2021-10-03

百年の平和を築いた思想


1814年9月、欧州諸国の代表がオーストリアの首都ウィーンに集まった。フランス革命とそれに続くナポレオン戦争から生じた混乱を収拾し、欧州の新しい秩序を建設しようとする「ウィーン会議」である。

「会議は踊る、されど進まず」と風刺されたように、会議は初め大国間の利害対立のため難航したが、翌1815年、ナポレオンの再挙兵を機に議定書の調印が実現した。議定書では、フランス革命以前の政治秩序の回復を目指すとともに、大国の勢力均衡による国際秩序の平和的維持が追求された。これをウィーン体制という。

ウィーン体制の成立から1914年7月に第一次世界大戦が勃発するまでの約百年は、欧州が長期にわたる平和と経済の繁栄を享受した時代だった。それを支えたのは、ナポレオン戦争の悲惨な経験を繰り返したくないという人々の思いだけではない。自由主義と呼ばれる思想の隆盛が大きく貢献した。

自由主義とは、個人の自由な行動が社会の発展をもたらすとする思想だ。とくに経済活動にさまざまな規制を加えず、自由な活動を認めるよう強調した。スコットランドの経済学者アダム・スミスは『国富論』(1776年)で自由な貿易は国を豊かにすると説き、ナポレオン戦争後の欧州で影響力を広げる。

スミスの思想を深め、行動に結びつけたのはマンチェスターの織物業者リチャード・コブデンである。コブデン自身、後述するように、その思想と行動が欧州各国の自由主義に強い影響を及ぼしていく。

コブデンは1804年、サセックスで貧しい農家の息子として生まれた。極貧の中で育ち、正式な教育はほとんど受けていない。若くしてロンドンでキャラコ染の販売会社が成功し、マンチェスターで豊かな生活を送るようになった。その財産で世界旅行を始め、欧州の多くの国や米国、中東を訪ねる。旅上で執筆した小冊子で自由貿易、平和、対外不干渉に基づく新たな外交政策の考えを支持し、反響を呼んだ。

1839年、英国に戻り、穀物法の撤廃に賛同する。穀物法は1815年に制定された国産農業保護法。ナポレオン没落後の大陸封鎖令廃止で安価な大陸産穀物が流入するのを防ぐため、地主や農家の働きかけで、輸入穀物に高関税を課した。関税によって食料・穀物の値段は人為的につり上げられ、国内の農家を潤していた。

コブデンは、穀物法は英国民の食料価格を押し上げ、農業以外の産業の妨げになっていると主張。ジョン・ブライトとともに廃止運動の先頭に立つ。コブデン、ブライトらマンチェスターの産業資本化を中心とする自由貿易論者をマンチェスター派と呼ぶ。

1841年、コブデンは庶民院(下院)の国会議員に当選。コブデンと彼が率いる反穀物法同盟に対する国民の支持は広がり、1846年、ついに穀物法は廃止される。廃止後のイギリス経済は心配された農業への打撃もなく、黄金時代を享受していく。

コブデンの運動はフランスに刺激を与えた。1845年、ジャーナリストのフレデリック・バスティアは小冊子で穀物法廃止運動を紹介する。バスティアはアダム・スミスを信奉し、風刺の利いた多くの記事で、自由主義の利益と保護主義の害悪を説いた。ロウソク業者が政府に対し太陽との競争を防いでくれと請願する寓話は有名だ。

ドイツで自由貿易運動の中心人物になったのは、ジョン・プリンススミスである。イギリス生まれのプリンススミスはドイツに移住し、ベルリンでジャーナリストになる。イギリスで穀物法が廃止された1846年、コブデンの反穀物法同盟にならい、多くの財界人や言論人を集めてドイツ自由貿易協会を設立した。プリンススミスはフランスのバスティアの影響も受け、1850年にその著作を翻訳・出版している。

プリンススミスによれば、経済の発展には資本の蓄積が必要だが、政府の介入や重い税金は、資本の蓄積を阻害し、貧困を生み出す。とくに大きな妨げになるのが軍事費だとして、プリンススミスは反軍国主義の立場を長く貫いた。これはコブデンらマンチェスター派やバスティアにも通じる姿勢だ。

イギリスのコブデンは穀物法廃止後、活躍の場を海外に広げる。フランスの皇帝ナポレオン三世に謁見して自由貿易の利益を説き、1860年1月、世界初の自由貿易協定である英仏通商条約の締結に成功した。コブデン条約とも呼ばれるこの条約で両国の航海と通商の自由を定め、商品の関税を互いに引き下げた。

同条約の影響は大きかった。1862〜1866年にかけてフランスは各国と自由貿易条約を相次いで結んでいく。相手はドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、スイス、スペイン、ポルトガル、スウェーデン、ノルウェーなどだ。これら諸国の多くも互いに貿易自由化に踏み切り、欧州では自由貿易が急拡大していく。

もう一つ、急拡大したのは移動の自由だ。フランスはコブデンの働きかけもあり、1861年、パスポート(旅券)とビザ(査証)をともに廃止した。産業革命で鉄道網が急速に発展し、移動の自由に対する要求が強まっていたことが背景にある。他の欧州諸国もフランスに追随し、20世紀初めには欧州全域でパスポートはほとんどなくなった。

コブデンらマンチェスター派の議論の出発点は、自由貿易による市場の拡大にあったが、そこから発展して独自の平和理論を築いていった。自由貿易による社会諸階級の利害の調和、自由貿易による各国の相互依存の深化がもたらす国際平和、国際平和のもとで可能となる軍事支出の節減、外国の紛争への不干渉主義などである。

コブデンは穀物法廃止を果たした1846年の演説で、自由貿易が世界平和をもたらすという信念をこう語っている。「夢かもしれませんが、遠い未来、自由貿易の力は世界を変え、政府の仕組みは今とまったく違うものになっているかもしれません。強大な帝国も大規模な軍隊もいらなくなるでしょう」

コブデンは1865年に死去する。その頃には自由主義が欧州を支配し、戦争はほとんどなくなっていた。コブデンの夢はかなったように見えた。

残念ながらその半世紀後、未曾有の大戦勃発で世界は戦争の世紀へと突き進んでいく。今も各地で戦火は絶えない。世界から戦争をなくすうえで、平和の百年を築いた自由主義の思想は貴重なヒントになるはずだ。=連載おわり

<参考文献>

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

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