「現在の鎖国状態を続けることは、経済社会に甚大な影響をもたらします」。コロナ下で海外との人の往来が大幅に制限された2020年、当時の安倍晋三首相は記者会見でこう発言した。このように、江戸時代の対外政策を指す「鎖国」という言葉は、今でも物のたとえとしてよく使われる。
鎖国とは、江戸幕府がキリスト教の禁止と貿易統制を目的に、日本人の海外渡航禁止と外国船来航規制を断行した政策を指す。三代将軍・徳川家光の治世下の1641(寛永18)年、平戸にあったオランダ商館を長崎港内の人工島・出島に移したことで完成したとされる。
この従来の見解に対し、近年、歴史学者の間で「鎖国はなかった」という反対意見が勢いを増している。学会での議論を受け、教科書から鎖国の文字がなくなるのではと取り沙汰される。
さて、鎖国は本当になかったのだろうか。
鎖国はなかったという主張の根拠の一つは、江戸幕府は外国に対し完全に門戸を閉ざしていたわけではなく、「四つの口」を窓口として外国と貿易していたという点だ。
「四つの口」とは長崎、対馬、薩摩、松前の四つの土地を指す。長崎は中国・オランダ、対馬は朝鮮、薩摩は琉球、松前はアイヌとのそれぞれ貿易窓口となっていた。鎖国を否定する専門家は、この事実をもって、江戸時代は鎖国ではなく、幕府による管理貿易体制にすぎなかったと主張する。
もし鎖国を、限定的な国交や貿易をまったく遮断した体制だと定義するなら、この主張はもっともだろう。しかし、それまで鎖国という言葉を使っていた研究者の間でも、幕府が限定的な貿易を行っていたことは周知のことだった。
東大教授を務め、2020年に死去した山本博文氏は、次のように指摘している。日本人の海外渡航は禁止し、外国にいる日本人の帰国は許さない、家光の段階で貿易していたオランダ・中国とは貿易関係は続けるが国交は開かない、それ以外の国との国交・貿易は開かない、という体制が鎖国の本質だった。
唯一国交があったのは朝鮮だが、これも対馬藩は貿易をしているが幕府とは将軍の代替わりごとに使節が来るにすぎなかった(江戸時代を通じて十二回のみ)。琉球は薩摩藩の支配下にあり、通常の意味での外国ではない。松前でのアイヌ民族との交易は、国家間の関係ではなかった。
「窓は開いているかもしれないが、扉は閉まっているのである。ほとんどの外国にとって、日本は閉ざされた国家だった」と山本氏は述べる。
山本氏はさらに、幕府が鎖国をしていたのでなければ、「〔幕末に〕ペリー来航が日本社会にいかに大きな衝撃を与えたか理解できない」と指摘する。日本が鎖国をしていたから、ペリーの開国要求が武士を中心に尊王攘夷運動を引き起こし、幕府の倒壊を招いた。「江戸時代が『鎖国』でなかったという人には、その歴史的な意味をよく考えてほしい」と山本氏は強調する(『家光は、なぜ「鎖国」をしたのか』)。
本郷和人氏(東大教授)も、鎖国はなかったという説には否定的だ。同氏は、ロシアから帰国した漂流民、大黒屋光太夫の例を引く。
船乗りの光太夫は伊勢・白子の浦から江戸へ向かっていたが、嵐に遭って遠くアリューシャン列島に漂着。帝都サンクトペテルブルクに至り、女帝エカテリーナ二世に謁見して帰国を許され、漂流から九年半後、帰国を果たす。
その後、幕府は光太夫からロシアの情報を聞き出し、屋敷を与える。光太夫は結婚もし、一度は伊勢への帰郷も許されているらしい。けれども自由はなかった。彼の動静はつねに幕府の知るところとなっていたのだ。
なぜ幕府は光太夫を放っておかなかったのか。「当時の社会が鎖国状態にあったから」という以上の説明はできないだろうと、本郷氏は述べる(「本郷和人の日本史ナナメ読み」)。
鎖国はなかった説のもう一つの根拠は、鎖国を完成させたとされる徳川家光の時代、鎖国という言葉はなかったというものだ。
たしかに、鎖国という言葉は、ドイツ人医師ケンペルがその著書『日本誌』で、日本が長崎を通してオランダとのみ交渉をもつ、閉ざされた状態であることを指摘したのを、1801(享和元)年、オランダ通詞(通訳)の志筑忠雄が邦訳して「鎖国論」と題したのに始まる。十一代将軍、家斉の時代だ。
けれども前出の山本氏はこれに反論し、「歴史的な概念というものはそういうもので、江戸時代初期に『藩』という言葉がなかったからといって、藩がなかったという人はいないだろう」と述べる。
鎖国はなかった説には、「四つの口」を通して国際的に物資が流通していた事実から、幕藩制国家の国際性を説く論調が目立つ。しかし従来の見解からすれば、そのような国際的物資の限定的な受け入れ体制の特質こそ、鎖国論の基本である。その意味で、ケンペルの書物の一部を「鎖国論」と訳した志筑忠雄のほうが「はるかに歴史的なセンスがある」と山本氏は記す。
長崎貿易の実態からも、江戸幕府の対外政策を高く評価するのは妥当でないだろう。すでに述べたとおり、江戸幕府は、一部を除いて貿易を長崎に集中させ、民間商人の自由な海外貿易を禁止した。その一方で、長崎に入港する中国の船(唐船)が増えると、国内の銀が枯渇することを恐れ、唐船の入港数を制限する。
1680年代に一時は年百隻以上来航した唐船は、幕府の規制を受け、1743年以降は年十数隻から十隻以下に激減した。歴史学者の宮崎正勝氏(元北海道教育大学教授)は「内向きな政治権力が経済の成長を抑制した」と指摘する(『「海国」日本の歴史』)。
幕府による貿易制限の強化は、経済のニーズを反映したものではなかった。このため「抜け荷」と呼ばれる密貿易が恒常化することになる。長崎代官・末次茂朝の家来による抜け荷が発覚し、家来は磔(はりつけ)、茂朝は隠岐に流され、末次家は断絶するという事件などが起こっている。
鎖国については、日本独自の産業の発達につながったと評価する向きもある。これに対し、評論家の八幡和郎氏は「新しい技術の吸収ができず、国際市場で通用する新商品開発もできなかった」と反論し、「ガラパゴス的発展で面白い工夫がありましたが、その多くは、開国したとたんに西洋のものより劣っていたので価値を失いました」と述べる。
さらに、「新しい農作物や栽培技術の導入も皆無ではないが遅れたので、食生活は貧しくなり、冷害などで餓死者が大量に出る原因にもなりました」と指摘する(『江戸時代の「不都合すぎる真実」』)。
鎖国に先立つ朱印船貿易の時代、多くの日本人が海外に渡った。渡航者は約十万人と推定されるが、そのうち七千〜一万人は東南アジア各地の約二十カ所に居住し、自治制を敷く日本町を形成した場合もあった。しかし幕府が在外者の帰国を禁じたことから衰退し、消滅した。
当時は中国、朝鮮も貿易を制限する海禁政策を採っており、日本も海禁という言葉を使ってはという提案もある。しかし、そもそも鎖国が対外貿易の完全な遮断を意味しないのであれば、言葉を変えても中身はそれほど変わらない。やはり、鎖国はあったと言っていい。
ロナルド・トビ氏(米イリノイ大学教授)は、鎖国はなかった論の立場から、江戸幕府が外国との窓口を四つに制限したことについて「現在でも外国人が日本に入国するときには、空港や港など限られた場所からでないと入国できないように、貿易品や人の出入りを管理するのは、国家として当然のこと」と述べる(『「鎖国」という外交』)。
トビ氏に限らず、国家が人や物の出入りを限られた窓口で制限するのは当然だと、たいていの人は信じているだろう。けれども人や物の移動は本来自由なはずだという考えに立てば、そのような制限は当然ではない。江戸時代ほどではないにしろ、一種の鎖国状態といえる。コロナ前から、現代の世界は肥大する国家の下で自由を失い、鎖国に陥っていたのだ。鎖国の歴史は、そんな見方に気づかせてくれる。
<参考文献>
- 山本博文『家光は、なぜ「鎖国」をしたのか』河出文庫
- 宮崎正勝『「海国」日本の歴史: 世界の海から見る日本』原書房
- 八幡和郎『江戸時代の「不都合すぎる真実」 日本を三流にした徳川の過ち』PHP文庫
- ロナルド・トビ『「鎖国」という外交』(全集 日本の歴史)小学館
- 【本郷和人の日本史ナナメ読み】歴史説明に必要な簡潔性(上)「鎖国はなかった」論は妥当か - 産経ニュース
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