クリーブランド米大統領は1893年からの2期目、経済恐慌に見舞われた。1930年代の大恐慌が襲うまで、米国で最も厳しい恐慌といわれた。原因はクリーブランドの2度の任期の間に登板した、共和党のベンジャミン・ハリソン大統領による政策だ。金融緩和、財政の乱費、関税引き上げなどのせいで、健全な経済が失われた。
クリーブランドが恐慌克服のために採った政策は、通貨の信任回復だ。当時、ドルの裏付けについて激しい論争が繰り広げられていた。米国は金と銀を組み合わせて裏付けとする「金銀複本位制」を採用していたが、銀の割合を増やしてインフレを起こし、借金に苦しむ農民ら労働者階級の負担を軽くしようと主張する一派が勢いを増していた。今でいえば「リフレ派」だ。代表的な論者は民主党左派のウィリアム・ジェニングス・ブライアンで、金だけを裏付けとする「金本位制」を批判し、「金の十字架の上に人類を磔にしてはならない」と訴えた。
これにクリーブランドは反対し、インフレはドルの購買力を失わせ、むしろ貧しい労働者を苦しめることになると主張した。政府に毎月一定量の銀購入を義務付けていた「シャーマン銀購入法」を廃止するとともに、財務省に銀貨の増発を強いる議会のインフレ提案に拒否権を発動し、米国を金本位制に戻すことに成功した。
クリーブランドの2期目の功績としてもう一つ見逃せないのは、外交政策だ。
まず、前任のハリソンが上院に批准を求めたハワイ併合条約を撤回し、頓挫させた。ハワイの米国人事業家や「後進民族の文明化」を望む人々は、この条約を推進していた。しかし反植民地主義の古い世代に属するクリーブランドは、ほとんどのハワイの人々が、米国が援助したハワイでのクーデターに同意しておらず、米国の一部になることを望んでいないことを知っていた。クリーブランドは、この条約は不正に結ばれたものであり、アメリカ独立宣言にうたわれている真の自決権に反するものだと考えていた。
クリーブランドはまた、キューバの反乱を助けるという名目でスペインと戦争することを拒否した。中立を保ち、スペイン支配に対するキューバの暴動を支援することを拒否し、代わりにスペインがキューバを徐々に独立に導くような改革を採用するよう促したいと考えた。このため、キューバ反乱軍の交戦権を認めるよう求める決議を採択した上院と対立する。議会はキューバの独立を認めると脅し、大統領に逆らおうとした。これに対してクリーブランドは、そのような決議は大統領の権限を簒奪するものだと断じた。
クリーブランドは、スペインと戦争すれば政治的に利益を得ることができたかもしれない。1890年代の経済恐慌から米国民の意識を遠ざけることができたからである。しかし、そのような安易な道は選ばなかった。台湾の独立をあおり、中国との戦争も辞さないように見える現在の米政権とは大違いだ。
1897年にウィリアム・マッキンリーがクリーブランドに代わって大統領に就任した後、状況は一変する。マッキンリーは1898年、米国をスペインとの戦争(米西戦争)に引きずり込み、ハワイも併合して、帝国主義への道を歩み始めた。
クリーブランドは退任後、「アメリカ反帝国主義連盟」を結成し、米国の帝国主義路線に反対していく。米国の財政肥大と対外膨張が限界を迎えようとしている今こそ、クリーブランドの叡智を見直すべきだろう。
<参考資料>
- Ivan Eland, Recarving Rushmore: Ranking the Presidents on Peace, Prosperity, and Liberty, Independent Institute, 2014.
- Grover Cleveland Presented the Best Example of a True Liberal Populist | Mises Wire [LINK]
- The Ron Paul Institute for Peace and Prosperity : When President Grover Cleveland Rejected Congressional Pressure for War against Spain [LINK]
- Why Grover Cleveland Is Mostly Forgotten Today | Mises Wire [LINK]
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