2021-06-06

オランダと寛容の精神

米国で2020年の大統領選以来、社会の分断が加速している。信条や文化の異なる人々が対立せず、調和した社会を築くには、どうすればよいのだろう。

そのヒントは、米最大の都市ニューヨークにゆかりの国、オランダにあるかもしれない。ニューヨークの名は、1664年に英国のヨーク公(のちのジェームズ二世)に占領されたことにちなむが、それ以前はニューアムステルダムというオランダ人の植民地だった。

15世紀末からスペインの支配下にあったネーデルラント(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク)では、古くから毛織物業や商業が栄え、南部のフランドル地方のアントウェルペンは国際商業の中心地となっていた。宗教的にはプロテスタントのカルヴァン派が勢力を拡大していた。

16世紀後半、スペインのフェリペ二世がネーデルラントにカトリックを強制し、都市に重税を課したため、貴族が自治権を求めて反抗し、これにカルヴァン派の商工業者が加わって、オランダ独立戦争が始まる。カトリック勢力の強い南部十州(のちのベルギー)は途中で脱落したが、ホラント州など北部七州はユトレヒト同盟を結び、英国の援助を受けて戦い続けた。1581年に独立を宣言し、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)を成立させる。

独立戦争の混乱の中で、スペイン軍に封鎖されたアントウェルペンの市場は壊滅した。代わりに、独立した北部のアムステルダムに南部から多数の商工業者が亡命し、その経済活動は劇的に発展する。造船の技術が高かったオランダ人は、バルト海貿易でも優位だった。毛織物工業、陶器業、醸造業などのほか、大規模な干拓によって耕地を拡大した近郊型の農業やニシン漁を中心とした漁業も繁栄した。

オランダといえば、1602年に設立され、アジア貿易を独占した東インド会社が有名だ。しかし意外にも、東インド会社の貢献がオランダの貿易量全体の10%を超えることはなかったという(『リートベルゲン『オランダ小史』)。

スペイン王権の束縛から解放され、自由な経済活動によって他に例を見ない繁栄を築いたオランダの17世紀は「黄金時代」と呼ばれる。

黄金時代を築いたオランダの国制の特徴は、その分裂状態にあった。七つの州があり、それぞれが主権を有していた。七州の中で最も勢力が強かったのはホラント州だったが、他の州に対し強引に自分たちの主張を押しつけられるほど強くはなかった。

オランダには国王がおらず、ホラント州の総督が指導権を発揮することが多かった。とはいえ、総督は給与を支払われる立場にあり、現実にオランダの支配権を握っていたのは各州だった。

オランダには各州の代表からなる連邦議会があった。とはいえ、この議会の権限は弱かった。連邦議会はホラント州のハーグで開催され、対外政策、戦争や和平の宣言のような共和国全体に関する問題を扱ったが、総督がそれに参加することはなかった(玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生』)。

オランダはこのように分裂した国家であり、真の中央政府がなかった。これがむしろ経済の発展に寄与した。当時、他の欧州諸国の大半では中央政府が保護主義的な経済政策を採り、貿易や経済の自由な発展を妨げた。地方分権の徹底したオランダは幸い、この弊害を免れることができた。

政治の分権と経済の繁栄を背景に、オランダには独特の自由主義的な文化が広がった。その大きな特色は宗教的寛容である。

オランダはカルヴァン派の国家であり、同派の改革派教会はカトリックに敵対的だったが、それでも宗教的には他国よりもはるかに寛容だった。ユトレヒト同盟結成時に「何人も宗教的理由で迫害されることも、審問されることもない」と決められていたし、経済が急速に発展したため、宗派にこだわっていては取引ができなかった。

オランダ、なかでもアムステルダムは欧州の宗教的寛容の中心だった。このためさまざまな宗派の商人がアムステルダムに移住した。彼らは出身地と緊密な関係を持ち、独自のルートを用いて経済情報を入手した。

商品や国債、東インド会社の株式などを扱うアムステルダム取引所では、プロテスタント商人とカトリック商人、場合によってはユダヤ人、さらにはアルメニア人までもが狭い空間で商業活動に携わった。このような場所は、16〜17世紀はおろか、18世紀になってもどこにも存在しなかった(前掲『近代ヨーロッパの誕生』)。

市民社会の発展したオランダでは、画家たちが宮廷ではなく、裕福な市民のために肖像画や風俗画を描いた。とくに17世紀最大の画家の一人とされるレンブラントの作品は、オランダにおける複数宗派の共存を伝えている。

レンブラント「放蕩息子の帰還」

レンブラントはもともと、神話や聖書の非日常的世界を描くことを画業の目標としていた。そのための素材探しに役立ったのが、国際商業都市アムステルダムの多様な異邦人の存在だった。たとえば、偶然見かけてスケッチしたユダヤ人の姿は、聖書の逸話を描いた「放蕩息子の帰還」の右端の人物の描写に生かされている。

レンブラント「織物組合の見本検査人たち」

レンブラントの集団肖像画の傑作の一つ、「織物組合の見本検査人たち」には、無謀の召使いを除いて五人の組合幹部が描かれている。彼らの所属宗派はすべて判明していて、左からカトリック、メンノー派、カルヴァン派、レモンストラント派、カトリックである。品質管理という組合内で最も重要な責務を分担する同僚たちが、私生活上の宗派の違いを超えて協力し合っていたという現実を、この絵は表している(桜田美津夫『物語 オランダの歴史』)。

オランダは宗教だけでなく、新しい思想についても寛容だった。米歴史学者イマニュエル・ウォーラーステインは、オランダは「哲学者にとっての天国であった」として、こう述べる。

デカルトは、フランスではえられなかった落着きと安定をオランダに見いだした。スピノザは、破門されてセファルディ(スペイン)系ユダヤ人のヨーデンブラー通りから追い立てられ、オランダ人市民の住む、より友好的な地域に引っ越した。ロックもまた、ジェイムズ二世の暴虐を逃れて、オランダ人がイギリスの王位についた、より幸せな時代まで、この地に避難場所を求めた。

ウォーラーステインはオランダの宗教的寛容にも触れたうえで、それらはすべて「禁止は最少に、導入はどこからでも」というオランダ人の商業上の原則をこうむったと指摘している(前掲『近代ヨーロッパの誕生』)。

オランダはその後、ナポレオンによるフランス併合をきっかけに王国となり、現在に至る。首都アムステルダムの広場に面して建つ豪壮な王宮は、共和国時代に市庁舎として建設されたもので、往時の繁栄を今に伝えている。

米国はかつてのオランダ共和国と同じ連邦国家だが、時代とともに中央政府の権限と影響力が強まっている。だから大統領選が過剰なまでに国民の注目を集め、対立の原因にもなる。地方分権を強めることで、人々の自由な経済活動を促し、寛容の精神を育むこと。これが米国に限らず、世界がオランダの歴史から学ぶことのできる教訓ではないだろうか。

<参考文献>
  • ペーター・J・リートベルゲン(肥塚隆訳)『オランダ小史 先史時代から今日まで』かまくら春秋社
  • 玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生 オランダからイギリスへ』講談社選書メチエ
  • 桜田 美津夫『物語 オランダの歴史 - 大航海時代から「寛容」国家の現代まで』中公新書
(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

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