政府の財政危機をどう乗り切るかについて、昔も今も日本人の考えにあまり変化はないようだ。政府が独占する通貨発行権を、財政収入の「打ち出の小槌」として利用するのである。
元禄時代、この手法をフル活用した財務官僚・荻原重秀は「経済学者ケインズの理論を先取りした」とよく称賛される。しかしケインズ理論に基づく経済運営で日本を含む先進主要国が巨額の政府債務を抱え、財政難に瀕する今になってみれば、むしろ荻原を厳しく批判した儒学者・新井白石の慧眼に注目したい。
徳川幕府の財政は、江戸時代の初期には直轄領(天領)からの年貢収入のほか、 金銀鉱山からの収益と活発な外国貿易の利益があり、かなり豊かだった。しかし中期にさしかかる5代将軍・徳川綱吉の時代になると、明暦の大火の復興などで支出が増大する一方で、銀産出量の減少などで収入は頭打ちとなっていた。
窮した幕府は通貨の改鋳を決断する。金貨は金と銀、銀貨は銀と銅が原料だったが、金貨の金含有率、銀貨の銀含有率を引き下げることで、その分、鋳造量を増やそうと目論んだ。つまり増加分の金貨や銀貨も支出に充て、財政危機を乗り切ろうとしたのである。
1695年(元禄8)8月、幕府はそれまでの慶長小判、慶長丁銀の回収とともに、元禄小判、元禄丁銀の鋳造を始める。回収した慶長金銀貨は元禄金銀貨の原料となるが、新旧金銀貨の重さは同じであるものの、金や銀、銀や銅の含有率は異なっていた。
元禄小判の場合、金の含有率が87%から57%になり、30%も引き下げられた。その分、銀を多く含んだわけだ。元禄丁銀の場合、銀の含有率は80%から64%になり、その分、銅を多く含んだ(安藤優一郎『徳川幕府の資金繰り』)。
金や銀の含有率を引き下げた分、幕府は金貨や銀貨を大量に鋳造できるようになった。その分、収入が増えた。増収分は「出目(でめ)」と呼ばれた。通貨の品質を下げることで得られた臨時収入である。新井白石はこの手法を「陽(あらわ)にあたえて陰(ひそか)に奪う術」と批判した。
実際、改鋳の行為は、貨幣の品位を下げてはならぬという江戸幕府の開祖、徳川家康の遺命にもとるものだった。それだけに秘密行動とならざるをえない。改鋳は金銀貨の鋳造所である金座や銀座ではなく、本郷霊雲寺近くの大根畑のなかに造幣所を臨時に設け、職人を集めてひそかに作業にあたらせた。
元禄の改鋳で得た出目は約500万両ともいわれる。当時の幕府の歳入は100万両強であり、数年分の収入を労せずして得た計算だった。
この改鋳を建議したのは、幕府の財政を預かる勘定所で吟味役を務める荻原重秀である。荻原は佐渡奉行を勤めた経験もあり、金銀の産出動向に通じていた。元禄の改鋳の功績により、翌1696年(元禄9)に勘定奉行へ昇進する。
荻原の発言として、こんな言葉が伝えられる。「貨幣は国家が作るところ、瓦礫を持ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」。国家が造る貨幣は瓦や小石でもいい、と言い放ったというのである。
改鋳により金銀貨の発行量が大幅に増え、幕府の財政危機は一時救われた。通貨の流通量が増えたことで、「元禄バブル」といわれる派手で華美な好景気も起こった。
味をしめた幕府は再び改鋳に踏み切る。1709年(宝永6)に叔父・綱吉の死を受けて6代将軍に就任した徳川家宣は、翌1710年(同7年)4月に宝永小判、宝永丁銀の鋳造を開始させた。この改鋳も荻原が主導した。
宝永の改鋳では、金の含有率が慶長金と同水準にまで引き上げられたが、問題は重さだった。宝永金は慶長金の約半分の重量しかなかったため、金の含有量も約半分だった。 含有率が引き下げられた元禄金と比較しても、重さが半分しかなかった分、含有量は約76%に減った計算だ。つまり金の含有量が元禄金よりも減った分、出目として幕府の収入が増える仕掛けが施されていた。
宝永小判は「二分小判」と俗称されたという。額面は1両だが、重さは半分であったため、1両の半分にあたる2分の価値しかないとみなされたのだ。実際、金の含有量は慶長小判の半分で、その重さも半分だった。銀貨は宝永年間に4度の改鋳を繰り返す。最後の「四ツ宝銀」は銀の割合が20%(銅が80%)まで下がり、慶長銀の80対20から逆転してしまった。
改鋳により幕府財政はひと息ついたものの、一方で副作用も広がった。物価高(インフレ)である。質の落ちた金貨や銀貨が大量に出回ったことで、通貨の価値が下がり、インフレが引き起こされたのである。
江戸の庶民は、1回目の元禄の改鋳では、幕府に寄せた絶対的信頼が仇になり、最初の事件ということもあって不意をつかれ、反応にはかなり時間がかかった。しかし2回目以降には両替商や商人を中心にすばやく反応するようになり、強制交換にも応じず質の良い貨幣を隠した。「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則どおりである。両替商は厳禁を犯してまでも、自身のためはもちろん、依頼に応じて貨幣を鑑定し、三井両替店の場合には、その証明に「イ」のような自店特有の小極印を打つなどして自衛手段を講じた。
商人は商品の販売価格を貨幣の品質低下に応じて引き上げ、被害の軽減を図った。これによりインフレが進行し、物価高が出目の収益を実質相殺していく。幕府は自分の首を絞める形となった。
宝永年間、幕府が何度も改鋳を繰り返したのは、こうした庶民の自衛手段に対して出目を確保しようとの焦りからだ。極度に品質の落ちた四ツ宝銀の出現で、さらに悪質な貨幣が出るとの風説が発生すると、庶民は金銀貨の代わりに米穀・絹布・薬種などの入手に走った(三上隆三『江戸幕府・破産への道』)。
一方、貨幣改鋳は対外貿易で深刻な問題をもたらした。権力を背にした出目追及のための悪貨発行は、国内では何とか無理を通せても、貨幣の実力のみを問う国際取引では通用しない。
朝鮮は日本に朝鮮人参・生糸などを輸出し、その支払いを日本の銀貨で受け取っていた。その銀を朝貢貿易で清朝に再輸出していたのである。純度の下がった元禄銀をそのまま清に輸出できないので、朝鮮は純度を80%に再精製しなければならなかった。そのため、朝鮮は銀含有率64%の元禄銀貨を、一定の割引をもって、貿易窓口の対馬藩から受け入れた。すなわち貨幣改鋳は、日本の主要輸出品目である銀の価値を下げ、結果的に日本国内における輸入品の額面上の値上げをもたらしたのである。
しかし、銀の含有率を50%にまで下げた1706年(宝永3)の「宝字銀」は、どれだけ割引しようとも、朝鮮側には受け入れられなかった。対馬藩の財政は、朝鮮との貿易に完全に依存していたため、幕府は対馬藩のために、対朝鮮支払い用に限って、改鋳前の純度80%に戻した銀貨を鋳造するという措置をとった。この銀貨は「人参代往古銀」と呼ばれる(トビ『「鎖国」という外交』)。
荻原重秀主導の改鋳政策に対し、幕府内には強く反発する人物がいた。新井白石である。家宣が将軍の座に就くと侍講に任命され、政治顧問として幕政に大きな影響力を及ぼす。
白石は金銀の含有量を引き下げて通貨の品位を落とすことは、鋳造者である幕府の威信を低下させるものという考えの持ち主だった。国辱とまで考えており、二度の改鋳の立役者である荻原を退けるよう家宣に諫言を繰り返した。
1712年(正徳2)9月、荻原は白石の弾劾を受け入れた家宣により勘定奉行を罷免される。翌10月に家宣は死去し、わずか5歳の嫡男家継が7代将軍の座に就くが、白石は引き続き幕政に関与し、劣化した貨幣の品質を回復させようと改鋳の準備を進めた。「正徳の治」である。
1714年(同4)5月、幕府は慶長金銀の品位に戻す改鋳を断行した。これには材料となる金銀の確保が必要になる。幕府は貿易制限で金銀の流出を防ぎ、逆にその流入をはかったが、材料不足を改善するには至らなかった。このため元禄・宝永金銀に比べれば鋳造量の減少は避けられず、 流通量も減少した。その結果、商品経済は停滞し、デフレ不況に陥る。
しかし、もし白石が通貨価値の劣化に歯止めをかけていなかったら、財政危機はさらに深刻になり、江戸幕府の寿命を縮めたかもしれない。事実、再び改鋳に頼り始めた1818年(文政元)以降、幕末にかけて幕府は破産への坂道を転げ落ちていく。
日本円の通貨価値が問われる今、財政学者としての新井白石の見識を再評価するべきではなかろうか。
<参考文献>
- 安藤優一郎『徳川幕府の資金繰り』彩図社
- 三上隆三『江戸幕府・破産への道―貨幣改鋳のツケ』NHKブックス
- 村井淳志『勘定奉行 荻原重秀の生涯 ―新井白石が嫉妬した天才経済官僚』集英社新書
- ロナルド・トビ 『「鎖国」という外交』(全集日本の歴史)小学館
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