米国人とみられる男性ユーチューバーが先日、東京の地下鉄内で日本人に「ヒロシマ、ナガサキを知ってるか?」「なぜ(原爆で)日本人が死んだかわかるか? 真珠湾攻撃のせいだよ」「また原爆を落としてやる」などと発言し、批判を浴びた。その後謝罪したものの、路上で通行人に殴られ、「返り討ち」にあう羽目となった。
ヤフーニュースによれば、ソーシャルメディアでは「あんな侮辱をしたんだから自業自得」「日本人はこういう時にやり返してこなかったから舐められる。よくやった」といった意見が目立つ一方で、「暴力はよくない」と否定的な声もあったという。
原子爆弾(原爆)はアジア太平洋戦争末期の1945年8月6日に広島に、9日に長崎に米国によって投下され、年末までに広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が命を奪われた。戦争が終わってからも、放射線によって多くの人々が苦しめられた。
しかし原爆投下の是非については、ユーチューバーの一件が示すように、日本人と米国人で見方が対立し、日米それぞれの市民の間でも意見は分かれる。リバタリアニズム(自由主義)の観点から、この問題を考えてみたい。
まず、リバタリアニズムの意味を確認しておこう。この哲学の基本は「誰の権利も侵害していない者に対する権利の侵害は正当化できない」ということだ。ここで言う権利の侵害とは、物理的な暴力の行使である。平たくいえば、「人をいきなり殴りつける」「人の財産を一方的に奪う」といったことのみを、強く批判する。
この見解に対しては、たいていの人はとくに異論はないだろう。「暴力はよくない」とは、ユーチューバーの一件に対しても普通の日本人が述べた意見なのだから。
つまり、リバタニアニズムの特徴はその原理原則にあるのではない。リバタリアンの米経済学者ウォルター・ブロック氏が強調するように、「その際立った特質は、だれもが賛同するであろう原則を、世の中のありとあらゆる場面に適用させようとする厳格な首尾一貫性、というか偏執的なまでの頑固一徹さにある」(『不道徳な経済学』)。
この特質に着目するならば、リバタリアニズムの訳語は単に「自由主義」ではなく、『不道徳な経済学』の日本語版がそうしているように、「自由原理主義」と訳してもいいかもしれない。
リバタニアニズムの「厳格な首尾一貫性」を示す一例に、税金がある。ほとんどの人は自由主義の原則と国家による税金の徴収とが矛盾しているとは思わないだろうが、リバタリアンは違う。「徴税は、リバタリアンの原則に明らかに反している。税金の支払いを拒否する人は、だれかの権利を暴力的に侵害しているわけではない。徴税とは、善良な市民に対する、国家による暴力的な権利の侵害にほかならない」(同)
すなわち、リバタリアンは暴力の批判について、その主体が政府か個人かで区別しない。ならば原爆投下をどう考えるかは明らかだろう。たとえば、兵士が訓練中、同僚の兵士を銃撃して殺害すれば、殺人罪に問われる。そうだとすれば、市民に対し原爆を投下し、数万、十数万もの命を奪えば、その主体がたとえ政府(民間人がそのような大規模な殺戮を行うとは考えにくいが)であろうと免責せず、はるかに重い罪として糾弾しなければならないだろう。
かりに例のユーチューバーが言ったように、原爆投下がハワイの真珠湾の米軍に対し日本軍が行った奇襲攻撃への報復だったとしても、広島・長崎の市民(女性や子供を含む)が真珠湾を攻撃したわけではないし、真珠湾に一般市民はほとんどいなかった。
リバタリアンの米歴史家、ラルフ・ライコ氏は「広島と長崎の破壊は、東京やマニラで日本の将兵が処刑されたどんな罪よりも重い戦争犯罪だった」と指摘したうえで、「(原爆投下を命じた米大統領)ハリー・トルーマンが戦争犯罪人でないなら、誰もそうではなかったことになる」とトルーマン大統領の重大な戦争犯罪を指弾する。
リバタリアンらしく論理的に首尾一貫し、米国人として勇気ある主張だ。しかし、この意見に対し「よく言ってくれた」と溜飲を下げるだけの日本人に対しては、リバタリアンは厳しい目を向けることだろう。原爆投下という戦争犯罪には、「共犯者」がいたからである。
<参考資料>
- ブロック『不道徳な経済学 転売屋は社会に役立つ』(橘玲訳、ハヤカワ文庫NF、2020年)
- Harry Truman and the Atomic Bomb | Mises Wire [LINK]
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