18世紀の半ば頃から江戸幕府・諸藩の国家財政は赤字を重ね、信用を失墜させて商人らからの資金調達も難しくなる事態が現れ始める。17世紀のような開発・成長を前提とした政治が限界を迎えたのである。
苦境から脱するため、諸藩は財政再建を柱とする藩政改革を行った。その推進役となったのは、藩主自身や藩内から抜擢した優秀な人材、さらには藩外から招聘した財政家たちである。しかしその道のりは厳しく、険しいものだった。
恩田木工(1717〜1762年)は信濃国(長野県)松代藩家老。家老中最年少の39歳のとき、勝手掛(財政担当)の大役を命じられ、専制政治や放漫経営によって混乱した藩政の改革に取り組む。
恩田は勝手掛に就任すると、「自分は決して嘘をつかない」ということを、藩主、藩上層部、藩士たちのみならず、領民に対しても宣言した。
そのうえで恩田は領内に触れを出し、松代城内大広間で大会議を催す。 当日参集したのは、藩の諸役人をはじめ、町民、農民であり、なかでも最も多かったのは農民だった。身分制度の厳しい当時、これは破天荒のことだった。
この会議で恩田は、改革の具体策を公開した。そのなかで注目すべきは、「年貢月割金納制」という新たな税制である。年貢の上納に際し、食用とする御飯米などのための現物納入分以外は金納(貨幣による上納)とし、月割で納めることを許したのである。
これは米以外に櫨、栗、青苧、紅花、生糸などの商品作物が多く生産され、換金できた松代藩の特色を生かした妙案だった。
興味深いことに、この新税制は三カ年の時限立法という形で導入された。これは、恩田が「領民の心底からの同意に基づいて新税制を運営していくという契約的な立場を貫いている」ことの表れだと歴史学者の笠谷和比古氏は指摘する。この次元立法は更新を繰り返すという形で、廃藩時まで継続する。
とはいえ、税制改革の効果はすぐには出なかった。藩財政がようやく改善に向かったのは恩田の死から数年後、後継者たちによる努力が実ってからだった。
上杉鷹山(1751〜1822年)は出羽国(秋田県の一部と山形県)米沢藩主。日向国(宮崎県)高鍋藩主秋月種美の次男として生まれる。米沢藩主上杉重定の養子に迎えられ、1767年(明和3)に16歳の若さで米沢藩主となる。
鷹山は江戸時代屈指の名君として名高いが、有能な家臣が補佐したことを忘れてはならない。とりわけ大名貸と呼ばれる藩への貸し付けを行う大商人との関係改善に力を尽くしたのが、江戸家老の竹俣当綱だ。
江戸の両替商である三谷家は、長く米沢藩と関係を取り結び、藩領の特産品である漆蠟(ロウソクの原料)の蔵元に指定された有力な商家である。ところが藩主の側近・森平右衛門が藩政を取り仕切った時代に、米沢藩の不義理によって信頼関係が崩れると、資金融通の依頼に一切応じなくなった。
竹俣当綱は平右衛門を粛清し、鷹山の家督相続を機に、三谷家との関係改善に乗り出す。苦心の調整の結果、三谷家の手代、喜左衛門の米沢訪問が実現することになった。
入念に準備を進めて喜左衛門を米沢の地に迎えた竹俣らは、城下周辺の漆木の実蔵や漆蠟加工場、蠟打ち、桑畑開作場、青苧蔵などを案内して回った。豪商の経営幹部に対して「現地でプレゼンを行い、米沢藩の産業の現状、改革の成果と可能性のアピールに全力を尽くしたのである」と歴史学者の小関悠一郎氏は述べる。
領内視察日程の最後に、竹俣は自ら著した殖産計画書を喜左衛門に手渡した。詳細な計画書に三谷家の当主、三九郎は甚だ感心し、千五百両を用立てた。
海保青陵(1755〜1817年)は経営コンサルタントの先駆けとも評される、異色の儒学者である。丹後国(京都府)宮津藩家老の長男として江戸藩邸で生まれたが、家督を弟に譲り、30代半ばには江戸を離れて京へ向かう。その後は各地で経済上のさまざまな相談に乗り、家計や経営の立て直しに手腕を振るった。
江戸時代の武士や儒者の間では、金銭や商売について論じることは精神の堕落という考えが根強かった。青陵はそうしたタブーに真っ向から挑戦し、極言すれば、一切の世のからくりを商品とみなし、売買関係からとらえようとした。
青陵は「君臣は市道なり」という過激な思想を提唱する。「(君は)臣へ知行をやりて働かす。臣はちからを君へ売りて米を取る。君は臣を買ひ、臣は君へ売りて、売り買ひなり」。忠義を媒介として武家社会で神聖視されてきた士道を市道としてとらえ直し、商人の知恵に学ぶべきだというのである。
藩政改革の具体策の一つとして、「産物廻しの法」を提唱する。一藩経済主義から脱し、国産の物品を広く諸藩に移出する道を講じなければならないという主張だ。藩境を越えた自由貿易の勧めといえる。
青陵は他藩との自由な交易を「平和の戦争」だとみなした。「平和の戦争」である産物廻しを公正に行えば、単に一藩を利するだけでなく、交易相手の藩にも経済的メリットをもたらすと指摘している。
青陵が藩政改革の指南番として実際に助言にあたった例としては、加賀国(石川県)金沢藩のケースが知られる。金沢藩は「加賀百万石」といわれるように国内随一の大藩であり、発足当初は随分裕福だった。しかし貨幣経済・商品経済の発展に伴い、しだいに財政悪化の道をたどり始めた。
そんなとき諮問を受けた青陵は、産物廻しの法を主体とした再建策を具申した。それによって、それまで一藩経済にとじこもりがちだった金沢藩は他藩との交易に乗り出し、難局を乗り切ることができたと伝えられる。
山田方谷(1805〜1877年)は備中岡山藩(岡山県)家老。農商の長男に生まれるが、学問の才能を評価されて士分に取り立てられ、藩財政改革を託された。
方谷は葉タバコ「松山刻」など地場商品のブランド化で知られるが、それと並んで注目すべきは、藩札の信用回復である。
藩札とは、各藩が独自に発行する紙幣だ。本来は幕府が発行する貨幣(金貨や銀貨)との交換を前提とする兌換紙幣である。財政難に苦しむ藩は、赤字を補填するために藩札を発行するようになる。貨幣の準備高を大幅に超える不換紙幣が出回るようになったのである。
備中松山藩では天保年間(1830〜44年)に大量の藩札を発行しているが、すでにその頃には貨幣の準備高が払底していたらしい。乱発によって藩札の価値が暴落したうえ、偽札まで出回っていた。
方谷は三年間と言う期限を切って藩札を貨幣と額面で交換する旨を触れ、藩札の回収に努めた。回収された藩札は、偽札も含めると約八千両に及んだ。回収の費用には産業振興のために用意していた資金の一部をあてたが足りず、新たに借金をしてまかなったという。
方谷は財政再建への強い意志を印象づけるため、大胆なデモンストレーションを行う。河原に積み上げた大量の藩札を燃やしたのである。見物に訪れた多くの人々は持参した弁当で空腹を満たしながら、紙幣が燃やされるだけのパフォーマンスを楽しんだという。
方谷はその後、産業振興で獲得した貨幣を準備金として「永銭」という新たな藩札を発行する。永銭には「永銭百文」「永銭十文」「永銭五文」の三種類があって、それぞれ十枚、百枚、二百枚をもって金一両に引き替えるという明文が裏に記載されていた。
一連の通貨政策は経済安定に貢献し、「方谷の財政再建を成功へ導く重大な転換点となった」と経済学者の大矢野栄次氏は指摘する。
<参考文献>
- 大矢野栄次『江戸のCFO―藩政改革に学ぶ経営再建のマネジメント』日本実業出版社
- 百瀬明治『名君と賢臣―江戸の政治改革』講談社現代新書
- 笠谷和比古『『日暮硯』と改革の時代―恩田杢にみる名臣の条件』PHP新書
- 小関悠一郎『上杉鷹山―「富国安民」の政治』岩波新書
- 徳盛誠『海保青陵―江戸の自由を生きた儒者』朝日新聞出版
- 山田方谷に学ぶ会『入門 山田方谷』明徳出版社
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