「産経WEST」の報道によれば、遺跡中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨な行為があったと考えられるが、その背景は明らかになっていない。
人間はなぜ戦争をするのか。古くから多くの思想家や研究者が答えを探してきた問いだ。日本で戦争が始まったとされる弥生時代の歴史は、その難問に対するヒントを与えてくれる。
通説では紀元前4世紀ごろに九州北部で始まったとされる弥生時代といえば、水稲農耕が始まった時代として知られる。縄文時代晩期に渡来人によって北九州に伝えられた水稲技術が、まず西日本、次いで東日本にも広まった。
同じ時期に日本列島に広まったものがある。戦争だ。
考古学の研究結果によれば、狩猟採集に基礎を置く縄文時代には、集団と集団とがぶつかり殺し合う戦争はなかった。専用の武器をつくらなかったし、ムラの守りを固めることもなかった。殺されたことが確かな埋葬人骨もごく少ない。
ところが弥生時代に入ると様子が一変する。周囲に堀を巡らした環濠集落や、台地や山頂に築く高地性集落など、防御を固めた集落が現れる。青銅・鉄・石による専用の武器が登場し、武器を祭器として尊崇する信仰まで生まれる。
とくに強烈な印象を残すのは、前述の青谷上寺地遺跡でも見つかった、殺傷された証拠を残す人骨である。神戸市の新方遺跡の墓地では、1列に葬られた男性3人の遺骨の中から、それぞれ石鏃が見つかった。そのうち壮年から熟年のたくましい男性は、頭から胴と腕にかけて、17個もの鏃を射ち込まれていた。いろいろな方向から弓矢で集中攻撃されたらしい。
奈良市の四分遺跡の例もすさまじい。1つの木棺に一緒に葬られた若い男女の遺骨のうち、女性のほうは胸の部分に石鏃が1本。男性のほうは、背中や腰の左右から、鉄の武器で刺されたり切られたりした傷が数カ所、左の肩甲骨や左右の腸骨にある。さらに左の目あたりが鋭利な凶器で骨までざっくりと削られている(松木武彦『人はなぜ戦うのか』)。
弥生時代に農耕と戦争が同時に広まった理由として、歴史学の通説では、農耕社会では狩猟採集よりもたくさんの生産物がとれ、富ができやすいから、その奪い合いが引き金となって戦争が起きると説明されてきた。
国家は欲しい物をつねに暴力で奪う
しかし、この説明には飛躍がある。人が他人の富を手に入れる方法は、奪うだけではないからだ。ドイツの社会学者フランツ・オッペンハイマーは、人間が生きるために必要な富を手に入れ、欲望を満足させるには、根本的に対立する2つの手段があると指摘した。労働と略奪である。
オッペンハイマーのいう労働には、自分の労働で物をつくりだすだけでなく、それを互いの合意のもとに他人と交換することも含む。一方、略奪とは欲しい物を暴力や詐欺によって他人から一方的に奪うことを指す。オッペンハイマーは労働を「経済的手段」と呼び、略奪を「政治的手段」と呼んだ。政治の主体である国家は、欲しい物をつねに暴力で奪うからだ。奪う相手が自国民なら課税で、他国民なら戦争でという方法の違いがあるにすぎない。
他人の富の略奪を目的とする戦争は、明らかに略奪である。しかし、富が欲しければ、交換という選択肢もあるはずだ。事実、弥生時代は異なる集団の間に戦争しかなかったわけではない。石材、木材、山海の産物など縄文時代以来の日常物資の平和な交換が、むしろ普通だった。
だとすれば、問わなければならないのは、なぜ農耕によって築かれた富を手に入れる際、平和な交換という方法だけでなく、戦争という方法が新たに加わったかだ。
戦争と課税はコインの裏表
考古学者の松木武彦氏は、人工物や社会をつくったヒトの心に注目する「認知考古学」に基づき、弥生時代における本格的な稲作農耕と戦争とは、ひとつの文化を構成するセットをなしていた可能性があると指摘する。そのルーツは遠く海外にある。
日本の縄文時代後半、世界ではいわゆる四大文明が芽生え、栄えていた。メソポタミアのチグリス・ユーフラテス両川のほとり、エジプトのナイル河谷、インドのインダス川上流、中国の黄河流域では世界に先駆けて大規模な農耕が始まり、都市が現れ、軍隊をもって戦争を行う古代国家が生み出され、王侯や貴族が支配の頂点に立つ社会が発達する。
きっかけは当時地球上で進行した寒冷化に伴い、温暖なこれらの地帯に周囲から多くの集団が流れ込んだことにある。環境の変化を乗り切る方策のひとつとして、農耕によって自然を支配する一方で、武力によって人を支配するという支配的性向をもつ文化が編み出された。この文化が中国から日本に伝わり、弥生時代の戦争をもたらしたと松木氏はみる(『列島創世記』)。
同じく考古学者、寺沢薫氏の指摘も興味深い。同氏はR・カーネイロの2つの戦争モデルを紹介する。第1は、アマゾンなど広大な未開の森林を控えた地域だ。負けたグループは征服や賠償の対象にされようものなら、森林の奥地に引っ越す。
第2は、これとは対照的なペルーの海岸地帯だ。戦争で負けたグループは逃げるところがない。殺されるか勝者に隷属するかだ。敗者は勝者の政治組織に吸収される。この政体が拡大しペルー全体をまとめるようになったとき、インカ帝国が成立した。四大文明発祥の地もおおかたこのモデルだという。
弥生時代の九州北部は第2のモデルそのものだと寺沢氏は言う。戦争に勝った共同体と敗れた共同体の間には歴然とした階級関係が生まれる。敗北した共同体は首長の下に一見従来どおりの生活を送っているように見えるが、じつは支配共同体に生産物や労働力の一部を貢納というかたちで税金のように支払ったり、特殊技術を提供したりする義務がある。
寺沢氏は、九州北部では過酷な戦争を通じ、日常的な小共同体がクニ(大共同体)や国(大共同体群)、その連合へと統合されたと述べ、弥生時代前期末の紀元前3世紀末に生まれたクニこそが日本列島における最初の国家だとみる。定説とされる7世紀を大きくさかのぼる説だ。
それでもオッペンハイマーが言うように国家の本質が略奪にあるとすれば、戦争でほかの共同体を隷属させ、税で財産を奪うクニは、小規模ながら立派な国家といえよう。国家は戦争から生まれ、課税によって育つのだ。
ここで戦争についてひとつの教訓が導かれる。国家が他国民の富を奪う戦争と、自国民の富を奪う課税は、同じコインの裏表である。どちらも平和な交換を拒絶し、暴力に訴える略奪の異なる形態にすぎない。
課税が最終的には暴力によって実行されることは誰もが知っている。世界から戦争をなくすには富裕層に増税し富の再分配を強化せよという主張もあるが、まったくの誤りだ。課税という暴力を好む心で、戦争の暴力をなくすことはできない。
<参考文献>
木下正史『倭国のなりたち』(日本古代の歴史 1)吉川弘文館
松木武彦『人はなぜ戦うのか——考古学からみた戦争』中公文庫
松木武彦『列島創世記』(全集 日本の歴史1)小学館
寺沢薫『王権誕生』(日本の歴史 02)講談社学術文庫
(Business Journal 2018.09.20)
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