14世紀後半以降、ペストは数度にわたり欧州を襲った。世界史教科書などの解説によれば、1348年から3年余りの流行で人口の3分の1を失わせ、農業人口の激減による社会・経済の混乱を招いたとされる。
この解説そのものは誤っていない。けれども見逃してはならないのは、当時の欧州はペストに襲われる以前から、いくつかの要因で経済が疲弊しており、それによる生活水準の低下が疫病の蔓延を加速させたという事実だ。
経済を疲弊させた要因の一つは、天候だ。14世紀から15世紀にかけての欧州では天候不順の年が多く、凶作や飢饉に見舞われた。
それに追い討ちをかけたのが、国家による戦争と課税だ。中世欧州では、国王を中心とした国家の統合を強化しようとする動きが明確になり始めた。そうした動きの中心となった国王の一人を軸に、見ていこう。整った顔立ちから「端麗王」と称されるフランス王、フィリップ4世である。
フィリップは1268年、フィリップ3世の子として生まれる。1285年、父の後を継いで即位した。1294年、仏南西部ガスコーニュや北東のフランドルに勢力を伸ばそうと、イングランドを相手に戦争を始める。
フィリップの関心は、経済的に豊かなフランドルにあった。1297年からは、フランドルの都市市民やそれを支援するイングランド王と激しく争った。フランドルは毛織物生産により欧州経済の中心の一つとなっていたが、原料である羊毛をイングランドから輸入していたため、イングランド王との関係が深かった。
これらの戦争で必要になった膨大な戦費を調達するために、フィリップはさまざまな税を課していく。
シャンパーニュの大市は、12世紀頃から13世紀にかけて、仏北東部シャンパーニュ平原の諸都市で開かれた大規模な国際交易市である。大市は自由貿易地域として仏国王や貴族の課税・規制から免れ、争いごとは互いに競争する民間の商業裁判所によって迅速に手際よく裁定されていた。
フィリップはこのシャンパーニュの大市に厳しい売上税を課す。大市で特に活躍したユダヤ商人やロンバルディア(北イタリア)商人には繰り返し、税や財産没収を強いた。さらにフランドルとの戦争に際し、あらゆる商人を迎え入れる大市の長年の慣行を破り、フランドル商人の排除を命じた。これらの措置の結果、繁栄を誇ったシャンパーニュの大市は衰退していく。
フィリップは中世欧州で初めて、定期的な税を導入した人物である。それまでは定期の税というものはなかった。国王は侵略や十字軍の遠征といった緊急時には、領臣に封建制の義務である軍役を求めるほか、支援金を求めることもあったが、それは命令ではなく要請であり、期間も緊急時に限定されていた。
またフィリップは、十字軍の主戦力として活躍したテンプル騎士団を解散させ、仏国内の資産を没収。幹部らを異端として火刑に処した。騎士団の豊かな財産を奪うのが狙いだったとみられている。
商人や騎士団以上に豊かで、フィリップが格好の財源として目をつけたのは、カトリック教会である。
フィリップは聖職者への課税に乗り出し、これに強く反発した教皇ボニファティウス8世と対立する。フィリップは軍事力にものを言わせ、カトリック教会がフランス国内から本拠地ローマに収入を送ることを禁じる。
ボニファティウスは1302年、教皇回勅を発し、教皇の権威は他のあらゆる地上の権力に優越すると宣し、フィリップに対し教皇の命に従うよう促した。これを受けてフィリップは側近に命じ、ローマ南東の町でボニファティウスの生地であるアナーニの邸宅を襲わせ、教皇を一時捕らえる(アナーニ事件)。
フィリップは教皇を異端で腐敗していると非難し、弾劾の公会議で裁こうとした。高齢のボニファティウスは屈辱の中で急死する。
フィリップはカトリック教会への支配力を強めた。1309年、フランス人の教皇クレメンス5世の代に、教皇庁は南仏アヴィニョンに移転する。約70年後に教皇がローマに戻った後にも、アヴィニョンには別の教皇が立てられ、教会大分裂(大シスマ)となった。
1314年、フィリップは狩りの最中に脳梗塞で倒れ、数週間後に世を去った。娘イザベルはイングランド王の王妃となり、のちにイングランド王家がフランス王位の継承権を主張して起こす百年戦争の遠因となる。百年戦争は1339年に始まり、ペストが欧州を襲うのはその約10年後である。最悪のタイミングだったと言える。
百年戦争では、火薬の伝来が大量死に結びついた。宋代に中国で発明された火薬はモンゴルによって兵器として実用化され、ユーラシア大陸のネットワークを通じて欧州にもたらされると、ドイツで大砲や鉄砲などの火器へと改良された。火器は騎士を没落させ、戦争の様相を一変させた。火器によって戦争の死者は増大していく。
現在、新型コロナウイルス対策として国内外で都市封鎖や休業要請が行われ、経済の悪化という副作用をもたらしている。これらの対策は感染抑制に一定の効果があるとしても、経済を疲弊させてしまっては、人々が疫病に立ち向かう力を削いでしまう。
一方、米国と中国は、中国の都市・武漢で新型ウイルスの集団感染が発生した際の中国政府の対応をめぐり、対立を深めている。
命を守るためにこそ、経済の繁栄や世界の平和を損ねてはならない。これがペスト危機の教訓ではないだろうか。
<参考文献>
佐藤彰一、池上俊一『西ヨーロッパ世界の形成』(世界の歴史)中公文庫
北村厚『教養のグローバル・ヒストリー:大人のための世界史入門』ミネルヴァ書房
Murray N. Rothbard, Austrian Perspective on the History of Economic Thought. Ludwig von Mises Institute
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)
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