老子は中国古代の思想家。生没年不詳。姓は李、名は聃(たん)。その著述と伝えられる書物も『老子』と呼ばれる。『史記』では春秋時代の孔子と同時代の人とされるが、戦国時代中ごろの人というのが通説。実在の人物ではないとする説もある。孔子ら儒家の教えを否定して無為自然の道を説いた、道家の祖とされる。
現代米国の経済学者で歴史家のマレー・ロスバードは、老子を「最初の自由主義知識人」と呼ぶ。同じ古代中国の思想家でも、官僚の支配を擁護した儒家とは異なり、老子は急進的な自由主義の信条を打ち立てたからだ。「老子にとって、個人とその幸福こそが社会の重要な単位であり目標だった。もし社会制度が個人の開花と幸福を妨げるのであれば、その制度は縮小されるか、完全に廃止すべきである」とロスバードは解説する。
老子の思想をその著述によって具体的にみていこう(引用は原則、金谷治『老子』<講談社学術文庫>による。かな表記を一部漢字に改めた)。
「世界を制覇するには、格別な仕事をしないであるがままに任せていくことが大切である」(第57章)と老子はいう。現代の言葉でいえば、自由放任の勧めといえる。その理由の一つは「世界中に煩わしい禁令が多くなると、人民は自由な仕事を妨げられていよいよ貧しくなる」(同)からだ。今の世の中でも、政府による規制が多くなりすぎると、個人や企業は自由な経済活動が妨げられ、その結果、社会から豊かさが失われるのは、よく知られた事実である。
それゆえ、「道」を体得した聖人はこう言っている、と老子は続ける。「私がことさらな仕業のない無為の立場を守っていて、それで人民はおのずからに感化されてくる。私が平静を好んでじっとしていて、それで人民はおのずからに正しくなる。私が格別なことを何もしないでいて、それで人民はおのずからに富んでくる。私が無欲でさっぱりしていて、それで人民はおのずからに樸(あらき)のような素朴になる」(同)
老子はさらに自由放任の勧めを説く。「政治がおおらかでぼんやりしたものであると、その人民は純朴で重厚であるが、政治がゆきとどいてはっきりしたものであると、その人民はずる賢くなるものだ」(第58章)。今日の政治は対照的に、人々の暮らしや経済活動の細々したところにまで気を配り、口を出そうとする。老子はそのような介入政策に反対する。なぜなら「災禍があればそこに幸福もよりそっており、幸福があればそこに災禍も隠れている。この循環のゆきつく果ては誰にもわからない」(同)からだ。
たとえば、現代の政府は景気が悪くなりかけると、すぐに財政・金融政策などでテコ入れしようとする。けれども、それによって目先は景気の悪化を避けられたとしても、永遠に先延ばしすることはできない。むしろ景気対策の副作用で物価が高騰したり、将来税金で返さなければならない政府の借金が増えたりして、人々を余計に苦しめる。そのために新たな対策が必要になってしまう。それならば、初めから景気対策などせず、経済が自然に回復するのを待つほうがいい。
また老子は「人民が飢えに苦しむことになるのは、お上が税をたくさん取りすぎるからであって、それゆえに飢えるのだ」(第75章)と述べ、重税で人々を苦しめる為政者に厳しい目を向けている。
老子の思想の特徴は、自由放任を説いた内政論とともに、戦争論にも表れている。老子は自衛戦争の必要は否定しないものの、その戦争論は平和主義、反戦主義に貫かれている。それが端的に示されるのは第31章だ。
老子は「武器というものは不吉な道具である。本来君子の使用すべき道具ではないのだ」と断じる。どうしてもやむをえず使わなければならないなら、執着をもたずにあっさり使うのが一番だ。「勝利が得られても、決して立派なことではない。それなのに、それを立派なこととして誉めそやすのは、つまりは人殺しを楽しみとしているということだ」。老子によれば、「敵を多く殺せば悲嘆の気が場に満ち、戦勝はまさに葬礼の場となる」。
戦争に勝ったというニュースが伝われば、銃後の国民は花火を上げ、行列してこれを喜ぶ。凱旋した将軍は、群衆の歓呼と小旗の波に盛大な出迎えを受ける。戦後はなくなったが、かつて戦争を繰り返した日本ではよくある風景だった。ところが老子はそうした熱狂に冷水を浴びせるように、戦いに勝ったら葬式のようにすすり泣けという。戦争の悲惨な本質を知る思想家でなければいえない言葉だ。
この言葉の背景について、歴史学者の保立道久氏はこう推測する。「老子は実際に戦闘を指揮する立場に立ったことがあったのではないか。敵を多く殺せば悲嘆の気が場に満ち、戦勝はまさに葬礼の場となるなどという言葉は、そうでなくてはなかなか吐けるものではないと思う」(『現代語訳 老子』<ちくま新書>)
黒人の救済に生涯を捧げ、のちにノーベル平和賞を受賞した医師シュバイツアーに興味深いエピソードがある。1945年5月7日、ドイツ軍が降伏して欧州での第二次世界大戦が終了したとき、シュバイツアーはアフリカのランバレネ(現ガボン)の病院で黒人患者の医療にあたっていた。たまたまラジオで大戦終了のニュースを傍受した欧州系の患者から聞いて、このことを知ったシュバイツアーはその日の夜、仏訳の『老子』をひもといて、心静かにこの一章を味わったという(楠山春樹『老子入門』<講談社学術文庫>)。
今日シュバイツアーに対しては、アフリカに対する西洋の植民地支配に無自覚だったという批判もなされる。それでもこのエピソードは、東西の平和思想の共鳴をよく伝えていると思う。
老子の戦争批判はこれだけではない。「軍隊が駐屯すると耕地も荒れ、大戦争のあとでは凶作が続く」(第30章)と指摘するとともに、「欲望をたくましくするのが最大の罪悪」(第46章)と述べ、戦争の原因は支配階層の私的な欲望だと喝破する。
中国思想学者の金谷治氏は、老子の思想は「一貫して反戦」だと述べる(『老子』)。世界で戦争が拡大する今日、平和を説いた老子の言葉をあらためて噛みしめたい。
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