物流網の整備というと、政府による計画や支援を思い浮かべやすい。しかし歴史上、物流網の構築に大きな役割を果たしたのは、民間の起業家たちだった。
江戸時代の経済発展を支えたのは海上交通である。江戸という巨大な消費都市を支えるために、大坂から江戸へ呉服・木綿・油・酒・醤油などの多様な商品が運ばれた。大坂から江戸へ運ばれる商品は、「下り荷」と呼ばれた。「下り荷」は、江戸に住む参勤交代の大名や旗本など武家の需要が中心であり、上質なものが選ばれた。 品質の水準が劣るものは、大坂の地元で消費され、「下らぬ物」といわれた。
江戸時代の経済の担い手は当初、都市商人だった。その典型的な例は、江戸十組問屋仲間や大坂二十四組問屋仲間を結成していた問屋商人、小売商人たち、および東西を結ぶ輸送に従事した菱垣廻船、樽廻船という廻船集団である。これら商人たちは、幕府や藩権力と持ちつ持たれつの関係で結びついていた。
菱垣廻船や樽廻船は、江戸の商人・河村瑞賢が17世紀後半、幕府の命を受けて整備した東廻り・西廻り海運を利用し、当時の主力商品である米を生産地から消費地へと運んだ。
ところが18世紀以降、それまでの官主導の経済体制では対応できない出来事が起こる。大規模な飢饉である。とりわけ1780年台に襲った天明の大飢饉は、東方地方を中心に被害が甚だしく、餓死者は仙台藩だけで約30万人に達したという。
飢饉は社会に深い爪痕を残したが、その一方で、日本の経済構造に大きな変化をもたらす契機にもなった。全国的な海運再編を促したのである。
飢饉は天候不順や自然災害をきっかけに起こるが、経済体制が柔軟であれば、防ぐことができる。貿易の発達した現代の世界で、飢饉が前近代より少ないのはそのためだ。しかし、幕藩権力の保護のもと機能してきた江戸前期の流通機構では、飢饉のような非常事態への緊急対応は不可能だった。
一方、幕藩権力のしがらみから割合自由な新興海運業者にとって、食物の迅速な運搬が求められる飢饉は、むしろ商機となりえた。こうして飢饉をきっかけに、新たな海運勢力が各地で勃興していく。天明の大飢饉のさなかには、地方の廻船業者で船の数が急速に増大するという興味深い変化もあった。これは主として、近距離航路に就航した小型船の増大によるものだった。
地方で台頭した新興海運勢力の代表といえるのが、北前船と内海船である。
北前船は、北海道や東北の物資を、松前(北海道南西部)や日本海各地に寄港し、下関を廻って大坂などに輸送した。
有力船主の一角を占める福井県河野浦の右近権左衛門家は、7代目のとき、天明の大飢饉に遭遇する。7代目の記した「万年店おろし帳」には、飢饉のなかで、蝦夷地の江差での交易が、同家に大きな利益をもたらしたと記されている。また大福帳のほかに「店卸帳」を作成し、素朴ながらも資産管理を行おうとしていた。ここからも同家が天明飢饉を契機に、業容を拡大し始めたことがうかがえる。
一方、内海船は、尾張国知多半島の内海村を主な拠点とした廻船である。尾州廻船ともいう。主に江戸〜上方間の輸送で活躍した。
内海船を代表する船主が、内田佐七家である。初代佐七にとって最初のビジネスチャンスは、1830年(文政13)のお蔭参りであった。お蔭参りとは江戸時代に流行した伊勢神宮への集団参詣で、文政年間には数カ月間に約200万人が、全国から伊勢へ押しかけたという。佐七はこの機会を機敏にとらえ、伊勢方面に大豆を売り込んでかなり大きな利益を得た。
さらに大きな商機となったのが、1833年(天保4)に始まった天保の大飢饉である。このとき、佐七は伊勢湾や瀬戸内方面ではまだ若干余裕があった米を買いつけ、米不足にあえぐ江戸市場に輸送し、巨額の利益を獲得した。おりしも大坂では、江戸への米移出に反対して大塩の乱が勃発していたが、内田家はこれをかいくぐって、江戸への米輸送を果たしたのだった。
佐七の廻船経営は安いところで買い、高いところで売るという、買積商法だった。現代なら当然の商行為だが、江戸時代としては危険な行為だった。当時の経済原則は、幕府や藩が特定の商人仲間に商品独占を認める見返りに、それら特権商人から運上金や冥加金を上納させ、また物価維持政策にも協力させるというものだったからである。したがって特権商人の独占を脅かすものは、幕府や藩が取締りや弾圧の対象とすることもあった。
ところで内田家が登場した文化文政期は、江戸を中心に民衆の食生活に革命が起きた時期とされる。握り寿司・てんぷら・蒲焼き・豆腐料理・麺料理など、おもな和食のほとんどは、このころ江戸で急速に普及するようになり、今日に続く味わいを確立するのである。
こうした和食文化の確立は、味噌・醤油・味醂・酢などの醸造調味料、ならびに昆布・鰹節などの海産調味料の大量供給があってはじめて一挙に花開いたといえる。そして味噌や醤油の原料である大豆を運んだ内田家の尾州廻船や、昆布を運んだ右近家の北前船こそ、まさにこうした食文化の革命を、流通の面から支える海運勢力だった(伊藤雅俊他『「商い」から見た日本史』)。
北前船や内海船といった、利にさとい起業家たちがいなければ、今の日本が世界に誇る和食文化は生まれなかったかもしれない。
大坂〜江戸間の内海船、日本海・西廻り航路の北前船と並び、東北太平洋・東廻り航路を担ったとされるのが、石巻周辺を本拠とする奥筋廻船である。これら三つの勢力は互いに連結し、日本列島沿岸を一周する沿海海運網を形作った。
新興海運勢力が生み出した、この全国的流通網は「領主の意図が支配する領主的流通ではなく、市場競争の原理から起動される新たな民間型の流通であり、それが全国市場の形成につながっていく」(『大学の日本史・近世』)と歴史学者の斎藤善之氏は指摘している。
<参考文献>
- 伊藤雅俊・網野善彦・斎藤善之『「商い」から見た日本史―市場経済の奔流をつかむ』PHP研究所
- 斎藤善之『海の道、川の道』(日本史リブレット)山川出版社
- 杉森哲也編『大学の日本史―教養から考える歴史へ 〈3〉近世』山川出版社
- 中里裕司編『日本史の賢問愚問』山川出版社
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