2023-02-27

無邪気な物語「英雄対悪人」

ジャーナリスト、スティーブン・キンザー
(2023年2月21日)

ウクライナで戦争が激化している間、米国内は至って平和である。米国人は公式の物語(ナラティブ)を受け入れている。西部劇でさえこれほど明確かつ粗雑に善悪の線が引かれたことはない。ホワイトハウス、議会、報道機関は、ウクライナはいわれのない侵略の無実の犠牲者であり、ロシア軍を阻止しなければ欧州全土を脅かすことになる、米国は勝利を確実にするために「必要な限り」ウクライナと協力しなければならない、と主張している。
この総意に異を唱えることは、ほとんど不可能である。2003年のイラク侵攻のときでさえ、わずかに自制を求める声はあった。ウクライナ戦争に突入してからは、そのような声を見つけるのはさらに難しくなった。

今日、ウクライナ紛争のすべての当事者に何らかの責任があると示唆すること、米国は活発な紛争地帯に高性能の武器を投入すべきではないと主張すること、この紛争の結果に重大な利害関係があるか疑うことは、反逆罪ではないにしても異端とみなされる。知的な飛行禁止区域の厳格な実施により、ウクライナに関する理性的な議論はほぼ窒息状態にある。

ワシントンの政治権力の中枢では、ウクライナはほとんど神秘的な存在となっている。ウクライナは地理的な場所というよりも、人類の未来にとって決定的な戦いが展開されている宇宙的な舞台と考えられている。この戦争は、米国がロシアを血祭りに上げる輝かしいチャンスであり、世界のパワーバランスが変化しても、米国の支配に変わりはないことを示すものとみなされている。

ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領に対する米国の熱愛の爆発は、抗しがたいメディアキャンペーンの勝利であった。ゼレンスキー氏は、自由の新たな世界的英雄として登場した。一夜にして、その姿が店のウィンドウやインターネットのサイトに躍り出た。 

一方、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、下品で堕落したな性格の典型として描かれている。プーチン氏は、国家や運動、思想などではなく、一個人に憎しみを集中させるという私たちの欲求を満たしてくれる。長年にわたり、私たちは〔キューバの〕カストロ、〔リビアの〕カダフィ、〔イラクの〕サダム・フセインといった色とりどりの敵に対して道徳的な優位性を享受してきた。プーチン氏はこの星座に完璧に当てはまる。漫画のように邪悪な敵がいることは、聖人君子のようなゼレンスキー氏が味方にいるのと同じくらい心強い。

昨年、戦争が勃発した直後、米議会はウクライナへの400億ドルの支援を決議した。驚くべきは、その規模だけでなく、民主党議員が全員賛成したことである。反対したのは上院議員11人、下院議員57人で、すべて共和党員であった。マスコミは拍手喝采した。

戦争中の国は、直接の戦争であれ代理戦争であれ、その戦争が良い考えかどうかという議論を奨励したりはしない。米国も例外ではない。エイブラハム・リンカーンやウッドロウ・ウィルソンは、自らが行った戦争を批判する者を投獄した。ベトナム戦争に反対した人たちは起訴された。ウクライナへの関与をめぐる議論が幽霊のように消えてしまったのは、公式の物語形成の最新の勝利といえる。

冷戦は間違いなく、現代史の中で最も強力に展開された物語であった。何年もの間、米国人は、いつ攻撃されてもおかしくない敵に命を狙われており、米国は破壊され、地球上の有意義な生活の希望はすべて失われると信じるように言われ、実際そう信じていた。その敵はモスクワにいた。

その頃、米国人はすでにロシアを「他者」、つまり文明をつねに脅かす野蛮な力の化身として見ることに慣れきっていた。1873年には、米国の漫画家がロシアを毛むくじゃらの怪物として描き、ハンサムなアンクル・サム〔=米国〕と世界の覇権を争っていた。この原型は世代を超えて受け継がれている。多くの国民がそうであるように、米国人も、憎むべきと言われた国に対しては、簡単に憎むように動員される。その国がロシアであれば、何世代にもわたって心理的な準備をすることになる。 

ワシントンの政治家たちは、ウクライナ戦争に飛びつくことを許されるかもしれない。有権者はもっと差し迫った関心事を抱えているから自分達を罰することはないし、武器メーカーは多大な報酬を与えてくれると踏んでいるのだ。しかし報道機関の態度は、あまり許されるものではない。報道機関は不快な疑問を投げかけて本来の役割を果たすどころか、ほとんどウクライナの公式の物語の一番の応援団になってしまっている。

戦場での報道はほとんどすべて、「我々」の側からのものだ。私たちは、ロシアの残虐行為やその他の非道な行為に関する記事を際限なく読む。その多くが正確であることは間違いないが、報道のバランスが悪いために、私たちはウクライナ軍が戦争犯罪を犯していないと推定してしまう。アムネスティ・インターナショナルが発表した、ウクライナが戦闘中に人間の盾を使用しているという報告書には、怒りと非難が向かった。その教訓は明確だ。すなわち、正義は一方にあるのだから、現場からの報告はそれを反映したものでなければならないのだ。

この紛争について書く人の多くは、冷戦時代の先達がそうであったように、米政府はチームであり、報道は我々のチームの勝利を保証する役割を担っていると信じているようだ。このような考え方は、ジャーナリズムにとって死を意味する。報道は誰のチームでもないはずだ。 我々の仕事は公式の物語に挑戦することであり、安易にそれを増幅させることではない。それがジャーナリズムと広報活動の違いである。

紛争がさまざまな視点から報道された時代に戦場記者だった私たちにとって、ウクライナに関する報道の一面性は最も印象的なものである。私は〔ニカラグアの左翼運動〕サンディニスタと〔同国の右派ゲリラ〕コントラ、セルビア人とクロアチア人、トルコ人とクルド人などを取材した。そのような経験から、紛争においては、片方が美徳を独占しているわけではないことを学んだ。しかし、今日の米国人はその逆のことを聞かされている。すべての美徳は一方にあり、すべての悪はもう一方にあるという、無邪気な物語を聞かされているのだ。

ウクライナ戦争を両側から取材しようとしない戦場記者たちの姿勢は、社説や論説のページにも反映されている。この戦争について根本的な疑問を投げかける大手新聞社はないようだ。 

プーチン氏が国境に敵の基地を置きたくないと思うのは正当なことなのか。政治的主張のために、何千人もの死者を出すことに貢献する必要があるのか。我々は戦争を誘発する手助けをしたのか。ウクライナの軍隊のどれだけが親ナチなのか。ドンバスの国境線がどこに引かれているかが、なぜ米国にとって重要なのか。巨額の援助を送る前に、世界で最も腐敗した国の一つであるというウクライナの評判を考慮する必要があるのか。この紛争は、本当に民主主義と独裁主義の対決なのか、それとも単なる欧州の山火事なのか。

米国がウクライナ戦争に深入りしているときでさえ、こうした疑問は失礼にあたるとされている。政党やメディアを束ねる息苦しい総意が、思慮深い議論を阻んでいるのだ。ウクライナ戦争がもたらした最悪の結果の一つは、すでに明らかだ。この戦争は、米国人の心を再び閉ざすことになったのである。

Putin & Zelensky: Sinners and saints who fit our historic narrative - Responsible Statecraft [LINK]

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