2022-11-21

グレート・リセットと言論の自由の終焉

研究者、ビルセン・フィリップ
(2022年6月29日)

政府、企業、エリートはいつも自由な報道機関の力を恐れてきた。なぜなら報道機関はその嘘を暴き、慎重に作られたイメージを破壊し、その権威を弱体化させることができるからだ。近年オルタナティブ・ジャーナリズムが発展し、多くの人々がニュースや情報のソースとしてソーシャルメディアに依存するようになった。これに対して企業国家、デジタル複合企業、主流メディアは年々、ほとんどの問題で政府のシナリオに挑戦するオルタナティブ・メディアや声を黙らせ、検閲することを支持するようになってきた。

最近スイスのダボスで開かれた世界経済フォーラムで、オーストラリアのeセーフティー監督官であるジュリー・インマン・グラント氏は「言論の自由と万人の自由は同じではない」と述べ、「言論の自由から... オンライン暴力からの自由まで、オンラインで展開されている、あらゆる人権の再調整が必要になるだろう」と述べている。一方、カナダ政府は、スポティファイ、ティックトック、ユーチューブ、ポッドキャスト上のコンテンツを含むインターネット上のすべてのオンライン視聴覚プラットフォームを規制できるようにする法案C-11の実施を通じて、独立メディアと表現の自由を制限しようとしている。

同様に、英国はオンライン安全法案の導入を目指し、米国は反発を受けて情報統制委員会の設立を「一時停止」し、欧州連合は独自のデジタルサービス法を承認したが、これらはすべて言論の自由を制限することを目的としている。エリートや政治家が反対意見や批判的な思想家を黙らせようとするのは、何も新しいことではない。事実、歴史は「科学者を迫害し、学術書を燃やし、被差別人種の知識人の組織的抹殺を図った」(ハイエク『隷従への道』)例であふれている。

しかし自由主義的とされる政府が言論・報道の自由を抑制しようとする現状は、次の指摘に照らすと、やはりどこか皮肉なものだ。「すべての教会のなかでもっとも不寛容なローマ・カトリック教会ですら、すぐれた人物を聖人の列に加えるかどうかを決めるさいには、その人をあえて非難してみせる『悪魔の代理人』を招き入れ、その言い分を辛抱強く聞く。どんなにすぐれた聖者でも、悪魔に浴びせられると思われる非難がすべて並べられ、検討されつくすまで、死後の栄誉は認められないらしい」(ミル『自由論』)

企業国家、デジタル複合企業、主流メディアは、洗練されたプロパガンダ技術によって、人々の意見、要望、選択を決定する独占的な権限を確保したいのである。そのために、虚偽を真実に変えるという手段さえとっている。事実、真実という言葉はすでにその本来の意味を変えてしまった。あるテーマについて真実を語る者は、今や決まってヘイトスピーチ、誤報、偽情報を流布していると非難されるからだ。

現在、真実はもはや「 個人が自らの判断力に基づき、証拠または証言者の適格性に裏付けられているかどうかを吟味するもの…ではない。真実は当局が定め、国民に信じさせ、社会の組織的活動に役立てるものになっている。だから、必要とあらば都合よく手を加えるといったことも行われる」(ハイエク前掲書)。

しかし真実の定義を変更することは、大きな危険を伴う可能性がある。なぜなら真実の追求は、それが最終的に社会全体に利益をもたらす発見につながるという意味で、しばしば人間の進歩に貢献するからである。自由、正義、法律、権利、平等、多様性、女性、パンデミック、ワクチンなど、最近プロパガンダの道具として意味を変えられた言葉は、決して真実だけではないことに注意しなければならない。なぜなら、このような「言葉をねじ曲げる」試み、支配階級の理想を表現する「言葉の意味の変更」は、全体主義体制の一貫した特徴であるからだ(ハイエク前掲書)。

多くの自由民主主義的な政府が全体主義に向かってますます前進するなかで、政府は人々に対し、「ある意見が、いかなる反論によっても論破されなかったがゆえに正しいと想定される場合と、そもそも論破を許さないためにあらかじめ正しいと想定されている場合とのあいだには、きわめて大きな隔たりがある」(ミル前掲書)という事実を忘れてもらいたいのである。政府によれば、「公の批判はもちろんのこと、疑念を提出するだけでも国民の支持を揺るがしかねないから、弾圧しなければならない」(ハイエク前掲書)。

政府はむしろ、疑義を投げかけ、迷わせるような意見は、あらゆる分野、あらゆるプラットフォームで制限される必要があると考える。なぜなら「当局の公式見解の正当性の立証だけ」が支配階級の唯一の目的となったとき、「真理の公正な追究は許されない」からである(ハイエク前掲書)。つまり、全体主義的な支配のもとでは、あらゆる分野で情報統制が行われ、見解の統一が強要される。

報道、言論、表現、思想の自由の抑圧は、現在および将来の世代が「間違いを改めるチャンスを奪われたことになる。その意見が間違っている場合にも、同じくらい大きな利益を失う。なぜなら、間違いとぶつかりあうことによって、真理はますますクリアに認識され、ますます生き生きと心に刻まれるはずだったからである」(ミル前掲書)。また「 ひとつのテーマでも、それを完全に理解するためには、さまざまに異なる意見をすべて聞き、ものの見え方をあらゆる観点から調べつくすという方法しかない」(同)という事実に無知になる危険もある。つまり現在と将来の世代は「他人の意見と対照して、自分の意見の間違いを正し、足りなう部分を補う」という地道な習慣が、「意見を実行に移すときも、疑念やためらいが生じないどころか、意見の正当な信頼性を保証する、唯一の安定した基盤」であることを知らないでいる。

現在大衆は、報道、言論、表現、思想の自由をとくに重視していないようだ。なぜなら「 大方の人は誰かの意見を鵜呑みにするものだし、自分が生まれ育った環境を支配する思想や幼少時に教え込まれた思想から抜け出せないもの」だからだ。だからといって、思想、啓蒙、表現の自由を与えるべき人々を選別する権力や権威を、誰も持ってはならないのである。

実際、英哲学者ジョン・スチュアート・ミルは「一人の人間を除いて全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力ずくで全体を黙らせるのと同じくらい不当である」とまで主張している。さらに、意見の発表を封じるのは本質的に「人類全体を被害者にする」と付け加えた。たとえ弾圧する側が、ある時点の人々の真実を否定することができたとしても、「どの時代にも、後の時代から見れば間違った意見、馬鹿げた意見がたくさんあった。過去において一般に正しいとされた意見の多くが現在では間違いとされているように、現在一般に正しいとされる意見の多くが、将来においては間違いとされるにちがいない」(ミル前掲書)。

もし現在、報道、言論、表現、思想の自由を抑圧する努力が成功すれば、真理の探求はやがて放棄され、全体主義の当局が「どの学説を発表しどの理論を教えるか」を決定する(ハイエク前掲書)ことになるだろう。意見の統制はあらゆる分野のすべての人に及ぶので、沈黙させられる人は際限がないだろう。したがって現代の独裁的な政策立案者は、言論、表現、思想の自由の重要性を再認識する必要がある。このことは、米最高裁が1957年のスウィージー対ニューハンプシャー州裁判において、次のように判決を下したことで認識されている。

大学の知的指導者に拘束衣を着せることは、国の将来を危うくするものである。教育のいかなる分野も、人間が完全に理解し、新たな発見がなされないということはない......。教師と学生はいつも自由に探求し、研究し、評価し、新たな成熟と理解を得ることができなければならない。わが国の政治形態は、すべての国民が政治的表現と結社に関与する権利を有するという前提のもとに築かれている。この権利は、権利章典の修正第1条に明記されている。米国におけるこれらの基本的自由の行使は、伝統的に政治的結社という手段を通じて行われてきた......。歴史が証明しているように、少数派、反体制派の政治活動は、民主主義思想の先駆けであり、その方針は最終的に受け入れられてきた。単に異端であるとか、一般の常識に反しているというだけで、非難されてはならない。反対意見がないのは、この社会が深刻な病を抱えている証拠だろう。

(次を全訳)
The Great Reset in Action: Ending Freedom of the Press, Speech, and Expression | Mises Wire [LINK]

(参考文献)
  • ミル(斉藤悦則訳)『自由論』光文社古典新訳文庫
  • ハイエク(村井章子訳)『隷従への道』日経BPクラシックス

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