2023-07-01

黒船来航と避戦外交

1853(嘉永6)年6月、米国の東インド艦隊司令官ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀(神奈川県横須賀市)に来航した。そのうち2隻は巨大な蒸気艦のミシシッピー号とサスケハナ号で、当時の世界最大・最先端の戦艦だった。黒船来航である。

幕末外交と開国 (講談社学術文庫)

ペリーはフィルモア大統領の国書を提出して開国を要求した。ペリーが再来日した翌年、幕府は日米和親条約を結んだ。英国、ロシア、オランダとも同様の条約を結び、二百年以上にわたる「鎖国」に終止符を打つ。

幕末開国について、これまでは次のような理解が支配的である。①徳川幕府は無能無策だった②そこにペリーの強力な軍事的圧力がかかった③このため日米和親条約は極端に不平等な条約となった——。

幕府無能無策説は、幕府を倒して成立した明治政権下で強くなった。前政権を打倒した正統性を補強するため、幕府の無能無策を喧伝したのである。歴史学者の加藤祐三氏は「この政治的キャンペーンを、現代人がそのまま事実と受け取るのは愚かである」と指摘する(『アジアと欧米世界』)。

日米和親条約の内容や締結の経緯を詳しくみると、幕府無能無策説には疑問符がつく。たとえば、19世紀は戦争の時代である。戦争に敗北すると「敗戦条約」を結び、賠償金を払い、領土を割譲した。アヘン戦争の南京条約がその典型だ。さらに厳しい場合には、条約さえ結ぶことなく、国家の主権の三権(立法・司法・行政)をすべて失い、植民地となった。インド、インドネシアがその例である。

しかし日本は圧倒的な軍事力を擁する米国と戦争にならず、そのおかげで、賠償金支払いや領土割譲を強いられることなく、植民地にもならなかった。日米和親条約はたしかに不平等な面はあったものの、戦争を伴わない「交渉条約」であり、アジア諸国の多くが経験した植民地や敗戦条約に比べて、不平等性ははるかに弱かった。

そうした結果を導いたのは、一つには江戸幕府が事前に情報を収集・分析し、それに基づいて、戦争を回避する「避戦」の方針を早くに固めたことにある。もう一つ、米国側にも戦争を避けたい事情があった。それぞれみていこう。

まず米国側の事情である。ペリーの任命の形式は、米外交では異例だった。条約締結の使節派遣は通常、国務省の所轄である。ペリーの場合は、フィルモア大統領により、海軍省所管の東インド艦隊司令長官に任命された。海軍の作戦行動の一環として、日本との条約交渉を行うよう指示を受けている。

米憲法では交戦権(宣戦布告権)は大統領にはなく、上院に属する。ペリーは出航前に、大統領による「発砲厳禁」の至上命令を、国務長官代理コンラッドからあらためて受けた。英国のように内閣が交戦権を持つ国とは違って、米国はもともと「砲艦外交」を行うことはできなかったのである。

しかもフィルモア大統領は選挙を経ていない。タイラー大統領の副大統領として当選し、大統領が途中で死去したため、憲法に従って、その残任期間だけ大統領に昇格した。タイラーはウィッグ党(共和党の前身)で、議会の多数派は民主党だった。議会と協議のうえで使節派遣を行う余地はなかった。

ペリーはそれ以外にも制約を抱えていた。最先端技術の蒸気船は、石炭補給路を断たれれば、巨大な漂流物となる。また当時の国際法では、二カ国が戦争状態になった場合、第三国が中立宣言をすると、交戦国の船は中立宣言をした国(植民地を含む)の港には入港できず、物資の補給が断たれる。

次に、日本側の対応である。幕府は対外策の決定に、日本に来航する異国船と接して得た直接情報と、間接情報として長崎に入る海外情報を生かしていた。海外情報には中国船・オランダ船が長崎にもたらす書籍類と、幕府が提出を義務づけた風説書(最新情報)とがある。

ペリー来航が予想もしない青天の霹靂であったなら、突然に姿を見せた黒船艦隊に、ただ慌てふためくばかりだったに違いない。しかし幕府は事前に情報を得ていた。アヘン戦争から十年後、オランダ商館長にクルチウスが着任し、1852年4月7日付で風説書を長崎奉行に提出した。ペリー来航の一年以上も前である。

風説書には「北アメリカ共和政治の政府が日本国へ使節を送り、日本国との通商を望んでいる」とあった。そのうえで「帆船4隻が唐国に集結しており、さらにアメリカ海軍は数隻の蒸気船を増派する予定」で、「ミシシッピー号にペリー司令長官が乗っている」と述べていた。

老中首座(現在の総理大臣)でまだ三十代の若さの阿部正弘は、この秘密情報を有力大名に共有したうえで熟慮を重ね、戦争回避の原則を立てた。戦力からみれば、海軍を持たない幕府が、米国の巨大艦隊に対抗する方法は皆無といえる。軍事的対決を回避し、外交により対処するしかない。

幕府の避戦の方針は、ペリー来航の十年以上前から徐々に培われていた。アヘン戦争における中国敗戦の情報を日本の教訓としてとらえ、外国船が沿岸に近づいた場合の対応を変更した。1842年、それまでの強硬な打払令(文政令)を撤回し、天保薪水令に切り替えたのである。発砲せず、必要な物資を与えて帰帆させる穏健策だった。

ペリーが初めて浦賀沖に来航したとき、幕府側は天保薪水令に従い、大砲などで攻撃しなかった。そして、浦賀奉行所のオランダ通詞(通訳)の堀達之助が与力の中島三郎助とともに小さな番船で旗艦サスケハナ号に近づくと、「I can speak Dutch!(自分はオランダ語が話せる)」と英語で叫んだ。甲板に立つ水平には英語しか通じないだろうと推測し、あえて英語を使った。あらぬ誤解や小競り合いを避けるためである。最初の出会いで発砲外交を避けることができたのは、その後の平和な交渉を象徴する出来事だった(加藤祐三『幕末外交と開国』)。

また、ペリー艦隊が補給線を持たず、戦争になる可能性は小さいことを、ペリーとの交渉にあたった林大学頭の家臣が明白に指摘していた。このような情報分析を踏まえ、また米国側の戦争を避けなければならない制約もあって、幕府はペリー側と穏健に交渉を進めることができたのである。

地政学リスクが高まる昨今の世界情勢では、日本が戦争に巻き込まれる可能性を否定できない。それどころか、最近の日本政府は自分からあえて戦争に巻き込まれようとしているようにすら見える。江戸幕府の避戦外交から学ぶべき点は少なくない。

<参考文献>
  • 加藤祐三・川北稔『アジアと欧米世界』(世界の歴史)中央公論社
  • 加藤祐三『幕末外交と開国』講談社学術文庫
  • 加藤祐三『開国史話』神奈川新聞社

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