2022-11-10

反動派よ、進歩派に立ち向かえ!

経済学者、ジョセフ・サレルノ
(2022年11月3日)

米国の社会的・政治的状況は激変しており、自由の勝利とリヴァイアサン(国家という怪物)の打倒を望む者は、それに応じて戦略を調整しなければならない。新しい時代には、古い、そしておそらくは時代遅れの戦略を考え直すことが必要である。——マレー・N・ロスバード

マレー・ロスバード(米経済学者、自由主義の理論家)は、1994年に早すぎる死を迎える直前に、上記の言葉を書いた。この言葉は、1990年代に彼が発表した一連のすばらしい論文の主要テーマを要約したものであり、東欧とソビエト連邦における共産主義の崩壊の後に出現した新しい政治的・社会的な現実に応じ、リバタリアン(自由主義)戦略を根本から再調整するよう呼びかけている。ロスバードはこれらの論文で、当時出現した抽象的な社会哲学と具体的な政治運動の双方が、自由と社会に対する最大の脅威だと指摘した。そして、変化した思想的・政治的文脈の中で求められる新たな戦略を表現するために、政治的枠組みの抜本的な見直しと政治用語の改訂を提案したのである。 

先に進む前に、ロスバードの論文は、その深い洞察とリバタリアン戦略への根本的な示唆にもかかわらず、いくつかの理由で敵味方関係なくほとんど見すごされてきたことを指摘したい。第一に、この論文を書いたとき、ロスバードは経済思想に関する二巻の記念すべき論説(『経済思想史におけるオーストリア学派の視点』)の執筆に懸命になっていた。当然ながら、1991年から1994年にかけての急激な変化の時期に、特定の出来事、思想、政治的展開に対する一回限りの反応として、これらの論文をすばやく書き上げたのである。そのため、ロスバードの戦略に関する新しい見解は、どうしても繰り返しや重なりを含む、異なる論文の中の断片として提示された。このため、これらの論文を総合すると、急進的な社会的・政治的変革のための体系的かつ包括的な戦略が示されているという事実が不明瞭になった。第二に、これらの記事は、社会・政治・文化の解説誌である「ロスバード・ロックウェル・レポート(RRR)」に掲載されたものである。残念なことに、RRRは非常に広範なトピックを扱っているため、多くの論文を支える深い理論的考察から読者が遠ざかってしまうことがあった。正直なところ、私は最近までロスバードの記事の意義、その統一性と視野の広さを理解していなかった。

社会民主主義――敵の正体


共産主義が崩壊し、ナチズムとファシズムが「とうに死んで葬られた」後、社会民主主義が唯一残された国家主義体制であり、その支持者はイデオロギーの独占を最大限に利用しようと躍起になっているとロスバードは主張した。「ポスト共産主義の新世界」において、ロスバードはこう書いている。

自由と伝統の敵は、今や社会民主主義であることが完全に明らかになった。社会民主主義は、そのあらゆる形態で、いまだに存在しているだけでなく、スターリン(ソ連の独裁者)とその後継者が去った今、社会民主主義者は、全権力を手に入れようとしているのである。

社会民主主義は、その多くの形態でいまだに存在しているだけでなく、「左派の被害者学やフェミニズムから、右派の新保守主義(ネオコン)まで、政治思想の分布図全体を網羅する」。ロスバードは「すべての重要問題に関し、社会民主主義者がどのように自称しようと、自由や伝統に反対し、国家主義や大きな政府を支持する立場」だと警告している。さらに、社会民主主義は「社会主義を『民主主義』と『探求の自由』という魅力的な美徳と結びつけると主張しているので、他の形式の国家主義よりもはるかに陰湿である」。社会民主主義者、米国の政治用語では左翼リベラルは、一世紀半にわたり政治状況を鋭く観察し、たしかに真剣に民主主義に関与している。ロスバードの次の説明のとおりである。

民主的な選択肢を維持することは、たとえそれが幻想であっても、あらゆる種類の社会民主主義者にとって不可欠である。一党独裁体制は、心から嫌われ、おそらく最後には、その権力構造全体とともに打倒されることを、社会民主主義者は長い間、認識してきた。

ロスバードは、現代の政治理論家ポール・ゴットフリートの洞察に基づき、社会民主主義者が民主主義に傾倒するのは、言論の自由と報道の自由の権利の「絶対的」不可侵を主張する人々に対する攻撃の口実にもなると指摘する。言論の自由に対する攻撃について、ロスバードは1991年に先見の明をもって指摘している。

(ネオコンと社会民主主義者は)「非民主的」だとする言論や表現を制限・禁止するために、いずれ国家権力を行使する。この「非民主的」とされる区分は無限に拡大しうるし、そうなるだろう。実際の、あるいはその疑いのある共産主義者、左翼、ファシスト、ネオナチ、分離主義者、ヘイト思想犯、そしていずれは昔ながらの保守主義者、昔ながらのリバタリアン、左派リバタリアンも対象になるだろう。

進歩主義――社会民主主義の社会思想


ロスバードは、社会民主主義や共産主義のすべての系統と変種の根底にある独特の社会哲学を明らかにするために、さらに深く探った。この哲学は、今ここにある社会・経済政策以上のものであり、将来の地上天国の建設を目指すユートピア的な社会哲学である。進歩主義者の核となる信念は、歴史とは人類の完成に向けた、避けようのない、つねに上昇する行進だという啓蒙神話に基づくものである。社会民主主義者の場合、完璧の定義とは、正しく、効率的で、平等主義的な社会主義国家によって支配され、設計された社会である。さらに社会民主主義的な進歩主義者は、伝統的なマルクス主義者とは異なり、歴史は階級闘争や流血の革命を通じてではなく、民主主義の容赦ない前進によって展開されると信じている。ロスバードの言葉を借りれば、

左翼はその骨の髄まで 「進歩主義者」である。つまり、ホイッグ史観(勝利者による正統史観)あるいはマルクス史観的に、歴史とは光の中へ、社会主義のユートピアへと向かって避けがたく上昇する、行進から成ると信じている。歴史は自分たちの味方であるという、進歩の必然の神話を信じている。

この避けがたく進歩する社会変革の究極目標は、伝統的なマルクス主義のような、あらゆる階級区別の根絶とプロレタリアート独裁のもとでの生産手段の集団所有ではない。むしろそれは、ロスバードの言葉を借りれば、「官僚、知識人、技術者、療法士、『新階級』全体が、平等を求める認定被害者圧力団体と協力して運営する、社会主義・平等主義の国家」である。資本家階級と企業家階級は消滅しないし、その生産手段も収奪されることはないだろう。その代わり、市場経済は維持されるが重税を課され、規制され、制限される。ロスバードによれば、

社会民主主義者は、社会主義国家にとって、資本家を残し、縮小された市場経済を規制・制限・管理し、国家の命令に従わせるほうがはるかに良いと理解している。社会民主主義の目標は「階級闘争」ではなく、資本家と市場が社会と寄生的国家機構の利益のために働く、一種の「階級調和」である。

政治思想の枠組み見直し


ネオコンが保守主義運動を乗っ取り、「民主党中道派」ビル・クリントン(元米大統領)が強硬な左翼路線を示したことから、ロスバードは、進歩派に対抗するには、米国の政治思想の枠組みとその語彙の一般概念を完全に修正することが急務だと気づいた。社会変革の進歩的・マルクス主義的構想に触発されたすべての政治党派を、再構築した政治思想分布図の左側に並べた。これらの党派はまた、進歩的な政治的・経済的目標を実現する最も確実な手段としてだけでなく、ロスバードの言葉を借りれば、「十戒や山上の垂訓を含む他のすべての道徳原則に事実上取って代わる、究極の絶対倫理としての禁忌」として、民主主義を狂信していた。ロスバードの考えでは、左派とは政府系の保守派、ネオコンから左派リベラルに及び、それらと結びついた知識人・メディアのエリート、公式被害者団体も含んでいる。

右派とは、米国の伝統的な自由と社会制度を大切にし、それらに対する進歩主義の侵害を阻止し、後退させ、元に戻そうとする人たちを指す。ロスバードは当初、(すべてではないが)多くのリバタリアンや古来の伝統的な保守派を含む右派の反対派の大連合あるいは「融合」という、自らの提案に最もふさわしい呼び名をどうするかで頭を悩ませた。ロスバードは「保守」という名を即座に拒否し、「急進的反動派」「急進的右翼」「ハードライト」という用語をとりあえず提案したが、最後には「政治経済的反動派」、あるいは単に「反動派」という呼び名に落ち着いた。

この「反動派」という言葉は、進歩的な政策に反対する人々にはとくにふさわしい。たしかに、この言葉はフランス革命の際、旧体制の復活を求める人々を指す言葉として作られた。マルクスはこの言葉を、19世紀の社会主義運動における自分の先駆者や反対者の多くを指す蔑称として使った。そのユートピア経済構想は、資本主義以前・産業革命以前の封建制度や中世ギルドの時代に「時を戻す」ものだった。その師からヒントを得て、のちの共産主義者と社会民主主義者は、社会主義に向かう歴史の必然に抵抗する資本主義支持者に対する中傷として、「反動的」という言葉を使ったのである。ロスバードが指摘したように、

彼ら(共産主義者と社会民主主義者)は、その行進の後退や逆行にヒステリーを起こす。その後退はもちろん、「反動」と呼ばれる。共産主義者と社会民主党の世界観では、唯一ではないにせよ最高の道徳は、「進歩的」であること、つまり、歴史において避けられない、次の段階の側にいることである。同様に、唯一ではないにしても最も罪深い不道徳は、「反動」である。進歩の必然に反対し、最悪の場合、流れを引き戻し、過去を回復し、「時計の針を戻す」よう働きかけることである。

したがって今日、「反動(reaction)」「反動的(reactionary)」という用語につきまとう悪評は、厳密にはマルクス主義の思想家による極端な用法によるものである。政治以外の分野では、この用語は多くの用途で好ましい意味合いがある。とくに抗原抗体反応(reaction)は、「病原体やその化学毒素のような複雑な外来分子から身体を守る、身体の基本反応」である。つまり、人間の免疫系は反動的(reactionary)なのだ。侵入者に反応し、消滅させ、人体を健康な現状に回復させる。政治経済的な反動とは、進歩的な政策によって引き起こされた経済的、社会的、文化的制度の破壊を元に戻そうとすることであり、侵略者を権力の座から追い出し、社会体を健康に戻すことによって、時を戻そうとすることである。

ロスバードは、スペインのフランシスコ・フランコ、チリのアウグスト・ピノチェトに対する左翼の激しくヒステリックな憎悪の謎を説明するのに、進歩主義に関する自分の分析を鋭く応用した。フランコ、ピノチェトに対する左翼リベラル派の嫌悪感は、ヒトラーに対するものよりもさらに大きいものだった。フランコとピノチェトは、民主的に選ばれた左派政権に対する反革命を成功させることによって、歴史の歩みを妨げ、実際に時間を逆行させたからである。今日私たちは、ドナルド・トランプ、ハンガリーのビクトル・オルバン、ブラジルのジャイル・ボルソナロ、イタリアのジョルジア・メロニに浴びせられる進歩派による、同じく熱狂的で正気を失った罵詈雑言を目撃している。なぜならこれら男女は、フランコやピノチェトが行ったよりもさらに重大な罪を進歩派の信条に対して犯しているからだ。トランプらは、明らかに反進歩的で反動的な言説を用いながら、民主的な選挙で実際に権力を握った。それによって、平等主義の社会主義国家に向けた社会進歩の必然を保証するのは民主主義だという神話が崩れたのである。トランプらの選出がいかに深く進歩派を揺さぶり混乱させたかは、ハンガリー選挙に先立ち、スウェーデンの経済学者アンダース・オスルンドが行った狂気のようなツイートが物語っている。「もし本当にハンガリーが民主主義への反対票と、腐敗への賛成票を大量に投じるなら、なぜ欧州連合(EU)に受け入れられるのかわからない」。馬鹿馬鹿しさでは多少ましだが、より本音をさらけ出したのは、最近欧州議会で堂々承認された、ハンガリーはもはや完全な民主主義ではなく、「選挙による独裁との混合体制」だとする決議である。「反動が起こり、局面が巻き戻され、ハンガリー国民が暴走し、恍惚となるようであれば、結局、その宗教は偽りのものであるのかもしれない」

米欧の現在のポピュリスト政治家が自らの言説を信じ、本物の反動派であるかどうかは問題ではない。欧米の政治・メディア・学界のエリートが嘲笑、憎悪、侮蔑の言葉を延々と吐き続けたにもかかわらず、民主的な選挙で政権を獲得したことは、正しい指導者がいれば真の反動が可能であることを証明している。ロスバードが認識していたように、反動運動には「メディアエリートを出し抜き、大衆に直接働きかけ、奮起させる能力のあるカリスマ的指導者」が必要である。

1954年に書かれ、2002年に死後出版された論文で、ロスバードは、反体制的な政治運動の指導者が有能であるためには、「デマゴーグ(扇動家)」でなければならないと説明している。その指導者は、

国家とその知的用心棒の頭越しに大衆に訴えなければならない。この訴えは、デマゴーグ、すなわち単純で、効果的で、しかも感情をこめた言葉で真実を提示できる、粗野で洗練されていない民衆出身者によって、最も有効に行うことができる。知識人はこの事実をはっきりと理解しており、だからこそ、リバタリアンのデマゴーグの兆候はすべて「反知性主義の潮流」の一部だとして、絶えず攻撃するのである。

もちろんロスバードは、政治手法としてのデマゴギー(扇動)を擁護する際に、それが左派にも右派にも利用されうることを理解していた。しかし1954 年に彼が予言したように、社会主義が「ファッショナブルで立派なイデオ ロギー」となってからは、いかなるデマゴギーも横紙破りも、ほぼ間違いなく個人主義の反対派から起こるだろう。左翼はこのことを本能的に知っているからこそ、「尊大な国家主義左翼は…デマゴーグを恐れ、憎み、以前にも増して攻撃の対象とする」。

政治を戦争として再定義する


ポスト共産主義世界の現実を反映して政治思想の枠組みを再構築した後、ロスバードは、進歩主義を後退させるために反動派が採用すべき政治戦略を打ち出した。ロスバードは、反動派と進歩派はともに少数派であり、互いに極端に対立していると指摘した。その間にいるのは、混乱し、「相反する世界観の間で引き裂かれる」大多数の米国人たちである。彼らはウラジーミル・レーニン(ロシア革命の指導者)にならってロスバードが言うところの「沼地」を構成しており、そこはイデオロギーの戦いが繰り広げられる場所である。

ロスバードは、進歩派の権力獲得に反対する右派が直面する問題を、簡潔に要約している。

問題は、悪者である支配階級が、知識人エリートとメディアエリートを自分の側に集めてしまったことである。このエリートらは、自分たちの支配に同意するよう大衆を惑わし、マルクス主義者のいう「誤った意識」で大衆を教化することができる。

このような状況が存在するのは、20世紀初頭以来、進歩的で企業的なリベラル政治家とその産業界や金融界の取り巻きが、連邦政府からの補助金や、拡大を続ける規制・福祉・戦争関連の組織における有利な地位と引き換えに、政府の支配を擁護し正当化するように、多くの知識人を誘導してきたためである。ロスバードが社会における「意見形成機能の独占」と呼ぶものは、こうして今日、「知識人、学者、社会科学者、テクノクラート、政策科学者、ソーシャルワーカー、ジャーナリスト、メディア一般からなる特権的で甘やかされた階級に与えられてきた」のである。

では、この手強い独占状態を打破し、政治体制とその特権的な知識人の擁護者たちによる「汚れた同盟」を打破するには、どうしたらよいのだろうか。ロスバードは「大胆さと対決、活力と興奮の戦略、ようするに大衆を眠りから覚まし、エリートによる大衆の支配・統制・課税・収奪を暴露する戦略」を推奨した。この種の盛り上がる右翼ポピュリズムは、まさに支配エリートが恐れるものだからである。支配エリートは「諸問題」について、慎重かつ厳粛な調子で、険悪になることなく、良識ある超党派の議論を行うことを望む。進歩的な政治家はとくに、いわゆる「恨みの政治」を恐れ、警告を発する。これに対しロスバードは、19世紀米国の激しくイデオロギー的で、非常に党派的な政治に立ち戻るよう右派に助言する。それは野党とその党員による痛烈で個人的な恨みによって特徴づけられていた。

ロスバードによれば、右派の戦略は対決的でなければならないだけでなく、「抽象と具象を融合しなければならない。抽象的にエリートを攻撃するだけでなく、既存の国家主義体制、すなわち現在支配階級を構成する人々に焦点を当てなければならない」。つまり右派の戦略は個人的でなければならず、支配者同盟の特定のメンバーの嘘、腐敗、不祥事を暴くことを目的としなければならない。このようにロスバードは、クリントンの第一期大統領就任時に急速に展開された反クリントン運動について、次のように書いている。

この運動は、クリントン一家とその仲間の嘘、言い逃れ、ペテン師、セックススキャンダル、我々の生活すべてを動かそうとする異常な試みなど、客観的に見て憎むべきあらゆる性質に反応して勃発した。しかしクリントンの個人属性に対する憎悪は、すぐにクリントンの政策やイデオロギーに波及した。こうして個人とイデオロギーの強烈な融合という、政治の世界で最も強力な「核融合」が起こったのである。クリントンのすべての政策が社会主義の横暴であるという認識が深まり、クリントンという人間に対する嫌悪が加わり、大きく増幅されたのである。

ロスバードの戦略の最後の部分は、政治は戦争であるという、左派がとうに理解している単純な洞察を、右派の人々に理解させることである。すなわち、国内政治においても国家間の軍事紛争と同様に、ドイツの偉大な政治理論家カール・シュミットの言葉を借りれば、「敵は相手の生き方を否定しようとするものであり、したがって、自らの存在形態を維持するために撃退するか戦う必要がある」のである。さらに、政治は本質的に、シュミットが「敵意」と呼ぶもの、あるいは「友と敵」の区別を含むものであり、「隠喩や象徴としてではなく、具体的かつ実存的な意味で理解されるべき」概念である。シュミットの言葉をもう一度引用しよう。「戦争は敵意から生じる。戦争とは敵の実存的な否定である」。シュミットはほぼすべて国家間紛争に焦点を当てているが、「国内(あるいは)外国の友人と敵の集団」という文脈であろうと、「つねに存在する紛争の可能性…戦闘の可能性…物理的殺人の現実的な可能性」を政治の属性そのものとして強調している。ロスバードの視点に立てば、国内政治における対立は、たしかに実存的な意味での戦争である。支配エリートは国家機構を支配することによって、被支配者が支配者の課税や命令に従わな い場合に、物理的暴力や死で脅かすだけでなく、被支配者中の反対者や「反乱者」に対する暴力や殺害を実際に行っている。 

結 論


ロスバードは、統一された自意識のある融合主義的な右派運動が進歩主義者に本気で政治的に挑戦すれば戦争、それも宗教戦争になると認識していた。最後に、ロスバードの右派への熱い呼びかけを引用して、結論としたい。

左翼リベラリズム・社会民主主義は、歴史の必然的な目標が完全な世界、平等主義の社会主義世界、地上の神の王国であるという見解であり、最も深い意味での宗教であり、信仰に基づいて保持されている......。これは宗教的な世界観であり、それに対して一切の妥協を許さず、全身全霊で反対し闘わなければならない。この比喩は正しく軍事的である。迫り来る闘いは、キャピタルゲイン課税のインフレ調整をめぐる闘いよりもはるかに広く、深い。それは我々の魂と米国の未来のための生死をかけた戦いなのだ......。反動のための戦争は、何よりも勇気と、メディアや世論調査員やその他すべての人々の予測可能な中傷反応に屈しない根性を必要とする......。そして何よりも、左派が最も恐れている以下のことが必要だ。軍事的な比喩、我々対彼ら、善人対悪人という概念への固執、「アメリカを取り戻す」。すべてを元に戻すことだけを目指してはならない。リヴァイアサン国家と虚無主義文化から自分たちを救うことだけを目指してはならないし、古き共和国の復権だけを目指してはならない。最後には、敵の心臓に木の杭を打ち込み、完璧な社会主義世界という恐るべき夢をきっぱりと断ち切らなければならないからだ。

リバタリアンにとっての教訓は、現在の政治闘争には二つの側面しかないということである。中間は存在しない。あなたは進歩派か反動派かのどちらかである。社会主義への強制された行進に加わるか、それを黙認するか、それとも進歩的な時計を巻き戻すか、もっと言えば、粉々に打ち砕くための戦いである反動に加わるかどうかである。

(次を全訳)
Murray Rothbard versus the Progressives | Mises Wire [LINK]

0 件のコメント: