから、原データを開示できるわけがない」と述べたうえで、「この裁判も日本のマスコミ(少なくとも朝日新聞やNHK)は全く報じなかった」とメディアの姿勢を批判する。

温暖化そのものに関する池田氏の議論には、多数派から異論もあることだろう。しかし次の指摘は、間違いなく問題の本質を衝いている。

政治的な決定は多数決によって決まる。科学的事実は多数決によっては決まらないから、ここには必然的に齟齬が生じることになる。

そして「一度始めてしまった政策が、新たに判明した科学的事実に整合的でないことが分かったとしても、この政策はなかなか廃絶されない」。問題の根元には政治による科学の利用があることを、池田氏は見抜いている。

本書は、物々交換のすすめなど賛同できない主張もあるけれども、多数派の「常識」に流されないことの大切さを教えてくれる。

2020-12-20

高杉尚孝『論理的思考と交渉のスキル』

タフ・ネゴシエーターは優しい


交渉に従事する人の中には、交渉プロセスの本質を「いかに相手を欺いて、自分のみの利益を確保するか」と信じている向きもある。しかし、それは間違った思い込みだと著者は指摘する。良い交渉とは、「自分と相手方、双方の満足度が高まる交渉のこと」(第一章)という。


著者のこの指摘は、経済学の原理からも正しい。そもそも取引とは、互いに利益になるときしか成立しない。Aさんはリンゴを手放してオレンジを手に入れたいと思い、Bさんはオレンジを手放してリンゴを手に入れたいと思ったとき、初めて取引が成立し、双方がハッピーになる。

「弱肉強食の世の中で、双方の満足度を高めるなんて、単なる理想論だ」と思うかもしれない。それは違う。もし買い手がつねに騙されたと感じたら、売り手から離れていってしまうだろう。「うちにはどうせ一見客しか来ないから、長期的な視野などいらない」と考えても、悪い噂が流れて客足が途絶えるだろう。

だから「単なる理想論ではなく、実利的にも、双方の満足度を高めることを念頭においた交渉が求められるのです」(同)と著者は強調する。

そうだとすれば、優秀な交渉人(タフ・ネゴシエーター)に求められる資質も、一般に流布される「絶対に譲歩しない頑固なネゴシエーター」のイメージとは違ってくる。

頑固を通すことによって、もしかしたら相手が根負けし、短期的には得をするかもしれない。しかし譲歩した側は将来、何かしらの形で仕返ししてくる恐れがある。これは良い交渉ではない。

ネゴシエーターに求められる「タフさ」とは、「双方に全く譲歩の余地がないように思われる交渉においても、粘り強く考え続け、双方が歩み寄れる提案を搾り出す柔軟な思考力を意味するのです」と著者は述べる(第六章)。

探偵フィリップ・マーロウのせりふではないが、本当にタフな交渉人とは、相手の満足度を思いやる優しい人間なのだ。

「交渉が相手を欺いたり、根負けさせたりすることだとしたら、とても自分にはできない……」。そう悩む心優しい人を、この本は元気づけてくれる。

2020-12-19

ケルトン『財政赤字の神話』

経済を悪化させるMMT


最近話題の現代貨幣理論(MMT)によれば、政府の財政赤字はインフレをもたらさない限り問題ではない。したがって財政危機が叫ばれる米国でも日本でも、政府はインフレが脅威になるまでは財政支出をさらに拡大し、国民のために役立てることができるし、そうすべきだという。

しかし、一部の人々を熱狂させているこの主張は、正しくない。MMTの第一人者といわれる著者が持論を述べた本書に基づき、その理由を述べよう。

著者によれば、政府が支出を賄うためには、増税も借り入れもする必要はない。お金は中央銀行がコンピューターを使って銀行口座の預金を増やし、必要なだけ作り出すことができるからだ。この事実は正しい。けれども、何の問題も起こさないかといえば、そんなことはない。

著者自身が用いるバスケットボールの例(第一章)で考えるとわかりやすい。選手がスリーポイントラインの外側からシュートを決めれば、チームは3点を獲得する。このとき点をつけるスコアキーパーは、どこからも点を調達してくる必要はない。あたかも中央銀行が無からお金を作り出すように、単にスコアボードの数字を修正し、増やすだけだ。

著者はここでたとえ話を終える。しかしMMTの主張を正確に表現するには、これだけでは十分でない。

実際のバスケットボールでは、選手がゴールを決めない限り、スコアキーパーが点を増やすことはない。ところがMMTは、中央銀行が必要なだけお金を増やすことを認める。バスケットボールにたとえれば、スコアキーパーが「必要」と考えれば、いつでも点を増やせるようなものだ。

A高校とB高校が95対100で競っている試合で、もしスコアキーパーが「両チームに5点ずつ増やしてやろう」と思いつき、突然100対105にしたら、選手も観客も面食らい、戸惑うだろう。それでもこの場合、点差は5点のままだから、まだしも問題は小さい。

けれども、もしスコアキーパーが「A高校のチームには大物政治家の息子がいるから、10点増やしてやろう」と考え実行したら、105対100で逆転してしまう。これでは試合は滅茶苦茶だ。

そして現実の経済でも、中央銀行が無から生み出したお金は、社会の全員に平等に行き渡ることはない。政治的コネの強さにより、つねに不平等に分配される。

その事実は著者自身、こう認めている。「あらゆる財政赤字が幅広い国民の利益になるわけではない。財政赤字は毒にも薬にもなる。ほんのひと握りの層を富ませ、お金と権力のある人々の豪華ヨットを新たな高みに浮上させる一方、数百万人を置き去りにすることもある」(第四章)

そのうえで著者は、医療、教育、公共インフラなどへの投資を通じ、財政赤字を低所得層や中所得層に手厚く分配するよう求める。しかし、かりにそれが政治的に可能だとしても、経済に生じる問題は解決しない。

バスケットボールのたとえを思い出そう。スコアキーパーがA高校をひいきする理由が「大物政治家の息子がいるから」ではなく、たとえば「貧しい家庭の子供が多くてかわいそうだから」であっても、勝手に点を増やせば、試合が台無しになることに変わりはない。

試合がまともに成立するためには、その理由にかかわらず、スコアキーパーに勝手に点を増やさせてはならない。同様に、経済が正常に機能するためには、政府・中央銀行に勝手にお金を増やさせ、政治的理由によって分配させてはならない。

誰がどのような商品・サービスと引き換えに、どれくらいのお金を手に入れるのが経済的に適切かは、政府には判断できない。それを導くことができるのは、無数の人々が生産者、消費者として参加する自由な市場取引だけだ。

著者は「すべての国民に質の高い医療を提供する。すべての労働者に十分かつ適切な高等教育や職業教育を提供する。低炭素化ニーズに対応した質の高いインフラを整備する。あらゆる人に心地よい住居を確保する」(第八章)といった理想の経済を思い描く。

けれどもそれを実現するには、市場経済が十全に機能しなければならない。政府が金融と投資に介入すればするほど、市場経済の働きは妨げられ、その結果、消費者のニーズに応じた多様な医療、教育、インフラ、住居の供給は困難になる。

すでに日米政府は長期にわたる金融・投資への介入で市場機能を阻害し、バブルやそれに伴う格差拡大、庶民の生活水準低下といった弊害をもたらしている。MTTはそれに歯止めをかけるどころか、火に油を注ぎ、弊害を悪化させるだけだろう。

2020-11-21

宇野重規『民主主義とは何か』

自由が脅かされるとき

今の社会では、民主主義と自由主義は同じようなものだと、何となく信じられている。だから「自由民主主義(リベラル・デモクラシー)」という言葉もあれば、「自由民主党」と堂々と名乗る政権政党もある。しかし、民主主義と自由主義が似たようなものだという考えは、正しくない。本書を読めば、その事実を知ることができる。

著者は本書で、ドイツの法学者・政治学者であるカール・シュミットの考えを紹介する。シュミットはその思想がナチスに利用されたとして批判されるけれども、民主主義に対する問題意識には鋭いものがあった。

シュミットは、自由主義と民主主義を明確に区別した。両者は本質的に異なり、これを安易に同一視することが、混乱を生み出しているとシュミットは主張した。

シュミットによれば、民主主義の本質は「同質性」である。同質性があるからこそ、民主主義においては、治者と被治者の同一性がいえる。逆に言えば、民主主義の同質性を維持するためには、「異質なるものの排除あるいは殲滅」が必要だという。

これに対し、自由主義の本質は「討論」である。多様な意見による討論を重視する議会主義は自由主義に属するものであって、民主主義ではない。議会主義ではしばしば公開性と権力分立が強調されるが、これらも自由主義的な理念であり、民主主義とは無関係だとシュミットは言う。

シュミットはさらに議論を進め、だから民主主義は議会主義なしにも存在しうるし、むしろ指導者が国民から喝采を浴びる独裁と結び付くとまで述べる。著者は「今日の目からすれば、これはあまりに極端な議論であり、危険な暴論」と急いでストップをかけるが、民主主義と自由主義の矛盾を正しく指摘した思想家は、シュミット以前にもいた。

フランス革命期の政治家・批評家バンジャマン・コンスタンは、ルソーの人民主権論を批判し、こう論じた。仮に人民が主権者となるからといって、その下での統治が必ず良いものになるとは限らない。問題は、誰が主権者になるかではなく、誰が主権者であるにせよ、その主権の範囲ではないか、と。

主権の力が強大になり、その及ぶ範囲が拡大すれば、どうしても個人の自由や権利が侵害される。そうだとすれば、主権の担い手ばかりを論じているのではなく、主権の力に外から枠をはめることが重要ではないか。民主主義の下でも、個人の自由は侵害されることを警戒すべきではないか。自由主義者のコンスタンはそう説くのである。

「多数者の決定によって、少数者の権利がいかに容易に侵害されるかを知っている現代人の私たちとしては、コンスタンのルソー批判に説得力を感じざるをえません」という著者のコメントに、まったく同感である。

著者自身は、民主主義の課題を認識しながらも、その未来を信じているようだ。それは甘いのではないかと感じるけれども、民主主義に対する批判を公平に紹介した本書の価値を減じるものではない。コロナ対策を名目に、民主主義国家によって個人の自由が脅かされる今、本書によって民主主義と自由の関係をあらためて学んでおきたい。

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