税法の想定しないやり方で節税を図る「税の抜け穴」は、政治家やメディアによってしばしば非難される。「ずるい」「不道徳」といったイメージを植え付けられ、税の抜け穴を使った節税は「過度な節税」だと批判される(何を超えたら「過度」かという基準ははっきりしない)。
世間一般の認識を前提にすれば、税の抜け穴とは、泥棒が逃げるためにずる賢く準備した、秘密のトンネルのようなものだろう。しかし税が盗みだとしたら、イメージは一変する。泥棒は市民ではなく、政府のほうだ。税の抜け穴とはさしずめ、市民が強盗から逃れるために確保した、貴重な非常口ということになる。
税が一部免除される各種の控除も、税の抜け穴ほどではないが、問題視されることがある。控除を批判する人々によると、控除は特定の集団や産業を優遇する不公平な補助金であって、経済をゆがめる。また、節税のために市民が膨大な時間や労力を浪費する原因となる。控除をなくせば、そうした非効率がなくなり、経済にとって良いことだという。
これらの批判は正しくない。まず、税の免除とは市民が自分のお金を政府に渡さず、自分の手元に残すことだから、政府から恵まれる補助金とは違う。補助金が仲間の市民の犠牲の上に成り立つのに対し、税の免除はそうではない。補助金を受け取る人は税という略奪品の獲得に参加しているが、税を免除される人は略奪から逃れているにすぎない。
次に、控除が経済をゆがめるというが、それ以前に、税そのものが経済をはるかに大きな規模でゆがめている。経済のゆがみをなくしたいのなら、税そのものをできるだけ減らさなければならない。そのためには、控除をなくすのではなく、同様の控除を他にも広げるべきだ。たとえば、住宅ローンの所得控除はマンションなどの購入熱をあおり、経済をゆがめている。このゆがみをなくすには、賃貸住宅にも同様の控除を広げればいい。
それから、節税が時間や労力の浪費だという人々は、人間とは何かを理解していない。経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスが主著『ヒューマン・アクション』で説くように、人間の意識的な行動には目的がある。たとえ一見、不合理なようでも、その人なりの価値判断に基づいて行動している。
もし節税が本当に不合理ならば、誰もそのような無意味な目的にわざわざ時間や労力を使おうとはしないだろう。ところが実際には多くの人が節税に励む。そうである以上、人々は時間や労力というコストにもかかわらず、節税を他の選択肢よりも高く評価していることになる。どこにも不合理な点はない。
節税が不合理な行動だという主張を理解するただ一つの方法は、経済とは雇用を生み出すための機械でしかないと考えることだ。これは政府の経済介入を推奨するケインズ主義の考えである。この考えに立てば、公共事業などの財源が減る一方で、せいぜい税理士の雇用創出にしか役立たない節税は、たしかに不合理でしかないだろう。
だが、このケインズ主義の考えは、経済が価値を生み出すかどうかを完全に見落としている。たとえ穴を掘って再び埋めるような、何の価値も生まない事業であっても、お金が使われ、人々が雇用され、賃金が支払われればそれでいいのだ。しかし、それでは長期の経済発展は望めない。
個人の私有財産を擁護する資本主義の原則に立てば、税の抜け穴や控除はなくすべきではない。守り、むしろ増やすべきだ。控除が広がれば広がるほど、それが一部の人だけの特権だという誤解も消えていくだろう。
お金は政府に渡すのではなく、個人の手元に残したほうが合理的に使われ、経済を発展させる。税の抜け穴や免除はその助けとなる。ミーゼスが喝破したように、資本主義は税の抜け穴を通して呼吸しているのである。
<参考資料>
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