出自を異にする多様な人々が平和に共存するためには、何が必要なのだろうか。この問題について格好のヒントを与えてくれるのは、中国で栄えた唐王朝(618~907年)である。
前王朝の隋が滅んだ後、武将・李淵(高祖)が長安に入り、唐を建てた。2代目の太宗、3代目の高宗の時代までに、中央アジアまで勢力を伸ばし、朝鮮半島にも進出したため、唐は7世紀後半、ユーラシア東方のほとんどを覆う大帝国となる。
唐の都、長安は総面積84平方キロメートルの都城の中に、盛時には百万の人口を擁する世界最大の活気あふれる都市だった。そこには世界各地からさまざまな人々が集まった。ただ集まったばかりでなく、出自を問わず、何の分け隔てもなく交わることができた。
人の集まるところに、異国の商人が交易のためにやって来たり、宗教家が伝道に訪れたりするのは、いつの時代もあることだろう。しかし唐朝ではそれにとどまらず、外来者もその社会の成員となって、中央・地方を問わず、役人として政務に携わり、武将として国の守りにつき、宦官となって宮中奥深くに仕える者までいた。
中国史学者の稲畑耕一郎氏は「ここでは、誰であれ、努力しさえすれば、遺憾なく本文を発揮でき、活躍する場が無限に広がっていると感じられた。いわゆる外国人としての治外法権もなければ、そのことだけによる差別もなかった」(『隋唐 開かれた文明』)と述べる。
それではなぜ、唐ではそうした開放的な社会の形成が可能だったのだろう。それは唐王朝自身が外来の政権で、少なくともその最盛期までは、外から来る者を排除しなかったためである。
北朝から隋、唐に至る一連の王朝は、支配者がいずれも遊牧民・鮮卑の拓跋(たくばつ)部出身者を中心としていた。このため拓跋国家と総称される。
長安には外国人が多く居住した。おそらく10万人以上いたとみられる。
繁華街には貴人や官僚、文人墨客や将校、遊侠の士があふれ、北方の突厥やウイグルなど遊牧国家からの使節や客人、西域からの商人、職人、芸人や宗教関係者、東アジア諸国からの留学生や留学僧でごった返し、まれには海のルートを通って南からやって来た東南アジアやインドの海岸部、さらに遠くペルシャやアラブの人々さえ混じっていた(森安孝夫『シルクロードと唐帝国』)。
唐朝で任官した外国人も少なくない。日本の遣唐使の阿倍仲麻呂は玄宗皇帝に仕え、重職を歴任している。唐の軍隊には西域からの異民族も召集され、中にはアラビア人までいた。彼ら西域の異民族は騎馬に巧みで、実戦経験もあったため、政府から重用された。
中央ユーラシアには、草原地帯を通る「草原の道」と、砂漠・オアシス地帯を結ぶ「オアシスの道」と呼ばれる交易路が走り、中央ユーラシアの各地をつなぐとともに、東アジアや地中海世界などを結びつけていた。草原の道とオアシスの道は、西方に運ばれる中国産の生糸や絹が代表的な商品であったことから「絹の道(シルクロード)」と呼ばれる。シルクロードはいくつものルートからなるネットワークであり、東西だけでなく南北にもつながっていた。
オアシスの道では、交易と農業で成り立つオアシス都市が、おもにラクダを使った隊商(キャラバン)の中継貿易によって結ばれ、貿易の利益で栄えた。とくに活躍し、唐の経済繁栄に大きな役割を果たしたのは、イラン系のソグド人である。
ソグド人は商売を得意とし、進取の精神に富んでいた。子供に5歳で算数を、15歳で商売を覚えさせたといわれる。北はモンゴルやユーラシアの草原地帯にまで赴いて毛皮を手に入れる。南はインド、西はイランやアラブにまで出かけて金銀の器や香料などを購入する。東は中国内地へやって来て、絹を買って運んだ。
古代地中海のフェニキア人や古代オリエントのアラム人がそうだったように、遠隔地交易に従事する民族は商業記録のために独自の文字を持つことが多い。ソグド人もアラム語をもとにソグド文字をつくった。ソグド語やソグド文字は中央ユーラシアの共通語・共通文字となる。
ソグド人が発揮した才能は商業だけではない。情報ネットワークを武器に外交で活躍する者がおり、キャラバンの運ぶ高額な貿易品を守る必要から始まって武人になる者もいた。唐王朝を揺るがす反乱を企てた武将、安禄山もソグド系である。
長安をはじめとする大都市の酒楼、料亭やホテル内の酒場、キャバレーで客を接待する、ソグドの若い女性たちもいた。胡姫(こき)とよばれる。ソグド人は人種的には白人で、緑や青の瞳のある深目、高い鼻、亜麻色・栗色・褐色の巻き毛である。そのエキゾチックな美しさが目に浮かぶ。ただ酒席にはべるだけではなく、歌ったり踊ったりする胡姫も数多くいたとみられる。ソグド人は胡旋舞と呼ばれる、長いリボンを手に旋回するダンスを得意としたからだ。
唐帝国は、現代のアメリカ合衆国を思わせる「人種のるつぼ」だった。もちろん一定の身分の壁はあったものの、当時としてはきわめて開かれた、多様性のある社会だったと言える。
そのカギとなったのは、ソグド人の活躍に象徴される商業の促進である。商業は価値観の異なる人同士であっても、取引によって互いに得をし、相手を満足させることができる。取引を重ねるごとに、個人的にも仲良くなるかもしれない。そこまで行かないとしても、少なくともいがみ合い、憎み合うことはなくなるだろう。
商業が持つこの効果について、フランスの啓蒙思想家、モンテスキューは「商業は破壊的な偏見を癒す。習俗が穏やかなところではどこでも商業が存在しているというのがほとんど一般的な原則である。また商業が存在するところではどこでも、穏やかな習俗が存在するというのも同様である」と述べている。
政府は商業と違い、多数の人々を同時に満足させることはできない。なぜなら政府には、ある集団から税金を取り、他の集団に与えることしかできないからである。だから多様な人々の平和な共存を促すには、政府は特定の集団に肩入れせず、商業の自由を促し、見守り役に徹したほうがいい。
<参考文献>
稲畑耕一郎監修『隋唐 開かれた文明』(図説中国文明史 6)創元社
森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(興亡の世界史)講談社学術文庫
北村厚『教養のグローバル・ヒストリー 大人のための世界史入門』ミネルヴァ書房
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)
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