東京都が新規に整備する競技会場6施設のうち、夢の島公園アーチェリー場など4つがほぼ完成した。日本スポーツ振興センター(JSC)が運営主体となる新国立競技場(オリンピックスタジアム)も、デザイン変更によって工事が大幅にずれ込んだものの、今年11月の完成が目前だ。7月24日に開いた「1年前セレモニー」では、登壇した安倍晋三首相が「準備状況については、IOC(国際オリンピック委員会)からも高い評価をいただいている」と満足そうに語った。
ところが、これらの新施設は大会後、大半が赤字となりそうだ。東京都が新設する6施設のうち、大会後に採算が合うのは1施設のみで、残り5施設は年間計約11億円の赤字が発生する見通し。1500億円超を投じて建設される新国立競技場も、完成後は維持費だけでも毎年20億円以上がかかるといわれ、採算がとれる見通しはまったく立っていない。
政府や東京都は、五輪新施設を大会後の街づくりに役立てると喧伝してきた。しかし赤字とは、かけた費用に見合うだけの来場者数が訪れないことを意味する。これでは街のにぎわいや発展は期待できない。これまで何度となく繰り返されてきた、官主導の街づくりの失敗例がまたひとつ増えるのは、残念ながら確実のようだ。
「威信財」
そうした失敗例のうち、日本で最も古く、大規模なものをご存じだろうか。平安京(現在の京都)である。
781(天応元)年に即位した桓武天皇は、奈良の平城京から長岡京を経て、794(延暦13)年、平安京に遷都する。奈良時代に僧の道鏡が皇位をうかがうなど政治に対する仏教の影響力が強まり、それを断ち切るなどの狙いがあった。それ以降、平安京が国政の中心であり続けた約400年間を平安時代と呼ぶ。
平安京は中国の都をモデルとし、東西約4.5キロメートル、南北約5.2キロメートルの規模。条坊と呼ばれる碁盤の目のような区画は、今の京都の町並みや道路に痕跡をとどめる。
ところがこの都の設計は、利用者の利便性をまったく無視したものだった。たとえば、道の広さである。平安京の街路には「大路」と「小路」の2種類がある。道幅は大路が30メートル、小路が12メートルあった。現代の都市部で幹線道路は1車線につき幅3.25メートルだから、小路といってもその4車線分に等しい幅があり、名前から想像されるよりはずいぶん広い。大路に至っては、計9車線の幹線道路と同じ幅だ。これだけの幅をもつ道路は、想像することさえ難しい。
自動車社会の現代人が主要幹線道路としてももてあます、これらのだだっ広い道が、平安京には東西方向に11本、南北方向に9本もあった。とくに極端だったのは、都を東西に二分し、南北方向に通る朱雀(すざく)大路である。この大通りは、一般的な大路の3倍近い82メートルもの幅があった。ここまで来ると、実用面では有害とさえいってよい。
平安京がこのように実用性に欠く構造だったのは、その本質が天皇の権威や尊さを物体化させた「威信財」だったからだと、歴史学者の桃崎有一郎氏は著書『平安京はいらなかった』で指摘する。威信財とは、所有者の威信を他者に見せつけることを最大の役割とする財産であり、そこでは実用性は二の次となる。したがって、威信を示すためなら実用性は容易に犠牲にされる。
威信を示したのは、街路の巨大さだけではない。平安京の物理的構造は、天皇を頂点とする身分制度と密接な関連があった。身分が高いほど、邸宅の面積が広く、邸宅が面する街路の規模は大きく、大内裏(宮城)のある北に近く、中心線である朱雀大路に近い。天皇との身分的な距離である位階と、天皇との物理的な距離が比例し、大内裏を中心とする身分的な同心円が描かれていた。
平安京の教訓を現代に生かせない日本
しかし、実用性を無視し、設計を上から押しつけられた平安京はやがて、都市としての欠陥があらわになっていく。平安京では、自宅前の路面清掃は法的義務だった。また、街路樹の植樹・整備も沿道の住人が法的に責任を負った。天皇の威信を示したい朝廷にとって、美観こそ生活に優先する平安京の存在意義だったからである。
ところが、平安遷都からわずか20年余りしかたたない頃である。街路の美観を保つために建てられた垣に、京の住人が穴をあけ、街路沿いの水路から勝手に水を自宅内に引いたり、水路をふさいで流れを妨げ、街路を水浸しにしたりするようになる。朝廷は、むち打ちの刑などでこれらの行為を罰したが、破壊や汚損は一向に改善されなかった。
生活の利便を目的とする住人の破壊・改変は、京中の各所に及んだ。メインストリートである朱雀大路では、住人が牛馬の放し飼いを行うようになる。広大な朱雀大路は牧場として十分使えたのである。牛馬の糞に閉口してか、朝廷はわざわざ人夫を雇用し、朱雀大路の両脇に掘られた溝を掃除するよう命じている。
桓武天皇が意欲的に推し進めた平安京の造営は、並行して行われた蝦夷征伐とともに、財政に重くのしかかった。このため805(延暦24)年、藤原緒嗣の進言によって中止され、翌年、桓武天皇は70歳で没する。
平安京といえば、教科書に載る碁盤目状の整然とした街区の都市が思い浮かぶ。しかし、この図は理想型であり、実際には開発が途中で放棄されたため、歴史上、一度も実在したことはない。
それでもその後、古代国家は不都合なく機能した。ということは、そもそも全域を開発する必要がなく、「設計段階から平安京は過大」(前出・桃崎氏)だったということになる。規模に見合う来場客を集めることのできない、現代の五輪施設を思わせる。
うなぎの寝床と呼ばれるほど間口が狭い京町屋は、現代京都の貴重な景観として有名だ。これは朝廷が設計したものではない。商業が活発になった10世紀頃から、住民が実用性を重視して建てるようになったものだ。街路から垣で隔てられず、直接出入りできる。朝廷は何度禁じても一向に根絶できず、弾圧を諦めた。おかげで京町屋は現代にその風情を伝えることができた。
東京五輪を機に多くの外国人が来日し、観光などで京都を訪れるだろう。そのとき私たちは京都の美を誇るだけでなく、庶民のニーズを無視した平安京の苦い経験や、その教訓を現代に生かせない日本の不甲斐なさについても、忘れないようにしたい。
<参考文献>
桃崎有一郎『平安京はいらなかった』吉川弘文館
川尻秋生『平安京遷都』岩波新書
(Business Journal 2019.10.12)
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