2017-07-30

長い物に巻かれる国

日本は古来より和をもって貴しとなす美風があるとよくいわれる。しかし和を重んじる気風は、長い物には巻かれろという卑屈な根性と表裏一体である。

評論家の藤原正彦は誇らしげにこう語る。「何しろ日本は聖徳太子の頃から民主国ですから。和をもって貴しとなす。独裁者を嫌い、独裁者がいたことのない、世界でも珍しい国です」(アサヒ芸能1月15日号)

独裁者がいたことのない国は米国、英国、スイス、北欧諸国など主要国だけでも数多いから藤原の主張はデタラメだが、それ以上に、和をもって貴しとなす精神を手放しで称えるのが問題である。和を何よりも貴ぶ心性は、力の強い相手には逆らわないほうがよいという事大主義につながりやすいからだ。

力の強い相手の最たるものは国家である。国家に決して逆らわず従う態度は国家主義である。国家主義は西洋にもある。しかし日本と違い、西洋には国家主義に抵抗する知的伝統が存在する。

そのことを和歌山大学教授の菊谷和宏は『「社会」のない国、日本』(講談社選書メチエ)で、ともに国家による冤罪であるフランスのドレフュス事件と日本の大逆事件を対比しながら論述する。

ドレフュス事件では、軍部が捏造したスパイの証拠によってユダヤ系陸軍大尉ドレフュスが軍法会議で有罪とされる。これに対し作家ゾラはドレフュスを擁護し、一時亡命を強いられながらも、再審の道を開く。

ゾラを衝き動かしたのは、「人間性が国の都合に優先されてはならない」「国家以前に尊重されるべきものがある」という信念だった。

このような信念を生んだものは何か。ゾラの同時代人である社会学者デュルケームによれば、それはキリスト教である。キリスト教が育んだ個人主義精神からみれば、国家という組織はそれがいかに重要であれ、「ひとつの道具に過ぎず、目的のための手段でしかない」。

さて一方、大逆事件では幸徳秋水らが天皇暗殺を企てたとして根拠なく逮捕され、死刑を宣告され、処刑された。

ゾラのように立ち上がり、幸徳らを堂々と擁護する言論人はいなかった。幸徳らを乗せた囚人馬車を偶然目撃した永井荷風が「わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた」と記したのは有名である。

キリスト教の伝統をもつフランスと異なり、日本には「国家以前に尊重されるべきものがある」という思想は根づいていない。菊谷の言葉を借りれば、国家のみがあって社会が存在しない。

長い物に巻かれることをよしとする日本では、国家の暴走に歯止めをかける者がない。それは和を保つという長所を帳消しにしかねない、深刻な短所である。

(2015年6月、「時事評論石川」に「騎士」名義で寄稿)

4 件のコメント:

shinx55 さんのコメント...

「長い物には巻かれろ」という言葉は日本独特の表現だと思うが、日本人だからと卑下する必要は無い。英語でも Don't kick against the pricks. It is no meddling with our betters. Kings have long arms and have eyes and ears. などの表現がある。要するに、どこの国にも「長い物」に巻かれてしまう人がいるに違いない。 自由主義の立場から言えることは、「政府は国民に政治的自由と経済的自由の両方を与えるべきだ」、「長い物に巻かれてしまうのもその人の自由意志」である。自由主義者の活動とは、選挙で自由を重視する政党に投票する、自由についての論考を広めることだ。経済的自由のために、「長い物をうまく利用する」、「まかれたふりをする」などは、賢い処世術である。


聖徳太子(厩戸皇子)の十七条憲法を読めば、「和を以て貴しと為す」の趣旨は「平和的に議論をして決めよう」であると思う。平和的な議論を推奨しているから民主的であるし、内容は自由主義を否定していないと思う。

wikipediaより十七条憲法、「一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。」書き下しで「一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」私の解釈は、「人々が平和にまとまることが尊い。バラバラになって逆らうことが無いのがいい。人は徒党を組むし、賢い者は少ない。主君や父親に従わないし、隣人ごとに意見が違う。それでも、権力を持つ上位者は平和にまとまり、権力の無い下位者は仲良くして、諸事について議論して合意に至れば、自然と道理がついているものだ。何事も成し遂げられるはずだ」となる。また、「十七曰、夫事不可獨斷。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。故與衆相辮、辭則得理。」私の解釈は、「独断はだめだ。必ず皆の衆を集めて議論せよ。事が軽いものなら、集める必要は無い。でも大きな事なら、あるいは、迷うようなことなら、まずいですよ。だから皆の衆を集めて話し合わせてみれば、道理が解ると言う物だ」もある。

Unknown さんのコメント...

木村さんも、つひに「和」を言ひだすのかな~と。

一条の「和を尊べ」は、つけたしの従文で、主文は「逆らふな」といふ命令です。
二条も、土俗の神道もどきは捨てよ、渡来の仏教に帰依せよとの命令です。
この<憲法>は「国民」など存在しようもない当時の、豪族や官僚にむけた政治上の服務規程でしかありえないし、厩戸ではなく「大君」の蘇我一族が作成したものとおもひます。

<憲法十七条>は、後世に悪影響をあたへつづけてゐる呪詛でせう。

Unknown さんのコメント...

赤木昭夫氏の『漱石のこころ―その哲学と文学』(岩波新書)のなかに、大逆事件の際に、森鴎外には「二重スパイ」のやうな行為があつたといふ聖心女子大学教授の論文に言及してあり、ショックを受けます。

木村 貴 さんのコメント...

shinx55さん、渡邉さん、コメントありがたうございます。
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