中東とバルカン半島と言えば、現在、民族紛争の巣窟と化している。内戦の続くシリア、イスラエルとパレスチナ人の闘争、トルコ政府とクルド人の武力衝突、そしてコソボ紛争は一応治まったものの、セルビアとコソボ間で対立が続くバルカン。いずれも民族の対立に解を見いだせず、途方に暮れているようだ。
ところがかつて、この広大な地域をある大国が治めていた時代には、激しい民族紛争のるつぼではなかった。差別や反目、小さな紛争はあったものの、そのような火種が果てしない紛争の連鎖へと拡大していくことはなかった。
ある大国とは、オスマン帝国のことだ。この帝国は支配層のイスラム教徒(ムスリム)以外に、民族も宗教も異にする多種多様な人々が、数百年にもわたり平和に共存していた。その秘訣はどこにあったのだろう。
13世紀のモンゴルの進出によって小アジアのルーム・セルジューク朝政権が滅ぶと、小アジアには多くのトルコ系小国家が生まれた。そのうち西北部に形成された国家がオスマン帝国となる。1453年、メフメト2世がコンスタンティノープルを占領してビザンツ帝国を滅ぼし、この地を首都とした。のちにイスタンブールの名で知られる。君主はスルタンと呼ばれる。
広大な版図を持つオスマン帝国には、イスラム教徒とともに多数の異教徒が暮らしていた。16世紀半ばのイスタンブールでは、人口40万のうち、約3割がキリスト教徒、約1割がユダヤ教徒であったといわれる。
イスラム教徒以外の人々の処遇は、イスラム法の中で細かく決まっている。それはオスマン帝国以前にすでに成熟した体系となっていたので、オスマン帝国はそのルールに従って統治したにすぎないとも言える。
ルールの原則は、イスラム教と同じ一神教を奉じるキリスト教徒、ユダヤ教徒を「啓典の民」とみなして一定の制限の下で庇護を与え、生命、財産、信仰の自由を保障する、というものだ。一定の制限とは、人頭税の支払い、政治参加の制限、教会の新築禁止、非イスラム教徒とわかる印を身につけること、などである。
こうした制限があったとはいえ、共存の条件が明示されていたことは、異教徒にとって相対的に住みやすい社会であったのは間違いないようだ。
たとえば中世欧州で、キリスト教政権の下、多数のイスラム教徒が居住していた国として、シチリア王国がある。しかしシチリアでは、最終的にイスラム教徒は放逐と同化の道をたどった。キリスト教徒、ユダヤ教徒の共同体が消滅することなく近代まで継続したイスラム世界とは、明確な違いがある(小笠原弘幸『オスマン帝国 英傑列伝』)。
15世紀末、レコンキスタ(国土回復運動)の完遂に伴い、キリスト教徒によってスペインからユダヤ人が追放されたとき、ユダヤ人が安住の地に選び移住したのは、オスマン帝国だった。彼らはセファルディムと呼ばれ、独特のスペイン語(ラディーノ)を用いていた。
ノーベル文学賞受賞者である作家エリアス・カネッティは、その子孫の一人だった。彼は、かつてはオスマン領だったブルガリアのルスチュクに生まれ、ユダヤ人差別の存在をまったく知らずに育った。スイスの学校に入って初めて自分が差別される存在であることを知ったと、その自伝で述べている(鈴木董『オスマン帝国』)。
また、スペインからの移住と同じ頃、迫害の強まったドイツやハンガリーからも多くのユダヤ教徒がオスマン帝国に移住した。彼らはアシュケナジムと呼ばれた。加えて、オスマン帝国内にはもともと在地のユダヤ教徒(ロマニオット)もいたので、ユダヤ教徒の構成は非常に複雑なものとなった。
これら欧州方面から移住したユダヤ教徒は、それまで培ってきた金融ネットワークを使って、オスマン帝国下で活躍した。
移住者の第一世代の中には、スルタンの信頼を得て、大きな活躍をした者もあった。なかでもポルトガル、ベルギーを経て1553年頃にイスタンブールに移住したヨセフ・ナスィは、その経済力を背景に政治や外交にも関与。またボスフォラス海峡を通るワインの関税請負収入などからさらに富を築いた(林佳世子『オスマン帝国500年の平和』)。
ユダヤ教徒と同じく異教徒とされたキリスト教徒も、オスマン帝国内には多く住んでいた。アナトリア(小アジア)とバルカンには、かつてビザンツ帝国の国教だったギリシャ正教徒が多数住んでいた。アナトリアには、アルメニア教会派も少なくなかった。レバノンの山地には、マロン派が固まって分布していた。エジプトには、土着のキリスト教徒であるコプト教徒が多数残っていた。
このほか、東アナトリアからシリア、イラクにかけては、ネストリウス派など東方諸教会に属する多くの宗派の人々が少数ながら存在していた。加えて、イスラム世界に敵対する西欧の公認の信仰である、ローマ・カトリック教会に属する人々さえ、存在を許容されていた。
支配的宗教だったイスラム教の場合も、大多数を占めるスンナ派のほか、シーア派、ドールーズ派の人々がいた。
オスマン帝国の人々は宗教だけでなく、民族も多種多様だった。
イスラム教徒の諸民族の中で、オスマン帝国を建設する主導力となったのは、トルコ人である。オスマン朝発生当初にはごく少数だったとみられるが、東方からの流入と、異民族がイスラムに改宗しトルコ語を母語として受容することで、しだいに増加した。
16世紀以降、アラブ地域がオスマン領となり、大多数がイスラム教徒からなるアラブ人が、帝国の臣民に加わった。アラブ人はトルコ人と並んで、帝国のムスリム臣民の二大集団となった。
アラブ人から見れば、トルコ人は同じイスラム教徒とはいえ、イスラム世界への新来者、北方の異民族の征服者であり、反感もあったと思われる。しかしその反感も、近代西欧の影響の下にナショナリズムが生じるまでは、それほど決定的なものではなかった。
より少数だが主としてイスラム教徒からなる民族として、イラク北部からアナトリア東部にかけてクルド人が住んでいた。トルコ人とクルド人の関係も、前近代においては良好だった。
キリスト教徒が多数を占める民族では、最も重要なのは、バルカンだけでなくアナトリアにも住んでいたギリシャ人だった。彼らの大多数は近代ギリシャ語を母語にしていたものの、オスマン朝の人々は彼らを何よりもビザンツ帝国(東ローマ帝国)のギリシャ正教徒と考え、「ルーム(ローマ人)」と呼んだ。
ギリシャ人自身の意識も同じだった。彼らが異教徒である古代ギリシャ人を自分たちの直接の祖先と考え、ギリシャ民族意識をアイデンティティーの根源とするようになるのは、18世紀以降のことである。
アナトリア方面にはアルメニア人もいた。彼らは帝国各地の都市にも居住し、とくに商業で活躍した。なかには建築請負業者としてオスマン帝国と深い関係を持つ者もあった。少なくとも前近代においては、アルメニア人とトルコ人との関係は良好だった。両者の関係が悪化するのも、近代それも19世紀末葉以降のことである(前出『オスマン帝国』)。
オスマン社会は決して平等ではなかった。非ムスリムは、イスラム教のきまりに従い、不利な立場に置かれていた。それでも、宗教・民族の共存をある程度実現していた。宗教・民族の対立に苦しむ現代に、貴重な示唆を与えてくれるはずだ。
<参考文献>
- 鈴木董『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』講談社現代新書
- 小笠原弘幸『オスマン帝国 英傑列伝 600年の歴史を支えたスルタン、芸術家、そして女性たち』幻冬舎新書
- 林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史)講談社学術文庫
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)
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