ブルシット・ジョブの犯人
たしかに、この本で取り上げられる、さまざまな腹立たしい、あるいは情けない「クソどうでもいい仕事」には、誰しも思い当たるふしがありそうだ。けれども結局のところ、そうした「クソどうでもいい仕事」を生み出しているのは何なのだろうか。
訳者の一人である大阪府立大学教授の酒井隆史(社会思想)は、講談社現代新書ウェブサイトの2020年8月5日付記事(「なぜ『クソどうでもいい仕事』は増え続けるのか?」)で、「現在の金融化した資本主義システムが作動するとき、必然的に、この壮大な『ブルシット機械』も作動をはじめる」と述べる。「現在の金融化した」という限定付きではあるものの、ブルシット・ジョブを生む原動力は「資本主義システム」だという。
どうやらブルシット・ジョブの犯人は資本主義のようだ。
ところが、そう思って本書を読み始めると、いきなり第一章の冒頭から意外な記述に出くわす。著者の人類学者グレーバーは、ブルシット・ジョブの「ある典型的な事例」を紹介するのだが、その事例というのが、ドイツ軍の下請業者の話なのである。
その会社では、たしかにバカバカしい無駄な仕事をやっている。兵士が兵舎の隣の部屋に移る際、わざわざレンタカーで出かけて行き、パソコンを取り外し、梱包し、物流業者に部屋まで運んでもらう。部屋に着いたら開封、設置。書類に記入し、署名をもらい、レンタカーで帰宅する。「兵士が自分でパソコンを五メートル運ぶかわりに、二人の人間が合わせて六時間から一〇時間も運転して、書類を一五枚も埋めて、四〇〇ユーロという額の血税が浪費されている」という。
あれれ、「クソどうでもいい仕事」を生むのは資本主義という話かと思ったら、軍隊の話ではないか。軍隊は政府の一部門であり、自由な市場経済に基づく資本主義とは関係ない。
すると著者は急いでつけ加える。この逸話は、軍事的官僚手続きのバカバカしさにまつわる古典的な事例とは違う。なぜならこの逸話で、実際に軍隊に属して働いている人間はほとんど誰もいない。厳密にいえば、かれら全員が民間部門の一員なのだ。昔と違い、今の軍隊は通信、装備輸送、人事といった部門を民間に外部委託している。この逸話が示すとおり、「私有化(民営化)は〔略〕それ特有の、しばしば、はるかに体裁の悪い多様な狂気を生み出している」と。
なるほど民間企業でも官僚主義がはびこることはある。いわゆる大企業病だ。しかし大企業病が治らなければ、やがて市場から淘汰される。官僚主義が招く不効率のせいで競争相手に比べサービスが低下したり、値段が高くなったりして、顧客が離れてしまうからだ。だから、たいていの民間企業では官僚主義がそこまで悪化しないうちに自浄作用が働く。
もし自浄作用が働かないとしたら、それは官僚主義にうつつを抜かしていても、顧客に逃げられる心配がないからだ。そんな心の広い顧客がいるだろうか。いる。政府だ。
政府と企業の契約はたいてい、何らかの政治的理由で決まる。だからサービスの質が悪かろうと、値段が高かろうと、契約を打ち切る理由にはならない。さきほどの事例で、無駄な作業で血税を浪費してもドイツ軍から契約を切られないのは、契約が経済的理由によるものではないことを逆説的に物語る。
そう考えると、ブルシット・ジョブを生むのは、市場原理に基づく自由な資本主義ではなく、政府と企業の政治的癒着ではないだろうか。
読み進むにつれ、その疑念は確信に変わる。
著者がブルシット・ジョブの例として挙げるのは、ロビイスト、政策アナリスト、企業の顧問弁護士、ヘッジファンド・マネージャー、プライベート・エクイティ・ファンドの経営者、マーケティングの教祖、広報調査員、電話勧誘員などだ。なんとなく、いかにも現代資本主義らしい職業のようだ。
けれどもよく見ると、その多くは政府と密接に関係する仕事だ。ロビイストや政策アナリストは言うまでもないし、企業の顧問弁護士もその仕事の多くは政府の規制や税務に関する相談だろう。著者グレーバーも「企業コンプライアンスのような産業全体が、政府による規制がなければそもそもいっさい存在しないであろう」(第五章)と述べる。
とりわけ著者がブルシット・ジョブの「範例」とみなすのは、金融業である。複数の巨大国際銀行にリスク管理担当として雇用されてきたサイモンという人物の「控えめな見積もり」によれば、「銀行の六万人のうちの八〇%が不必要」(同)だったという。
だが金融業は、政府とのつながりが最も強い産業の一つだ。さまざまな規制を受ける一方で、保護によって守られてもいる。普通の企業が経営危機に陥っても政府が税金で救ってくれることはめったにないが、銀行ならたいてい助けてもらえる。万が一、破綻しても、預金は公的な預金保険で守られ、預金者に迷惑はかけない。
これでは少しでも経営の無駄を削って競争に勝とういう気にはならないだろうし、その必要もないだろう。逆に、金融業が一般の産業並みに競争にさらされていれば、あきれるような無駄を放置する余裕はないはずだ。
著者グレーバーも「競争の激しい市場においては、不必要な労働者を雇い入れる資本家たちは生き残りの見込みがない」(同)と認める。
そうだとすれば、ブルシット・ジョブの原因はいったい何か。ここで著者は、それは資本主義だろうという先入観を完全に打ち砕く。
もしブルシット・ジョブの存在が資本主義の論理に逆らっているようにみえるとすれば、ブルシット・ジョブの増殖に対するただひとつのありうる説明は、いまのこのシステムが資本主義ではないからということになる。あるいは少なくとも、アダム・スミスやカール・マルクス、さらにいえばルートヴィヒ・フォン・ミーゼスやミルトン・フリードマンの著作から認めることのできるような資本主義ではないということになる。(同。強調は引用者)
ブルシット・ジョブを生んでいるのは資本主義ではない。少なくとも「新自由主義」の元凶とされるミーゼスやフリードマンが語るような、自由放任的な資本主義ではないと著者は言い切っている。そしてブルシット・ジョブを生む今の経済体制について、さらにこう述べる。
そこでは経済の命法と政治の命法とが大幅に融合をはじめているがゆえに〔略〕資本主義とはまったく異なっているということになる。たしかに、多くの点で、それは古典的な中世封建制に類似している。貴族や封臣、従者たちからなるヒエラルキーをはてしなくつくりだす傾向も同じである。(同)
ブルシット・ジョブの本当の犯人は近代的な資本主義ではない。中世封建制にも似た、経済と政治が融合した体制なのだ。その体制の名前を著者は記していないが、他の専門家からは「縁故主義」「縁故資本主義」「政治資本主義」などと呼ばれているものだろう。
そうだとすれば、ブルシット・ジョブをなくすには、「経済に対する政治の介入を排除し、近代的な資本主義を取り戻せ!」と叫ばなければならないはずだ。ところが、本書がせっかくベストセラーになっても、賞をとっても、そんな声はどこからも聞こえてこない。グレーバー自身、そこまで踏み込んではいない。
けれども読む人が読めば、本書の主張は政府の経済介入の縮小と自由な資本主義の擁護に行き着かざるをえないことに気づくはずだ。グレーバーは第七章でベーシックインカム(最低所得保障)の導入を提唱しているが、その目的は「官僚制の規模の大幅な縮小」である。もっとも、ベーシックインカムが官僚制の縮小につながるとは思えない。
アナキストを自認する著者グレーバーには今後、もっと思索を深めてほしかった。残念ながら彼は昨年9月に急逝し、その望みはもうかなわない。
>>書評コラム【4】
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