いまこそ無政府主義
社会主義をもてはやす昨今の風潮を苦々しく思っている者にとって、『いまこそ「社会主義」』(池上彰・的場昭弘共著、朝日新書)などという本の出版は、それだけでもう、血圧を上げるのに十分である。しかもその共著者の一人が、知名度絶大なジャーナリストときては、「ああ、これでまた悪の思想が日本に広まってしまう……」と、リバタリアンの無名週末ライターは無力感にとらわれそうになる。
しかし、本は読んでみないとわからないものだ。この対談本で、かねてマルクスに入れ込んでいる有名ジャーナリスト池上彰の発言に目新しさはないのだが、その一方で、お茶の間ではあまり有名でない(失礼)大学教授、的場昭弘の主張がすこぶる面白い。
的場はすでに多くの著書を出しており、名前は以前から知っていた。けれども、その多くが『復権するマルクス』だの、『マルクスだったらこう考える』だの、悪の教祖マルクスを持ち上げるようなタイトルばかりで、読む気にならなかった。実際、的場はマルクス経済学の専門家(神奈川大学副学長)であり、マルクスを否定するようなことを言うわけがない。
ところが今回初めて知ったのだが、的場は単純なマルクス礼賛者ではない。マルクスが激しく批判した、フランスの無政府主義者プルードンについても高く評価する。あとで触れるように、プルードンに関する著作も最近立て続けに出版している。
さて今回の対談本で的場は、19世紀に社会主義が形成された際、大きく二つの流れがあったと指摘する(第二章)。経済の自由を優先させる流れと、国家権力の介入を優先させる流れだ。
国家優先は、ルイ・ブランやエティエンヌ・カベーなどによる主張であり、一般に知られているマルクスが提唱した社会主義も、国家を優先するほうに属する。国家的中央管理によって規制していく方向だ。その考え方の淵源には、マルクスの盟友エンゲルスの発想があったという。
これに対し経済の自由優先は、プルードンやピエール・ルルー、フェリシテ・ド・ラムネーなどの社会主義者が考えた。プルードンはアナキスト(無政府主義者)と紹介されることが多いが、人々の自由な運営を重視した社会主義者でもあったと的場は述べる。
しかし、この自由主義的な社会主義は1840〜50年代にかけて力を失っていく。その最大の原因は、コロナ騒動の今から考えると興味深いことに、コレラの流行だった。防疫のために国家管理が強化され、フランスではルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)、ドイツではビスマルクといった強権主義者が国家権力を握っていく。
社会主義の理論でも最終的に力を持つに至ったのは、国家主義的な社会主義だった。その典型が、1917年のロシア革命で誕生したソ連だ。ソ連はその後崩壊し、今では反面教師のような国になってしまった。「肥大化した国家権力がわれわれの自由を奪うからです」と的場は正しく指摘する。
そのうえで的場は「理論としてはもっと違う社会主義もありえた」として、経済の自由を重視したプルードンの思想に注意を喚起する。
プルードンはマルクスのライバルで、マルクスとまったく違う社会主義を提唱した。それは中央集権国家がなく、小さなアソシアシオン(団体。営利・非営利を問わない)に分かれて、それぞれが水平的に民主的合意形成をしていく社会主義である。そこには国家権力がそもそも想定されていない。「言い方を換えれば、これはアナキズム(無政府主義)というやつです」
プルードンが目指した社会主義は、ソ連が体現したものとは真逆のものだった。「だからこそマルクス、エンゲルスたちはアナキストを大変恐れて、アナキスト的な社会主義を嫌っていた」と的場は解説する。
それにしても無政府主義とは、国家権力を排除することといい、国家主義的な社会主義を信じるマルクスやエンゲルスから嫌われたことといい、まるで自由放任的な資本主義のようではないか。じつは、ある意味でそのとおりなのだ。的場はここで驚くべき発言をする。
アナキストの社会主義は、一方で新自由主義に近いところがあるんです。国家の関与を極力否定しますからね。(強調は引用者)
的場はすぐに「新自由主義は資本家の利益を中心に置き、アナキストの社会主義は民衆の利益を大事にする」と両者の違いを強調するものの、国家関与の否定という共通点の指摘は、大胆であり鋭い。自分が共感を寄せる無政府主義と、忌み嫌っているだろう新自由主義の類似を率直に語る姿勢にも好感が持てる。
的場は、プルードンを正面から論じた『未来のプルードン』(亜紀書房、2020年)の前書きで、マルクスも若い頃は、プルードンと同じく国家権力の解体を目指していたと述べたうえで、「プルードンを批判するあまり、人間分析が不十分になり、機械論的な唯物論の罠にはまってしまった」という。マルクスを手放しに称賛せず、その過ちをきちんと指摘している。
また、マルクスがプルードンを批判した『哲学の貧困』の新訳版(作品社、2020年)でプルードンの思想について解説し、こう述べる。「ソ連崩壊とともに、国家権力を肥大化させたマルクス主義が崩壊したことにより、〔プルードンが唱えた〕労働者参加型、垂直型ではなく水平型の連合的、相互主義的社会主義という概念が求められるようになってきた」(第三部)
この分析は、コロナ騒動の現在によくあてはまる。今回の対談本に戻ろう。コロナ騒動をきっかけに、感染症の流行に対処するには国家権力による統制が必要との見方が増えている。だが、それは「あまりにも単純」だと的場は異を唱え、「むしろ、下からのアソシアシオン的なあり方のほうがいいのではないかという議論も出てきます」と語る(第二章)。
的場が述べるとおり、ロックダウン(都市封鎖)をした欧米では、強権に対する反動としての民衆運動が盛り上がっている。日本では対応が原則として地方に委ねられているほか、民衆が自分で注意して、国家による至上命令を避けさせている。結果として、死亡者数はロックダウンを行った欧米よりも低く抑えられている。
コロナについて、的場はさらに踏み込んだ発言をする(第三章)。コロナ禍によって、戦争でもないのに鎖国をし、あたかも戦争状態のようになった。海外に行けないし、海外からも来ない。「こういう状態をつくることを政府に自由にさせていいのか」
的場の住む静岡県では、県境で、神奈川県の人は来ないでくれ、と言っていたという。このままでは排外主義がどんどん広がり、たとえば海外からの供給が減ったマスクを国産にしても、それを作ったその町でしか使えないことになる。限られたマスクをどこかが先に使ってしまえば、内乱状態の争奪戦にもなってしまう。
「そんな争いをやめて、むしろ交易を拡大して国交の扉を閉ざさないで、外交努力で何とか協力して切り抜ける、ということも考えていく必要があります」。このまっとうな主張は、ほとんど自由主義者(リバタリアン)と言っていい。
的場の主張にすべて同意できるわけではない。それでも本書は、リバタリアンにとって貴重な示唆に富む。国家主義的な社会主義ではなく、無政府主義的な社会主義(あるいは無政府主義そのもの)を高く評価するのがミソなのだから、タイトルは『いまこそ「社会主義」』ではなく、『いまこそ無政府主義』のほうがふさわしかった。それじゃ売れないか。
>>書評コラム【4】
2 件のコメント:
リバタリアンは社会主義じゃなくて自由主義でしょ。
社会主義を止めて自由主義に転換すべし。
>的場の主張にすべて同意できるわけではない。それでも本書は、リバタリアンにとって貴重な示唆に富む。
これが私の言いたいことです。
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