2023-10-12

日清戦争と明治のメディア

日清談判破裂して、品川乗り出す吾妻艦——。日清戦争当時、大流行した「欣舞節」の歌い出しである。テレビもラジオもない時代に、空前の大流行となっただけでなく、歌に踊りがつけられ、その踊りもまた大流行した。 

日清戦争 「国民」の誕生 (講談社現代新書) 

日露戦争が司馬遼太郎氏の小説『坂の上の雲』やそのドラマ化によってよく知られるのに比べると、その10年前、1894(明治27)年夏に起こった日清戦争の印象は現在では希薄なようだ。しかしこの戦争は近代日本が初めて経験した大規模な対外戦争であり、その後の日本の進路を決定づけた戦争といえる。

日清戦争の起源は開戦のおよそ20年前にさかのぼる。1875(明治8)年、日本の軍艦、雲揚号が朝鮮の江華島沖で挑発的な行動をして朝鮮側の砲台と交戦する事件(江華島事件)を起こし、これを契機に日本は軍艦を送って日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させる。同条規は治外法権を定め関税自主権を与えないなど、かつて日本が欧米に強制された不平等条約と同様の内容を押しつけた。これにより朝鮮は日本や、その後同様の条約を結んだ欧米への反発を強めていく。

1894年春、カトリックの西学に対する民族主義的な東学を中心に、朝鮮で減税と日本や西欧の排除を要求する農民の反抗が起こり、拡大した(甲午農民戦争・東学の乱)。鎮圧に手を焼いた朝鮮政府は6月初め、緊急に清朝の政府に対して援軍の派遣を要請した。以前から戦争を準備していた日本は、この機に乗じて朝鮮に軍隊を送り、清国軍との衝突を引き起こし、清国の勢力を追い出して朝鮮を支配しようと考えた。

このような意図があったので、朝鮮の情勢が落ち着いた後も日本軍は撤退するどころか、逆に7月23日早朝、朝鮮王朝に攻め込んで占領し、国王・高宗と王妃の閔妃を拘禁した。7月25日、日本の艦隊は、黄海で清国の軍艦と清国の兵隊を乗せた輸送船を攻撃して、日清戦争の火蓋を切った。その後、日本の陸軍は平壌を防衛する清国の軍隊を攻撃して陸戦も始めた。戦場は中国の遼東半島へと移ったが、軍備不足と戦意低下などが重なり、清国軍は海でも陸でも敗北した。

一方、日本人は戦勝に狂喜した。国民の間に戦争に対する熱狂を生み出すうえで、メディアが果たした役割を無視できない。日清戦争は、新聞や雑誌、写真といった明治時代の新しいメディアによって伝えられた。あるいは、この戦争前後から盛んに歌われるようになった軍歌は、近代日本人の精神に多大な影響を及ぼしていく。

最大の情報源となったのは新聞だった。当時の新聞ジャーナリズムはまだ黎明期にあり、各社が部数を拡大しようとしのぎを削っていた。戦争は部数拡大のまたとないチャンスだった。実際、日清戦争は新聞の発行部数を飛躍的に拡大した。「万朝報」は開戦した年の発行部数が1457万部と前年に比べ60%も増え、「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」はどちらも30%前後の伸びを見せた。

小説家・劇作家で『半七捕物帳』の作者として知られる岡本綺堂は、当時、東京・銀座に集まっていた新聞各社から号外売りが鈴を鳴らして駆け出すと「待ち受けている人たちが飛びついて買う。まるで喧嘩のような騒ぎだ」と回想している。銀座界隈は大混雑し、氷屋や汁粉屋が儲かったという。

「時事新報」は福沢諭吉の経営で、特に経済関係記事に定評のある高級紙として知られていたが、甲午農民戦争を契機に朝鮮への出兵が行われて以来、他紙以上に激しい対清・対朝鮮強硬論を展開する。開戦以降は日清戦争の報道と戦争への協力に熱心な新聞として知られた。経営主の福沢自身、日清戦争を文明国である日本と野蛮国である清の戦争、すなわち「文明の戦争」であると論じ、時事新報紙上で戦争支持を表明するとともに、自身も軍事献金組織化の先頭に立つなど、積極的に戦争に協力した(大谷正『日清戦争』)。

従軍記者制度は日清戦争から始まった。従軍した記者の数は全国66社から129名と伝えられる。記者たちが戦地から競って送る「連戦連勝」の記事は、現代のオリンピック報道と同様に人々を興奮させた。「国民新聞」の記者として巡洋艦千代田に乗り込んだ作家の国木田独歩は、同じ新聞社に勤務する弟に宛てた手紙という形式で従軍記を同紙に連載して好評を博し、のちに『愛弟通信』として単行本になった。

有力紙のなかには画家を従軍させて、紙面に多数の挿絵を掲載するというビジュアル戦略をとる新聞もあった。日清戦争に従軍した洋画家は、小山正太郎・浅井忠・黒田清輝・山本芳翠がよく知られている。このうち浅井忠は「時事新報」に雇われ、「画報隊」の一員として戦場に赴いた。

軍歌も多く作られた。その歌詞の多くは清との戦争を「正義の戦争」と称え、相手をあからさまに侮辱したものだった。日清戦争当時、大流行した「敵は幾万」(山田美妙作詞・小山作之助作曲)は、「敵は幾万ありとても、全て烏合の勢なるぞ、烏合の勢にあらずとも、味方に正しき道理あり」と歌う。「敵」は言うまでもなく清である。こうして、勇敢な日本兵に対し、清兵は「烏合の勢」にすぎないという意識が、社会に広く共有されていく。

しかし、すべての人が戦争の熱に浮かされたわけではなかった。作家の田山花袋は『東京の三十年』で当時を回想し、「軍歌の声が遠くできこえる……。それは悲壮な声だ。人の腸を断たずには置かないような、または悲しく死に面して進んで行く人のために挽歌をうたっているような声だ」と記している。

さまざまなメディアは、日清戦争という出来事を社会的な共通経験へと再編成し、結果として「日本人」という意識を広く社会に浸透させた。「それは、日本が近代的な国民国家へと姿を変えていく契機となっている」と国文学者の佐谷眞木人氏は指摘する(『日清戦争』)。

1895(明治28)年4月、戦争に勝利した日本は、講和条約で朝鮮に対する清の支配権を排除し、遼東半島・台湾・澎湖諸島と賠償金2億両(約3億円)などを手に入れた。しかしロシア・フランス・ドイツが遼東半島を清国に返せと迫り、日本政府はやむをえずこれを受諾する。この三国干渉は国民の中に屈辱感を植えつけ、「臥薪嘗胆」を合言葉に、次の戦争の準備へと駆り立てられていく。

<参考文献>
  • 大谷正『日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像』中公新書
  • 佐谷眞木人『日清戦争 「国民」の誕生』講談社現代新書
  • 日中韓3国共通歴史教材委員会『未来をひらく歴史―日本・中国・韓国=共同編集 東アジア3国の近現代史』高文研
  • 宮地正人監修『日本近現代史を読む』新日本出版社

0 件のコメント: