江戸幕府によって貿易の道をふさがれ、都市の市場での物品販売が唯一の幕府貨幣獲得手段となった諸大名にとって、最大の産物である米をより高く売りさばくことが、財政上の重要課題となっていた。
当時の都市の中で、豊臣政権下で蓄えた経済的豊かさを江戸時代に継承し、東西の交通の要衝として整備された大坂は、後発の江戸などとは比べようもないほどのにぎわいだった。米の流通・換金においても、さまざまな面で有利だった。
大坂での初期の米取引は、領主米の販売を委託された米問屋(蔵元)が、自店の店先に米仲買人を集めた米市で行われていた。有力だったのは戦国期以来の豪商淀屋で、井原西鶴の『日本永代蔵』にも取引の盛んな様子が描かれている。
藩にとって、この米の委託販売は管理上、煩瑣で複雑なものになってきたので、大坂に領主米を置く蔵を建て、そこに実務担当者(蔵役人)を配置するようになる。 これが大坂の蔵屋敷の発端といわれる。各藩の米取引の責任者である蔵役人には、藩の厳しい財政をやりくりするため、蔵の米を思惑通りの値段で仲買人に買わせ、藩に必要な資金を調達するという使命があった。
元禄年間には95の蔵があった。この蔵屋敷で、国元から送られてきた物産を大坂の商人に売りさばくのだが、米については売買で移動させるには重くてかさばることから、「米切手」と呼ばれる証書の形で販売した。
通常の米切手は、厚紙を裁断した長方形の用紙に、切手と交換できる俵の数、産年、蔵名、通し番号などが記載されている。この米切手を発行元の蔵屋敷に持参すれば、実物の米と引き替えることができるわけだが、多くの場合、米切手は第三者へ転売された。この転売市場が堂島米市場である。
もともと淀屋の門前で立っていた米市が1697(元禄10)年、堂島(大阪市北区)に移り、ここでの米相場が全国に大きく影響するようになった。1730(享保15)年に米仲買に株が許可され、堂島は幕府官許の米市場として発展する。
米市場とは呼ばれるものの、堂島では実物の米を売買したわけではない。堂島の取引風景を描いた絵を見ると、米俵は描かれていない。すでに述べたように、堂島は米切手の取引市場であり、米俵の取引市場ではないのである。さらにいえば、取引風景には米切手すら描かれていない。取引はすべて帳簿上で管理され、米切手と現金のやりとりが取引のたびごとに行われることはなかった(高槻泰郎『大坂堂島米市場』)。
さて各藩は、年貢として徴収した米や商品作物の売却益といった収入の中から、江戸藩邸費用、参勤交代費用、普請手伝い費用、治水事業費用などを支出していたが、相次ぐ大規模干拓事業などの実施により、江戸初期から多くの藩は財政が苦しかった。
各藩が不足する資金を調達する方法としては、蔵屋敷に出入りする掛屋といわれる商人から借りる方法があった。これとは別にもう一つ、不足する資金を調達する方法があった。いわゆる「空米切手」を利用した、堂島米市場からの資金調達である。
米切手は建前としては、蔵から販売される米の量に見合った量で発行されている。しかし実際には、蔵にある米の量より多くの米切手が発行されていた。このような、蔵にある米を超える米切手を「空米切手」という。形式的にはどの米切手も同じもので、どれが空米切手で、どれがそうでない米切手かという区別があるわけではない。
各藩にとって米切手は、ある種の「打ち出の小槌」のようなもので、財政上の都合でついつい過剰に発行しがちなものだった。米切手の保有者が米との引き替えを求めて一斉に殺到しない限り、交換できなくなる恐れは小さいものの、破綻に直面するリスクはつねに存在していた。
実際、江戸幕府は空米切手禁止令(米での交換が確約できない米切手の発行禁止)を何度か出し、米切手が交換できない事態をできるだけ減らそうとした。しかしやはり何度か、米切手を米と交換できない事態に陥る。有名なのは筑後国(福岡県)久留米を本拠とした久留米藩のケースだ。
1620(元和6)年に成立した久留米藩は、島原の乱への出陣、飢饉や洪水の復旧などで出費がかさんだ結果、財政難に陥る。進退極まってとった選択は、空米切手の乱発だった。
1791(寛政3)年、久留米藩蔵屋敷に54名の米商人が押しかけ、米切手と米の交換を速やかに行うことと、過剰に発行された米切手の回収を要請する。これに対し蔵屋敷には交換に応じるだけの米はなく、やむなく蔵役人は米との交換を断った。この対応に米商人は、蔵屋敷の蔵元らを相手取り、8万5830俵余の蔵米出し不履行を大坂町奉行所に訴え出たのだった。
奉行所の調べによれば、久留米藩蔵屋敷が保有していた蔵米はわずか2370俵しかなく、米切手8万5830俵分のほぼすべてが空米切手だった。米商人たちは「米で返せなければ金で返せ」と久留米藩に迫った。
米商人の要求どおりにすれば、さらに久留米藩の財政は困窮するが、今後、米商人に筑後米を買ってもらえなくなれば、藩の存続そのものが危うくなる。やむなく、久留米藩はありったけの米を出して返済した。それでも不足する5万9220俵については、大部分を両替商からの借入れで返済している。結局、久留米藩の借金は、減るどころかいっそう膨らむことになった(日本取引所グループ『証券市場誕生!』)。
久留米藩で起こったことは、現代の銀行取り付け騒ぎを連想させる。銀行は短期の借入れ(預金)で長期の貸し付け(投資)を行っているが、この双方の満期に不一致がある。これが取り付け騒ぎ発生の根本的な原因だが、これは、蔵にある米が米切手の量と見合っていないことに似ている。
現代では取り付け行動を防ぐために預金保険制度が導入されているが、金融機関の不健全な経営を許容するモラルハザードを招きかねないなど、弱点もある。金融機関にしろ、かつての藩のような政府機関にしろ、金融危機の根本の原因である不健全な財務に陥らない心がけが何より大切だろう。
大坂での初期の米取引は、領主米の販売を委託された米問屋(蔵元)が、自店の店先に米仲買人を集めた米市で行われていた。有力だったのは戦国期以来の豪商淀屋で、井原西鶴の『日本永代蔵』にも取引の盛んな様子が描かれている。
藩にとって、この米の委託販売は管理上、煩瑣で複雑なものになってきたので、大坂に領主米を置く蔵を建て、そこに実務担当者(蔵役人)を配置するようになる。 これが大坂の蔵屋敷の発端といわれる。各藩の米取引の責任者である蔵役人には、藩の厳しい財政をやりくりするため、蔵の米を思惑通りの値段で仲買人に買わせ、藩に必要な資金を調達するという使命があった。
元禄年間には95の蔵があった。この蔵屋敷で、国元から送られてきた物産を大坂の商人に売りさばくのだが、米については売買で移動させるには重くてかさばることから、「米切手」と呼ばれる証書の形で販売した。
通常の米切手は、厚紙を裁断した長方形の用紙に、切手と交換できる俵の数、産年、蔵名、通し番号などが記載されている。この米切手を発行元の蔵屋敷に持参すれば、実物の米と引き替えることができるわけだが、多くの場合、米切手は第三者へ転売された。この転売市場が堂島米市場である。
もともと淀屋の門前で立っていた米市が1697(元禄10)年、堂島(大阪市北区)に移り、ここでの米相場が全国に大きく影響するようになった。1730(享保15)年に米仲買に株が許可され、堂島は幕府官許の米市場として発展する。
米市場とは呼ばれるものの、堂島では実物の米を売買したわけではない。堂島の取引風景を描いた絵を見ると、米俵は描かれていない。すでに述べたように、堂島は米切手の取引市場であり、米俵の取引市場ではないのである。さらにいえば、取引風景には米切手すら描かれていない。取引はすべて帳簿上で管理され、米切手と現金のやりとりが取引のたびごとに行われることはなかった(高槻泰郎『大坂堂島米市場』)。
さて各藩は、年貢として徴収した米や商品作物の売却益といった収入の中から、江戸藩邸費用、参勤交代費用、普請手伝い費用、治水事業費用などを支出していたが、相次ぐ大規模干拓事業などの実施により、江戸初期から多くの藩は財政が苦しかった。
各藩が不足する資金を調達する方法としては、蔵屋敷に出入りする掛屋といわれる商人から借りる方法があった。これとは別にもう一つ、不足する資金を調達する方法があった。いわゆる「空米切手」を利用した、堂島米市場からの資金調達である。
米切手は建前としては、蔵から販売される米の量に見合った量で発行されている。しかし実際には、蔵にある米の量より多くの米切手が発行されていた。このような、蔵にある米を超える米切手を「空米切手」という。形式的にはどの米切手も同じもので、どれが空米切手で、どれがそうでない米切手かという区別があるわけではない。
各藩にとって米切手は、ある種の「打ち出の小槌」のようなもので、財政上の都合でついつい過剰に発行しがちなものだった。米切手の保有者が米との引き替えを求めて一斉に殺到しない限り、交換できなくなる恐れは小さいものの、破綻に直面するリスクはつねに存在していた。
実際、江戸幕府は空米切手禁止令(米での交換が確約できない米切手の発行禁止)を何度か出し、米切手が交換できない事態をできるだけ減らそうとした。しかしやはり何度か、米切手を米と交換できない事態に陥る。有名なのは筑後国(福岡県)久留米を本拠とした久留米藩のケースだ。
1620(元和6)年に成立した久留米藩は、島原の乱への出陣、飢饉や洪水の復旧などで出費がかさんだ結果、財政難に陥る。進退極まってとった選択は、空米切手の乱発だった。
1791(寛政3)年、久留米藩蔵屋敷に54名の米商人が押しかけ、米切手と米の交換を速やかに行うことと、過剰に発行された米切手の回収を要請する。これに対し蔵屋敷には交換に応じるだけの米はなく、やむなく蔵役人は米との交換を断った。この対応に米商人は、蔵屋敷の蔵元らを相手取り、8万5830俵余の蔵米出し不履行を大坂町奉行所に訴え出たのだった。
奉行所の調べによれば、久留米藩蔵屋敷が保有していた蔵米はわずか2370俵しかなく、米切手8万5830俵分のほぼすべてが空米切手だった。米商人たちは「米で返せなければ金で返せ」と久留米藩に迫った。
米商人の要求どおりにすれば、さらに久留米藩の財政は困窮するが、今後、米商人に筑後米を買ってもらえなくなれば、藩の存続そのものが危うくなる。やむなく、久留米藩はありったけの米を出して返済した。それでも不足する5万9220俵については、大部分を両替商からの借入れで返済している。結局、久留米藩の借金は、減るどころかいっそう膨らむことになった(日本取引所グループ『証券市場誕生!』)。
久留米藩で起こったことは、現代の銀行取り付け騒ぎを連想させる。銀行は短期の借入れ(預金)で長期の貸し付け(投資)を行っているが、この双方の満期に不一致がある。これが取り付け騒ぎ発生の根本的な原因だが、これは、蔵にある米が米切手の量と見合っていないことに似ている。
現代では取り付け行動を防ぐために預金保険制度が導入されているが、金融機関の不健全な経営を許容するモラルハザードを招きかねないなど、弱点もある。金融機関にしろ、かつての藩のような政府機関にしろ、金融危機の根本の原因である不健全な財務に陥らない心がけが何より大切だろう。
<参考文献>
- 高槻泰郎『大坂堂島米市場 江戸幕府vs市場経済』講談社現代新書
- 日本取引所グループ『日本経済の心臓 証券市場誕生!』集英社
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