2020-09-16

平安時代、国風文化=純然たる日本文化という嘘…貴族による海外品“爆買い”が文化醸成

最近は中国の景気減速や人民元安などで一時に比べ勢いが鈍っているものの、中国人富裕層による活発な消費行動は日本でも注目の的だ。その大胆な買いっぷりは「爆買い」と驚きの目で見られるが、その一方で、「買いあさり」と蔑む向きも少なくない。

金に物を言わせる態度に反発したくなる気持ちはわかる。けれども忘れてはいけない。日本人自身、戦後の高度成長期やバブル期には、今の中国人と同じく、海外高級ブランド品などの大量購入が、欧米から「買いあさり」とおとしめられていた。


それだけではない。歴史上、日本人なら誰もが優雅なイメージを抱く時代に、高貴とされる人々が目の色を変え、先を争って高級で珍しい舶来品を買いあさっていたのだ。時代は平安時代、買いあさりの主役は平安貴族たちである。

当時、舶来品は「唐物」(からもの)と呼ばれた。本来は中国からの舶来品、もしくは中国を経由した舶来品を指す言葉だったが、それが転じて、広く異国からの舶来品全般を総称するものとなった。華やかに繰り広げられる宮廷行事において、その場を飾る品や献上品として、唐物は重要な役割を果たした。皇族やその周囲の貴族層は、唐物という入手困難な贅沢品を手に入れることで、みずからの政治的・文化的優位を示そうと躍起になったのである。

唐物の需要が高まったことを背景に、863年には唐物使(からものつかい)と呼ばれる、外国の商船がもたらした唐物を朝廷が優先的に買い上げるための使者が、朝廷から福岡の大宰府に派遣されるようになる。朝廷が唐物を独占するための仕組みである。

ところが朝廷による独占は長続きしなかった。唐船が博多に到着すると、朝廷が唐物使を派遣することになっているのに、その前に平安京の貴族たちが私的な使者を遣わし、競って唐物を買い集めたからである。大宰府周辺の富裕層も購入に加わった。朝廷はこれらの行為を禁止したものの、効き目は薄かった。朝廷の唐物独占のシステムが揺らぐと、商人が売買に乗り出し、貴族や富裕層に唐物が広く普及することになった。

一方で、博多湾には新羅や唐の商人が自由交易を求めて来航するようになる。こうした民間貿易の拡大を背景に、日本史上、有名な出来事が起こる。遣唐使の停止である。

遣唐使は、朝廷が唐に派遣してきた公式の使節だ。894年、「学問の神様」として知られる菅原道真が56年ぶりの遣唐使の大使に任命されたが、道真は停止を建議した。唐から届いた留学僧の手紙により、唐国内の混乱や衰退を知っていたためだ。

近年の研究では、道真の建議が採用され、朝廷が正式に遣唐使を廃止したのではなく、いわばなし崩し的に派遣されなくなっていったとの見方が有力だ。いずれにしても、使節団の派遣による公的な国際交流はあっさり打ち切られた。


遣唐使の停止後、民間交易は盛んに


しかし、これはあくまで国家間の交渉についての話である。遣唐使の停止後、民間の交易はむしろ盛んになっていく。その背景には、中国・朝鮮地域の混乱によって国家の交易に対する統制が弱まり、商人が自由に活動できる状況が生まれた点がある。それとともに、唐物に対する日本貴族の憧れが根強かったためでもある。

10〜11世紀の高官、藤原実資の日記「小右記」によると、実資は、大宰府の官人で、実資が所有していた筑前国の荘園の荘司でもあると思われる人物から唐物を送られており、一方で、九州諸国の受領や大陸商人からも唐物を入手している。貴族たちはさまざまなルートを通じて、むしろ遣唐使の時代よりも多種多様な唐物を手に入れていたとみられる。

唐物が平安貴族の日常にどのように浸透していたかは、当時の文学作品からうかがうことができる。たとえば、清少納言の随筆『枕草子』には唐物関連の語彙が散見される。唐鏡、唐錦、瑠璃の壺、鸚鵡(おうむ)、唐の紙、唐綾、唐の薄物などだ。贅沢品であり、高嶺の花の唐物ではあるが、宮廷、特に清少納言が仕えた藤原定子(一条天皇の皇后)の周辺では日常的に触れる機会が多かったと思われる。

清少納言が初出仕した頃を語る段では、香木の沈香(じんこう)で作られた火桶が登場する。沈香は南方からの舶来品で、中国や朝鮮からの中継貿易で平安京にもたらされた。貴重な沈香を火桶という日用品に使用した様子を描くことにより、定子の父である関白・藤原道隆の財力を誇示した語り方といえる。

道隆一族が積善寺で行なった供養を語る段では、定子は唐綾や唐の薄物など唐物の上に、禁色(勅許がないと着用不可)である赤色の唐衣を着用するという、唐物のブランド性を最大限に生かした豪華な衣装が現れる。これも道隆一族の富と繁栄を見事に伝えている。

高級ブランド品の爆買いを蔑むなかれ


同時代に紫式部によって書かれた、日本古典文学の最高峰と言われる『源氏物語』にも唐物が登場する。たとえば、主人公・光源氏の晩年の正妻である女三宮は、結婚前の裳着の儀式で、父・朱雀院により国産の綾や錦が一切排除され、舶来の唐物の綾錦だけで最高級の唐風の調度が整えられる。

清少納言や紫式部の時代は、国風文化の最盛期といわれる。以前は、それまでの唐風文化が、遣唐使の停止によって10世紀に純然たる日本文化である国風文化に変化したと説明されていた。しかし現在では、この見方はほぼ否定されている。すでに述べたように、大陸からの唐物は遣唐使停止後も、民間交易によって盛んにもたらされていたからである。

菅原道真の建議を受け、朝廷が遣唐使の派遣を見送ったのも、遣唐使のような危険で経済的負担の大きい使節団に頼らなくても、民間交易で大陸からの文物や情報の流入が確保されていたからだ。

国文学者の河添房江氏は、国風文化について「鎖国のような文化環境で花開いたものではなく、唐の文物なしでは成り立たなかった文化」と述べるとともに、「唐風の奢侈品(贅沢品)を享受する環境にあって醸成された文化」(『唐物の文化史』)と指摘する。

十二単(じゅうにひとえ)の色づかいが来年の東京五輪のデザインに利用されるなど、平安時代の文化は日本の美や美意識を象徴するものとしてしばしば語られる。けれども純粋な日本文化であるかのように見える平安文化は、交易を通じた海外文化の影響なしでは成立しなかったし、高級な舶来品を買いあさる貴族や富豪の物欲に支えられてもいた。

平安文化のように魅力ある文化を未来に残したいのであれば、グローバルな貿易を関税引き上げなどで阻害しないことはもちろん、高級ブランド品の爆買いを蔑んだりしない、おおらかさが必要だろう。

<参考文献>
佐藤信編『大学の日本史 1.古代―教養から考える歴史へ』山川出版社
宮崎正勝『「海国」日本の歴史: 世界の海から見る日本』原書房
河添房江『唐物の文化史――舶来品からみた日本』岩波新書

Business Journal 2019.11.11)

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