2021-10-19

新しい資本主義、古い縁故主義

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岸田文雄首相は今月、就任後初めての所信表明演説を行い、「新しい資本主義」を実現すると強調した。しかし、自信満々打ち出された「新しい資本主義」の正体は、新しくもなければ、資本主義ですらない。

なぜ今、「新しい資本主義」を目指さなければならないのか。岸田首相によれば、その一つの理由は、「新自由主義的な政策」が「富めるものと、富まざるものとの深刻な分断を生んだ」といった弊害が指摘されているからだという。

「新自由主義」とは定義のあいまいな言葉だが、世間一般のイメージに従い、政府が市場経済に介入しない「野放しの資本主義」だとしておこう。たしかに、「野放しの資本主義」の下では、結果の平等は保証されないから、「富めるものと、富まざるもの」との格差は生じる。

けれども、その格差が「深刻な分断」ととらえられ、社会問題となることはない。「野放しの資本主義」は、社会の豊かさを底上げし、貧困をなくす力を持っているからだ。近代の産業革命以降、世界から貧困が大きく減り、今もグローバル資本主義の下で減り続けている。これは「トリクルダウン理論」などではなく、紛れもない事実だ。

経済上の「深刻な分断」を生んだのは、「野放し」の自由な資本主義ではない。政府だ。政府が「貧困をなくす」「安心な社会を作る」「経済を成長させる」など耳に心地よいスローガンを掲げて経済を縛り、自由を奪った結果、資本主義という鶏は健康を害して痩せ細り、豊かさという卵を生まなくなってしまった。それが問題の本質だ。

ところが岸田首相は的外れにも、問題解決のためには「分配」が重要だと主張する。「成長の果実を、しっかりと分配することで、初めて、次の成長が実現」するという。

けれども当たり前の話だが、何かを分配するには、まずその何かを生み出さなければならない。豊かさという果実を分配したければ、まず豊かさを生まなければならない。岸田首相は「分配なくして次の成長なし」と強調するが、そもそも初めに成長がなければ分配はできない。

そしてその成長を生み出せるのは、「野放しの資本主義」だけである。政府にはできない。自律的な経済成長は消費者のニーズに支えられなければならないが、政府のあらゆる政策は、消費者のニーズではなく、政治的な動機に基づいている。

たとえば、岸田首相は成長戦略の柱として科学技術立国の実現を掲げ、「十兆円規模の大学ファンド」を設置するほか、デジタル、グリーン、人工知能、量子、バイオ、宇宙など先端科学技術の研究開発に「大胆な投資」を行うという。けれども政府はこれらの投資の配分を消費者のニーズではなく、政治的なしがらみによって決めるから、過去の「官民ファンド」などと同様、失敗は目に見えている。

ここにあるのは結局、昔ながらの官民癒着だ。「新しい資本主義」とは要するに、古い縁故主義の看板を架け替えたものでしかない。

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