2023-08-15

明治維新と武士のリストラ

明治新政府は1868(明治元)年3月、五箇条の誓文を出し、天皇親政のもとで公議世論の尊重と開国和親を骨子とする政府の基本方針を示した。日本の近代化を推し進めた明治維新の始まりである。

秩禄処分 明治維新と武家の解体 (講談社学術文庫)

さまざまな改革のうち、最も重要なものの一つが「四民平等」である。士農工商(四民)の封建的身分制度が撤廃され、華族(公卿・大名)・士族(幕臣・藩士)・平民(農工商)の3族籍に再編された。とりわけ急激な変化に直面したのが、幕末まで支配階級の一角を占め、明治維新で士族となった幕臣・藩士、すなわち武士である。その歩みをたどってみよう。

新政府の実権を握ったのは、薩摩・長州・土佐・肥前などの藩を代表して活動していた武士たちだった。彼らは藩を廃止して権力を中央の政府に集める必要があると考え、1869年1月、出身藩の4藩主に働きかけて、版(土地)と籍(人民)を朝廷に返すことを申し出させた(版籍奉還)。ほとんどの藩主もこれに続き、政治的・軍事的な権力が朝廷のもとに集められた。

つづいて新政府は、薩長土3藩の兵士合計1万人を政府直属の軍隊とし、この軍事力を背景に1871年7月、廃藩置県を断行した。大改革だったにもかかわらず、目立った反対はなかった。すでに戊辰戦争など戦乱の中で藩の財政が破綻し、とくに小藩では藩の存立そのものが脅かされていたからだ。

それに加えて、華族と士族の家禄(世襲性の俸禄)は全額が政府に引き継がれ、彼らの生活維持がしばらくは保証されたことも功を奏した。とくに旧藩主の多くは維新前よりもむしろ多額の所得を確保している。

しかし政府の側からみれば、負担が重くのしかかる。家禄および戊辰戦争の論功行賞として与えられた賞典禄は、合わせて財政支出の3割以上を占めた。家禄をなんらかの形で処分しないことには、国家財政はとうてい保てないことは明らかだった。また理念のうえでも、版籍奉還で藩の仕事に携わることがなくなり、徴兵令(1873年)で兵役の義務も平民と同じになった士族に、とくに禄を支給する理由はなかった。

そこで政府は秩禄処分に乗り出す。最初にこれに取り組んだのは、大久保利通大蔵卿が岩倉使節団で外遊中だった留守を預かった井上馨大蔵大輔である。井上は秩禄の額を減じたうえで、その6年分を公債で交付し、以後の支給を打ち切る構想を立てた。公債で数年分を支給するのは、受け取った側が、秩禄より額が減るものの、公債の利子を生計の足しにするか、あるいは公債そのものを売却して事業の資金にするか自由に選べるようにするためだ。支給する国の側も公債を発行するだけで、すぐには資金を必要としないので好都合である(鈴木淳『維新の構想と展開』)。

井上の構想はいったん挫折したものの、枠組みは引き継がれ、実行に移される。政府はまず1873年12月、希望者に秩禄6年分を年利8%の秩禄公債と現金を半々で交付する家禄奉還を行った。これに応じて9万人余りが家禄全額を奉還し、一部奉還者を含めて家禄の23%が処分された。政府は奉還者に対して官有地を安く払い下げ、農業への転身を支援した。

つづいて1875年には支給方法を米などの現物から現金(金禄)に改めた。最終的には1876年8月、前年の江華島事件による緊張を契機に、金禄公債を交付して家禄の支給を打ち切ることを決めた。

金禄公債は5%、6%、7%、10%と4種類の利率のものが交付され、禄高の少ない者ほど利率が高くなるように設定された。それでも金禄総額1776万円強のうち、519万円強は華族分で、476人の華族が金禄の3分の1近くを占め、残る3分の2強が約32万人の士族に分与されていた。士族の大半を占める下士層に与えられた7%利付公債は年間の利子が29円50銭、1日あたり8銭にすぎず、大工職人(45銭)や土方人足(24銭)の日給にも劣った。これでは最低限の生活を維持するので精一杯である。

一方、金禄公債の利払いも元金償却も、結局は国民の税金によらなければならない。そしてその納税者の大部分は農民である。言い換えれば、主として農民の負担によって、封建領主階級の禄が国家に買い取られたわけである(井上清『明治維新』)。

漢学の素養など武士の教養を生かせる教師や官吏、あるいは警官など安定した収入を得られる職種に就けなかった士族の多くは、没落していった。士族の生活状況は地域によっても異なり、1883(明治16)年に政府が全国視察した記録によると、岐阜県士族については就業に励む者が多い一方で、宮城県士族の様子については「維新の際、減禄甚(はなはだし)く、為めに生計を失し、妻子離散するに至る者多し」と記されている。

政府の近代化政策に不満を抱く士族は、1874年の佐賀の乱など、士族反乱を起こしたが、1877年の西南戦争での敗北を最後に、武力で反抗する道をとざされた。

秩禄処分で金利生活者となった士族にとって最も生活を脅かすものは物価高騰だったが、西南戦争による不換紙幣の大量増発と、1870年代の大隈重信大蔵卿による積極財政で増進したインフレは、士族を苦境に陥れることになる。多数の士族が公債を一斉に手放したことから、売値の相場も下落した。

貴族化された華族に対し士族にはまったく特権が存在せず、その呼称はただの出自の証にすぎなかった。それでも明治政府は模範的集団として士族を位置づけ用途した。教育の重視や家名の尊重など武家風の生活習慣は平民の間にも浸透し、日本のミドルクラスは出自にかかわらず武士的な人々を軸に形成された。

「このことは、国家建設への積極性や職責への忠実性など多くの面で近代化の梃子となる」と歴史学者の落合弘樹氏は著書『秩禄処分』で強調する。ただし、もともと戦嫌いだった民衆をアジアへの拡張主義や戦争肯定に導くという負の側面もあった。

落合氏が述べるように、秩禄処分を現在にたとえるならば、公務員をいったん全員解雇して退職金も国債での支給とし、そのうえで必要最小限の人員で公職を再編するというような措置である。財政改革が急務となるなかで、「武士のリストラ」である秩禄処分は、今日の参考となる部分がありそうだ。

<参考文献>
  • 鈴木淳『維新の構想と展開』(日本の歴史)講談社学術文庫
  • 井上清『明治維新』(日本の歴史)中公文庫
  • 落合弘樹『秩禄処分 明治維新と武家の解体』講談社学術文庫
  • 大日方純夫他『日本近現代史を読む』新日本出版社

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