民主主義の台頭とともに、政府と社会を同一視する傾向が強まった。ついにはほとんど理性と常識に反する、「私たちが政府だ」という言葉さえ聞かれる始末だ。「私たち」という便利な複数人称代名詞によって、政治の現実を思想的にごまかしている。(経済学者・法哲学者・歴史家、マレー・ロスバード)
もし「私たちが政府」なら、政府が個人に行うあらゆる行為は正当かつ穏当なだけでなく、個人にとって「自発的」ということになる。政府が築いた借金の山を返すためにある集団が課税され、他の集団が得をしても、現実は「私たちの借金相手は自分」という言葉でごまかされる。(同)
もし民主主義では国民自身が政府だとすれば、ナチス政府に殺害されたドイツのユダヤ人は殺されたのではなく、「自殺した」ことになる。ナチス政府が民主主義によって選ばれた以上、ユダヤ人は政府であり、したがって政府がユダヤ人に行ったあらゆることは「自発的」だからだ。(同)
「私たち」は政府ではない。政府は「私たち」ではない。政府は正確な意味では国民の多数の「代表」ではない。しかしかりにそうだとして、国民の70%が残り30%を殺すことを決めても、それはやはり殺人であり、殺害された少数にとって自殺ではない。(同)
政府とは社会において、一定の領域内で暴力の行使を独占し続けようとする組織である。とくに、その収入を自主的な寄付やサービス提供に対する支払いからではなく、強制によって手に入れる、社会で唯一の組織である。(同)
<邦訳書>
- マレー・N・ロスバード(岩倉竜也訳)『国家の解剖』きぬこ書店
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