価値は手に入れるときばかりではない。失う場合もある。他人の故意や過失で価値が失われたとき、その大きさをどう測るかが問題になる。
たとえば、ある女性が、亡くなった夫の形見の腕時計を友人に貸したところ、いつまでたっても返してくれない。催促したところ、ひどいことに形見の品と知りつつ転売してしまったという。時計は高級品で、時価で五十万円程度。この分は当然賠償を求めることができる。けれどもそれ以外に、額は限られるものの、形見の品を転売されたことによる精神的損害の賠償も求めることができる。いわゆる慰謝料だ。
形見の時計を転売されたことによる損害、つまり失われた価値には、単純な経済的価値だけでなく、精神的な価値も含まれる。少なくとも個人と個人の争いについては、法はそのように認めているわけだ。
それでは、政府と個人の争いではどうだろう。政府のダム建設で山奥の村が水没し、離村・転業を余儀なくされた場合、私有財産制限の条件を定める憲法二十九条三項に基づき、水没した家屋や田畑の市場価値のほか、移転料や営業上の損失などの付帯的損失は原則補償の対象となる。だが、愛着のある土地を失う悲しみや喪失感といった精神的損害は、補償の対象にならない。
政治家は口を開けば、日本人は金銭以外の価値を大切にしなくなったなどと嘆いてみせる。けれども政治のせいで精神的な価値が失われても、補償しようとはしない。二枚舌もいいところだ。もっとも補償するにしても、税金を使うだけだが。
コロナ騒動の中、大臣や知事は効果の疑わしい自粛要請を繰り返し、国民の経済活動に打撃を与えた。そこでは金銭的な価値だけではなく、仕事の喜びや生きがいといった精神的な価値が奪われた。政治家たちはもちろん、何の責任も取らないだろう。(この項つづく)
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