主権国家の登場は近世の欧州だ。当時、教皇や皇帝という、個々の国家を超越する権力が衰え、各国が独立性を強め、自国の領域内で最高の権力(主権)を主張するようになった。これが現在まで続く主権国家だ。今でこそ当たり前の存在と思われているけれども、歴史上、それほど古いものではない。
主権国家の形成を推し進める役割を果たした出来事がある。宗教改革だ。宗教というと、現代の欧米では国家とは距離を置いた存在になっているが、意外なことに、主権国家の成立と宗教改革は深いかかわりがあった。その歴史をたどると、宗教改革の明るい面だけではなく、暗い影の部分も浮かび上がる。
宗教改革は、ドイツの神学者マルティン・ルターが1517年に贖宥状(しょくゆうじょう)の効力に関する九十五カ条の論題を提起したことから始まった。贖宥状は、免罪符の呼び名でも知られる。罪を犯した者でも、教皇が発行するこの証書を買えば、罪が赦されるとされた。
かねて贖宥状に疑問を抱いていたルターは、教皇レオ十世がローマの聖ピエトロ大聖堂の改修費にあてるために認めた贖宥状の販売を批判した。人は聖書のみをよりどころにし、信仰のみによって救われると説いたルターの考え方は、教皇や教会の権威を否定することになった。
教皇はルターを破門するがルターは従わなかった。神聖ローマ皇帝カール五世が、1521年のヴォルムス帝国議会にルターを呼び出し、その教説の撤回を求めても応じなかった。皇帝の弾圧に抗議するルター派はプロテスタント(抗議者)と呼ばれ、のちにこの言葉は、ローマ教皇の権威を否定する新教徒全体を指すようになる。
ルターはザクセン選帝侯フリードリヒの下に身を寄せ、そこで聖書のドイツ語訳を進めた。グーテンベルクが発明した印刷術により、聖書は民衆の間に広まり、ローマ教皇の権威をさらに揺るがしていく。
ルターが宗教改革を始めるのに先立つ四十年余りの間に、欧州は一つの転機を迎えていた。主権国家の出現である。
イングランドでは、1455年から三十年間続いたばら戦争ののち、テューダー朝が成立する。フランスでも、百年戦争と国内統治の強化によってイングランド王とブルゴーニュ公の勢力を排除した。一方、神聖ローマ帝国が君臨するドイツでは、バイエルン、プロイセン、ザクセンといった領邦(地方国家)単位での統合が進んだ。
こうした主権国家にとって最も障害となったのは、国内のローマ・カトリック教会勢力だった。教会は十分の一税で国の富の多くを吸い上げていたほか、教会や修道院は大地主として国土の多くの部分を所有していた。
なにより困ったことに、こうした教会の活動は国家を超越していた。教会の利害と国家の利害が衝突した場合、国家は国内の教会が国家の利害に沿って行動することを期待できなかった。
したがって、ローマ・カトリック教会当局と衝突して窮地に陥ったルターを、ザクセン選帝侯フリードリヒがかくまったのは偶然ではない。歴史学者の小泉徹氏が指摘するとおり、フリードリヒにしてみれば、「敵の敵は味方」、ローマ・カトリック教会の敵は味方だったのである(『宗教改革とその時代』)。
こうしてドイツの各地の領邦で、同じように領邦君主がプロテスタント聖職者を保護し、他方、プロテスタント聖職者が領邦君主の支配を正当化するという関係が生じた。1555年、アウクスブルクの宗教和議でルター派は公認されたが、宗派を選ぶ権利が認められたのは諸侯だけで、個人の信仰の自由が認められたわけではなかった。宗教改革の進展は、主権国家の支配強化という政治的な目的に支えられていた。
イングランドの場合はもっとはっきりしている。離婚問題でローマ教皇と対立したヘンリ八世は、1534年、議会の協賛を得て国王至上法(首長法)を定め、国王を最高の長とするイギリス国教会を創設し、教皇と絶縁した。しかし目的はローマ・カトリック教会の政治力排除にあり、ヘンリ自身はルターの教説には何の関心もなかった。
このように宗教改革と主権国家の形成の間には密接な関係があった。その関係が最も極端な形で現れたのは、修道院などカトリック勢力の財産の没収である。
宗教改革の当初から、北ドイツの領邦君主はカトリック勢力の財産に手をつけた。ルター派に改宗したホーエンツォレルン家のアルブレヒトは1525年、十字軍以来の歴史を持つドイツ騎士団国の土地を没収し、プロイセン公国を創設した。ヘッセン方伯フィリップ一世は領内にある修道院の土地をすべて没収し、収入の大半を自分のものにした。
イングランドには1530年におよそ八百の修道院があり、イングランド全土の五分の一から四分の一を所有し、総収入は王室に匹敵するといわれていた。ヘンリ八世はこの莫大な財産に目をつけ、1535年、政治的右腕であるトマス・クロムウェルを自らの代理に任命する。
クロムウェルは風紀の乱れを調査するという名目で各地に委員を派遣し、修道院を含む教会財産を綿密に調査し、目録を作成した。そしてまず翌年、規模の小さい修道院を対象に、とくに風紀の乱れが甚だしいという理由で解散を命じる。大修道院の抵抗をかわすため、弱い部分から手をつけたのだ。
イングランドの各地で修道院の解散が始まると、すべての旧秩序が変革されるのではとの不安からジェントリ(地方貴族)や農民が武装蜂起した。クロムウェルは、一部の大修道院がこれに加担したと難癖をつけ、関係者を処刑する。この事態におびえた各地の大修道院は雪崩を打って自ら解散し、1540年にはすべての修道院が解散してしまった(前出『宗教改革とその時代』)。
「抗議者」という言葉の由来から、プロテスタントは国家権力に抵抗する人々というイメージを持つかもしれない。だがプロテスタントが抗議したのはローマ教皇の権威であり、国家権力ではなかった。しかも主権国家の力を借りてローマ教皇に対抗した関係上、国家権力を否定する契機はほとんどなかった。
ルター自身、そうだった。1524年、西南ドイツの農民が、ルターの教えに触発されて大規模なドイツ農民戦争を起こした。ルターは初め農民の運動を支持したが、農民たちがトマス・ミュンツアーらの指導のもとに領主制の廃止や土地の共有などを要求すると、これに反対し、諸侯に一揆を鎮圧するため、妥協せずに徹底的に戦うよう説いた。
例外はあった。ルターと並ぶ宗教改革の旗手ジャン・カルヴァンの一派は、フランスではユグノーと呼ばれ、カトリックの王権から厳しく弾圧され、内乱を起こした。プロテスタント神学者テオドール・ベーズは、被治者の同意を欠く統治を行う者は「公敵」であり、すべての被治者はこれに対する武装抵抗権を持つとして、ユグノーの立場を擁護した。もっとも、このような抵抗権理論はプロテスタント思想に本来備わっていたものではなかった。
宗教改革は結果として、一つの国家に一つの宗教という形態を生み出した。国家と宗教はつねに協力関係にある。とりわけルターを生んだドイツでは、プロテスタントは今日に至るまで一貫して体制保持に協力してきた。20世紀のナチス政権に対しても、ヒトラー暗殺計画に加わり処刑された神学者ディートリヒ・ボンヘッファーのような例外はあるが、全体として無批判だったとされる。
ナチスは、ルターが1543年に書いた「ユダヤ人とその偽りについて」という文書をユダヤ人の迫害や反ユダヤ主義のために利用した。宗教改革によってユダヤ人がキリスト教への改宗を始めるだろうという期待が外れ、その腹いせに書いたような文書だ。ルターはユダヤ人を厳しい言葉で批判した。ナチスに都合よく抜粋され、編集されたとはいえ、ルターの主張であることに違いはない。
このため第二次世界大戦中や終戦直後、連合国側の研究者から「ルターはヒトラーの先駆者だった」とまで批判されることになった。
だがヒトラーを滅ぼした米英などもその後、反共産主義や反テロリズムを旗印に、アジアや中東で十字軍を思わせる軍事介入に乗り出す。異なる宗教・文化の人々を暴力で苦しめ、今も苦しめている。
熱烈な信仰や思想は、それだけで平和を脅かすことはない。国家権力と結びついたとき、脅威となる。宗教改革と主権国家の歴史は、その危険に警鐘を鳴らす。
<参考文献>
- 小泉徹『宗教改革とその時代』(世界史リブレット)山川出版社
- 深井智朗『プロテスタンティズム - 宗教改革から現代政治まで』中公新書
- 宮田光雄『ルターはヒトラーの先駆者だったか: 宗教改革論集』新教出版社
- Rothbard, Murray N., Austrian Perspective on the History of Economic Thought, Ludwig von Mises Institute.
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