平泉といえば、世界遺産にも指定された日本有数の文化遺産で知られる。2011年、「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の名で、中尊寺、毛越寺(もうつうじ)、無量光院跡など5件が世界遺産に登録された。
世界遺産への登録名でもわかるように、平泉の文化遺産は平安時代末期(院政期)の仏教文化を今に伝える。ところがそこに示された平泉の仏教文化は、日本の中心とされた京都の模倣ではなく、海を越えた中国と直接結びつく独自性を持っていた。日本列島の辺境とみなされがちな東北で、なぜそのように高度な文化が育まれたのだろう。
奥州藤原
平安末期、平泉を百年にわたり支配したのは、奥州藤原氏である。前九年・後三年の役を経て東北の覇者となった藤原氏は1094年頃、陸奥国(奥州)平泉に居館を置いた。一族は仏教を厚く信仰し、現世における「仏国土」(浄土)の建設を志す。初代の藤原清衡は中尊寺、二代基衡は毛越寺、三代秀衡は無量光院をそれぞれ造営した。
中尊寺金色堂や無量光院は、当時の先進文化である浄土教の信仰を具現化した阿弥陀堂建築である。金色堂には浄土往生を体現した藤原氏歴代のミイラを納める。同じく中尊寺大長寿院では、通常の阿弥陀堂とは異なる巨大な十体もの阿弥陀像が安置されている。殺生をなりわいとする武将だった清衡が、戦死者の鎮魂と地獄界からの救済を祈念したものだ。岩手大学平泉文化研究センター客員教授の菅野成寛氏は「類例を見ないオリジナルな浄土教文化」と指摘する(『平泉の光芒』)。
中尊寺金色堂はその名のとおり、黄金をふんだんに使用している。現在当時を彷彿とさせるものは、金色堂しか残されていない。しかし金色堂だけが特別だったわけではなく、中尊寺全体が随所に黄金を用いた豪奢な建築群だったと想像される。
金は奥州の特産だった。奥州の金は、8世紀に奈良の大仏を建立する際、初めて発見されたといわれる。砂金は高価で持ち運びに便利なことから増賜用、貿易用として珍重され、膨大な量が京都や海外に向けて流れ続ける。平安貴族は黄金で購入した唐物(舶来品)で身の回りをきらびやかに飾り、黄金の備蓄と使用をステータスとした。日宋貿易を重視する平氏が覇権を握ると、金は上層武家の間でも重宝される。
清衡が平泉に居を構えてから33年の間に、延暦寺、園城寺、東大寺、興福寺など日本を代表する大寺院で、寺ごとに「千僧供養」を挙行した。千僧供養とは千人の僧を集めた大規模な法要である。千人の僧に対する布施だけでも砂金千両が必要とされ、それだけでも大変な出費だ。
しかも驚くことに、清衡が千僧供養を開いたのは日本国内だけではなかった。中国・宋の明州(寧波)郊外に位置する天台山国清寺でも開催させた。国清寺は清衡の時代、東アジアにおける仏教の総本山ともいうべき地位にあり、日本の僧侶や信者の参詣先になっていた。
明州は当時、宋最大の貿易港の一つ。日宋貿易の窓口にもなっていた。明州からは多くの商人が博多に訪れ、唐坊と呼ばれるチャイナタウンを形づくる。さらに博多から瀬戸内海、太平洋沿岸を経由し、北上川をさかのぼって平泉に到達する交易のルートがあった。
中国から平泉にもたらされた代表的な品は、磁器だった。なかでも人気が高かったのは、白磁と呼ばれる純白の磁器である。平泉の遺跡からは、とくに高級な白磁の壺などが多く出土している。藤原氏が宴会儀礼で人々を魅了するための「威信財」として入手したとみられる。
ただし、中国から輸入する白磁だけでは、平泉の旺盛な需要を満たすことができない。そこで輸入品のコピーとして東海地方で渥美焼、常滑焼が製作され、はるばる平泉まで運ばれた。渥美焼については、職人を平泉に招き寄せ、製作にあたらせることさえあったという。
中央集権的な古代国家に大きな転機
古くから、交易のルートは同時に文化伝達のルートでもある。藤原氏は宋との交易ルートを通じ、当時の東アジアのグローバルスタンダードである仏教を直接学び、取り入れたのである。たとえば中尊寺に納められた仏教聖典の集大成「宋版一切経」は、砂金10万5000両と引き換えに宋から輸入されたとされる。
一方、明州から平泉へのルートを逆にたどって、白磁など舶来品の見返りとして宋にもたらされたのが、奥州の黄金だった。中国では金の産地が雲南などに限られ、高価だった。当時、日本では金が銀の4倍の値段で取引されたのに対し、中国では約7倍だったという。大きな差益が得られる金貿易は宋の商人にとって魅力的だった。
イタリアの商人、マルコ・ポーロによって記述された「黄金の国ジパング」の伝説は、中尊寺金色堂のイメージがもとになったとの見方もある。ジパング伝説がコロンブスの航海を後押しし、アメリカ大陸への到達につながったことを考えると、平泉が世界史に及ぼした影響は驚くほど大きい。
藤原氏が国内外に張り巡らした交易ルートを実際に移動し、取引を行ったのは、活力に満ちた内外の商人たちだった。金売吉次(かねうりきちじ)は奥州の黄金を京で売って長者になったという伝説的人物だ。牛若丸時代の源義経を平泉の藤原秀衡のもとに連れて行ったといわれる。
その義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした後、兄の源頼朝と対立し、平泉の秀衡のもとに落ち延びる。秀衡の死後、その子の泰衡は義経を殺害して頼朝との協調をはかったが、頼朝は大軍を率いて奥州に乗り込み、藤原氏一族を滅ぼす。1189年のことである。百年にわたる奥州藤原氏の栄華は、ここに幕を閉じた。
歴史学者の入間田宣夫氏は、奥州藤原氏の時代、国内外にわたる民間交易ルートが発展することにより、中央集権的な古代国家に大きな転機がもたらされたと指摘する。京都一極集中の下で中央官僚がすべてを取り仕切る古代社会は、地方が自主的に判断し発言する中世社会へと転換していった。平泉はその起爆剤となったのである。
現代の日本は、東京一極集中の下、肥大した中央官僚組織の弊害があらわになっている。地方が独自に海外と結びつき、経済的に自立するとともに、中央の模倣ではない文化を育むうえで、奥州藤原氏の雄大な世界戦略は貴重なヒントになるはずだ。
<参考文献>
柳原敏昭編『平泉の光芒』(東北の中世史)吉川弘文館
宮崎正勝『黄金の島ジパング伝説』(歴史文化ライブラリー)吉川弘文館
入間田宣夫『藤原清衡 平泉に浄土を創った男の世界戦略』集英社
(Business Journal 2020.03.01)
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