周知のように、この日程が決まるまでには紆余曲折があった。各種報道によれば、政府は当初、2018年中に公表することを前提に、夏ごろの公表も検討した。しかし、保守派から「早すぎる公表は今の陛下に失礼」との声があがる。結局、2019年にずれ込むことになった。保守派の政治圧力を受け、当初想定から大幅に遅れたかたちだ。
一方、政府は政府で、天皇の代替わりと新元号を国民の支持拡大につなげようとの思惑がちらつく。4月27日~5月6日には「天皇の即位に国民こぞって祝意を表すため」として10連休が設定され、5月26日からはトランプ米大統領を国賓として日本に招き、新天皇が会見する予定だ。
元号やその変更(改元)を政治的に利用してはならないとの意見がメディアでは飛び交う。趣旨には賛成だが、そう簡単ではない。歴史を振り返ればわかるように、元号とは政治の産物であり、広い意味での政治利用こそ本来の目的であるからだ。
元号の元祖である中国で元号が初めて定められたのは、紀元前2世紀、前漢の武帝の時代。「この国に流れる時間・年月とその年月下で生きている民衆を支配するのは王である」という古来の考えに加え、王の名前とは異なる良い意味の漢字を当て、その漢字が持つ意味と雰囲気を重ねた。統治者側の都合に基づくアイデアだったことが、元号の現在に至る本質を物語る。
この制度が中国の影響下にあった地域に広がり、それぞれの王朝が独自の元号を用いるようにもなっていく。日本もそんな国の一つだった。
日本最初の元号
奈良時代の歴史書『日本書紀』では大化元年(645年)を元号の開始とするが、当時の都のあった難波宮から、大化4年にあたるはずの年を「戊申年」と干支を使って表記した木簡が見つかっている。政府のお膝元でさえ、元号を使っていない。
実際に使われた元号の始めは飛鳥時代末期、701年からの「大宝」である。今から約1300年前に定められた、この日本最初の元号の背後に、早くも政治的な演出があったことが伝わっている。
この年の3月21日、元号制の開始が全国に指令された。それにはきっかけがあったとされる。歴史書『続日本紀』はこの日付の記事として「対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。元を建てて大宝元年と為す」と記す。対馬から日本で初めて金が産出し、これが献上されたことを祝って、元号を建て、すばらしい宝である金にちなんで、この年を大宝元年とするというのである。
実際には、たまたま金が見つかったからということで、いきなり初めて元号の使用が始まったとは考えにくい。当時の日本は中国を参考に、天皇制と官僚制を軸とする中央集権国家の建設を進めていた。元号の採用もその一環で、前々から準備されていたとみるべきだろう。大宝とはおめでたく華やかな元号で、第1号にふさわしく感じられる。
ところが、このエピソードには後日談がある。対馬から金が見つかったという報告は嘘だったのだ。『続日本紀』によれば、発見された金はじつは輸入品で、精錬業者と地元住民が共謀して「国内で産出しました」と偽って都に献上したという。
「大宝の年号制定に合わせるために、いろいろ無理をしたのであろうか」と歴史学者の鐘江宏之氏は著書『律令国家と万葉びと』で推測する。おそらくその見方は当たっているだろう。傍証となるのは、金発見の捏造に対する処分が書かれていないことだ。当時の政府は、金発見が嘘であることを承知のうえで、それを元号開始のきっかけとして利用したのだろう。今で言えば「やらせ」である。
この年、中国を手本に、わが国初の本格的な法典が制定された。のちに大宝律令と呼ばれる。その中で、公文書には元号を入れるよう定められた。地方の豪族の勢力を抑え、中央集権国家の基盤を固めたい政府にとって、元号の開始や、それが象徴する新しい国家体制(律令国家)に対する祝賀ムードを盛り上げることは、きわめて重要だったのである。
「一世一元」の背景
大宝以降、年を表記する際に元号を使うことは連綿と続き、現在に至る。その間、元号が政治的な駆け引きに利用されたケースは枚挙にいとまがない。
たとえば「辛酉(しんゆう)改元」の始まりである。元号が始まる以前から、年は「甲・乙・丙」などの十干(じっかん)と「子・丑・寅」などの十二支(じゅうにし)の組み合わせで表されてきた。全部で60通り。このうち辛酉(かのととり)の年は悪いことが起こるから、改元をすべきだと平安時代の漢学者、三善清行が言い出す。朝廷はこれを採用し、901年、「昌泰」から「延喜」に改元された。
作家の藤井青銅氏によれば、この辛酉改元は、三善清行がライバル関係にあった菅原道真への対抗上、持ち出した考えだともいわれる。清行は下級貴族の出身で、官吏の試験官を務めていた道真から試験に落とされた過去がある。そのときの恨みともいわれるし、右大臣にまで出世した道真を快く思わない政治勢力によって利用されたともいわれる(『元号って何だ?』)。学問の神様と呼ばれる道真はこの年、九州の太宰府に突然左遷され、まもなくその地で失意のうちに没する。
鎌倉時代以降、武士の時代になると、幕府も元号に対する影響力を強める。室町幕府の3代将軍、足利義満は「至徳」「明徳」などの元号を決めたとされる。戦国時代になり、室町幕府最後の15代将軍、足利義昭が「元亀」への改元を朝廷に申し出たところ、実力者の織田信長が待ったをかけた。義昭の意見で元号が決まれば、将軍の権威が復活してしまうと警戒したのだ。朝廷でも幕府でもなく、一戦国大名の意向で改元が左右される。武力を背景とする政治力のなせるわざだ。
徳川幕府を倒した明治政府は、天皇の在位中は元号を変えない「一世一元」とすることを決めた。この背景にも政治的な思惑があった。一世一元にすることで将来の改元についての駆け引きを封じ、まだ不安定な新政権を確たるものにしようと考えたのだ(藤井氏前掲書)。
一世一元の採用により、元号が政争の具になる可能性は小さくなったように見えた。しかし今回、冒頭で述べたように、元号そのものではないものの、事前公開の日程をめぐって政治の世界で暗闘が繰り広げられた。
もしこれが元号ではなく、西暦や、元号と並行して使われていた十干十二支による紀年法であれば、政治が介入する余地はない。政府に決定権はないからだ。しかし元号は、政府が決定するという性格上、政治利用の恐れから逃れられない。今や世界で日本しか使っていない元号を使い続けるのであれば、私たち国民はそのリスクを常に忘れず、警戒を怠らないことが必要だろう。
<参考文献>
鐘江宏之『律令国家と万葉びと』(全集 日本の歴史 第3巻)小学館
藤井青銅『元号って何だ? ~今日から話せる247回の改元舞台裏~』小学館新書
坂上康俊『平城京の時代』(シリーズ日本古代史 4)岩波新書
(Business Journal 2019.03.10)
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