2019-03-04

ローマ帝国の小さな政府

伊宝飾品ブランドのブルガリは創業の地ローマにちなみ、古代ローマの美術をイメージしたデザインを取り入れている。2018年11月に東京都内で開催された映画の式典「エル・シネマ・アワード2018」では、最年少の15歳でブルガリのアンバサダーに抜擢されたモデルのKoki,(コウキ)さんが、人気シリーズ「ディーヴァ・ドリーム」のジュエリーを身につけた。特徴である扇型のモチーフは、カラカラ浴場のモザイクから着想を得たという。

カラカラ浴場は、カラカラ帝がつくった大浴場。ローマ市チェリオの丘の南にある。日本大百科全書(ニッポニカ)によれば、数多くあった大浴場のうちでも最大の規模をもち、216年に開場したが、内装工事はその後も続けられた。主建築は幅220メートル、奥行114メートルで、熱気浴場、温湯浴場、冷水浴場のほか、各種の集会場、娯楽室、図書館などを備え、1600人を収容できた。

今では芯積みのれんがが露出し、床のモザイクが一部残っているだけだが、当時は壁面は色美しい大理石で覆われ、各所に彫像や噴泉があり、贅美を極めていたという。現在、毎年この遺跡に大きな舞台と客席を仮設し、野外オペラが行われ、人気を呼んでいる。この大浴場のあるローマ歴史地区は教皇領、サンパオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会とともに世界文化遺産として登録されている。

建設したカラカラ帝はこの大浴場の建設のほか、帝国内のすべての自由人に市民権を与えたことで知られる。しかし後世の評判は良くない。およそ道徳など意識しない放埓さと精神の不安定、政敵や元老院議員への過酷な仕打ち、厳しい税の取り立てなどが伝えられる。

ローマ帝国にはカラカラ以外にも、カリグラ、ネロなど評判の悪い暴君が少なくない。ところが彼らが政治を混乱させたにもかかわらず、帝国が崩壊・分裂の憂き目を見ることはなかった。暴君が絶命した後でも、帝国は異なる政治体制を選択しなかったし、多種多様な民族・地域を抱えながら、395年に東西ローマ帝国の分裂が生じるまで約400年にもわたって広大な領域に支配を貫徹したのである。

暴君たちの愚行にもかかわらず、巨大帝国ローマが揺るがなかったのはなぜか。その理由は「小さな政府」だったことにある。


歴史学者の新保良明氏によると、ローマ帝国の政府は、帝国の津々浦々に至るまで厳密な管理を施すといった体制を取らず、各地の都市に広範な自治を与えていた。だから中央で皇帝が何をしようと、地方に害は及ばなかったのである。

皇帝は各官僚に行政決定を任せていたため、行政を処理する時間は予想外に少なかった。

勤勉に公務をこなしたとされるセプティミウス・セウェルス帝の日課は、夜明け前に起き出し、国事に関する報告を受け、指示を与える。それから皇帝裁判で数件を裁き、正午で閉廷すると、乗馬を楽しみ、運動で汗を流してから入浴。そして昼食をとり、昼寝。目を覚ますと公務に戻る。その後、散歩をしながら側近と談論を交わし、夕方に二度目の入浴、そして晩餐。つまり、公務に割くのは午前中いっぱいと午後の一部だけだった。

皇帝から仕事を任せられた官僚は、大人数がいたわけではない。むしろ驚くほど少数だった。行政サービスの内容が現代とは異なるので単純な比較はできないものの、1億2000万人が住む現代日本では、国家公務員のキャリア組だけでも1万人を超える。これに対しローマ帝国は人口6000万人に対し、官僚はたかだか300人だったと算定されている(新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』)。


皇帝とともに統治を担う公職へ就く資格を持つのは、元老院議員と騎士身分だった。1世紀末から2世紀後半の五賢帝の時代には、議員は600人、騎士は数万人ほど存在していたと推定されている。それだけの人数がいるにもかかわらず、公職のポストは2世紀に至っても数百ほどしかなかった(比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史』)。

共和政期から帝政期を通じて、ローマ帝国はきわめて「小さな政府」を維持し続けたのである。

巨大帝国が官僚制なしでも統治できたのは、一つには中央政府が地方行政を各都市に丸ごと委ね、最低限の干渉にとどめたことにある。もう一つは、政府が今日的な福祉国家の役割をまったく担わなかったからだ。各地の秩序が維持され、徴税が確保されさえすれば、それで行政目標は達成された。

その徴税に関しても、小さな政府の原則が貫かれた。現代のような税務署はなく、財政官僚も十分なスタッフを率いていない。したがって官僚は統括責任のみを負い、税の取り立ては徴税請負業者か都市に任せた。

ローマ帝国には税務署がなかったばかりでなく、警察もなかった。首都には近衛隊、都警察、消防隊が置かれ、消防隊は夜間パトロールも実施していたが、暴動鎮圧のために出動することはあっても、犯罪捜査や検挙を日常任務とするものではない。殺人が発生しても、当局は犯人検挙に当たらない。

だからといって治安が保たれなかったわけではない。人々は自衛の道をとったからである。富裕層は引退した剣闘士など屈強なボディガードを雇い、農民も山賊の襲撃に備えて武装した。

都市には市庁舎、体育場、劇場、広場、水汲み場などの施設があり、建造物の壮麗さを競い合った。しかしどの都市も人口は少なく、独自の税収はたかが知れているうえに、日本のような地方交付金制度もない。都市は名望家の寄付に行政費用を頼った。

歴史学者の比佐篤氏によれば、ローマ帝国が小さな政府であったことを反映し、支配下にあった何百という都市の多くは独自に貨幣を造った。小アジアにあったラオディケイアという都市で出土した貨幣には都市名と市長とみられる人物の名がローマの公用語であるラテン語でなくギリシャ語で記され、ローマという文字も皇帝の名前もない。

比佐氏は「ローマは小さな政府であるがゆえに公職者の人数も極めて限られている。したがって各都市に対する自治を認めて、問題が生じない限り傍観する態度をとった」と説明する。貨幣の製造も自治の行為に含まれていた。今で言えば地域通貨である。

都市の自由を認め、市民生活に介入しない小さな政府が、ローマ帝国の長期にわたる繁栄をもたらし、多様で豊かな文化を育んだ。古代ローマの意匠をあしらったブルガリの美しい宝飾品を目にするとき、思い出したいものだ。

<参考文献>
桜井万里子・本村凌二『ギリシアとローマ』(世界の歴史5)中公文庫
新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』講談社選書メチエ
比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史』中公新書

(某月刊誌への匿名寄稿に加筆・修正)

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