たいていの人は、利己的であることは悪いことで、利他的であることは良いことだと信じている。しかし実際はそう単純ではない。
伊藤亜紗氏(東京工業大学教授、美学)は共著『「利他」とは何か』(2021年、集英社新書) の「はじめに」で、「利他ということが持つ可能性だけでなく、負の側面や危うさも含めて考えなおすことが重要になってくるでしょう」と指摘する。
利他の「負の側面や危うさ」とは何か。伊藤氏は第一章で「特定の目的に向けて他者をコントロールすること。私は、これが利他の最大の敵なのではないかと思っています」と述べる。障害を持つ人々の心身を研究してきた同氏は、助けたいと言う思いが、しばしば「善意の押しつけ」という形をとり、障害者が、健常者の思う「正義」を実行するための道具にさせられてしまうという。
中島岳志氏(同、近代日本政治思想史)も第二章で、志賀直哉の小説「小僧の神様」などを例に取り、「哀れみによって利他的な行為をすると、その対象に対して一種の支配的な立場が生まれてしまう」と述べる。
それでは、どうすればいいのか。伊藤氏は「相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け、「聞く」こと以外にないでしょう。知ったつもりにならないこと。自分との違いを意識すること」と言う。さらに、「相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること」が必要だと強調する。
伊藤氏のこの主張はそれなりに納得いくものだ。けれども、少し視野を広げてみよう。伊藤氏のいう「相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け」る姿勢や、「自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っている」態度が大切なのは、別に利他的な行動だけに限らない。利己的な行動の場合も同じように大切だ。
利己的な行動の代表として、商取引を考えてみよう。商取引で儲けようと思ったら、お客の言葉や反応に対し、真摯に耳を傾けるのは当然のことだ。また、自分で立てた生産・販売の計画に固執せず、常にお客のニーズを取り込む余裕も欠かせない。
つまり、伊藤氏の説く利他の心得とは、ビジネスに携わる普通の人々なら誰もが承知し、日頃から実践していることにすぎない。この事実が示唆するのは、利他と利己の間には、実はそれほど大きな違いはないということだ。
中島氏も「おわりに」で、利他と利己は「常に対立するものではなく、メビウスの輪のようにつながっています」と記す。利他的な行為には、時に「いい人間だと思われたい」とか「社会的な評価を得たい」といった利己心が含まれているという。
もしそうなら、そもそも利他と利己を対立させることに無理がある。利己的行為の多くは、何かを提供する見返りに、金銭を受け取る。利他的行為は、金銭の代わりに、相手の笑顔や感謝による精神的な満足を得る。どちらも広い意味での交換であり、取引だ。
利他的行為は見返りを求めないように見えても、実は精神的満足という対価を求めている。人間は対価を求めるように進化した生き物なのだから、当然だ。それならそうと割り切ったほうが気楽だし、偽善に陥らなくて済む。必要なのは、ビジネスと同じウィンウィンの関係だ。相手のニーズに耳を傾け、親切にして自分もハッピーになればいい。
『「利他」とは何か』は、東工大「未来の人類研究センター」の「利他プロジェクト」という研究グループの成果だという。厳しい言い方をすれば、利他という言葉をあえて押し立てること自体、その背後には、意識するしないは別として、利己に対する道徳的な偏見がある。もし利他と利己が地続きのメビウスの輪であれば、そのように鼻持ちならない優越感は持てないはずだ。
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