狩り装束の射手が馬を走らせる流鏑馬は、この談話にあるように、いかにも日本独自の文化のように見える。しかし、馬に乗る文化はもとから日本にあったものではない。さかのぼっても4世紀末~5世紀初頭以降、海を越えて渡ってきたのである。
考古学の調査によると、日本では古墳時代前期(3世紀中頃〜4世紀後半)の古墳から馬具はまったく出てこない。ところが中期の5世紀になると、突然多くの古墳から馬具が出てくるようになる。それまでの農耕社会に見られなかった乗馬の風習や騎馬文化が急速に普及したことを物語る。
この事実を踏まえた仮説として、かつて脚光を浴びたのが「騎馬民族征服王朝説」である。1949年に東洋考古学者の江上波夫氏が提起したもので、4世紀後半頃、東北アジア系の遊牧騎馬民族が朝鮮半島を経由して日本列島に侵入し、朝廷を樹立したとする。この騎馬民族が打ち立てた朝廷こそ天皇家を中心とする大和朝廷にほかならないと主張し、衝撃を与えた。
しかし今では、この説には否定する見解が有力となっている。社会の大きな変化が王朝の交代のみによって起こったと考えるのは無理があるからだ。
朝鮮半島から日本への技術移転
現在、日本に騎馬文化が伝わった理由として有力視されるのは、当時の東アジア情勢の変化である。3世紀、ユーラシア大陸北方の気候が寒冷化し、これをきっかけに諸民族の移動が活発になる。西方では4世紀後半に遊牧民のフン族が西進したことでゲルマン人の大移動が引き起こされ、これが引き金となってローマ帝国は395年、東西に分裂する。
東方では後漢の滅亡後、三国時代と西晋の統一を経て304年、中央ユーラシアから五胡と呼ばれる遊牧民が中華帝国に侵入して次々に建国するという、動乱の五胡十六国時代が幕を開ける。
民族大移動の波は朝鮮半島にも大きな影響を与える。当時、半島の北から中国の東北部にかけては、騎馬文化の影響を受けた高句麗が強い勢力を持っていた。高句麗は五胡のひとつである鮮卑の建てた前燕に攻撃されて大きな打撃を受け、多くの領土と人民を失う。そこで北で失ったものを南で回復しようとし、南下を進める。
当時半島の南にあった新羅や百済といった国々は、強力な騎馬軍団を持つ高句麗の南下によって国家存亡の危機を迎える。新羅が早くに高句麗に降って生き延びようとしたのに対し、百済はあくまでも軍事的に高句麗に対抗しようとした。そのとき百済が目をつけたのが、当時倭国と呼ばれた日本である。
4世紀半ば過ぎ、百済は倭国と国交を成立させ、倭国は朝鮮半島へ出兵することになった。けれども、実行はそう簡単なことではない。倭人たちはまったく馬を知らないから、まず馬の文化から学ばなければならなかった。
もっとも、百済にとっては自国の存亡がかかっており、当時百済の影響下にあったとみられる加羅(伽耶、加耶、任那ともいう)諸国も同様だった。そのため多くの渡来人を送って倭人たちに馬に関する技術を教えたと、考古学者の白石太一郎氏は推測する(『騎馬文化と古代のイノベーション』)。
多くの渡来人が百済や加羅などから倭国に渡ってきて大規模な牧を造り、馬や馬具の生産技術を教える。こうして馬文化を知らなかった倭国で、馬や馬具の生産が始まった。いわば朝鮮半島から日本への技術移転である。
このとき海を渡ってきた多くの渡来人たちは、単に馬や馬具の生産技術だけではなく、さまざまな優れた生産技術、さらに文字の使用法をはじめ学問、思想なども日本に伝えた。これは古代倭国が東アジアの文明社会の仲間入りをするうえで、大きな役割を果たす。
文化の本質はグローバル
古墳時代に朝鮮半島からの渡来人が騎馬やその他の文化を日本に伝えた形跡は、今でも日本の各地で確かめることができる。意外なことに、地理的に朝鮮半島に近い近畿地方だけでなく、関東地方にも多くのゆかりの地がある。
相模国(現在の神奈川県の一部)には朝鮮からの渡来人が各所に住んでいた。なかでもよく知られるのは大磯である。作家の金達寿氏によると、オイソとは朝鮮語で「いらっしゃい」を意味する。この町にある高来(たかく)神社は旧名を高麗神社といい、高句麗からの渡来人に由来するといわれる。
なお日本では古来、高句麗のことを「高麗(こま)」といいならわしてきた。日本語の駒、駒下駄、駒岳、狛犬(こまいぬ)といった言葉は、いずれもそれからきたものだといわれる。駒(馬)という言葉そのものが朝鮮の国名に由来するという事実は、日本の馬文化と朝鮮半島の関係の深さを物語る。
その後、大磯の渡来人の一部は武蔵国の高麗村(現・埼玉県日高市)に移ったといわれる。日高市にある西武鉄道池袋線の高麗駅前には「天下大将軍」「地下女将軍」と記された朝鮮半島の道祖神(将軍標)が建てられている。
関東では5世紀の古墳の周溝などから、馬を殉葬した土壙も相次いで発見されている。おもに信濃国(長野県)、上野国(群馬県)、下総国(千葉県北部と茨城県の一部)などだ。いずれも古代国家の設置した牧の近くとみられる場所で見つかっている。牧で馬を育てるため、東国に住まわされた渡来人たちの残したものとみられる。
馬や馬具の生産にたけた渡来人の多くは、ある程度の軍事集団だったと推測される。実際、神亀元年(724年)に起こった大和朝廷の蝦夷(えみし)に対する戦争では、武将格で高句麗系の後部王起(こうほうのおうき)という人物が東北に派遣されている。
このことから、関東の古墳時代後期には、のちの東国の武士団の萌芽がすでに現れかけているとの見方もある。そうだとすれば、日本の武士の起源は、中央ユーラシア発祥の騎馬文化を身につけた朝鮮半島からの渡来人だったということになる。流鏑馬が草原を疾走する騎馬遊牧民を連想させるのは、自然なことなのである。
昨今、日本の文化を賛美し、他国文化を貶める風潮が目につく。だが古代の倭人は絶えず多くの渡来人を受け入れ、異文化を受容する姿勢を常に保った。それが奥行きのある日本文化を形づくったといえる。いつの時代も、文化の本質はグローバルである。
<参考文献>
古代史シンポジウム「発見・検証日本の古代」編集委員会編『騎馬文化と古代のイノベーション』(発見・検証日本の古代2)角川文化振興財団
北村厚『教養のグローバル・ヒストリー 大人のための世界史入門』ミネルヴァ書房
金達寿『日本の中の朝鮮文化(1)』講談社文庫
白石太一郎『古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか』文春新書
網野善彦・森浩一『馬・船・常民 東西交流の日本列島史』講談社学術文庫
(Business Journal 2018.11.21)
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