税金について考える際、まず理解しておかなければならないことが一つある。それは「税は盗みである」ということだ。
驚いたかもしれないが、事実だ。オンライン国語辞典で、「強盗」の意味を調べてみよう。「暴力や脅迫などの手段で他人の金品を奪うこと」とある。課税とはまさしく、政府が「暴力や脅迫などの手段で他人の金品を奪うこと」に他ならない。税の支払いを拒否すれば、政府から脅されるし、暴力によって逮捕・投獄される。したがって、課税は強盗である。すなわち、税は盗みである。
もちろん課税は、合法である。だからといって、その本質が盗みであることに変わりはない。合法かどうかと、倫理的に正しいかどうかは、別の話だ。たとえば、政府が人を殺すときには、それは殺人ではなく、「戦争」や「騒乱の鎮圧」という高尚で合法な行為とされるが、倫理の原則に照らせば、その本質が殺人であることに変わりはない。税も同じことだ。
税は盗みだという身も蓋もない真実に対し、税を肯定する側は様々な反論を試みるだろう。主に予想される三つの反論を検討してみよう。
第一に、「国民は公共サービスを利用することによって、税金を払うことに同意しているのだから、税は盗みではない」という反論はどうだろうか。
もし「政府の福祉」や「政府の学校」などの公共サービスを利用しない人が、その分の税金(社会保険料を含む)を支払わなくてよいのであれば、公共サービスの利用は、そのサービスに対する支払い(納税)に同意することを意味するかもしれない。しかし実際には、政府は国民が公共サービスを利用しようとしまいと、納税を強制する。したがって、政府サービスを利用しているかどうかは、納税に同意しているかどうかを示さない。
また「政府の領土」にとどまり続けることも、税への同意を示すものではない。というのも、政府は国内の土地すべてを所有しているわけではない。むしろ多くは私有地である。自分の土地に住んでいる人に対し、「金を払うか、さもなければその土地から出ていけ」と他人が要求することはできない。政府にはそのような横暴が許されているけれども、その横暴を国民が辛抱しているからといって、それは同意を意味しない。
第二に、「政府は法律によって財産権を定義する。政府が法律で決めれば、あなたが税金として支払うお金は、そもそもあなたのものではなく、政府のお金である」という反論はどうだろうか。
たとえば、あなたが19世紀の米国南部の奴隷だとしよう。あなたが主人の同意なしに主人から逃げようとしたとする。これは「奴隷の身体は奴隷自身のものではなく、主人のものである」という当時の法律の趣旨に違反する。だからといって、逃亡は倫理的に間違ってはいない。同様に、政府が法律で決めさえすれば人のお金を他人(政府)のものにできるという考えは、正しくない。
第三に、「税金は、政府が法と秩序を提供する対価だ。政府は泥棒ではない。泥棒は価値あるサービスを提供しない」という反論はどうか。
私があなたに刃物を突きつけ、1万円を奪ったとしよう。それと引き換えに、私のサイン入り色紙を1枚置いていく。後日、刃物を持っていない私を見たあなたは、私を泥棒と呼び、金を返せと要求する。私は答える。「泥棒とは人聞きの悪い。たしかに君はその色紙を欲しがらなかったが、それは1万円よりずっと価値があるんだ」
この返事にあなたは当惑するだろう。私が引き換えに良いものをあげたかどうかは問題ではないし、その色紙が本当に1万円以上の価値があるかどうかも問題ではない。重要なのは、私があなたの同意なしにあなたのお金を奪ったということだ。かりにその後、私が有名人になり、メルカリで3万円の値段が付いたとしよう。それでも、私が泥棒であることに変わりはない。
同様に、たとえ政府の提供する「法と秩序」に高い価値があったとしても、本人の同意なしにお金を奪うのは、盗みである。
リバタリアニズム(自由主義)の思想家、マレー・ロスバードはこう断じる。「純粋な意味では、そして簡潔に言えば、課税は窃盗である。とはいえ、それは犯罪者として一般に認められる者でも望むべくもない、とてつもなく巨大な規模の窃盗ではある。それは、国家の居住者の、あるいは被治者の、財産の強制的没収である」(『自由の倫理学』)
そう、税は盗みである。この事実を理解すれば、目から鱗が落ちるように、政治・経済の現実がはっきりと見えてくる。
<参考資料>
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