江戸時代に起こったおもな飢饉には、寛永の飢饉(1641〜42)、享保の飢饉(1732)、宝暦の飢饉(1755〜56)、天明の飢饉(1782〜87)、天保の飢饉(1833〜39)などがある。とくに享保、天明、天保の飢饉は「三大飢饉」と呼ばれる。
三代将軍・徳川家光の治世に起こった寛永の飢饉のきっかけは、西日本で流行した牛疫病だ。西日本では牛は耕作や運送に欠かせないものだったから、農業生産に大打撃となった。牛疫病に続き、旱魃、大雨・洪水に襲われ、飢饉の様相が深まった。東日本でも北海道駒ヶ岳の噴火の影響で冷害に見舞われる。
このため全国的な大飢饉が襲った。農村ではくずやわらびの根を採って飢えをしのぎ、都市では米価の高騰と、農村からの飢えた農民の流入により、多数の餓死者が道端に充満することになった。
幕府の大老だった酒井忠勝は「五十年百年の内にもまれなる」飢饉と危機感を抱いた。農民の疲弊を無視して年貢収納を強行すれば、島原・天草の乱のような一揆も起きかねない。そこで幕府は困窮した農民の救済措置などいくつかの対策を打ち出すが、必ずしも問題の本質解決につながるものではなかった。
たとえば、江戸における米流通の拡大策だ。幕府は上方の蔵米(幕府・諸藩の米蔵に収納された米)や各地の城米(城中に貯蔵した米)を江戸に回送するよう命じた。また諸藩には、江戸滞在の家臣の兵糧米を江戸で買うことを禁じ、国元から回送するよう命じている。これは全国的な米価の高騰を呼ぶ。
この対策からわかるように、幕府の姿勢は将軍権力の膝元である江戸の米を最優先し、いかに確保するかに最大の神経を使っていた。これがしばしば江戸と地方、江戸と大坂の利害対立を招く。
藩の側にも、江戸や上方への米の回米を優先しなければならない事情があった。窮乏化する藩財政を支えるために、各藩とも、少しでも高く、より多く、藩内で生産された米を売るために、年貢のみならず強制的買い上げも行いながら、それらの米を領内ではなく江戸や大坂で売却しようとするようになる。しかも高く売るためには、米価が高騰する米の端境期に、前年度に獲れた米を売る必要がある。このような藩の判断が、領内における米払底をもたらし、飢饉を招くことになった。
寛永の飢饉では、幕府蔵奉行らが町人と謀って年貢米の納入を遅らせ、利益をあげていたことが露見し、関係者が逮捕されている。城米蔵奉行三人、浅草蔵奉行四人ら多くの役人や江戸町人に、死罪などの厳しい処分が行われた。幕府がこの不正を米価高騰の一因と考えたためだが、不正は米価高騰の原因というよりも、結果というべきだろう。不正をいくら摘発しても、米不足や飢饉の解決にはならない。
享保の飢饉でも、幕府・藩の対応はみごととはいえなかった。代表的な失政として、四国の伊予松山藩の例がある。
瀬戸内地方では、讃岐うどんが名物であるのでわかるように、麦の裏作が盛んだった。ところが気候不順が続き、麦は大不作でウンカが大発生した。城下にも農民たちが救いを求めて流れ込んできたが、藩は取り押さえ追い払うだけだった。
餓死者の死骸があふれるようになると、藩士たちに禄高による給米をやめて家族の数に応じた米を支給することにして手は打ったものの、庶民には足元を見て、高値での備蓄食料放出を行う始末である。それ以外は、野菜や蕎麦などの緊急作付けを許すだけだった。
やがて江戸の藩主にも状況の深刻さが伝わり、目付一行を松山へ帰し、緊急食料支援を庶民にも広げた。死者は3489人とされ、全国の餓死者の3割にあたり、逃散した者なども含め人口の1割にあたる2万人の減少を見た。これだけの失政をしても、幕府は藩主に半年ほどの「差控」(謹慎)を命じただけだった(八幡和郎『江戸時代の「不都合すぎる真実」』)。
幕府や藩の行動そのものが、飢饉の悲劇を悪化させた面があった。食料を確保する手段として、穀留という方法がよく採られた。藩はひとつの国家のようなものだったから、領内の民を飢えさせないために関所での取り締まりを強化し、穀物が流出しないようにしたのである。
穀留は領主による自衛策だが、食料が払底している藩にとっては他領からの買い付けが不可能となり、致命的だった。食料に多少ゆとりがあった藩でも、世情不安、食料不安を抑える都合上、他藩の支援要請に応えるには消極的になる。
盛岡藩の星川正甫はその著『食貨志』で、宝暦の飢饉の被害を大きくしてしまった原因として、領内の米が藩の米のみならず農民の米までも買い集められ、根こそぎ回送されてしまい、凶作に対応できなかったと指摘している。江戸時代の当時から、飢饉の原因ははっきり知られていたのである(菊池勇夫『飢えと食の日本史』)。
宝暦の飢饉では、幕府の飢饉対策は後退し、むしろ民間人が個人レベルで救済したり、「救荒食」(飢えをしのぐ食物)の手引書を著した。しかしその後に起こった天明の飢饉は、一時の対応では対処できないほど激しかった。
天明の飢饉は、浅間山の大噴火・降灰、冷害などが重なり、東北・関東を中心に約92万人の死者を出した。死人の肉を食べたとの記録も見られ、各地で一揆や打ち壊しが続発した。
幕府は米穀売買勝手令を出して、周辺地域からの穀物の流入と問屋・仲買以外の素人でも自由に売買することを認めた。江戸への米の移入増と米価の引き下げを狙ったのである。当初は効果を発揮する場面もあったが、関東農村も飢饉に陥ると、江戸への回米は増加しなくなり、米価は高騰を続けた。
やがて幕府は売買勝手令を撤回し、旧来のように六軒の米問屋に上方米の扱いを独占させ、彼らに安値販売させることで米価の高騰を抑えようとした。幕府の米価対策の迷走に、市場も消費者も混乱した。結局、米価の高騰は収まらず、1787年(天明7)年5月、ついに江戸で大規模な打ちこわしが始まる。
打ちこわされた家は500軒を超え、米関係の商人が3分の2を占めた。打ちこわしと前後して、市中の各地で施行(豪商などによる施し)が行われ、騒動は数日でようやく沈静化する。幕府は6月、「武家寺社町方共一統救い合い」の気持ちを持って「助け合う」ように触れた(倉地克直『江戸の災害史』)。
19世紀に入り、1820年代までは大きな凶作に見舞われなかったが、1833(天保4)〜36年に異常気象で全国規模の凶作が生じ、天保の飢饉となった。各藩は自藩領での食料確保のために米穀の領外移出を禁止し、幕府も天明の飢饉時に生じた都市打ちこわしへの教訓から江戸市中での食料確保を優先させたため、局所的に激しい食糧不足が生じた。
幕府は例によって江戸への米の移入に努め、米価高騰を食い止めようとした。その結果、関東周辺から大量の米穀が江戸市中へ回送され、大凶作が生じなかった地域でも食料が逼迫し、貧窮民が打ちこわしを起こした。
大坂でも、大坂町奉行所が江戸への米の回送に積極的に協力したため、大坂市中での貧窮民への施米は江戸に比べて貧弱だった。大坂町奉行所与力を隠居していた大塩平八郎は、1837年(天保 8)に幕府の施政を批判して門弟らとともに蜂起した。大塩平八郎の乱は半日で鎮圧されたが、武士身分の者が幕府の施政を批判した点で、一揆・打ちこわしとは異なる衝撃を与えた。
江戸時代の日本は、年貢を多く取りたいので米に偏った作付けが行われ、海外からの食料輸入もさせず、全国的な物流・流通が発展していなかったので、餓死やそれに近い打撃が起きやすい構造問題を抱えていた。
天保の飢饉を最後に、日本で大規模な飢饉が起こらなくなった背景には、幕末開港後に、安価な外国米(南京米)が輸入され始めたことがある。日本の庶民を飢饉から救ったのは、開国による自由貿易だったのである。
<参考文献>
三代将軍・徳川家光の治世に起こった寛永の飢饉のきっかけは、西日本で流行した牛疫病だ。西日本では牛は耕作や運送に欠かせないものだったから、農業生産に大打撃となった。牛疫病に続き、旱魃、大雨・洪水に襲われ、飢饉の様相が深まった。東日本でも北海道駒ヶ岳の噴火の影響で冷害に見舞われる。
このため全国的な大飢饉が襲った。農村ではくずやわらびの根を採って飢えをしのぎ、都市では米価の高騰と、農村からの飢えた農民の流入により、多数の餓死者が道端に充満することになった。
幕府の大老だった酒井忠勝は「五十年百年の内にもまれなる」飢饉と危機感を抱いた。農民の疲弊を無視して年貢収納を強行すれば、島原・天草の乱のような一揆も起きかねない。そこで幕府は困窮した農民の救済措置などいくつかの対策を打ち出すが、必ずしも問題の本質解決につながるものではなかった。
たとえば、江戸における米流通の拡大策だ。幕府は上方の蔵米(幕府・諸藩の米蔵に収納された米)や各地の城米(城中に貯蔵した米)を江戸に回送するよう命じた。また諸藩には、江戸滞在の家臣の兵糧米を江戸で買うことを禁じ、国元から回送するよう命じている。これは全国的な米価の高騰を呼ぶ。
この対策からわかるように、幕府の姿勢は将軍権力の膝元である江戸の米を最優先し、いかに確保するかに最大の神経を使っていた。これがしばしば江戸と地方、江戸と大坂の利害対立を招く。
藩の側にも、江戸や上方への米の回米を優先しなければならない事情があった。窮乏化する藩財政を支えるために、各藩とも、少しでも高く、より多く、藩内で生産された米を売るために、年貢のみならず強制的買い上げも行いながら、それらの米を領内ではなく江戸や大坂で売却しようとするようになる。しかも高く売るためには、米価が高騰する米の端境期に、前年度に獲れた米を売る必要がある。このような藩の判断が、領内における米払底をもたらし、飢饉を招くことになった。
寛永の飢饉では、幕府蔵奉行らが町人と謀って年貢米の納入を遅らせ、利益をあげていたことが露見し、関係者が逮捕されている。城米蔵奉行三人、浅草蔵奉行四人ら多くの役人や江戸町人に、死罪などの厳しい処分が行われた。幕府がこの不正を米価高騰の一因と考えたためだが、不正は米価高騰の原因というよりも、結果というべきだろう。不正をいくら摘発しても、米不足や飢饉の解決にはならない。
享保の飢饉でも、幕府・藩の対応はみごととはいえなかった。代表的な失政として、四国の伊予松山藩の例がある。
瀬戸内地方では、讃岐うどんが名物であるのでわかるように、麦の裏作が盛んだった。ところが気候不順が続き、麦は大不作でウンカが大発生した。城下にも農民たちが救いを求めて流れ込んできたが、藩は取り押さえ追い払うだけだった。
餓死者の死骸があふれるようになると、藩士たちに禄高による給米をやめて家族の数に応じた米を支給することにして手は打ったものの、庶民には足元を見て、高値での備蓄食料放出を行う始末である。それ以外は、野菜や蕎麦などの緊急作付けを許すだけだった。
やがて江戸の藩主にも状況の深刻さが伝わり、目付一行を松山へ帰し、緊急食料支援を庶民にも広げた。死者は3489人とされ、全国の餓死者の3割にあたり、逃散した者なども含め人口の1割にあたる2万人の減少を見た。これだけの失政をしても、幕府は藩主に半年ほどの「差控」(謹慎)を命じただけだった(八幡和郎『江戸時代の「不都合すぎる真実」』)。
幕府や藩の行動そのものが、飢饉の悲劇を悪化させた面があった。食料を確保する手段として、穀留という方法がよく採られた。藩はひとつの国家のようなものだったから、領内の民を飢えさせないために関所での取り締まりを強化し、穀物が流出しないようにしたのである。
穀留は領主による自衛策だが、食料が払底している藩にとっては他領からの買い付けが不可能となり、致命的だった。食料に多少ゆとりがあった藩でも、世情不安、食料不安を抑える都合上、他藩の支援要請に応えるには消極的になる。
盛岡藩の星川正甫はその著『食貨志』で、宝暦の飢饉の被害を大きくしてしまった原因として、領内の米が藩の米のみならず農民の米までも買い集められ、根こそぎ回送されてしまい、凶作に対応できなかったと指摘している。江戸時代の当時から、飢饉の原因ははっきり知られていたのである(菊池勇夫『飢えと食の日本史』)。
宝暦の飢饉では、幕府の飢饉対策は後退し、むしろ民間人が個人レベルで救済したり、「救荒食」(飢えをしのぐ食物)の手引書を著した。しかしその後に起こった天明の飢饉は、一時の対応では対処できないほど激しかった。
天明の飢饉は、浅間山の大噴火・降灰、冷害などが重なり、東北・関東を中心に約92万人の死者を出した。死人の肉を食べたとの記録も見られ、各地で一揆や打ち壊しが続発した。
幕府は米穀売買勝手令を出して、周辺地域からの穀物の流入と問屋・仲買以外の素人でも自由に売買することを認めた。江戸への米の移入増と米価の引き下げを狙ったのである。当初は効果を発揮する場面もあったが、関東農村も飢饉に陥ると、江戸への回米は増加しなくなり、米価は高騰を続けた。
やがて幕府は売買勝手令を撤回し、旧来のように六軒の米問屋に上方米の扱いを独占させ、彼らに安値販売させることで米価の高騰を抑えようとした。幕府の米価対策の迷走に、市場も消費者も混乱した。結局、米価の高騰は収まらず、1787年(天明7)年5月、ついに江戸で大規模な打ちこわしが始まる。
打ちこわされた家は500軒を超え、米関係の商人が3分の2を占めた。打ちこわしと前後して、市中の各地で施行(豪商などによる施し)が行われ、騒動は数日でようやく沈静化する。幕府は6月、「武家寺社町方共一統救い合い」の気持ちを持って「助け合う」ように触れた(倉地克直『江戸の災害史』)。
19世紀に入り、1820年代までは大きな凶作に見舞われなかったが、1833(天保4)〜36年に異常気象で全国規模の凶作が生じ、天保の飢饉となった。各藩は自藩領での食料確保のために米穀の領外移出を禁止し、幕府も天明の飢饉時に生じた都市打ちこわしへの教訓から江戸市中での食料確保を優先させたため、局所的に激しい食糧不足が生じた。
幕府は例によって江戸への米の移入に努め、米価高騰を食い止めようとした。その結果、関東周辺から大量の米穀が江戸市中へ回送され、大凶作が生じなかった地域でも食料が逼迫し、貧窮民が打ちこわしを起こした。
大坂でも、大坂町奉行所が江戸への米の回送に積極的に協力したため、大坂市中での貧窮民への施米は江戸に比べて貧弱だった。大坂町奉行所与力を隠居していた大塩平八郎は、1837年(天保 8)に幕府の施政を批判して門弟らとともに蜂起した。大塩平八郎の乱は半日で鎮圧されたが、武士身分の者が幕府の施政を批判した点で、一揆・打ちこわしとは異なる衝撃を与えた。
江戸時代の日本は、年貢を多く取りたいので米に偏った作付けが行われ、海外からの食料輸入もさせず、全国的な物流・流通が発展していなかったので、餓死やそれに近い打撃が起きやすい構造問題を抱えていた。
天保の飢饉を最後に、日本で大規模な飢饉が起こらなくなった背景には、幕末開港後に、安価な外国米(南京米)が輸入され始めたことがある。日本の庶民を飢饉から救ったのは、開国による自由貿易だったのである。
<参考文献>
- 八幡和郎『江戸時代の「不都合すぎる真実」 日本を三流にした徳川の過ち』PHP文庫
- 菊池勇夫『飢えと食の日本史』(読みなおす日本史)吉川弘文館
- 倉地克直『江戸の災害史 徳川日本の経験に学ぶ』中公新書
- 中里裕司編『日本史の賢問愚問』山川出版社
- 中西聡編『日本経済の歴史 列島経済史入門』名古屋大学出版会
- 中西聡編『経済社会の歴史 生活からの経済史入門』名古屋大学出版会
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