2021-08-01

アメリカ独立は反税革命


7月4日はアメリカ独立記念日である。1776年、アメリカ大陸会議がイギリスからの独立宣言を採択した日で、米国では毎年盛大に祝われる。

トマス・ジェファーソンが起草した独立宣言は「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」という格調高い文章に続いて、当時のイギリス国王ジョージ三世による暴政を具体的に列挙している。そこには経済に関する事柄が少なくない。

たとえば、「おびただしい数の官職を新たに設け、この植民地の住民を困らせ、その財産を消耗させるために、多数の役人を派遣してきた」「われわれの世界各地との貿易を遮断する法律」「われわれの同意なしにわれわれに課税をする法律」などである。

これらの記述が示唆するとおり、アメリカ独立の大きなきっかけは、イギリス政府との間に起こった経済上の争いだった。その経緯をたどってみよう。

イギリスはフランスとの七年戦争(アメリカの戦場ではフレンチ・インディアン戦争)に勝利し、1763年のパリ条約で、フランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナを、スペインからフロリダを獲得した。その結果、最初のイギリス帝国が形成された。

しかし七年戦争は当時としては大戦争であったため、戦後のイギリスは深刻な財政難に見舞われる。七年戦争中に亡くなった祖父ジョージ二世の後を襲って王位に就いた若きジョージ三世は、自らに親しい政府とともに、北米植民地に対する従来の「有益なる怠慢」を見直し、財政負担を負わせる政策に舵を切る。

有益なる怠慢とは、北米植民地に対し比較的広い範囲の自治を認め、産業や貿易の統制を厳しくは行わない態度を指す。当時イギリスは、自国の輸出産業を保護育成し、貿易差額で資本を蓄積して国富増大を図る重商主義政策をとっていたが、北米植民地に対しては、離反を避ける狙いもあり、統制は緩やかだった。それが七年戦争でフランスを北米から追い出し、植民地に対する厳しい政策が可能になった。

さっそく七年戦争終結翌年の1764年、砂糖法を制定し、外国産の精白糖への関税を上げ、キャリコ、リネン、絹、ワインなど本国を経由して植民地に輸出される外国産品に対する関税を増やすことを狙った。

これは密輸入の増加を招いた。北米植民地の商人たちは、イギリス政府の輸入規制をかいくぐり、密輸で稼ぐしたたかさを備えていた。大陸会議議長として独立宣言で筆頭に署名したジョン・ハンコックは、密輸業者として有名だった。

近代経済学の父とされるアダム・スミスは、自由貿易を説いた主著『国富論』(1776年)でイギリス政府の重商主義を批判する一方で、密輸業者について「自然な正義という観点からは正当な行為を犯罪とする法律〔=輸入規制〕がなければ、どのような点でみても素晴らしい市民である場合が少なくない」と称えている。

イギリス政府は密輸入を防ぐため、本国から北米植民地に派遣する役人を増員して摘発を強化する。税関の取締官は大小あらゆる船に乗り込むことができ、税法違反と判断すれば船を積み荷ごと差し押さえることもできた。独立宣言にある「多数の役人を派遣してきた」とは、このことだろう。

翌1765年には、さらに問題の多い印紙法が制定される。これはアメリカ植民地の日常生活のほとんどすべてに影響するものだった。新聞、暦、小冊子などの出版物、証書その他の法律文書、船舶関係の書類、果てはトランプにまで政府の発行した印紙を貼るよう義務づけたのである。

印紙を用いたこの課税は、すでに本国では導入されていたが、従来のような関税ではなく、植民地内の諸活動に直接介入する内国税であるとして、植民地側は強く反発した。代表を送っていない本国議会による恣意的な課税は、植民地人が持つイギリス人としての固有の権利を侵害しているととらえたのである。マグナ・カルタや名誉革命後の権利章典などイギリスの伝統に基づく、「代表なくして課税なし」の論理である。

印紙税に対してアメリカ植民地全域で抵抗活動が活発化した。九つの植民地の代表が集まって印紙税反対の決議を行い、「自由の息子たち」と呼ばれる抵抗組織の活動も盛んになった。結局、印紙法は翌年廃止が決まった。ただし本国議会は同時に宣言法を制定し、植民地に対する立法権を引き続き主張した。

1767年、植民地に対する新たな課税が制定された。紙、塗料、ガラス製品、茶など本国や東インド会社の製品・産物である日用品の輸入に関税を課す、いわゆるタウンゼンド諸法である。

印紙税の失敗から、これらの税は形の上では内国税ではなく関税とされた。だが増税策であることは明らかであり、植民地全域で反発を招いた。不買運動が活発化し、茶や服飾など本国の商品に対する不買運動が展開された。1770年、イギリス議会は茶を除いて課税を撤廃した。

これにより平穏が保たれるかとみられたが、1773年5月、新たに茶法が制定された。アメリカ植民地に対し、東インド会社が通常の関税なしに紅茶を売ることを認めたものである。大量の茶の在庫を抱え、経営危機に直面していた東インド会社を救済する目的だった。

東インド会社は関税免除により、植民地の商人や密貿易業者が取り扱う紅茶よりも安い価格で供給することが可能になった。しかし事態は裏目に出た。多くの植民地人が密貿易から生活の糧を得ていたので、政府主導で特定の会社に特権的な利益をもたらすような制度を好まなかったのである。

同年12月、ボストン茶会事件として後世有名になる事件が起こった。商人たちが中心となり、農場主、農夫、きこり、船乗りらも加わって、先住民に扮装し、ボストン港に停泊中の東インド会社の船を襲い、積んであった茶箱をすべて海に投げ捨てたのである。非常に規律のとれた行動で、茶以外の品物には手をつけず、人に怪我もさせなかった。

事件に対し本国が制裁措置をとると、植民地側は1774年にフィラデルフィアで第一回大陸会議を開いて抗議した。年が明けて3月、大陸会議にも参加したヴァージニア植民地の指導者の一人、パトリック・ヘンリーは演説で「自由か、しからずんば死を」と訴える。

翌月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードで、本国の軍隊と植民地側民兵の武力衝突が起こり、独立戦争の幕が切って落とされる。八年の戦いの後、独立を勝ち取ったのは知ってのとおりだ。

アメリカ独立の前史を振り返ると、税を中心とする経済問題が独立に踏み切る大きな原動力となっていたことがわかる。アメリカ独立とは「反税革命」だったと言ってもいいだろう。

アメリカ独立を求めた人々にとって、自由とは経済の自由にほかならなかった。コロナ対策と称して経済の自由が安易に制限される現在、その事実の重みをあらためて噛みしめたい。

<参考文献>
  • 和田光弘『植民地から建国へ 19世紀初頭まで』(シリーズ アメリカ合衆国史)岩波新書
  • 紀平英作『アメリカ史 上』(YAMAKAWA Selection)山川出版社
  • Thomas J. Dilorenzo, How Capitalism Saved America: The Untold History of Our Country, from the Pilgrims to the Present, Crown Forum
  • Murray N. Rothbard, Conceived in Liberty, Ludwig von Mises Institute

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

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